ごきげんようチャンネル

科学とは、正確に驚くことである。 Y.M.
           

はたらく・働く・はたラク 
久保田淳ほか『人生をひもとく 日本の古典第二巻 はたらく』(岩波書店、2013年)の「まえがき」に、「はたらく」という言葉について解説がある。

そこに、二つ意外なことがあった。



ひとつは、「働く」という漢字が、中世につくられた日本製の国字だということ。vi頁。

国字というと、峠や辻がよく例にあがるが、「働」の字が日本製だとは、私は気づかなかった。



もうひとつは、「はたらく」という言葉じたい、ごく古い時代には存在しなかったらしいということ。vi頁。

労働にかかわる言葉として、「追う」「釣る」「織る」「作る」などはあるが、「はたらく」は、時代がすすむまで「見当たらない」のだと。

筆者の久保田氏は、


「多岐にわたる労働を一括して『はたらく』と捉える考え方は、上代もかなり下るまで生じにくかったのであろうか。」vi頁


と書いている。

ちなみに、『岩波古語辞典』には、「はたらく」の項はあるが、語源については解説がない。比較的新しい言葉であるために、語源が論じにくいのかもしれない。



たぶん、「はたらく」が比較的新しい言葉であることと、「働く」の字が国字であることは、なにか関係があるのだろう。









個々の労働を総括する「はたらく」という言葉は、ごく古いころの記録にはない。

これは、私にとって興味深い。

平安時代にはいってから、労働関連の概念を総括する多義語(一般的等価形態)である「はたらく」ができたのである。

それは、種々の具体的有用労働の違いを超えて、単一の人間的抽象労働の概念に上流階級が到達した瞬間であったのだろう。




言語についても、同じようなことを考えてみる価値があるかもしれない。

そう思って、ふたたび『岩波古語辞典』をみると、「語る」「告ぐ」「宣(の)る」「言ふ」「話す」といった語はのっているが、それぞれ違う語義であり、これらを一括する言葉(一般的等価形態)は見当たらないようだ。

しいていうなら、労働が「ものづくり」なら、言語は「ものがたり」「ものがたる」なのだとすれば、少しは辻褄があうのかもしれない。





日本人は、労働については一般的等価形態となる概念(「はたらく」)に到達しているが、言語についてはいまだに一般的等価形態となる概念を見出していないということなのかもしれない。











 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 15:39 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「影」としての言語 おわり
言語は、私たちの心の影である。


しかし、神の影が人間の心から独立したものとしてあがめられたように、言語という心の影を、われわれの心から独立した<もの>としてあつかうことが慣習化している(言語の物神化。英文を板書して解説している教師を思え)。

現代の言語学も、言語を物神化する。そしてみずから言語をあがめることによって、自分たちが管理する学の聖域にすることもできたのであった(近代言語学の成立)。



目に見えない心が、どのようにして影として顕現するか。

言語を物神化していると、そういう発想は出てこない。いや、言語が神であるならば、その出現の現世的なからくりをあらわにするような不敬な考えは、そもそももってはいけないことにもなる。




心が影として顕現する現実のからくり。そのヒントは、マルクス『資本論』の価値形態論にあるのだが、それに気づいている人は少ないようだ。









(おわり)







 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 05:07 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「影」としての言語 その3
古代において、目に見えない神は、一瞬、影としてこの世に姿を現した。

昔も今も、目に見えない私たちの心は、一瞬、声としてこの世に姿を表す。


そして消えゆく八幡神を昔の人が図像にとどめたように(仁和寺・八幡神影向(えいごう)図)、私たちは消えゆく自分の心を文字という描線にとどめる。


言語の発生は、神の顕現と同じ構造なのである。




神や心は、もともとかたちがない。だからその影の形態はどのようにでもありうる。

音声・文字の異なる数千の言語が存在し、日々あたらしい言葉がつくられるのは、言語が心の影だからである。

言語は心の影であるから、変幻自在である。だから同じ認識がちがう表現になったり、ちがう認識が同じ表現になったりもする。








(つづく)








 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 05:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「影」としての言語 その2
日本語で「かげ」というとき、陰った部分のかたちというだけでなく、ものの気配や一瞬の姿だったり(人影)、心に浮かんだ像のことだったりもする(面影)。

つまり、日本語の「かげ」は、「陰り shadow」だけでなく、「像 image」の意味をふくんでいる。



「かげ」(像)は、見えるもののかたちが変形したり、見えないものが仮のかたちをとったものであるから、もとのものとは違うかたちになることもあるし、そもそも、どんなかたちでもかまわない場合さえあるわけである。


「かげ」は、もとのものの代理でありながら、自由に形態を変化させることができる。





言語は、この「かげ」の原理の産物である。









(つづく)








 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 22:11 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「影」としての言語 その1
加藤健司ほか『神道の美術』(平凡社、2012年)の巻頭解説によると、古い時代の神観念は「影」と関係があったという。


たとえば万葉集に、鏡に映った影が人の真心を映すとか、カミは影となって顕現するという古代人の感覚がうかがえる歌がある。8頁。

仁和寺には、八幡神の顕現を壁に映った人型の影で表した絵が伝わっている(八幡神影向(えいごう)図。同書、12, 40頁)


おもしろいのは竹取物語の例で、美女のかぐや姫を、帝が強引に連れ去ろうとすると、「きと影になりぬ」(ふっと突然、影になってしまった)という。同書8頁。

かぐや姫がこの世の人間ではなく、ほんとうは異世界の存在=影であることが示された瞬間である。

帝は、「げにただ人にはあらざりけり」と驚き、何もしないから元にもどってくれと頼む。すると、「かぐや姫もとのかたちになりぬ」。



ここでは、影こそが真の姿であって、かぐや姫の身体は「かたち」すなわち仮の姿にすぎないという、観念的な転倒が行われている。




神こそが実体で、この世は神の意向にもとづく現象にすぎないというのは、宗教的観念の典型である。



<自然を動かしているものは目に見えない。それが神である。ゆらめく物影は、しばらく目に見えては消えていく。そうだ。影は、見えない神が一瞬、姿を現したのだ。>



神の観念は、そのように感じる体験からきたのかもしれない。







(つづく)









 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 21:41 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ソシュールの「恣意性」徹底批判 補遺  池上嘉彦氏の指摘から おわり
現代の言語学は、ソシュールの恣意性から脱却しようともがき、妥当な<落し所>を模索している、といったところなのであろう。


こうした模索の背後には、一種の恐怖感があるように思われる。


人間の認識(言語)は、恣意性にせよ認知構造にせよ、その中間にせよ、どうにも不定形でとらえがたいものであるか、逆にあらかじめ運命づけられているか、つまりは理解しがたいものであるか不自由であるか、そのいずれかではないかという恐怖感である。







突然のようだが、ここで私が思い出すのは、道元の正法眼蔵に出てくる「魚と水」のたとえ話である。



「魚、水を行くに、行けども水の際なし。」



池のコイは、限られた境界のなかで一生を送る。外から見ていると、ずいぶん不自由のようにも見える。

ならばコイは、池のなかで不自由であるか?

否。

コイから見れば、行けども行けども水がある。








現代の言語学は、池の外からコイを見ているにすぎない。

そこに欠けているのは、ほんとうに言語を話している実践的人間(池のコイ)からみた視線である。

いわば魚眼の必要性であるが、人間がコイとちがうのは、人間は自己を分裂させて、現実の時空と時空の現実を超えて観念的に活動し、疑似現実すなわち表現の世界を作る能力(思考の自由)をもっていることである。




いまの言語学者は、池の回りをぐるぐる歩いて、もっぱらコイを観察する人である。

そして、この永遠の散策者は、池のコイがつくった幻想なのである!








(おわり)









 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 08:11 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
ソシュールの「恣意性」徹底批判 補遺  池上嘉彦氏の指摘から その4
ここ数十年で台頭した認知言語学によると、言語の表現は、


「動機づけられてはいるが、完全に予測できるようなものではない motivated, but not predictable 」(Lakoff, 1987)」


とされる。池上同上書、90頁。

言語は、完全に恣意的ではないが、完全に予測可能なものでもない。

なぜ、このような「恣意性と動機づけのせめぎあい」90頁つまり、でたらめではないが、ひとつに限るわけでもないという、すっきり説明しきれない「困難な状況」90頁が生まれたかというと、次のような事情が立ちはだかるからである。



・「話す主体」86頁のとらえがたさ: 人間が言語用いる諸概念には、誰もがもっている典型的なものから、それほどでもないものまで、「段階性」がある。88頁 これは、どのような説明をしようと、つねに「反例」による反証の可能性があることにつながる。91頁 


・「場面」86頁を言語理論にとりいれることのむずかしさ: 言語の表現、そして動機づけは、話し手の「パフォーマンスのレベル」によって異なる。どのような場面で、どのような意図をもって語るかによって言語の表現はちがってくる。「しかし、パフォーマンスのレベルの状況に通じるということは、母語以外の場合は、構造や規則に通じるということよりもずっと困難である」92頁




恣意性を前提とする、たんなる現象の「記述」から、人間の認知能力を背景とする、よりリアルな「説明」へ。




「言うまでもなく、<記述>よりも<説明>の方が学問的要請を高度に満たした、より魅力的なものである。」89頁。




そうであるがゆえに、池上氏は認知言語学に魅力を感じる。

しかし、記述から説明に転じようとすればするほど、「場面とか、話す主体といった<非言語的>な要因」86頁を考慮に入れざるをえなくなり、理論化の困難は増す。


いまの言語学は、おおむねこのような状況にあるというのが、池上氏の認識のようである。








(つづく)








 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 07:17 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
ソシュールの「恣意性」徹底批判 補遺  池上嘉彦氏の指摘から その3
池上氏によると、人間の活動の基礎となる言語において、恣意性が「大前提」とされたことは、現代の思想のあり方を規定した。



「さらに現時点から顧みて大変興味深いことは、<恣意性>という概念は<話す主体>を一旦排除しておきながら、後になってそれを再び違った形で取り込む根拠にもなされ得たということである。

これは<恣意性>の中でも、とりわけ言語の記号内容面における分節の<恣意性>ということを強調することによってなされる。



<恣意的>であるというのは、その面における人間の営みが完全に<主体的>なものであって、他の何かによって制約されているのではないということ、つまり、人間の究極的な<自由さ>の証しに他ならないというのである。

このような考え方が一見人間の尊厳を強調するという意味で十分訴えるところがあったということもよく了解できる。」(池上同上書、87頁)





<恣意性>という言語観は、サルトルの実存思想やポストモダンの思想に親近性がある。

そして池上氏は、こうした「完全に恣意的に振舞う自由を享受する主体」という想定は、最近の認知言語学の知見によって、「実は過度な思い入れであったことが教えられた」という。88頁









(つづく)









 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 07:14 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ソシュールの「恣意性」徹底批判 補遺  池上嘉彦氏の指摘から その2
池上氏はつづける。



「実際には、<恣意性>という概念はもともと言語記号の<記号表現(シニフィアン)>と<記号内容(シニフィエ)の関係について提唱されたものである。


しかし、<恣意的>(arbitrary)であることが<慣習的>(conventional)と読みかえられると、まるでそれが<言語の在り方>全体について考察する場合の大前提であるかのように、暗黙のうちに拡大されてしまったようにみえる。


その背後には、それによって、言語学は<言語そのもの>という<固有の>対象を得たことにもなるし、また<人間>という<不確定さ>を伴う要因の介入を許さずにすむという思惑があったことは疑いない。


比較的<若い>学問である言語学にとって、学問的な自立性と客観性の保証がこの上なく魅力的なことと思えたのは、十分に了解できることである。」(池上同上書、86-87頁)




恣意性という概念は、言語学に「自立性と客観性の保証」をもたらすように見えた。だから魅力的であった。

これは、ソシュールの恣意性が言語学の<大前提>とまでみなされた事情についての、正確な観察であろう。


注意すべきは、ここで池上氏は恣意性という概念が魅力的にみえた事情を説明しただけであって、恣意性という命題が<正しい>から学界に受容されたとは、必ずしも述べていないことである。








(つづく)









 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 22:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ソシュールの「恣意性」徹底批判 補遺  池上嘉彦氏の指摘から その1
池上嘉彦『日本語論への招待』(講談社、2000年)に、100年前のソシュールの「恣意性」という言語観が、今日までいかに深い影響をもたらしたかがわかる記述がある。

メモとして引用しておく(字句は原文のまま。ただし、適宜行替えを加える。ゴチックはすべて三浦)。




「<言語の恣意性> ー これは長い間言語研究の大前提として掲げられてきたものである。

時には、そこに何か誇らしげな調子を読みとることすら出来たように思える。それも十分に了解できる訳あってのことであった。


<恣意的>、つまり、そうなっているからそうなのだとしか言えない性格のもの、ということであるとすれば、それは対象として<記述>することしかできない(あるいは、<記述>さえすればよい)というものであり、望まれるのは<形式的>な<記述>の精度、一般性、整合性を高めるということになる。

とりわけ、そこでは、言語のあり方を何らかの因果関係に基づいて<説明>するというような操作は、全く場違いで不要ということになる。


従って、言語の研究者は<言語そのもの>だけを睨んでいればよいわけであり、現実には<言語の在り方>に関わっていることは否めなくとも、例えば場面とか、話す主体といった<非言語的>な要因は排除した形で考察がなされてもそれは正当であるという議論も許されることになる。」(池上同上書、86頁)




ここで池上氏は、言語研究が依拠してきた恣意性という「大前提」を、全面的に肯定しているのではない。

むしろこの引用文は、「伝統的な<言語の恣意性>という観念への過度な依存に対する反省」が、最近の言語学における「コンセンサス」として「形成されつつある」という主旨の部分である。(同上書86頁。ゴチックは三浦)










(つづく)










 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 05:53 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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