ごきげんようチャンネル



春ごとの花に心をなぐさめて 六十(むそぢ)あまりの年を経にける


西行

世界史の成立と西欧の手袋

福島礼子『わたしの手袋博物館』(暮しの手帖社、2005年

手の表現力を変化させる。それがファッションとしての手袋の役割である。人体でもっとも表現力があるのは目と手だと、養老猛氏がどこかで書いていた。

著者によると、18世紀の末、フランス革命以降に西洋女性の服装は変化した。

革命による女性の解放。そしてアジアの植民地からもたらされた薄い木綿。このふたつが合体して、半袖・ハイウエストの軽やかなドレスが登場した。そのため、手の周辺をおおう手袋が重視されるようになった。23頁

アジアの新素材が西欧のファッションを変えた。ファッションは世界史の象徴なのだ。

 

 

...

 


本書が紹介する名品のなかでも、私が注目したは、忠臣蔵の大石内蔵助の嫡男で、討ち入りに参加し16歳で切腹した大石主税(おおいし・ちから)の革手袋(泉岳寺蔵)。

ちょっと子どもっぽいずんぐりした形。そこに元気のいいトンボの模様が描かれている。俊敏なトンボは「勝虫」とよばれ、武士が好んだ図柄であった。討ち入りに使った本物だろう。
 

 







 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
歴史は意志の表明によって区切られる 

社会の事象の本質は、意志の統合の仕方にある。

 

人間にとって、この世で力をもつものは、詰まるところ物質的価値、社会的意志、観念的意味の三つである。

 

これら三つを統括する位置にあるのが、社会的意志である。会社や国家など組織の本質(存立のよりどころ)は、利益、支配などではない。むしろ、利益、支配を全うしようとする意志にある。

 

ホントか? と思うなら、組織が存続の意志を放棄した場合を考えてみればよい。

 

例えば、ある王朝の代表者(王)が、支配の意志を喪失したと宣言し、以後、わが王朝のために働いても報酬を出さない、位階も制定しない、法律も公布しない、税金も集めない、外国の代表が来ても接受しない、後継者も指定しない、などと表明したらどうなるか。

 

「それでは、私が替わりに支配しよう」といって、王位継承権者以外の者が権力を握る場合もある。その者が多少とも前王と血縁がある人物であっても、正統を継ぐ王位継承権者が支配の意志を放棄している場合、それは別の王朝とみなされる。

 

また、王朝の代表者や後継者が皆死亡するか、完全に追放されてしまった場合も、王朝は滅亡する。これも存続の意志をもつ代表者がいなくなったということであり、やはり意志の有無が事の本質である。

 

たとえば、清朝が滅亡したのはいつか。それは、中華民国が建国を宣言した1912年1月1日ではない。それから2ヶ月余り後の1912年2月21日、後事を袁世凱に託して宣統帝溥儀が退位を宣言し、支配の意志を放棄した時である。

 

 

戦争の本質も、破壊や殺傷ではない。破壊や殺傷は手段である。戦争の目的は、相手の抵抗意志を消滅させたときに達成される。

 

外国の植民地になるかどうかも、代表者が他国の支配を受け入れるかどうかという意志の問題である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
歴史認識のDNA:トランス・ヒストリーへ

歴史は認識である。人の心内に実在する観念である。

 

過去の事象は現実に存在したものだが、すでに消失しているから、現在のわれわれが観念のなかで復元するしかない。

 

現在、歴史学のレベルは高いと思うが、観念たる歴史の理論的な把握となると、心細いところがある。具体的な対象を研究する方法は発達してきたが、自分たちが何を根拠に、どういうことを研究しているか、ということになると、あまり明確に意識していないように思われる。

 

たとえば、古代についての歴史書を読むと、王の名前、地名、戦さの名前などが次々に出てくる。いわゆる固有名詞であるが、固有名詞は名詞のなかでもっとも複雑かつ高度な概念である。王がどんな人で、誰の子で、なぜそのときそれをしたか、といった具体的な認識をするためには、多くの知識がなければならない。これが、「歴史は暗記物」と嫌われたり、逆に、「歴史はリアルだから面白い」と好まれる理由である。

 

歴史とは、つまるところ、こうした固有名詞のしっかりした認識である。だから面倒だし、だから面白い。

 

だが、固有名詞をしっかりと理解するには、無数の一般概念が必要である。たとえば一人の王を理解するには、その出自、側近、軍隊、武器、戦術、宗教のように、多くの王に共通する一般概念においてその王を把握し、その特徴を知る手続きが必要である。

 

このように、固有名詞は一般概念へと解きほぐしていくプロセスが必要で、ある程度まで、私たちは無意識のうちのこのプロセスを心内でおこなっている。この一般概念がしっかり理解されていればいるほど、固有名詞の理解もがっちりしたものとなる。一般性において個別性が把握され、個別性の認識が一般性の認識をいっそう豊かにするという関係が活発になる。

 

歴史の事象を、一般性と個別性の絶え間ない往復のなかでとらえる。そのときの作法が明らかになれば、われわれが歴史から学べる量と質は、さらに向上することだろう。

 

実りのある、基礎のしっかりした歴史認識をするために、心の最奥で作動すべき基本概念を明るみに出し、意識化したいと私は願っている。

 

歴史認識は、人の観念のなかで行われる。その観念をガイドする規範はなにか。

 

私がトランス・ヒストリーの名のもとに考えてみたいのは、これである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 18:17 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ポルカ、コロ、チャールダーシュ 組織体と表現体の照応関係

東欧の文化は、ダンスのタイプによって二つに分類できるという。

ひとつは、「ポルカを踊る文化圏」。

ポルカは一組ずつの男女がカップルになって陽気に踊る。これが支配的なのが、チェコ、ポーランド、オーストリア、スロベニア、南ドイツ。そこでは、社会の基本単位は夫婦。かつてオーストリア帝国の支配下にあった地域で、宗教はカトリックが強い。

もうひとつが「コロを踊る文化圏」。

コロは男女が輪になって集団で踊る。これはセルビア、クロアチア、ブルガリア、マケドニア、ルーマニア、ギリシアにみられる。そこでは、夫婦よりも大きい家族、親族、共同体が社会の基本単位になる傾向がある。ここはかつてオスマン・トルコの支配を受けた地域で、ギリシャ正教が強い。

そして、ふたつの文化には中間が存在する。それがハンガリーとスロヴァキアで、オーストラリアとトルコの両方に支配されたことがあり、踊りはチャールダーシュといって、踊り方は男女一対だったり集団だったりする。まさに中間的なのだ。

(以上、石川晃弘『東ヨーロッパ 人と文化と社会』有斐閣、1992年、16ー31頁)

 


これで思い出すのが、日本の「踊り」と「舞い」の違いである。

「踊り」は集団でおこなうのが基本で、庶民的。動きは上下動が中心。

「舞い」は横方向への回転が中心で、一人で行うのが基本。こちらのほうが上流階級的とされる。

この角度からいうと、日本では地域というより階層によってダンスのあり方がちがう。コロのように男女の集団が身体を触れ合うことはあまりないし、ポルカのように男女一対で踊る文化も発達しなかった。

このあたりから、日本文化の特徴が見えてくるようだ。

 

 


宗教や家族のような組織体や階層が、ダンスという身体表現に反映している。逆に、ダンスをみれば、その社会の宗教や家族や階層のあり方がわかることもあるだろう。

 

たとえば家屋の構造にも、宗教や家族や階層が反映していることだろう。

 

こうした社会横断的なものの見方も、トランス・ヒストリーにふくまれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
学問は日常的意味を超えた概念の世界の構築

数学の「無限」という概念。これは人間にはわかりにくく、数学者のあいだでさえ、正当な概念かどうか、長いあいだ論争があったという。

 

数学では、次のような表現がある。

 

1=0.999…

 

この右辺は、無限に9 がつづく。この無限と " 1 "という整数がイコールだといわれても、日常的な感覚では納得しにくいところがある。

 

だが、これは簡単な証明が可能で、まず

 

1/3=0.333…

 

が納得できるとすれば、両辺に3をかけると

 

1=0.999…

 

となる。

 

この証明のミソは、ひとつのものを三人で平等に分配する場合のように、1/3=0.333… という日常的にありうる体験に訴えてから、両辺に3をかけるという数学的操作を加えていることにある。

 

われわれは日常、いろいろな表現が伝える意味の世界に生きている。 1=0.999… は概念の世界では正しくても、この表現のままでは意味として納得しにくい。1/3=0.333… という、日常的な意味に近い例なら、少しわかりやすく感じる。

 

学問をするとということは、日常的な意味の世界をこえて、概念の世界に引き入れられるということである。

 

医学でも数学でも物理でも工学でも、勉強がすすむと、もはや日常的な言葉では説明されない。

 

人文・社会系の学問では、日常的な言葉もよく使われるが、構築しようとしているのは概念の世界である。

 

とはいえ、ふだんは学者も意味の世界(日常世界)に生きているから、彼らは外界の意味の世界と、研究室の概念の世界をたえず往復している。

 

有名な学説とは、深い意味と高い概念をたくみに(セクシーに)結びつけたもので、相対性理論はその代表例である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
定住革命という人類史のポイント 「交通」概念の洗練を

西田正規『人類史のなかの定住革命』講談社学術文庫、2007年(原本1986年)


「高等霊長類の出現以来、数千万年も続いた遊動生活の伝統に比べ、定住生活の経験はわずか一万年にすぎない。」53頁。


 

じつは、定住は問題の多い「生計戦略」である。

定住すると、環境汚染がおこりやすく、死者(墓地)と共存せねばならず、食料や資材の運搬が煩瑣になり、社会的緊張も鬱積しやすい。24ー34頁。

 

さまざまな社会問題は、定住したがゆえに発生したという側面がある。遊動生活が定住生活よりも劣ったものだというのは、いまの人間の立場からみた偏見にすぎないのだ。

 

では、なぜ人類は定住したのか?

著者は、定置漁具を使うため、越冬食料の貯蔵のため、といった理由をあげるが、いちばん大きい理由は、1万年前の気候変動(温暖化→森林拡大)ないし環境破壊によって遊動生活が困難になったことだという。52頁。
 

さて、定住すると、社会システム、交通、儀礼、宗教、工芸、芸能などが複雑に発達する。

これを人は「社会の発達」と呼ぶが、実は定住化にともなう刺激の減少を補うために、いろいろなことを行って心理的空間を拡大・複雑化し、大脳を活性化させているという側面がある。33頁。

たとえば縄文時代の装身具や土器にみられる過剰な模様。そして大規模な遺跡。これらは空間にひずみをもたらし、単調さをなくして、心理的エネルギーを消費するための工夫である。さかんに行われたであろう儀礼は、「心理的空間移動」すなわち遊動生活への郷愁の変形である。33頁。

 

人類史上の大事件とされる農耕も、じつは定住がもたらした帰結であった。

すなわち人間が定住すれば、村の近くの森は薪や建築材のために伐採される。そこに開けた明るい場所には、陽生植物が繁茂する。クリ、クルミ、ハシバミ、コムギ、オオムギ、アーモンド、フキ、ワラビ、ウド、ミツバなどである。これらはすべて食料となる。定住によって、人間は自動的に食料となる植物に囲まれていくのである。

 

これは、

「生態学的に表現すれば [人間と自然の] 共生関係であり、人文学的にいえば栽培や農耕にほかならない。食料生産の出現は、火を使う人間が定住したことによって、ほぼ自動的に派生した、意外で、しかも人類史上、きわめて重要な現象であった。」51頁。

 

農耕も都市化も、そして国家でさえも、定住革命にともなう付随的現象にすぎないのかもしれない。

 

著者は慎重に断定を避けているが、われわれはいまだに「定住革命」の最中にいるのであって、その視点からみれば、多くの社会問題が納得できるというのが、この本の主張である。52ー53頁。

 

 

...

 


定住とは逆に、部族や民族、あるいは家族・個人単位での移動(強制移住や奴隷売買をふくむ)もまた、人類史に貫徹する現象であった。

 

人間の移動の問題を、トランス・ヒストリー(人類普遍史)の立場からどう理解するか。

 

移動は、自分自身を運搬する労働である。自己運搬労働が減少して定住したとき、あるいは大規模に行われたとき、あるいは移動手段の発達で長距離移動が可能になったとき、それは歴史にどういう影響を与えるか。人間だけでなく、物資の移動がもつ意味はなにか。

 

史的唯物論でいえば、これは生産物(人間をふくむ)の「交通」の問題ということになるだろう。

 

 

 

 

 

 

 





 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 18:38 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
西郷隆盛の「敬天愛人」 意志と現実の矛盾を心内で解消した四文字

歴史では、上部構造の意志と、社会の現実とのあいだのギャップをみることは重要である。

 

たとえば班田収授の法は、当時の国家権力の意志であって、そのまま社会の現実ではない。意志と現実を混同せずに区別することによって、その社会の状況や、事のなりゆきが理解しやすくなる。

 

西郷隆盛は、幕府を倒したあと、近代国家づくりを担当する。みずから武士の出身であり、武士に依拠して政権を握りながら、今度は武士を没落させる役割を果たすことになった。

 

明治国家の意志と、旧制度が残した現実。このふたつの乖離が、西郷という一人の人物のなかでぶつかりあった。

 

西郷の座右の銘「敬天愛人」は、自分の行動を死を覚悟したものとするかわりに、自分の行動を「天意」として正当化するロジックであった(町田明広『西郷隆盛 その伝説と実像』2018年、NHK出版、73頁)。

 

それは、国家権力の意志と社会の現実の矛盾を、個人の心理レベルで処理するための四文字であった。

 

倒幕の前、沖永良部島での流罪生活で彼がこの言葉を獲得しなかったら、時代が与えた過酷な責務に彼が耐えられたかどうか。

 

この矛盾は、西郷個人にとっては、西南戦争での敗北と自決というかたちで解消された。日本社会にとっては、西南戦争によって旧身分制の廃止が決定的となることで、解決された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 05:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
吉田松蔭とイエス 鎮魂を必要とした若者の激情

松蔭の一生を考えると、この痩せた下級武士の生涯が、イエスの生涯に似ていることに気づく。

 

二人とも辺境の出身で、旅が多かった。攘夷とか神の国とか、実現不可能な理想に全身を燃やす純粋さも共通する。イエスは旧約聖書の知識が豊かで、意味深い言葉を語った。松蔭は、明晰な漢詩漢文を多く残している。  

 

二人とも、身分などで差別せず弟子を受け入れ、それぞれの個性を認めた。周囲にはおだやかに接したが、自身は直情的で、行動的であった。伝道期間はどちらも数年にすぎなかった。活動が短期間となった最大の原因は、権威にさからう危険を、みずから大胆に侵したからである。晩年には弟子たちからも見放されている。

 

そして二人とも投獄され、処刑された。どちらも30代であった。

 

二人の生涯には、血のにおい、すなわち理想のために肉体を犠牲にする激しさがある。

 

とくに重要な共通点は、自身の主張によって、権威者に処刑されたことであろう。これによって、もともと財産も権力もない市井の人にすぎなかった二人が、反権威的なカリスマとしての地位を確立した。

 

歴史に名を残す人とは、世界の変革に強い志を抱き、行動した人である。彼らは既存の組織によりかからず、むしろ権威によって肉体を抹殺されることで精神を残し、永遠の象徴性を獲得したのであった。

 

二人の激しい生涯は、強い光となって弟子たちの生き方を照らし、処刑後、弟子たちは大活躍した。イエスは、多くの教会にまつられた。明治になって、松陰をまつる神社が萩と東京にできた。

 

こうした教会と神社には、二人の若者の激情を慰撫するという意味もあったにちがいない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
邪馬台国は畿内の「ヤマト国」 ループ効果がもつ歴史的パワーについて

岸本直文「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」『国立歴史民俗博物館研究報告』第185集、2014年2月所収。

 

https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185012.pdf

 

 

日本列島における「国家」形成のプロセスについての論考。多岐にわたる考古学の成果を統一的観点から見直した意欲作。

 

それによると、「邪馬台国」とは、弥生後期に畿内に出現した広域的な「ヤマト国」のことであるという。

 

地域間戦争を経て、紀元後200年ごろ、そのヤマト国を中心に西日本の諸地域圏が連合して結成したのが「倭国」であり、この連合国家が、日本列島における「国家」の出発点となった。そして「倭国」が成長していくプロセスが、古墳時代であった。

 

では、なぜ倭国のなかでも「ヤマト国」が有力になったのか。岸本論文は、平野面積の大きさ、耕地の開発が進んでいたことをあげる。

 

 

「畿内は,東海地域とならんで列島において平野面積が大きい地域であり,ここでは潜在的な生産力が高かったことが確認できればよい。基礎となる農業生産力からすれば,畿内がひとつにまとまることで,列島の中で最有力となる潜在的な実力を有していたとみる。」

 

 

「畿内がひとつにまとまる」とは、おもに政治的統合を指しているのだろうが、私は、畿内の地理的な多様性と一体性も、ヤマト国が「ひとつにまとまる」条件になったのではないかと思う。

 

この論文には、畿内の地図がのっている(図2)。それには大阪・京都・奈良の平地をループ状につなげるラインが引かれており、この地域がひとつの経済圏をつくっていることを示唆している。

 

じっさい、この地域には大和川・木津川・淀川などによる輸送の便があり、西には大阪湾、東には琵琶湖があって、外部との水運のつながりも確保できる。つまり、地域内外の多様な物産や人間が、ループに沿って円滑に交流できる条件があった。

 

このように、ループをなす流通ルートがあると、左右どちら周りでも移動できるため流通量が増える、三角貿易的な売り買いを重ねながら効率的に利益を得て帰還できる、といった効果が期待できる。それだけに、一帯を政治的に統一しようとする動機も高かったであろう。

 

古代の都が、どれもこの地理的範囲内で建設されたのは、資材の運搬などの便が関係していたのだろう。

 

 

 

流通のループといえば、本州を沿岸沿いに一周していた江戸時代の廻船システムを思い出させる。中国の大運河網も、こうしたループ効果をもたらしたかもしれない。

 

トランス・ヒストリー(人類普遍史)の観点からいうと、いろいろな地理的・産業的条件のもと、この種のループ(循環)型の経済圏が発生した地域は、人と物の移動が盛んになり、政治的にも統一がすすみ、有力となる可能性がある、と言えそうだ。

 

 

 

 

 

...

 

 

 

 

以下、参考として、岸本論文から引用。

 

 

「...近畿地方の弥生土器は,前期の土器を母とし,器形・口縁部形態・紋様など,それぞれの地域で 独自化が進んでいたが,それが後期に「第V様式土器」に斉一化する。約 500 年を要して変化を遂げてきた日常土器の共通化は,統合を図る力が働かなければ成し遂げられないであろう。

 

「第V様式土器」を主体的に生みだしたのは中河内・大和南部であり,この地域の拠点集落が存続することから,中河内・南大和の主導勢力が畿内圏を形成したとみる。...

 

「第V様式土器」圏拡大の内実は,主導勢力による拠点集落の解体と,集住していた人々を分散居住させる集落再編をともなう畿内圏の統合であろう。また,それぞれの地域で高地性集落が一時的に現れることから,それは武力的圧力をかけての覇権行為であったとみる。 またそうでなければ,約 500 年存続した拠点集落を放棄させる強制力を説明できない。

 

こうして近畿地域がほぼ「第V様式土器」圏となる。令制下の畿内につながる地域圏の原型は, 1 世紀の「第V様式土器」圏にさかのぼるのであろう(図2)。

 

 

...弥生時代後期の畿内社会は,河川ごとに拠点集落が分布し,それらが並立する中期までの弥生社会を大きく変化させ,それまでにない広域の地域圏を生み出している。...弥生時代後期には,北陸や東海までの西日本の諸地域で,同じように広域地域圏の形成が進む。...弥生後期社会の本質は西日本における広域の地域圏形成にある。... 後期後葉にかけて個性的な土器様式圏がでそろうことに,畿内で見たような地域的統合の進行を考えてよいだろう。地域圏の形成は,特有の墳墓や青銅器の分布からも確認することができる。...

 

この「第V様式土器」圏として把握される畿内圏が,のちに〈魏志倭人伝〉に「邪馬台国」と表記されるヤマト国であろう。...以下,畿内圏でなく「ヤマト国」とする。

 

ヤマト国形成の背景には,中期前半以来の武器の発達にうかがえるように,畿内における農耕社会の進展にともなう地域内の抗争が既に進んでいたこと,それに加えて鉄器化の進行が大きく作用したと考えている[都出編 1998]。鉄素材は朝鮮半島南部に依存することから,その安定した確保のためには,他地域との関係構築が不可欠である。水系ごとに拠点集落が並立する社会で対応することは不可能であり,より強力な主体を作り上げ,他地域とわたりあっていかなければならなかっ たと思われる。鉄器化が地域圏の形成を促した蓋然性は高いとみる。...

 

北部九州では中期までの枠組みが基本的に継承され,より広域の地域的統合に進まなかったのに対して,それ以東の西日本社会は,より広域の地域圏の形成を急速に進めたのである。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 10:15 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
商人資本主義としての幕末 

「東京油問屋史」というサイトを読んでいる。

 

 

http://www.abura-ya.com/naruhodo/rekishi/rekitop.html

 

 

これがなかなか良い。

 

たとえば、「明治維新の経済的動因」というページに、封建制の身分撤廃を求める商人層が、幕府倒壊の背後にいたことが指摘してある。以前から言われていたことではあるが、このことは日本の近代化のプロセスをもう一度考えなおす素材になるような気がする。

 

幕末には、商業だけでなく、流通の発展とともに製造業も、そうとうな潜在力を蓄えていたのではないか。そういう日本社会の発展が、無為徒食たる武士層の排除を要請した。

 

そして幕府や藩の窮乏、外国の圧力、朝廷の存在といった要因が重なって、日本は外国の植民地になることなく、近代化への道を歩みはじめた。

 

 

 

...

 

 

 

 

[ 以下、このサイトからの引用。太字は引用者による]

 

 

明治維新の経済的動因
 
 明治維新は,一般的には,黒船の来航,すなわち外圧によって引き起こされたものとされる。また政権交代と近代化の担い手は,薩長を中心とする下級武士であったとされる。だが,それらは冷静に観察すれば,“急激な変革”の要因であり,遅かれ早かれ,変化を促す機運と矛盾は,日本国内に満ち満ちていたのである。

 

それは,ここまで見てきた通り,商人の台頭であった。江戸と大坂,二つの大都市の間を大量の物資が行き交い,大量の消費が行われることで,江戸期に勃興した商人達は,着実に富を蓄積していった。商人が経済の実権を手にしたことで,幕府や諸藩といえども,武士の都合だけによる政策は打てず,随所で商人との話し合いを余儀なくされた。特に豪商と呼ばれる人々は,経済全体を左右しかねないほどの影響力を持っていた。そして当初は持ちつ持たれつだった幕府と商人の関係が,天保の頃からずれを生じ始めたのは,既に見てきた通りである。

 

商人は,種々の規制に守られてきた面もあるが,規模の拡大とともに,規制緩和を求め,身分秩序の無い社会を求めるのは,自然な流れであったといえる。特に一部の先鋭な人々が,常に念頭に置いていたのが開国であった。

 

 

 

http://www.abura-ya.com/naruhodo/rekishi/rekish37.html

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 04:31 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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