ごきげんようチャンネル

科学とは、正確に驚くことである。 Y.M.
           

ソシュールの「恣意性」徹底批判 補遺  池上嘉彦氏の指摘から おわり
現代の言語学は、ソシュールの恣意性から脱却しようともがき、妥当な<落し所>を模索している、といったところなのであろう。


こうした模索の背後には、一種の恐怖感があるように思われる。


人間の認識(言語)は、恣意性にせよ認知構造にせよ、その中間にせよ、どうにも不定形でとらえがたいものであるか、逆にあらかじめ運命づけられているか、つまりは理解しがたいものであるか不自由であるか、そのいずれかではないかという恐怖感である。







突然のようだが、ここで私が思い出すのは、道元の正法眼蔵に出てくる「魚と水」のたとえ話である。



「魚、水を行くに、行けども水の際なし。」



池のコイは、限られた境界のなかで一生を送る。外から見ていると、ずいぶん不自由のようにも見える。

ならばコイは、池のなかで不自由であるか?

否。

コイから見れば、行けども行けども水がある。








現代の言語学は、池の外からコイを見ているにすぎない。

そこに欠けているのは、ほんとうに言語を話している実践的人間(池のコイ)からみた視線である。

いわば魚眼の必要性であるが、人間がコイとちがうのは、人間は自己を分裂させて、現実の時空と時空の現実を超えて観念的に活動し、疑似現実すなわち表現の世界を作る能力(思考の自由)をもっていることである。




いまの言語学者は、池の回りをぐるぐる歩いて、もっぱらコイを観察する人である。

そして、この永遠の散策者は、池のコイがつくった幻想なのである!








(おわり)









 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 08:11 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
ソシュールの「恣意性」徹底批判 補遺  池上嘉彦氏の指摘から その4
ここ数十年で台頭した認知言語学によると、言語の表現は、


「動機づけられてはいるが、完全に予測できるようなものではない motivated, but not predictable 」(Lakoff, 1987)」


とされる。池上同上書、90頁。

言語は、完全に恣意的ではないが、完全に予測可能なものでもない。

なぜ、このような「恣意性と動機づけのせめぎあい」90頁つまり、でたらめではないが、ひとつに限るわけでもないという、すっきり説明しきれない「困難な状況」90頁が生まれたかというと、次のような事情が立ちはだかるからである。



・「話す主体」86頁のとらえがたさ: 人間が言語用いる諸概念には、誰もがもっている典型的なものから、それほどでもないものまで、「段階性」がある。88頁 これは、どのような説明をしようと、つねに「反例」による反証の可能性があることにつながる。91頁 


・「場面」86頁を言語理論にとりいれることのむずかしさ: 言語の表現、そして動機づけは、話し手の「パフォーマンスのレベル」によって異なる。どのような場面で、どのような意図をもって語るかによって言語の表現はちがってくる。「しかし、パフォーマンスのレベルの状況に通じるということは、母語以外の場合は、構造や規則に通じるということよりもずっと困難である」92頁




恣意性を前提とする、たんなる現象の「記述」から、人間の認知能力を背景とする、よりリアルな「説明」へ。




「言うまでもなく、<記述>よりも<説明>の方が学問的要請を高度に満たした、より魅力的なものである。」89頁。




そうであるがゆえに、池上氏は認知言語学に魅力を感じる。

しかし、記述から説明に転じようとすればするほど、「場面とか、話す主体といった<非言語的>な要因」86頁を考慮に入れざるをえなくなり、理論化の困難は増す。


いまの言語学は、おおむねこのような状況にあるというのが、池上氏の認識のようである。








(つづく)








 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 07:17 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
ソシュールの「恣意性」徹底批判 補遺  池上嘉彦氏の指摘から その3
池上氏によると、人間の活動の基礎となる言語において、恣意性が「大前提」とされたことは、現代の思想のあり方を規定した。



「さらに現時点から顧みて大変興味深いことは、<恣意性>という概念は<話す主体>を一旦排除しておきながら、後になってそれを再び違った形で取り込む根拠にもなされ得たということである。

これは<恣意性>の中でも、とりわけ言語の記号内容面における分節の<恣意性>ということを強調することによってなされる。



<恣意的>であるというのは、その面における人間の営みが完全に<主体的>なものであって、他の何かによって制約されているのではないということ、つまり、人間の究極的な<自由さ>の証しに他ならないというのである。

このような考え方が一見人間の尊厳を強調するという意味で十分訴えるところがあったということもよく了解できる。」(池上同上書、87頁)





<恣意性>という言語観は、サルトルの実存思想やポストモダンの思想に親近性がある。

そして池上氏は、こうした「完全に恣意的に振舞う自由を享受する主体」という想定は、最近の認知言語学の知見によって、「実は過度な思い入れであったことが教えられた」という。88頁









(つづく)









 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 07:14 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ソシュールの「恣意性」徹底批判 補遺  池上嘉彦氏の指摘から その2
池上氏はつづける。



「実際には、<恣意性>という概念はもともと言語記号の<記号表現(シニフィアン)>と<記号内容(シニフィエ)の関係について提唱されたものである。


しかし、<恣意的>(arbitrary)であることが<慣習的>(conventional)と読みかえられると、まるでそれが<言語の在り方>全体について考察する場合の大前提であるかのように、暗黙のうちに拡大されてしまったようにみえる。


その背後には、それによって、言語学は<言語そのもの>という<固有の>対象を得たことにもなるし、また<人間>という<不確定さ>を伴う要因の介入を許さずにすむという思惑があったことは疑いない。


比較的<若い>学問である言語学にとって、学問的な自立性と客観性の保証がこの上なく魅力的なことと思えたのは、十分に了解できることである。」(池上同上書、86-87頁)




恣意性という概念は、言語学に「自立性と客観性の保証」をもたらすように見えた。だから魅力的であった。

これは、ソシュールの恣意性が言語学の<大前提>とまでみなされた事情についての、正確な観察であろう。


注意すべきは、ここで池上氏は恣意性という概念が魅力的にみえた事情を説明しただけであって、恣意性という命題が<正しい>から学界に受容されたとは、必ずしも述べていないことである。








(つづく)









 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 22:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ソシュールの「恣意性」徹底批判 補遺  池上嘉彦氏の指摘から その1
池上嘉彦『日本語論への招待』(講談社、2000年)に、100年前のソシュールの「恣意性」という言語観が、今日までいかに深い影響をもたらしたかがわかる記述がある。

メモとして引用しておく(字句は原文のまま。ただし、適宜行替えを加える。ゴチックはすべて三浦)。




「<言語の恣意性> ー これは長い間言語研究の大前提として掲げられてきたものである。

時には、そこに何か誇らしげな調子を読みとることすら出来たように思える。それも十分に了解できる訳あってのことであった。


<恣意的>、つまり、そうなっているからそうなのだとしか言えない性格のもの、ということであるとすれば、それは対象として<記述>することしかできない(あるいは、<記述>さえすればよい)というものであり、望まれるのは<形式的>な<記述>の精度、一般性、整合性を高めるということになる。

とりわけ、そこでは、言語のあり方を何らかの因果関係に基づいて<説明>するというような操作は、全く場違いで不要ということになる。


従って、言語の研究者は<言語そのもの>だけを睨んでいればよいわけであり、現実には<言語の在り方>に関わっていることは否めなくとも、例えば場面とか、話す主体といった<非言語的>な要因は排除した形で考察がなされてもそれは正当であるという議論も許されることになる。」(池上同上書、86頁)




ここで池上氏は、言語研究が依拠してきた恣意性という「大前提」を、全面的に肯定しているのではない。

むしろこの引用文は、「伝統的な<言語の恣意性>という観念への過度な依存に対する反省」が、最近の言語学における「コンセンサス」として「形成されつつある」という主旨の部分である。(同上書86頁。ゴチックは三浦)










(つづく)










 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 05:53 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
いまだに昆虫採集レベルの”言語学” おわり
< "just" は、言語についての言語、すなわちメタ言語である>といった、先に紹介したような把握の仕方は、いまの言語学の弱点を象徴している。


第一に、「メタ言語」という言い方は、もっぱら表現レベルの、語どうしの関係の観察だけで言語を説明しようとする態度からきている。そこには、言語を発する話者の存在が視野に入っていない。

第二に、「メタ言語」という見方は、言語表現の対象たる認識が、表現からは相対的に独立した、独自の存在であることを理解していない。

表現はひとつでも、認識は多様でありうる。それは "just" などの多義語の存在が雄弁に示している。逆に、認識はひとつでも、表現が多様であることもある(たとえば、「白くなる」という認識は、whiten ともいえるし、become white ともいえる)。

「焦点化の副詞」のように、認識じたい、内部で二段階になっていたりもする。

認識と表現は互いに関連しあいつつ、一定範囲でそれぞれ独自の発展をとげるのである。





言語には、かならず話者がおり、表現には対象がある。そして言語の実体は、対象にかんする話者の認識である。

この認識と表現の発展の仕組みを具体的に解明することが、言語学の課題であるはずである。

機能と形態による分類は、科学の萌芽ではあっても、それだけで対象の本質に切り込むことはできない。

<そのように機能するし、外見もそう見える。だからこれはこちらに分類する>といったことをくり返すのは、昆虫採集に熱中する小学生のようなものである。









(おわり)









 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 15:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
いまだに昆虫採集レベルの”言語学” その7
副詞について詳細な記述がある安藤貞雄『現代英文法講義』(開拓社、2005年)によると、副詞は、


① 通常の副詞 very, entirely, fluently, など。動詞、形容詞、副詞を「修飾」する。

② 文副詞   economically, fortunately,  など。文頭におくのが原則。

③ 接続副詞     therefore, nevertheless, など。②とちがって、yes/no 疑問文の答えになれない。


の三種類に分類できる。523頁



以下、私の見方でこの三種類を説明しよう。


①は、対象の客観的な様態や程度などを話者が補足する副詞であるが、②と③は、客観的基準を念頭においたうえでの話者の主観的判断という、二段階の認識をもつ副詞である。たとえば、economically は、politically, geographically, などの客観的基準のなかから、話者が「経済面からいえば」という判断を選んだことを表す。


さて、形式的(統語的)には①のタイプでも、句、節、名詞、代名詞を「とりたて」て話題にする、いわゆる「焦点化の副詞」といわれるものがあり、 "just" はそのひとつである。(他にpurely, simply, exactly, even, only, alone, too, など。安藤前掲書、528-529頁)


「焦点化の副詞」は、②や③のタイプと同様、客観的基準に照らしたうえで、対象に関する表現について話者が主観的に判断するという、二段階の認識をもつ。


たとえば、 "just" の場合だと、


Just a joke. (冗談だよ)


というのは、社会的基準に照らして a joke という表現は正当といえる、という話者の判断を "just" が表している。


さらに、


She has just come. (来たばかりだ)


というのは、時間という客観的基準に照らして、She has come. という表現は正当である、という話者の判断を "just" が表している。

このように、認識が客観的基準のうえの主観的判断という、やや複雑な構造になっているために、「焦点化の副詞」は多義的に発達しやすいのである。










(つづく)











 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 14:37 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
いまだに昆虫採集レベルの”言語学” その6
もうひとつ、とりあげたい論点は、"just" のような「副詞」の理解の仕方についてである。

中野論文は、


She is just wonderful.


という文での "just" は、「言語表現の適切さに言及するものであるのでメタ言語機能といえる」と述べている。285頁。


「メタ言語 metalanguage 」とは、「言語について語る場合に用いられる言語」(安藤貞雄ほか共編著『言語学・英語学小事典』北星堂書店、1990年、133頁)のことで、この場合だと、 "just" は "She is wonderful. " という言語表現について、それがおおげさでなく、適切であることを表現する言語であるという意味である。


この種の「副詞」の理解の仕方に、現代の言語学がおちいっている問題点が顔を出している。







(つづく)










 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 11:07 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
いまだに昆虫採集レベルの”言語学” その5
  just を例にして、語としての発展のロジックを簡略に追うと、次のようになる。


(以下、just の語義は Concise Oxford English Dictionary, 11th edition による)





① 単純な意義形態



 "just" =exactly (まさしく)



 ここでは、"just" の意義が exactly(まさしく) によって表現されている。


これは、左右を逆にした、次の関係をふくんでいる。



exactly (まさしく)= "just"



母語の世界でいえば、 "just" の意義が exactly  で表現されたり、exactly の意義が "just" で表現されたりしている状態である。


非母語学習でいえば、 "just" =「まさしく」、「まさしく」= "just" などと、母語との一対一対応で単語帳的に覚えて、"just" を理解したり表現しようとしている段階にあたる。





② 展開された意義形態



 "just" =exactly (まさしく)

 "just" =very recently (ついさっき)

 "just" =barely (なんとか)

 "just" =only (ただの)


 …



これは①単純な意義形態が繰り返された形態である。 "just" の意義が、多くの語によって表現されるようになっている。


これも、左右を逆にした次の関係をふくんでいる。



 exactly (まさしく)="just" 

 very recently (ついさっき)="just" 

barely (なんとか)= "just" 

 only (ただの)="just" 





すなわち、母語の世界でいえば、 "just" の意義が exactly でも very recently でも表現されるし、逆に exactly や very recently の意義が "just" で表現される場合もあるという状態である。

これらの等式は個々別々に成立しているだけであるが、 "just" の意義は全体に ①よりも豊かに発展している。


非母語学習でいえば、 "just" =「まさしく」「ついさっき」「なんとか」…など、母語の多様な語と対応させて "just" のニュアンスが理解でき、逆に、「まさしく」「ついさっき」「なんとか」…などの意義を "just" で表現していく段階にあたる。

しかし、じっさいには学習者は、 exactly, very recenlty など、他の語の意義をすでに理解している場合も多い。その場合、 "just" の意義を exactly や very recently と同等に理解し表現したり、逆に exactly や very recently の意義を "just" で理解し表現することもできることになる。

こうなると、いちいち日本語を介することがなくなり、英語母語話者の世界に近づいていることになる。





③ 一般的な意義形態



 exactly      

 very recently   

 barely       

 only                   


= "just" 





②展開された意義形態の左右が逆転して、exactly, very recently  など、多様な語の意義を  "just" 一語で表現できる段階である。

もはや、個々の等式が別々に、偶然に成立しているのではなく、 "just" が他の語を統括する地位を獲得している。

前掲の中野弘三論文によると、現代口語英語では限定的意味や軽視的意味を表すのに、「only よりもjust を選ぶ傾向が強くなっている」というが(中野ほか編前掲書、280頁)、これは、"just" が only の意義まで自分の一部にとりこんでしまったこと、すなわち "just" がいっそう一般的な意義形態を獲得しつつあることを示している。



このように、一般的な意義形態を獲得した語が、多義語とか基本語と言われるものである。

多義語や基本語の豊かなニュアンスの秘密は、この最高段階の意義形態を獲得していることにある。



非母語学習でいえば、exactly, very recently ... のような多様な意義を、 "just" 一語で表現できるようになった段階である。

学習者は、この段階ではすでにexactly や very recently の意義を理解しているから、それらを統括する "just" についても、母語を介することなく理解し表現することができる。







(つづく)








 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 07:20 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
いまだに昆虫採集レベルの”言語学” その4
 "just" のような多義語を理解するには、実践的には原義(その大きなヒントは語源)をつかむことがコツだとしても、言語現象の原理探求の学問たる言語学としては、




<なぜ同一の表現(音声・文字)が、多くの意義を担うことになるのか?>




という問いに答える必要がある。


多義語発生の原理。


それは、マルクス『資本論』の価値形態論が解決を与えてくれる。

価値形態論は商品経済発展のロジックであるが、このロジックは商品経済に限らず、他人にわかってもらおうとか、他人をわかろうとか、他人をしたがわせようとわれわれが行為すること全般、つまりすべての社会的な行為の発展段階を解明したものである。

言語とは、商品と同様、他人にわかってもらおうとか、他人をわかろうとか、他人をしたがわせようとわれわれが行為することにほかならないから、価値形態論は言語発展のロジックでもある。

多義語発生の必然性は、言語発展のロジックから解明できる。








(つづく)






 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 07:08 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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