ごきげんようチャンネル


"Obama got in, and he is the pawn of globalized interest." Naomi Wolf



小中高の数学も、改革の可能性はない

十年余り前に、こんな本が出ていた。

 

 

上野健爾・岡部恒治編『こんな入試になぜできない - 大学入試「数学」の虚像と実像』(日本評論社、2005年4月)

 

 

最近見つけたので、のぞきこんだら驚いた。小中高の数学、そして大学入試の数学の状況は、英語科の状況に酷似しているようなのだ。

 

本書の「まえがき」に、こうある。

 

 

 

「我が国の制度上の重大な欠陥は、問題点を明らかにしてその改善をはかろうにも、改革のための制度が不備であり、その実現のためには大きな障害が横たわっていることである。

 

本書に指摘されているセンター試験の問題点ひとつをとっても、その改善のための制度は備えられていない

 

大学入試はマスコミを通して、様々なかたちで『評価』が行なわれているが、建設的な評価にならないのは、改善のための制度が確立していないからである。」(iii頁。太字は引用者による)

 

 

 

これは、問題のありかをズバリ突いている。そもそも、改革するための「制度」がない。だから、教員個人や個々の学校がいかに努力しても、なかなか全体の改革につながらない。

 

日本では、教育改革の道筋が、教育制度に埋め込まれていない。だから、あるものの存在が大きくなる。「学習指導要領」である。

 

本書には、

 

 

「制限が多く、数学の授業時間数の少ない学習指導要領が諸悪の根源。」287頁

 

 

という指摘がある(京都大学・上野健爾氏)。

 

 

...

 

 

最近、愛知県の教員養成系の大学で週に一回教えている人から聞いたことだが、そこの教員も学生も、ある傾向があるようだという。

 

 

<学習指導要領の内容を、生徒にいかに楽しく、要領よく教えるか。それが教員の仕事だ>

 

 

これが彼らの暗黙の、しかし堅固な了解になっているらしい、というのである。

 

ひとつの問題についても、いろいろな見方がある。社会科学系の学問をやってきたその人は、そういう視点からの講義を心がけているという。ところが、その大学の学生には、そういう講義は歓迎されない。

 

教員も学生も、

 

 

<目標は、上の誰かが決めてくれる。われわれの仕事は、その目標をいかに要領よく達成するかを工夫し、実践することだ>

 

 

という態度で固まっている。だから、「いろいろな見方」のような面倒なことはいいから、早く答えを言ってくれ、という雰囲気なのだという。

 

実際、そういう兵隊発想の人でないと、教員試験に合格しにくく、学校でも歓迎されないのかもしれない。もしそうなら、この教員養成系大学は、まさしく教員養成にふさわしい教育をやっていることになる。

 

教員志望者たちが、「お上の兵隊」という発想に染まっているとすれば、戦前の師範学校と変わらない。

 

 

...

 

 

 

本書の編者あとがきに、こうある。

 

 

「[文科省には] これまでの間違った教育行政に対する反省も、学習指導要領で被害を受けた世代に対する思いやりも、何ひとつ見られない。」(292頁。太字は引用者)

 

「教育は未来の大人を育てる大切な制度であるという観点がわすれさられ、教育を単なる個人の問題としてしか捉えることのできない、日本社会の貧困さ」(291頁。太字は引用者)

 

 

英語についても、VRとか、会話ロボットとか、アクティブラーニングだとか、とかく新手段、新手法が話題になる。だが、いま流布している英文法の内容とか言語観の欠陥を、根本的に改革しようという気運はあまり感じられない。

 

そしてなにより、数学にせよ英語にせよ、教育内容を改善するための制度が貧困であることが、教育に希望をなくさせる根因になっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 07:10 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「リストアップ」は、立派な日本語です

三省堂編集所編・アラン・ウェインライト監修『これで通じる!和製英語の徹底チェック』(三省堂、2004年2月)

この本に並んだ、ニセモノ英語200個を見ていると、ニセモノ造りには、三つほどパターンがあるようだ。

 


”集讐畩蠏

そこまで言わないのが英語、というタイプ。

「キャッチボール」 →  Let's play catch.  20頁。
「リストアップ」 → I listed the candidates. 133頁。

とくに「リストアップ」は、「巧妙につくられた和製英語」(133頁)だと、著者を唸らせた名作。英語ではlist だけでいいのだが、日本語では、「リスト」といえば名詞という語感が強いためか、「アップ」をつけて、動詞っぽくしたのかもしれない。

「アップ」の逆の「ダウン」にもニセモノが多い。「ダウン」をつけると、なんとなく動詞っぽい感じがするからか。

「スピードダウン」 → They obviously slowed down. 135頁。
「イメージダウン」 → It damaged her image. 155頁。

 

 


表現不足型

,箸狼佞法◆屬修海泙巴擦すると、英語としては困る」というタイプ。

「ハーフコート」 → This half-length coat is brand-new.  45頁。
「ショートカット」 → Her short haircut is very cute. 44頁。
「スーパー」 → They went to a supermarket.  31頁。

 

 


F伴発展型

英語の表現から相当かけ離れているタイプ。

「オーバースロー」→  overhand pitch  (over-throw は”悪送球”) 21頁。
「カンニング」 →  He cheated in an exam. 156頁。
「ビーチパラソル」 → That beach umbrella looks fine. 69頁。
「オーダーメイド」 → This is made-to-order shirt.  13頁。

このほか、aやtheのような冠詞や‐sがないなど、文法的に英語ではないものも「独自の発展」型に入りそうだ。

used book (古本屋の看板。一冊しか本がない?)

 



 

 

 

 

このように、和製英語は<英語の表現を借用した日本語>である。

上記の三タイプは、英語としてみれば間違っている場合だが、たとえ文法的に英語に合致している場合でも、日本語(カタカナ)で表記し、日本語として発音したなら、それはやはり日本語だというべきである。いわば、英語まがいの日本語である。

 

これを「日本語風の英語だ」などと思っていると、「そのまま話せば英語として通用する」と勘違いしてしまう可能性がある。

 

もう一度言う。カタカナエーゴは、立派な日本語である。

 




 

 

 

 

 




 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 22:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
英語のつづり” e ” は、なぜ「エ」と読まないか 

名古屋の大学の英語科で、週に一回、英語の文法や語彙や読解を教えている。

 

学生の多くは音読好きである。それはいいことだから、なるべく授業中にも音読してもらうようにしている。私が大学生のころに比べたら、発音のいい学生が多くなった。

 

そして、ここ数年、学生の音読を聞いていて、「こうしたらもっと発音がよくなる」といえる効果的なツボがあることがわかってきた。

 

そのひとつは、つづり "e" の読み方である。

 

アクセントのあるつづり "e" は、日本語の「エ」に近く読んでも、とくに違和感はない(厳密にいえば、発音記号でいうと英語は/ε/や/e/となり、「エ」とは少し違うが)。egg, pension, などがそうである。

 

ところが、なかなか気づかないことだが、英語では、religion, perfect(形容詞)のように、アクセントのないつづりの "e" は、原則として /I/ と読む。いわば、「ジョン」「ーフクト」に近いのが英語である。

 

これを「ジョン」「ーフクト」のように読むと、余計な母音がはさまれた感じがして、英語らしいリズムが崩れる。

 

私の学生の英語がもたもたして聞こえる大きな原因のひとつは、つづり "e" の読み方にある。じっさい、口に出してみると、「ジョン」「ーフクト」のほうがきびきびして言いやすいので、やってみてください。

 

ヨーロッパには、つづりの "e" を一貫して「エ」に近い音で読む言語も多い。ところが英語では、アクセントがなければすぐに「イ」に近くなってしまう。これは、英語の発音の要領が、全体に上寄り(舌根が上がる)に移行した「大母音推移」(1400~1600年ごろ)と関係があるのだろう。

 

 

 

...

 

 

 

ところで、ちょっと面白いのは、われわれ日本人が、つづりの "e" をすべて「エ」のように読もうとする原因である。

 

思い当たるのは、小学校で習うローマ字の影響。ローマ字は、日本語をローマ字で表記するために考案されたもので、いくつか系統があるが、ごく一般的な表記法を、以下に載せてみる。

 

 

 

 

(拗音)
a i u e o
ka ki ku ke ko kya kyu kyo
sa si su se so sya syu syo
ta ti tu te to tya tyu tyo
na ni nu ne no nya nyu nyo
ha hi hu he ho hya hyu hyo
ma mi mu me mo mya myu myo
ya (i) yu (e) yo
ra ri ru re ro rya ryu ryo
wa (i) (u) (e) (o)
ga gi gu ge go gya gyu gyo
za zi zu ze zo zya zyu zyo
da (zi) (zu) de do (zya) (zyu) (zyo)
ba bi bu be bo bya byu byo
pa pi pu pe po pya pyu pyo
 

 

 

 

 

この表で五十音の「え」の段をみると、e にはじまり、ke, se, te, ne, he, me, re, ge, ze, de, be, pe, とつづる。日本の子どもは、このつづりを見て、「え、け、せ、て、ね、へ、め、れ、げ、ぜ、で、べ、ぺ」と読む練習をするわけである。

 

ところが、これを英語のつづりと思って読むと、英語読みでも「エ」に近くなる可能性があるもの、英語なら「イ」に近く読みそうなもの、「エ」「イ」両方に読む可能性があるものと、三通りあって複雑である。なかには、he, me, be, のように、そのまま英語の単語になるものもあり、これらはいずれも、英語では「イ」に近く読む。

 

小学校で習い、交差点の掲示などにも使うローマ字は、日本語を表記する方法としては合理性がある。

 

しかし、日本でつかうローマ字は、日本語の読みを表記するためのもので、英語を読むためのものではない。それは誰もがわかっているのだが、英語のつづりも同じ文字を使っているために、われわれはついつい、英語までもローマ字読みしてしまう。

 

 

fitness は、フィ(ト)ス。

 

united は、ユナイテド。

 

 

アクセントのないつづりの "e" に注意して練習するだけで、英語の発音はぐっと本格的になる。ぜひやってみてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 07:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「奇形のチョウ」を追いかけた人 受験英語の神様・伊藤和夫の言語観 おわり

 

 

われわれは人類の知恵を高めなければならない.

地球がこの小惑星のような不毛の塊にならないために.

 

 

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

 

 

 

 

伊藤氏は、今後の英語教育について次のような「希望」をもっているという。

 

 

\度の面では、「教師個人をこえた合理的なカリキュラムを学校が持つことによって、生徒の信頼をつなぎとめ、学校としての個性を打ち出」すこと。228頁。

 

∧法の面では、「お仕着せでなく我々に適したという意味で『日本的』な英語教育の芽が生まれること」。229頁。

 

 

 

どちらも実に正当な見解であり、賛同できる。

 

,砲いて、伊藤氏は駿台予備校英語科を主導し、△砲いて、伊藤氏は「日本的」な<読みの英文法>を創造した。

 

しかし、すでに見たように、伊藤氏にも限界があった。

 

 

 

「われわれの英語教育はもう少し構造的・理論的な対象分析と、対象の構造に根ざし、具体的で効果の保証された方法を…持つべきである。」12頁。

 

 

 

 

この課題を、われわれは伊藤和夫から引き継いだのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 15:56 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「奇形のチョウ」を追いかけた人 受験英語の神様・伊藤和夫の言語観 その10

 

 

 

歌、ダンス、演劇、スポーツは、日常次元よりも

高い次元を体験させる. 

 

同様に、外国語が母語よりも高い次元の体験

になれば、それには意味がある.

 

 

 

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

 

 

 

 

 

伊藤氏は、英語学習の目的は「将来学生の必要に応じてどのような英語でもその上に築きうる基盤の構築にある」と書いている。12頁。

 

それなら、中高までの英語は短文の積み重ねで自分の考えを表現したり、比較的平易な英文なら辞書を引きながらかなり読めるというレベルで良いはずである。

 

 

 

私が思うに、けっきょく、いちばん悪いのは大学ではないか。

 

入試を「もっともらしい仮面」94頁とし、レベルが高すぎたり愚劣だったりする問題を出す大学は、猛省すべきである。

 

英語を入試科目からはずす大学がもっと出て来てもよいし、入試問題の英語はもっと平易化してもかまわないと私は思う。

 

そして大学は、学生の専門分野にとって必要な、より高度な英語をきちんと教える体制をみずから整えるべきである。

 

自分の学生を育てる体制をもつことなく、もっともらしい入試問題を出して中高の英語教育に無理を押しつける大学は、無反省で無責任と言われても仕方がない。

 

伊藤氏がかつて中高生向けに書いた参考書は、今の中高生には<うっとおしい>ばかりであろう。だが、伊藤氏ほどの精緻な(煩瑣な?)議論は、なかなかできるものではない。これからは、伊藤英文法は中高生ではなく、大学生や教師が必要に応じて参考にすればよいと思う。

 

これまで伊藤氏が接した多数の予備校生と読者のなかで、伊藤英文法はなにかの栄養分となっていることだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 15:54 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「奇形のチョウ」を追いかけた人 受験英語の神様・伊藤和夫の言語観 その9

靴下には目に見える形式があるが、内容である足は、目に見えない.

 

 

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

 

 

伊藤和夫は、活動の後期になって、

 

 

「線の全体を俯瞰するよりも線の流れに沿った文法」53頁

 

 

へと移行していった。

 

それは<直接英文の中に入る>という意味では進化であったが、反面でそれは、母語を離れる訓練を経ていない生徒を相手に、英文の「線の流れに沿」って、いきなり直読直解させようとする試みとなった。

 

そのため伊藤氏は、ますます<うっとうしい>説明へと傾斜していった。

 

 

 

 

では、われわれはどうしたらいいのか。

 

伊藤氏は、「読む」とは「英文を『内容』から考えると同時に『形』からも考えるという二重の作業」であると述べている。170頁。

 

この観察に含まれた含蓄は、言語においては形式じたいが内容(意味)をもつということである。

 

形式のもつ意味。これこそが文法のエッセンスであろう。

 

しかし、近代言語学が常に見落としてきたのは、形式が意味をもてる理由である。

 

たとえば、セーターの形が意味をもてるのは、人体が中に入るからである。同様に、言語の形式が意味をもてるのは、話者の認識という内容が入っているからである。

 

ところが、セーターだけ見ても人体は目に見えないのと同様、音声や文字を見ても話者の認識は目に見えない。

 

だから、言語を研究し習得するには、表現の背後にある認識を見るための<手段>を開発しなければならない。

 

言語にかぎらず、およそ科学では、現象の背後にある法則を認識する手段を開発し、改善していく必要がある。

 

たとえば数学において、線状的な代数的表現は、ひとつのすぐれた手段であった。そしてそれは、より視覚的な座標的表現(手段)を得て、代数的関係の認識は、より発展した。そして今度は、座標的表現を、代数的表現が精密な演算で支える。数学は、そういう表現どうしの相互浸透的な関係によって発展してきた。

 

伊藤氏は、「言葉について考えるためには『言葉の言葉』が必要なのです」190頁と書いている。

 

これには大賛成である。

 

「言葉の言葉」、つまり文という代数的な表現の内容=認識を明るみに出す手段が必要である。たとえば、英文法の全体や特定部分をグラフのように俯瞰する体験したあと、具体的な例で実感すれば、生徒の視界は少し明るくなるはずである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 15:52 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「奇形のチョウ」を追いかけた人 受験英語の神様・伊藤和夫の言語観 その8

伊藤和夫『新英文解釈体系』(1964年)から.

 

伊藤流「体系」の、平面的で形式的な特徴がうかがえる.

 

 

 

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

 

 

 

ところで、伊藤氏のように英語改革に熱心になった人には、共通する<体験コース>がある。

 

彼らは英語が好きだし、興味がある。どうして自分が英語が読めるようになったのか、よくわからないにしても、とにかく読める。いわゆる”秀才”である。

 

伊藤氏の場合、18歳のころフランス文学やロシア文学の英訳を読みふけった。すると気がついたら英語が読めるようになっていた。

 

 

 

 

「何が私の中に起こったか、当事者の私にも具体的にはわからない」164頁。

 

 

 

 

そういう「一部少数の最優秀の学生」11頁が、何かのきっかけで英語を教えてみる。すると、英語嫌い、英語音痴の生徒がいかに多いかに驚く。

 

最初は<自分がわかったのだから、ちゃんと教えればみんなできるようになるだろう>などと思って、やってみる。やがて、事はそれほど簡単ではないことに気づく。

 

「なんとかしたい」ー 現状を変えようとする情熱と善意を抱いた中高の英語教師、大学の研究者や予備校の講師が、さまざまな手法を考え、実践することになる。

 

以上が、おそらく多くの日本人英語教師やネイティブ英語教師に共通する体験だろう。

 

伊藤英文法もそうした工夫のひとつであったが、努力の人・伊藤和夫は、英語教師としては珍しく沢山の著述をつづけたし、その内容は英文法を網羅し、直読直解を実現しようとする迫力があったうえに、「私はこのことしか教えられないという思い切り」もあったので、切り立った存在となった。175−176頁。そしてなにより、生徒の熱気が感じられる予備校という日々の実践の場が、伊藤氏にはあった。

 

 

しかも、伊藤和夫のような<半学者的>な存在は、<ウラの世界>である予備校の権威づけに都合がよかった。伊藤氏もそれを承知していて、<受験英語の神様>の称号を甘んじて受けていたのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 15:49 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「奇形のチョウ」を追いかけた人 受験英語の神様・伊藤和夫の言語観 その7

                           

伊藤和夫(1927-1997)

    

 

 

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

 

 

 

伊藤氏の著述でもうひとつ気になるのは、<読む>文法は語るが、<書く・話す>ための文法をほとんど語らないことである。

 

高校や大学の入試は<読む>を中心にしたテストであるし、歴史的に英語は外国書籍読解の手段であったから、伊藤氏がもっぱら<読む>ための文法に注力した事情は、よく理解できる。

 

ただ、複雑な英文を<読む>ためには、英語を<書く・話す>訓練も必要だという理解が氏には薄かったようにみえる。

 

<書く・話す>こと、すなわち他人の言語表現の理解ではなく、自分にとっての対象を英語で表現する訓練ができてくると、母語の干渉は減ってくる。いちいち<和訳>しなくても知的に満足できる「配線図」が、生徒の身体内に形成されてくるからである。

 

<書く・話す>の訓練ができるにつれて、次第に複雑な英文を<読む・聴く>訓練をする。これがより望ましい順序であろう。

 

もちろん、予備校には<書く・話す>から鍛える時間も設備もないし、現実の入試では和訳問題がでることもある。授業で教師が説明したり生徒の理解を確認するために、日本語が必要であることもわかる。

 

ただ、伊藤氏には、<書く・話す>ための能力を育てると、非ネイティブの言語習得は順調にすすむという認識が薄かったようである。

 

そのため、いきなり高度な英文を<読む>ことに突入して、生徒の母語の執拗な干渉にいらだち、ますます<怒りの人>となって、いっそう<うっとうしい>説明をするという悪循環に陥ったのではないだろうか。

 

 

 

「外国語の学習は…常に[日本語と英語という]二つの思考法の衝突」4頁だというのは、伊藤氏に限らずよく耳にする言葉である。

 

それは間違ってはいない。

 

しかし、習得の順序が性急で強引なので、必要以上の「衝突」を招いたという面はないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 15:47 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「奇形のチョウ」を追いかけた人 受験英語の神様・伊藤和夫の言語観 その6

Immanuel Kant(1724-1804)

 

 

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

 

 

 

伊藤氏のように、言語を自然法則からも対象からも独立した恣意的な法則にもとづくものと見ると、けっきょく言語とは表現と表現の間の関係を認識することだということになりやすい。そこには、対象と表現のあいだに人間の認識が介在しているという立体的な理解が欠落している。

 

すると、表現の違いとは平面的に観察できるパターンの違いであり、パターンの違いこそ英文法の内容にほかならないということになる。だから、そのすべてに詳細な説明を加えずにはいられなくなる。

 

言語観の基本が<見えるものだけが頼りであってそれ以上のことはわからない>という不可知論なので、形式の整理に終始することになるわけである。

 

伊藤氏は、

 

 

 

「個々の言葉を離れた抽象的な思考領域と『物自体』の存在に気づかせることが、語学教育の第一の意味であるべきだと筆者は考える。」93頁

 

 

 

と述べている。

 

「個々の言葉を離れた抽象的な思考領域」を体験させることは、生徒の精神的成長に不可欠だから大賛成であるが、「『物自体』の存在に気づかせる」というカント的な表現は、少し気になるところである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 15:44 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「奇形のチョウ」を追いかけた人 受験英語の神様・伊藤和夫の言語観 その5

チョウトンボ.  これはトンボの仲間.

 

 

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

 

 

伊藤氏は、言語を「自然法則」から完全に自由な存在とみなす。

 

しかし、誰でも知っているように、チョウにしても完全に重力の制約から自由であるわけではない。力尽きれば、チョウも落ちてくる。

 

また、チョウが「想像を絶する奇異な形態」をとることはあるにしても、自然の法則を完全に無視した形態をとることはない。

 

むろん、伊藤氏が奇形のチョウの比喩で言いたかったことは、物質や生物と言語では、従っている法則の次元が異なるということであろう。

 

ただ、伊藤氏のように、言語を自然法則から完全に自由とみなすと、言語とは「想像を絶する」ものだという意識が強くなる。

 

つまり研究の姿勢が不可知論的になり、どうせ本質はつかめないのだから、多様に分岐した形態を整理し枚挙する以外にないと考えがちになる。

 

伊藤氏の研究の姿勢が形態別の整理すなわち<昆虫採集>のようになるのは、ここに起因する。

 

苦心して整理してあるのだが、見る人にとっては煩瑣。

 

伊藤文法の<うっとうしさ>には、こういう背景がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 15:39 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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