ごきげんようチャンネル

"Life is too short to wake up with regrets." author unknown
           

自分の知られざる能力を信じて微調整せよ 「声の力」はその例だ その1

山広子『人生を変える「声」の力』(NHK出版、2017年4月)。

 

NHKの「こころをよむ」シリーズの一冊。この6月まで、第二放送で著者みずから解説もしている。

 

誰もが、声を発しながら人生を送る。人生とは声のことだ、といってもいいくらいなのだが、声は空気に似て、あまり注目されない。そういう「声」の重要さを解説した本。

 

私があらためて注目したのは、人間の身体は、大半が「自律的」だということ。このテキストに、こうある。

 

 

 

「脳や脊髄といった身体の司令塔はもちろん、胃や腸といった内臓も、身体の機能を調整する自律神経も意志では動かせません。代謝の速度を調整することも、体温を上げたり下げたりも、自分ではできません。自分の身体なのに、主導権は別のなにかが握っているみたいですね。しかしそれらが自律的に、緻密に動いてくれるから私たちは生きていられるわけです。」145-146頁

 

 

 

その通り。こういうことは、年令が高くなるにつれて、いっそう強く感じるようだ。

 

この事実から、「なんだ、自分で左右できるのはわずかなのか。それならがっかりだ」と思うのは、早とちりである。

 

身体の大半が自律的だということは、いいかえると、自分の調整次第で、身体という自律的な機構の働きが大きく変わるということである。

 

たとえば、車を運転する人は、自分が運転していると思っているが、車じたいは、社会的に製造された複雑な機械で、あらかじめ作られたものである。ドライバーは、この機械のルールにしたがって、その動きを調整しているにすぎない。だが、ドライバーによる調整は、車の動きを決定する。

 

この本は、声が、聴覚をはじめ身体のさまざまな機能を動員していることに着目し、「自分」が声を微調整するだけで、人生が変わるほどの変化が身体に自律的に起こるといい、その仕組みと方法を説明している。

 

このことから私が考えたのは、身体だけでなく、精神も大半が「自律的」なのではないかということである。私たちは、「自分」が考えたり話していると思っているが、じつはその作業の大半は、あらかじめセットされたものの調整で十分なのではないかと。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 07:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
英語の日付はどう読む? これで全部わかる。

英語の日付の読み方。わかっているようで、自信のない人も多いのではないだろうか。

 

まず、覚えておくといいのは、日付は歴史のなかで一回しかない、その日の個性を表す固有名詞だということである。だから英語で日付を書くとき、月や曜日のように大文字で書けるところは大文字にして、固有名詞として表現する。

 

ところで、英語の日付のおもしろいところは、「序数(◯番目)で書かない場合も、序数で読む」「theを書かないが、theをつけて読むことがある」ということである。

 

なぜそうなるのか。

 

日付は、人名と同じく、全体としてtheのない典型的な固有名詞である。ところが同時に、日付には「その月の◯番目の日」という認識もふくまれている。だからthe ◯th と序数で言いたくもなる。

 

そこで、日付は序数で書かず、theも書かないが、読むときは必ず序数として読み、はじめに曜日をつけたときは、日付にtheもつけて読んでいる。書き方と読み方でちがいをもうけて、うまく妥協しているわけである。

 

具体例を、私のトランス・グラマーの原稿から引用してみよう。文中に「原独体」とあるのは、無冠詞・大文字で表現する、典型的な固有名詞のことを言っている。φという記号は、無冠詞であることを表す。

 

 

 

 

 

日付は「ひと」が暮らしを営む人間的な時間概念であり、歴史のなかで一回しか現れない、その日の個性なので、無冠詞の原独体です。

 

なお、日は、「その月の◯番目の日」という意味なので、つねに序数として読むことに注意してください。

 

アメリカ式とイギリス式(UK のほかオーストラリアなど)とでは月と日の語順がちがいます。また、イギリス式では、声に出して読むとき、月の前に of をつけます。

 

アメリカ式でもイギリス式でも、年の前にコンマがあるのは、「同じ名前の月日は毎年あるが、どの年かというと…」というように、認識に揺れ(選択感)があることの表現です。

 

アメリカ式:

書き方: φMarch 30, 2018 または φMarch 30th, 2018

読み方:  φMarch thirtieth twenty eighteen

 

イギリス式:

書き方: φ30 March, 2018 または φ30th March, 2018

読み方:  φthirtieth of March twenty eighteen

 

 

 

これに曜日をつけると、アメリカ式でもイギリス式でも、日の読み方にtheが加わります。同じ曜日の日(例えばMonday)がいくつかあるなかで、「3月の30日目」という、特定の個性を選択したことを表すtheです。

 

曜日の後ろにコンマがあるのは、「同じ曜日のうち、どの日かというと…」という認識の揺れ(選択感)の表れです。

 

アメリカ式:

書き方: φMonday, March 30 2018 または φMonday, March 30th 2018

読み方:  φMonday, March the thirtieth twenty eighteen

 

イギリス式:

書き方: φMonday, 30 March 2018 または φMonday, 30th March 2018

読み方: φSunday, the thirtieth of March twenty eighteen

 

 

 

以上、イギリス式では表記にofがなくても月名にofをつけて読むこと、アメリカ式でもイギリス式でも、日は序数で書いていない場合も序数で読むこと、曜日が先だてば日にtheをつけて読むことに注意してください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 03:12 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
英語の大文字は個性の表現 日付はその日の個性だから、theがない

英語の文法をまとめた原稿を書き溜めている(「トランス・グラマー」という名前です)。これは私のライフワークのひとつ。

 

原稿を書いていると、ちょっとした英語の真実に気づくことがよくある。そのひとつは、

 

「なぜ英語の日付にはtheがないか?」

 

というもの。

 

日付は特定の日だから、the がついても良さそうである。しかし、実際には  "April 16, 2017"  のように、the なしで書く。それはなぜか。

 

これは案外と大事な英語の感覚の表れである。

 

答えは、こうである。

 

英語には、「個性は大文字で表す」という原則がある。いわゆる「固有名詞」である。

 

固有名詞が表す個性とは、「一回しか現れないもの」のことである。

 

例えば、人名は、一回しか現れない個性そのものを指すから、大文字で書く。駅の名前 Tokyo Station や、通りの名前 Fifith Avenue, 曜日 Monday なども大文字になるのは、それぞれに個性的で、「それがなくなったら、二度と同じものは現れない」という認識の表れである。

 

同様に、歴史の中でその日は一回しかない。すべての日付は、「固有名詞」なのだ。住所も、英語では大文字で書き、theをつけないが、それは居住地の個性を表しているからである。

 

ただ、日付のなかの数字は、大文字で書かない。だから、日付がその日の個性を表す「固有名詞」であることに気づきにくいのだ。

 

ちなみに、英語では文のはじめを大文字で書きはじめるが、これも「この文は、この文章のなかで、一回だけ現れる個性的なものだ」という感覚の表れである。

 

個性、つまり「一回だけ。二度と現れない」という認識は、大文字で表す。これが英語の感覚である。the FBI のように、theのつくタイプの固有名詞や、日付のように固有名詞と気づきにくいものもあるが、「一回だけ存在するもの=個性は、大文字で表記する」という英語の原則は一貫している。

 

これを覚えておくだけで、英語という言語の考え方が少しわかってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 20:57 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
『資本論』はあちこちに欠陥がある だから面白い

マルクスの『資本論』は、やはり魅力のある本だ。しかし、あまり

神聖視?しないほうがいいと思うこともある。

 

読み込んでいくと、重複があったり、構成がわかりにくかったりする。

欠陥もかなり目につくのだ。

 

たしかマルクスは、自分は『資本論』を後半のほうから書き始めたのだ、と

誰かへの手紙で述べている。ということは、誰もが読み始める第一巻は、

マルクスが後で書き足したものだということになる。

 

第一巻の内容は、彼がすでに経済学批判などで詳しく考察したことの要約だったり、

マルクスにとっては解決済みの初歩の概念の説明だったりする。

 

第一巻、とくに前半部分の執筆は、マルクスにとってはあまり気が進まない

作業だった。構成上必要だから書いておくけれど、あまり楽しい仕事ではない…

 

そういう淀んだ気分が、第一巻前半のスピード感のない叙述の雰囲気に

出ていると思う。

 

考えてみれば、ワープロもない当時の環境のなかで、あれだけ膨大な原稿を

秩序だてるのは大変な作業であり、叙述の重複や構成の欠陥は避けられ

なかったと思われる。

 

しかし、そういう欠陥があるからこそ、『資本論』は人間的な魅力を

放っているともいえる。読み手としては、そういう欠陥を心得ることで、

この名著からより深い知恵を汲み出すことができる。

 

そういう本でもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 19:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「影をなくした男」考 影は超越のシンボル
シャミッソー(池内紀訳)『影をなくした男』(岩波文庫、原作1814年)


自己論の参考になるかも…と思って読んでみた。

もしも人間に影がなかったら、この世のものではない。

この作品は、主人公が影を売ってしまったことがいろいろな不幸を呼ぶのだが、その事情について説明不足の感じがあって、私は楽しめなかった。


作者のシャミッソーは、フランスの貴族の家に生まれたが、フランス革命で一家は特権を剥奪され、15歳からドイツに住んで、「フランス系ドイツ人」ともいうべき、祖国のはっきりしない人物になったという。そこで、この作品の「影」とは、彼が亡くした祖国のことだろうと推測した人が多かったらしい。(訳者解説、146頁)

なるほど祖国は、なくしてはじめて意味の大きさがわかる。そこが影に似ている。



さて、巻末にある訳者の回想によると、子どものころ影踏みごっこをしていたら、ふと、影のほうが主人公で、自分はその従属物のような気がしたという。



「自分が黒い小鬼の指図のままに身ぶり手ぶりをしているような気がして、おもわず足をすくませた」137頁




私には、訳者のこの言葉がいちばん面白かった。



自分の従属物であるはずの「影」が自立し、自分を支配しはじめる。

精神の不安定は、なべてこうして起こる。

この作品は、そういうテーマの展開だと思えばいいのだろう。




自分の影は、自分につきものである。自分が影(もう一人の自分)をつくり、これによってわれわれは時空を超える。



最後に、この作品に附属している詩の一節を引いておく。


「影とはなにか?

どうして世間は意地悪く

これほど影を尊ぶのか

ぼくがこの世に生をうけて以来

53年の歳月が流れたが

その間ずっと影が命だったでもいうのだろうか

命が影として消え失せるのに」134頁













 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 17:54 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
プルーストの「私」について なぜ「私」が<普遍的非人称>になれるか
マルセル・プルースト(1871-1922)の「失われた時を求めて」の「私」について、興味深い指摘をした本があることを教えてくれた人がいた。



鈴木道彦『マルセル・プルーストの誕生』(藤原書店、2013年)



プルーストの「私 je」は、プルースト自身というより、むしろ、



「人間の原型、普遍的で非人称的な、同時にプルーストでもあれば全人類でもある原型」



であるというのである。68頁。



これは当時の現象学や匿名性の文学と関係があるというが 26頁、ここでは、なぜ「私」が一人称の限界を超えて、普遍的な非人称として自立できるか、ということについてメモしておきたい。


英語の "I" も同じだが、一人称とは、話し手が自己を話し手として認識したことを表す呼体詞(いわゆる代名詞)である。

呼体詞に限らず、言語があらわす概念には、具体性とともに普遍性がある。たとえば、すべての具体的な個人は、誰もが自分を "I" と呼ぶ。この "I" は、他にはない具体的な「私」であると同時に、<自分にとっての自分>という普遍的な関係(誰もがもつ関係)を表現してもいる。

だから、プルーストが「私」と書いているのをみて、われわれは、それが作者プルーストであると同時に、われわれ自身のことでもあると了解することができる。

プルーストは、<具体的であると同時に普遍的>という言語の性質を利用して、いったん読者の「私」に入り込む。この回り道をたどって、プルーストは、他者と自分をふくむ普遍的な「私」に到達しようとしたのである。(66頁同旨)



プルーストがこの作品のなかでほとんどすべて「私 je」とだけ述べて、それが誰であるか、固有名詞で示さなかったのは、「私」が誰でもあることを示唆するためであった。

ならば 「私」でなくて、「彼」でもよかったのかもしれないが、「彼」だと女性ではないという限定がつくこともあって、プルーストは「私」を選んだのかもしれない(じっさい、プルーストは同性愛者でもあった)。


プルーストの「私」は、具体的でありながら普遍的という概念の本質が、芸術の志向力によって異様な力を獲得した例なのだ。



最後に、本書からプルーストの言葉を引いておく。



「文体というものは、ある人びとが考えているのととちがって、いささかも文の飾りではありません。技術の問題ですらありません。

それはー画家における色彩のようにーヴィジョンの質であり、われわれ各人が見ていて他人には見えない特殊な宇宙の啓示です。」472頁。










 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 18:25 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
はたらく・働く・はたラク 
久保田淳ほか『人生をひもとく 日本の古典第二巻 はたらく』(岩波書店、2013年)の「まえがき」に、「はたらく」という言葉について解説がある。

そこに、二つ意外なことがあった。



ひとつは、「働く」という漢字が、中世につくられた日本製の国字だということ。vi頁。

国字というと、峠や辻がよく例にあがるが、「働」の字が日本製だとは、私は気づかなかった。



もうひとつは、「はたらく」という言葉じたい、ごく古い時代には存在しなかったらしいということ。vi頁。

労働にかかわる言葉として、「追う」「釣る」「織る」「作る」などはあるが、「はたらく」は、時代がすすむまで「見当たらない」のだと。

筆者の久保田氏は、


「多岐にわたる労働を一括して『はたらく』と捉える考え方は、上代もかなり下るまで生じにくかったのであろうか。」vi頁


と書いている。

ちなみに、『岩波古語辞典』には、「はたらく」の項はあるが、語源については解説がない。比較的新しい言葉であるために、語源が論じにくいのかもしれない。



たぶん、「はたらく」が比較的新しい言葉であることと、「働く」の字が国字であることは、なにか関係があるのだろう。









個々の労働を総括する「はたらく」という言葉は、ごく古いころの記録にはない。

これは、私にとって興味深い。

平安時代にはいってから、労働関連の概念を総括する多義語(一般的等価形態)である「はたらく」ができたのである。

それは、種々の具体的有用労働の違いを超えて、単一の人間的抽象労働の概念に上流階級が到達した瞬間であったのだろう。




言語についても、同じようなことを考えてみる価値があるかもしれない。

そう思って、ふたたび『岩波古語辞典』をみると、「語る」「告ぐ」「宣(の)る」「言ふ」「話す」といった語はのっているが、それぞれ違う語義であり、これらを一括する言葉(一般的等価形態)は見当たらないようだ。

しいていうなら、労働が「ものづくり」なら、言語は「ものがたり」「ものがたる」なのだとすれば、少しは辻褄があうのかもしれない。





日本人は、労働については一般的等価形態となる概念(「はたらく」)に到達しているが、言語についてはいまだに一般的等価形態となる概念を見出していないということなのかもしれない。











 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 15:39 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「影」としての言語 おわり
言語は、私たちの心の影である。


しかし、神の影が人間の心から独立したものとしてあがめられたように、言語という心の影を、われわれの心から独立した<もの>としてあつかうことが慣習化している(言語の物神化。英文を板書して解説している教師を思え)。

現代の言語学も、言語を物神化する。そしてみずから言語をあがめることによって、自分たちが管理する学の聖域にすることもできたのであった(近代言語学の成立)。



目に見えない心が、どのようにして影として顕現するか。

言語を物神化していると、そういう発想は出てこない。いや、言語が神であるならば、その出現の現世的なからくりをあらわにするような不敬な考えは、そもそももってはいけないことにもなる。




心が影として顕現する現実のからくり。そのヒントは、マルクス『資本論』の価値形態論にあるのだが、それに気づいている人は少ないようだ。









(おわり)







 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 05:07 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「影」としての言語 その3
古代において、目に見えない神は、一瞬、影としてこの世に姿を現した。

昔も今も、目に見えない私たちの心は、一瞬、声としてこの世に姿を表す。


そして消えゆく八幡神を昔の人が図像にとどめたように(仁和寺・八幡神影向(えいごう)図)、私たちは消えゆく自分の心を文字という描線にとどめる。


言語の発生は、神の顕現と同じ構造なのである。




神や心は、もともとかたちがない。だからその影の形態はどのようにでもありうる。

音声・文字の異なる数千の言語が存在し、日々あたらしい言葉がつくられるのは、言語が心の影だからである。

言語は心の影であるから、変幻自在である。だから同じ認識がちがう表現になったり、ちがう認識が同じ表現になったりもする。








(つづく)








 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 05:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「影」としての言語 その2
日本語で「かげ」というとき、陰った部分のかたちというだけでなく、ものの気配や一瞬の姿だったり(人影)、心に浮かんだ像のことだったりもする(面影)。

つまり、日本語の「かげ」は、「陰り shadow」だけでなく、「像 image」の意味をふくんでいる。



「かげ」(像)は、見えるもののかたちが変形したり、見えないものが仮のかたちをとったものであるから、もとのものとは違うかたちになることもあるし、そもそも、どんなかたちでもかまわない場合さえあるわけである。


「かげ」は、もとのものの代理でありながら、自由に形態を変化させることができる。





言語は、この「かげ」の原理の産物である。









(つづく)








 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 22:11 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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