ごきげんようチャンネル


みにつもる ことばのつみも あらはれて こころすみぬる 三重(みかさね)のたき

   『山家集』1118

マックス・ヴェーバーと日本の経済成長 おわり

ところでこの本を読んだとき、妙に印象に残る部分があった。

それは、禁欲的勤勉は信仰のほかに「離脱」によっても生まれるというヴェーバーの指摘である。31頁。

「なぜなら、生地を離れるだけでも労働強化のこの上ない有力な手段になりうることは明らかだからだ。

ポーランドの少女は、生地ではどんなに怠惰でもザクセンの見知らぬ土地で働きはじめると別人のように過度の搾取に耐える。イタリアの出稼ぎ労働でも同じ現象が見られる。

まったく違った環境で労働するという事実だけでも伝統主義を破壊するに十分であり、教育的な効果を生むものだ。

アメリカの経済的発達がこうした作用に基づくことがいかに大きかったは、指摘するまでもなかろう。

古代のバビロン捕囚がユダヤ人にとってこれとまったく同じ意味をもったことは特筆大書されてしかるべきである。」(35頁より要約)

移住や出稼ぎは、人を孤立させ、禁欲的にし、勤勉にする。

「アメリカは移民の国」というが、移民という状況じたいが高い経済的効果をもつことはあまり認識されていないのではないか。

そういえば、日本の高度成長が出稼ぎ労働に支えられていたことはよく知られている。

考えてみれば、近年急増した不定期労働も、人を孤立させ、禁欲的にし、ある意味で勤勉にする。

生地を「離脱」することは一見自由を手に入れたようにみえるが、それは「過度な搾取に耐える」という新たな監獄に自分を追い込むことでもある。

移住、出稼ぎ、不定期労働がどこか物悲しいのは、いわば「自由な監獄」のような状況だからだろう。(ひょっとしたら結婚もそうかもしれない…)

ヴェーバーの名著は、経済成長には「離脱」という「自由な監獄」の要因があることも教えてくれる。





(おわり)




| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 社会科学コテン古典 | 23:40 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
マックス・ヴェーバーと日本の経済成長 その1

マックス・ヴェーバー(大塚久雄訳)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(1920年)』岩波文庫版。

あまりにも有名な本だが、大部なうえに読みにくいので、学生に薦めるのは気が引ける本の代表例。

大塚氏の巻末解説は、本書の意義は資本主義を「意図せざる結果」として説明したことにあると指摘している。

「意図せざる結果としての資本主義」という第一の意味は、金もうけが目的であるはずの資本主義は、たんなる金もうけを潔しとしない反営利的な倫理から生まれたということである。

たとえば中国のような「典型的な営利の国」から資本主義が生まれるとするなら、一見常識にかなっている。ところがじっさいは、所有や営利を「誘惑」とみなし、禁欲を良しとする修道士的な「プロテスタンティズムの倫理」をもつヨーロッパにおいて、資本主義は生まれた。379頁。

「こういう人々は、神の栄光と隣人のために、神から与えられた天職として自分の世俗的な職業活動に専心した。

しかも富の獲得が目的ではないから無駄な消費はしない。それでけっきょく金が残っていった。

これは彼らが隣人を愛したということの標識になり、したがってみずからの救いの確信ともなった。」404ー405頁より要約。

そして「意図せざる結果としての資本主義」という第二の意味は、そうした反営利的な倫理はやがて本質的でなくなって、抜け殻だけが残ったということである。

「彼らのそうした行動は結果として、合理的産業経営を土台とする資本主義の社会的機構を作り上げていくことなった。

そうなると、こんどは儲けなければ彼らは経営をつづけていけないようになってくる。

資本主義の社会機構が逆に彼らに世俗的禁欲を外側から強制するようになってしまったわけです。

こうなると信仰など内面的な力はもういらない。」405頁より要約。

つまり禁欲的倫理の裏づけのない資本主義が跳梁することになる。

大塚氏によると、本書は以上のような二重の「意図せざる結果」(意外性)を読者に用意している。そこが魅力だということになる。






(つづく)







| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 社会科学コテン古典 | 23:57 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
一神教が生まれるとき おわり

しかし、砂漠という独特の環境が人間の感覚にある種の特徴を与えなかったはずもない。

「灼熱の太陽に焼ける、はてのない砂漠に漂泊の旅をつづけるこの遊牧の民が、もし遥か遠方にしたたる水音を聞きつけ、遥か彼方に仄かにうごめく動物の姿を発見し、あるいはまた地平線に巻き起こる砂塵を見て直ちにその場で敵の陣形まで察知できないようでは、彼らはたちまちに飲食に窮し、異部族に不意を打たれて絶滅するほかないのだ。

アラビア砂漠の只中では『眼光射るごとき耳敏き』男が理想的人間であった」48頁。

しかし、人々の感覚が鋭いからただちに一神教になったわけではない。むしろ感覚に頼るがゆえに多くの神々をあがめ、思考はその時々の「印象の雑然たる集塊」48頁にすぎない時代があった。

しかし他方で砂漠という環境で磨かれた鋭い感性は、いちど唯一神の思想によって集約されはじめると強い求心力を発揮したことだろう。

ムハンマド自身、神の声を聴き、恐ろしい終末を語る鋭い聴覚・視覚の持ち主であった。68頁。

砂漠という環境じたいは多神教的でも一神教的でもある。

そしてムハンマドの登場を契機に、砂漠の人々は大挙して一神教を選びとったということだ。









(おわり)








| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 社会科学コテン古典 | 20:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
一神教が生まれるとき その5

最後に、砂漠という環境がもつ文化的な意味について。

「砂漠は環境が単純だから一神教が生まれる」という説があるが、「単純」なのはこうした説のほうであることが本書からわかる。

げんにイスラーム以前のアラブには何百という神がおり、おびただしい偶像が崇拝されていた。

メディナからメッカに凱旋したムハンマドは、「アッラーアクバル!」の唱和を背に、ラクダにまたがってカアバを一巡したあと聖殿の鍵を要求し、カアバの内外に祀られていた数百の偶像を叩き壊した。

偶像の破片が周囲に飛び散るなか、

「いっさいの特権は消滅した。地位も血筋も誇ることはもはや何人も許されない。もし諸君のあいだに優劣の差があるとすれば、それは敬神の深さによってのみ決まるのだ」

と会衆に告げたという。103‐104頁。

砂漠だから一神教が生まれるということはない。砂漠は多神教の世界だったのであり、それを否定するところからイスラームが生まれたのだ。







(つづく)







| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 社会科学コテン古典 | 20:25 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
一神教が生まれるとき その4

イスラームという一神教がもたらしたもうひとつの実存的結末。

それは封建的な血筋や地縁(血と土)を否定し、「信仰による共同体」という、ある意味で近代的・普遍的な価値を生んだことである。

もともとイスラームは「自分を相手に引き渡す」という意味である。123頁。

すなわち断固として自我を切り捨ててすべてを神の心にまかせ、その結果神のはからいがどうあろうと、その結果の好悪については問わないという「主体的態度」、「神への絶対無条件的な依存の態度」がイスラームの意味であった。124頁。

このように、自分をすっかり神に任せてしまった人の、一生の宗教的なあり方を「ムスリム」という。126頁。

神の奴隷であることを誇りとし、たとえ捨てられようとも神にすべてをゆだねると誓う。それは親鸞の歎異抄にもみえる徹底した他力の態度である。

人間との関係ではなく神との関係=内心だけを問題にすることによって、イスラームはこの世の社会関係(血と土)を超越できる論理を構築した。120頁。

こうして地縁でも血縁でもなく信仰の結びつきによる「ムスリム共同体」という発想がイスラームの世界宗教化を可能にした。

イスラームが世界に広がるということは、「純粋無垢な一神教が人間の歴史の流れの底に存在し続けてきた」ことを意味するという人類的規模の唯一神思想さえはぐくまれた。187頁。

こうして、「人間を裸のままで評価しようという新宗教のモラルは貧困階級の人々に喜び迎えられ」87頁、宗教の本質である日常的価値の逆転がイスラームによっても実行された。







(つづく)









| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 社会科学コテン古典 | 20:23 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
一神教が生まれるとき その3

一神教が確立したことによる、実存的な(かつ意外な)結末。

そのひとつは、イスラームが著しく現世建設的・現世肯定的な傾向を帯びたことであった。

イスラームでは神の下には「人間存在の根源そのものが恐怖」62頁であるとしながらも、他方では神の慈愛への信頼が強調される。157頁。

すなわちアッラーは愛と怒りの二面性をもつ。それに応じてイスラームでは

「愛の神にたいしては感謝、怒りの神にたいしては恐れ」160頁。

を説いた。

また、天国の安楽を説くと同時に終末の恐怖も強調した。

こうした一見矛盾した「セム的人格神観」199頁において、彼らはどう矛盾を説明したのか。

それは現世の重要性を説くことによってであった。

愛と怒り、天国と終末が統一されるのは、われわれがこの世を充実させる行為によってである。

「現世を神の世界経綸の唯一の場所と見て、そこに宗教的秩序を創り出していこう」178頁。

「来世は時間的には世界終末の時にはじめて顕現するものであるが、存在的にはすでに始めからそこにあって不断に働いていると考える」175頁

絶対の神を強調するがゆえに、かえって現世を大事にする思考が洗練されていった。








(つづく)








| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 社会科学コテン古典 | 18:48 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
一神教が生まれるとき その2
6縮深いのは、「アッラー」という言葉が一神教の成立を容易にしたという事実である。

当時のアラブ世界には多くの大部族があり、それがまた多くの部族に分岐して、それぞれの部族がそれぞれの神をまつっていた。

もちろん、それぞれの神は固有の名前をもっていた。じっさい、アッラーという神ももともとメッカの豪族クライシュ族の部族神の名にすぎなかった。213頁。

しかし「アッラー」という語が特殊だったのは、それが神の普通名としても使われたことである。英語風にいうとアッラーとは the god といった普通名詞でもあった、そのため、それぞれの部族の神はすべて「アッラー」と呼ぶことも可能であった。

すると、

「もしもそれらの部族のどれもが、自分の部族神を the god に当たるアッラーという名で呼びならわすならば、当然『アッラー』は一般的意味指示作用をもつことになる。つまり抽象的に『神』を意味する傾向に進んでいく。そこから『一神』への移行はただ一歩である。

こうして言語慣用そのものの中に、アッラーの一神化への傾向は知らずして進められていたのである。」213‐214頁。

同じことを読みかえれば、一神化するためには絶対神を表す単語が必要だったので、そのために最適の語として「アッラー」が選ばれたということであろう。

日本のキリスト教もそうだと思うが、同じ「神」の名でもイメージする内容は宗派や個人によって少しずつ違う。イスラム誕生のさいの唯一神たる「アッラー」も、呼び名は同じでもおそらく内容は当初多様だったのだろう。

いずれにしても一神教の成立にとって呼び名の存在は重要な条件であったようだ。



以上の~は、アラブ世界に一神教が生まれた条件の一部である。

本書はさらに、神がひとつしか認められないということが個々人にもらたらした結末、すなわち実存的な意味を掘り下げようとする。






(つづく)







| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 社会科学コテン古典 | 18:31 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
一神教が生まれるとき その1
一神教が生まれる。

それはどういう条件においてか。

いや、そもそも一神教とはどういうものなのか。

井筒俊彦『イスラーム生誕』(初出1979年、中公文庫)

は、情熱的な筆致と骨太な解釈が融合した名著だ。



イスラーム教の場合、預言者ムハンマドの下に人々がひとつの神へと収斂していったのだが、そうなるにはいくつか理由があったようだ。

‥時の砂漠の民は精神的に行き詰まっていたこと。

ムハンマド(570?~632)が40歳で神の啓示に打たれた当時、アラビア半島には「酒と女と戦闘」50頁に明け暮れながら人生のはかなさを嘆く、やり場のない心情が蔓延し、「砂漠の人々は完全に行きづまっていた」55頁。

こうした状況がイスラームという絶対的価値の登場を歓迎する条件となった。

▲爛魯鵐泪匹了代のアラビア半島には、キリスト教徒やユダヤ教徒が多数おり、一神教や世界の終末イメージという「黙示録的感覚」149頁になじみがあった。






(つづく)








| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 社会科学コテン古典 | 17:04 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
古典再読は原点回帰だが、新概念の源泉でもある

学者になるなら古典を読め。

私などそう言われたし、読んでよかったとも思う。

社会科学の古典は今日からみれば素朴な内容のものが多いが、素朴ということは、人間が社会について、神抜きの理詰めで考えたときの原初的な思考の跡が記されているということである。

古典を読み直すことは、社会観の原点にたちもどる効果がある。

それで、ときどき読み直す。

ちょっとおもしろいのは、はじめて読んだときに印象的だった部分は、いつまでたっても印象的であることだ。

 

そして、読み直すたびに、大小の新しいことが発見できる。そこに表現された概念に、見逃していた側面があることがわかる。

 

 









 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 社会科学コテン古典 | 18:21 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
デカルトの魚と樽 
デカルトの文章は明晰だという。

たしかにすらすら読めるけれど、正直、わかったようなわからないような…

だが、鮮やかな印象を残す部分もある。

「宇宙に起こる全運動は環状である。」

宇宙はいつも流動し、すべてがつながっているとデカルトは主張するのだが、その証明の仕方に味わいがあるのだ。

<証明>

ゝが水の中を深く泳ぐとき、高速で移動しても水面はまったく動揺しない。魚がおしやった水が魚が去った場所を満たすように水を「押す」からだ。すなわち水は循環している。

¬閉された樽に入ったブドウ酒は、栓を開けても流れ出ない。

「普通人は、これは空虚への恐怖によるのだというが、酒に精神がないのは誰でも知っている。もし酒が精神をもっていたとしても、どういう理由で酒が空虚を恐れるのか、私にはわからない。

むしろこういうべきである。

酒がこの樽から出られないのは、樽の外部が可能の限度まで一杯に詰まっているからである。もし酒が流れ出たとすれば、酒が占める部分の空気は、宇宙のどこにも身のおきどころがない。」

(デカルト『世界論』中央公論社世界の名著22巻、88ー89頁)

20年くらい前にこの文に出会ってから、私は

「宇宙は自己運動している。」

と信じるようになった。


| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 社会科学コテン古典 | 00:31 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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