ごきげんようチャンネル

科学とは、正確に驚くことである。 Y.M.
           

なぜ「土台」は社会全体を規定するか 私のメモ

<なぜ、「土台」すなわち物質的富(物質的生産物および社会的人間)の生産・交通・消費による上部構造・意識諸形態への規定が、社会の背骨になるか>

 

この問題にきちんと答えた文献を見つけるのは、案外とむずかしい。

 

以下は、この問題についての私の覚書である。

 

 

 

生物としての人間は、人間を含む物質的富を生産・交通・消費せずには生存できない   これは「土台」を考えるとき誰もが思い当たる事実であるが、忘れがちなのは、生殖・教育・移動による人間自身の生産・養育・配置も、「土台」の活動に入ることである。人間を含む物質的富の生産・交通・消費は、もっともベーシックな人間の生存条件であるから、戦争・災害などによってこれが危うくなったとき、社会は全精力を傾けて危険に対処しようとする。

 

 

物質的富のための協働と分業は、社会と人間をいやおうなしに編成づける  人間づくりを含む物質的富の生産・交通では、多くの人間が協働し分業する。そのために国家や企業や学校や病院や家族といった多くの上部構造が設立され運営されるし、労働者やその同僚・家族は、規律に従って働くなかで意識諸形態が鍛えられる。

 

 

物質的富の持続的な使用価値は、社会と人間を確実に支える   いったん生産された物質的富は、一定期間この世にとどまり、使用価値を発揮しつづける。建築物や道路しかり、商品しかり。上部構造であれ、意識諸形態であれ、物質的富を生む側面においては、土台の一部を構成する。たとえば、議会や学校も、物質的富としての人間を陶冶する面では土台の一部である。書物、映像、芸術作品のような意識諸形態の産物も、鑑賞されたり取引される物質的富という面では、土台の一部である。人間自身も、持続的に使用価値を発揮する物質的富の一種である。食物も、人間の肉体と活動を支えるという一定期間の使用価値をもつ。毒物、放射能のような有害物質も、マイナスの物質的富として社会と人間に影響を与える。

 

 

 

こうして、土台すなわち物質的富の生産・交通・消費という活動およびその成果は、社会編成の基盤となる。

 

物質的富、すなわち目に見える価値物をつくり、維持し、活用するのは、人間の観念(社会的規範)にもとづく活動である。

 

マルクスのいう「土台」とは、社会が生産した物質的富(人間を含む)、そしてそれを生産・交通・消費する活動と、その活動規範を概括する言葉である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 20:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
史的唯物論は死んだ おわり

これからあるべき歴史観を、マルクスから探りなおす。

 

もともと土台・上部構造・意識諸形態は、物質的存在である価値物・行為態・表現体と、それらを支える非物質的な規範の合体という構造を、共通してもっている。物質性と非物質性の統一という矛盾を、より高次に解決しようとして、土台・上部構造・意識諸形態は、互いに連関しあう。

 

近代にいたって、土台・上部構造・意識諸形態は、社会を形成する「三人の担い手」として独立し、互いに連関=アウトソーシングしあって一体化するようになった。

 

人間の社会では、上部構造の活動も、意識諸形態の活動も、人間自身を含む物質的富、すなわち土台を育む。土台のあり方は、上部構造と意識諸形態のあり方を規定する。

 

土台を維持するには、上部構造と意識諸形態の活動が必要である。上部構造を維持するには、土台と意識諸形態の活動が必要である。意識諸形態を維持するには、土台と上部構造の活動が必要である。

 

近代では、社会の価値物・行為態・表現体は、<貨幣・国家・国語>という現象形態をもつ。そして現代では近代の壁を越えて、世界が<資本・企業・数字>としてグローバルに運動する。

 

古い史的唯物論は死んでしかるべきかもしれない。史的唯物論という言葉ももはや不要かもしれない。

 

しかし、人間は歴史観を必要とする。そして、これからの歴史観は、近代を雛形とし、過去・現代・未来を見通すものでなければならない。

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 16:41 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
史的唯物論は死んだ その8

近代では、土台・上部構造・意識諸形態の三層が明瞭に分離する。身分制が廃止され、三層のそれぞれを担う人材の選出・育成の幅を大きくとる。互いの専門領域に干渉する場合は、なるだけ間接的な方法を探る。

 

これが近代社会の特徴である。近代社会は、それ以前とは「装い」の仕方がちがっている。よりスマートで機能的なのである。

 

近代の金納租税は、上部構造が土台から富を吸い上げる方法の間接化であり、近代の学校制度は、適切な人材という物質的土台の維持・発展を保証するための上部構造である。古代以来、軍隊は、既存の土台・上部構造・意識諸形態の全体を保守したり拡張したりするための上部構造であるが、身分制が廃止された近代にいたって、軍隊は「国民軍」となり、社会的基盤と影響力を強めた。

 

こうしたことが可能になったのは、資本主義になって土台が強大になり、物質的富の生産・交通・消費が上部構造から自律して発展するようになったことが大きい。土台の自律化によって、上部構造も意識諸形態も、自分の役割により専念できるようになった。

 

こうして、身分が否定され、「個人」という分業的な目線が正当化されるにつれて、「個人の尊重」(日本国憲法13条)、「個性の重視」がより意識されるようになる。

 

第一次世界大戦を境に近代戦の害悪が目に余るものとなるにつれて、侵略戦争の違法化という意識諸形態が有力になり、地球の物質代謝に異常が見られるにつれて、環境問題への関心が意識諸形態の分野で高まり、国家という上部構造も動かざるをえなくなった。

 

そしていま、人間の社会を大きく変える可能性をもつのは、AIを先端とするコンピュータの力である。インターネットやコンピュータは、巨大なインフラをもち、国家・企業のような上部構造の活動を促進し、AR, VRのように、現実と意識の境目があいまいとなるような意識諸形態を生み出している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 16:23 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
史的唯物論は死んだ その7

古代以来、上部構造の代表は、地域の全域を政治権力で覆う「国家」である。だが、国家がその本質をもっとも純粋に現すのは、近代になってからである。

 

自身は物質的富の生産に直接手を染めず、土台から相対的に自立して社会の利害関係の調整に専念する。こうした近代国家のあり方は、土台を自律的に管理する資本主義の成立と手を携えて確立した。

 

 

 

「資本は...合理的な強制体制を確立したといっていいだろう。...この生産体制の中では、労働者と資本家とは、対等の自由な人格として単に労働力という商品の売買契約を結ぶという形式をとるのだから、奴隷所有者が奴隷に対するような、あるいは封建的支配者がかれらの寄生する農民に対するような、直接的な権力による階級的な支配関係も形式的には払拭されている。

 

だからここでは、国家も階級支配の外形はとらない。国家権力は、そうした自由契約の前提となる私有財産の権利だけを確保していればよい。こうして国家もまた、その権力支配の本質を間接性の中にかくしてしまう。

 

それは資本家の味方でも労働者の味方でもない。ただ両者が対等の『自由な人格』として相対するための、そうして両者の売買契約を乱すものからその契約の自由を守るための中間者という姿態をとる。

 

これがブルジョア国家の『中立性』である。」

 

(梅本克己『唯物史観と現代』岩波新書、1974年、157頁)

 

 

 

 

土台と上部構造は、分離したほうがそれぞれ多彩な管理手法を駆使できる。互いに外部性を装うことで、都合の悪いことには「知らぬ顔」を決め込むこともできる。こうした利便性は分業のメリットの一種であるが、これは近年の経営手法でいうと「アウトソーシング」に似ているかもしれない。

 

資本と国家は、自分の不得意な活動を互いにアウトソーシングしあうことで、互いの「自由」を確保する。土台と上部構造は、それぞれの担当者を明確に分離することによって、かえって確実に結合している。

 

相手のあり方に不満があったり要望があれば「物申す」が、その実行は相手にゆだねる。だから財界人が政治家になる例はまれである。

 

同様のことは、意識諸形態についてもいえる。近代憲法にいたってはじめて、「言論の自由」が承認された。それは、意識諸形態の分離独立を政治的に保証したほうが、暴力的衝突を減らし、社会が柔軟に変化できるという、上部構造の運用についての意識諸形態の表れである。

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 


 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 14:55 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
史的唯物論は死んだ その6

前資本主義社会が「装われている」というのは、社会を構成する土台・上部構造・意識諸形態の三層が明瞭に分離していないことを指している。

 

前に引用したマルクスの文に、前資本主義社会では、土地を占有しているのは「使用される階級」(被支配階級)であっても、じつは「土地の所有者」は、王またはカーストである、とあった。これは、生産手段の「所有」という土台レベルのことが、王やカーストという上部構造(政治・社会)の担当者によって直接担われているということである。

 

これに対して資本主義段階では、企業を所有し運営するのは経営を専門とする企業家や資本家であって、王が土地や企業を直接所有しているといったことは主流ではない。資本主義でも、国家が所有する国有企業のような土台の形態はあるが、それは王や武士といった身分的存在が直接所有するということではない。

 

同様のことは、意識諸形態と土台の関係についてもいえる。「神に成り上がった連中」(マルクス)たる僧侶階層や宗教制度は、人々の意識諸形態をコントロールする社会組織であるが、前資本主義社会では、こうした意識諸形態関連の上部構造が武装集団を形成して政治(上部構造)の一角をなしたり、広大な領地を所有して直接に土台を運営することがあった。

 

近代憲法では政教分離の原則が確立する。これは意識諸形態関連の組織が上部構造や土台を直接担うことを禁じることによって、土台・上部構造・意識諸形態の三層を明瞭に分離しようとしたものである。

 

前資本主義社会のように身体(土台)が小さいときは、上部構造や意識諸形態の有力勢力が土台の経営を直接担い、彼らが複数の役割を担いながら社会が運営される。

 

痩せた身体には、カラフルな装い(上部構造と意識諸形態を合体させた壮麗な建築物、着飾った貴族、僧侶、王、鳴り物入りの儀式など)を与えることで容姿を整えたのである。

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 11:58 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
史的唯物論は死んだ その5

先に引用した部分につづいて、マルクスはこう書いている。

 

 

「だが、これらすべての関係[奴隷制など資本主義以前の生産関係]を資本から区別するものは、この関係が装われているということ、すなわち支配者たちと隷属者たち、自由人たちと奴隷たち、神に成り上がった連中とこの世の人間たち等々の関係として現れ、また両者それぞれの意識においてもそのような関係として存在するということである。

 

資本においてのみ、この関係から、政治的、宗教的、その他のあらゆる観念的な装いが脱ぎ捨てられている。」

 

(『資本論草稿集』ぁ∩扱如206頁。太字は三浦)

 

 

 

ここで、「装われている」とか「装い」という比喩的な表現が出てくる。この表現には、「粉飾してある」とか「真の姿が隠されている」という否定的なニュアンスも感じられるが、必ずしもそれだけではないだろう。

 

とても痩せた人が、服装のおかげで健康そうにみえることもある。ベルトの位置を工夫することで、足が長くみえることもある。

 

服飾は、肉体の現実のあり方を覆い隠す。だが、服飾とは、もともとそういうものだし、人は常になんらかの「装い」をしているものである。「装い」も、人間の真実の姿のひとつなのだ。

 

ところがマルクスは、資本主義以外の社会が、とりわけ外見をつくろう「装い」を身につけているという。

 

それは、どういうことなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 06:47 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
史的唯物論は死んだ その4

「所有」は、とりわけ物質的な富についての観念である。「これは誰のものであるか」という、物質の処分についての主体性の観念。物質を所有するという観念があるからこそ、交換という観念も生まれる。

 

所有者とは、物に直接労働を加えた人とは限らない。その物を所持している人が、所有者であるとも限らない。所有者とは、労働対象や道具を所有し、かつそれらを用いた労働を支配していると、社会的に観念されている人のことである。

 

人間は他人を所有の対象にすることもできるが、自分という物質=身体に対する自分の処分権を、他人が奪いきることはできない(たとえば自殺や冒険を他人が止めることはむずかしい。事故や病気から他人を守りきることもむずかしい)。おそらく、所有の概念の真核は、自分の身体は究極的には自分で処分するもので、他人にとっては不可侵であるという事実であろう。

 

物質の所有という概念。それは太古以来の社会的不可侵性であり、所有の承認は社会秩序の基礎をなしてきた。

 

誰が何を「所有」しているとみなされており、物質的富を生産・交通・消費するためのどのような方法が社会的に正当とされているか。物質的な富をめぐる人々の概念のあり方が、「土台」を支えているのではないか。

 

このように考えていくと、人間の歴史の「土台」の本質は、物質的富をめぐる人間の観念(社会的概念)のあり方のことではないかという気がしてくる。

 

そして、物質的富のなかには、労働力をもつ人間そのものが含まれる。

 

人間を含む物質的富の生産には、多くの人間が協働し分業する。そしていったん生産された物質的富は、一定期間この世にとどまり、確かな使用価値を発揮しつづける。生物としての人間は、物質的富を消費せずには生存できない。だから物質的富の生産・交通・消費は、社会規範の基盤的部分を形成する。

 

マルクスのいう「土台」とは、社会がもつ物質的富(人間を含む)そのもの、および、それを生産・交通・消費するさいの概念(規範)を概括する言葉ではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 05:19 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
史的唯物論は死んだ その3

では、これからの歴史観はどういうものであるべきか。

 

われわれに残された方法のひとつは、今日あらためてマルクスを参考にしてみるという道である。

 

たとえば、彼の歴史観が比較的コンパクトに表れている部分を紹介してみる。

 

 

 

「すべての社会状態において、支配する階級(または諸階級)は、つねに労働の対象的諸条件を所有している階級であり、したがってこの対象的諸条件の担い手たちは、彼らが労働する場合でさえも労働者としてではなく、所有者として労働するのであるが、使用される階級はつねに、自分の労働能力しか思うままに処分できない、あるいは労働力として所有者の所持物にさえなっている(奴隷制)階級である(この階級が、たとえばインド、エジプト等々でのように、土地を占有しているように現れる場合でさえも、それの所有者は王、またはあるカースト等々である)」(MEGAII/3.1, S.117. 『資本論草稿集』ぁ206頁)

 

 

 

どうして所有という観念があらゆる人間社会に生まれ、きわめて強力に作用するのか。われわれは所有という概念について、あらためて考えてみる必要があるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 10:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
史的唯物論は死んだ その2

そもそも、歴史理論としての史的唯物論は、このごろあまり議論の対象にならないようにみえる。

 

史的唯物論には、短絡的な論理づけしかなかった。社会主義の崩壊という巨大な現実もあった。社会主義革命を急ぐあまり、未熟な史的唯物論は早産をくりかえし、ついには母体としての能力を喪失してしまったのだ。

 

私のみるところ、「マルクス主義」の根本的な欠陥は、人間の観念性・概念性をきちんと理解できなかったところにある。史的唯物論が未熟に終わったのも、種々の観念・概念を実在として認め、これを尊重し研究する態度が欠落したことに根因がある。

 

もちろん、史的唯物論じたい、人間が抱く観念であり概念である。

 

だから社会主義国家という「上部構造」の崩壊とともに、それに対応する「意識諸形態」である史的唯物論も死んでいった。

 

マルクスが略述した、土台・上部構造・意識諸形態という社会の三層の関係は生きている。

 

そのことは、歴史的存在としての「史的唯物論」がたどった推移じたいが、示しているのである。

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 07:33 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
史的唯物論は死んだ その1

近年になって、晩年のマルクスが遺したメモ類が公表され、マルクスの思想の見直しが行われている。

 

私としては、頭が働くうちに、まとまった歴史観をつくっておきたいのだが、そのためにもマルクスの歴史論はもっとも参考にすべきものだと思っている。

 

マルクスの歴史概念が、まとまったかたちで記述された箇所としては、経済学批判の序言が有名である。そこでは「土台」「上部構造」「意識諸形態」という三層の区別と関連が述べられているが、記述が抽象的であることもあって、文意の理解をめぐっては議論がある。

 

じっさい、「史的唯物論」では、この三層の関係をどう理解するかという問題が、理論のカナメになる。三層の関係を理解することが、社会全体を歴史的に理解することに直結するからである。

 

しかし、私の知るかぎり、この三層の関係について、十分納得のいく説明はまだないようである。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 06:58 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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