ごきげんようチャンネル


あきらけき かがみにあへば すぎにしも いまゆくすゑの こともみえけり

         大鏡


化粧教育と英語教育 その3
■著者のいう「美人の三条件」は、言葉づかい、立ち居振る舞い、教養。ここで「美人」とは、性別も年齢も人柄も問わないという。187頁。

著者は女子大生の外見は格段に向上したのに「美しくない」と感じていた。やがてその原因は「見た目と言動の不一致」にあると気づいた。外見以外の部分が美しくないのだ。206頁。

言葉づかい、立ち居振る舞い、教養の三条件は外見上の美とは別次元であり、誰でも始めることができ、誰でも生涯にわたって獲得しつづけることができる。しかも「人それぞれ、年それぞれの美しさ」である。187頁。

三条件は、いいかえると「型」を意識するということであり、それを各自が工夫して独自に表現すること、すなわち「型の使いこなし」の問題である。190頁。

現状では若いこと健康であることばかりが美の基準になっているため、「大人になると責任が増えるだけで損だ」という意識が子どもや青少年に「蔓延している」という。188頁。

上の世代が「型」を使いこなして子どもに憧れられる存在になることが著者の考える「美」であり、それが大人の責任である。189頁。

ついでながら、言葉づかい、立ち居振る舞い、教養の三条件は、そっくり外国語にも言える。

外国語とは「型」を個性的に使いこなす、その美なのだ。





(つづく)





| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 教育をどうする? | 10:23 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
化粧教育と英語教育 その2
■身体論として興味深いのは、日本人の身体技法が近代以前の伝統的なものと近代以降に導入された西洋風の「二層構造」になっているという矢田部英正氏の観察である。180頁。

じっさい、日本人の身体技法が二層構造になっているとして、大事なことはそれをどうするかだ。

伝統的な身体技法を捨てればいいとか、逆に西洋風の身体技法を拒否すべしという発想もありうるが、どちらも実際的ではない。

われわれがやるべきことは、無意識になっている自分の身体技法を意識化し、意識的に洗練させることによって身体をより自由につかいこなす技術へと昇華することだろう。

だとすれば、英語の場合なら「ジャパニーズ・イングリッシュでいいじゃないか」といった開きなおりは最悪だろう。洗練させようもない無原則な身体技法?(ジャパニーズ・イングリッシュ)をだらだらと続けることになるからだ。





(つづく)







| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 教育をどうする? | 09:07 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
化粧教育と英語教育 その1
石田かおり『化粧と人間』(法政大学出版局、2009年)

日本の化粧の歴史と化粧教育の必要性を論じた本。

おもしろかったところをメモしておく。

■化粧は事実として「アイデンティティと人間形成に多大な力をもつ」。だから化粧の理想は「だれもが自分のままであることで窮屈な思いをしないで生きていくためのもの」になることである。154、156頁。

■統計調査から推測できる日本女性の化粧観。「自分の容貌に自信がもてず、年をとるとなおさら美しさから遠ざかる。生まれつきの容貌はどうにもならない。だからせめて化粧で人並みになる。その化粧は厚いものに見られてはいけない。ナチュラルな感じがよい」。だから美容整形をうける女性は人より美しくなりたいというより「人並みになりたい」という願望が強い。98頁。

■おもしろいのは、日舞の名取りである著者が和服の着付けを女子学生に教えているという部分である。

和服を着ると、足の位置、手の位置、姿勢、重心、つま先の方向、歩き方、座り方…すべてに困惑し、発見がある。着ている時間のすべてが何かを教えてくれる「スロー」な衣服である。だからこそ「身体技法や美しい姿勢を意識させるために、和服はじつに便利で効果的な道具」なのだ。178頁。

和服によって身のこなしや姿勢が変わる。つまり和服という全身を包む衣服を着ることで、おおげさにいうと”人が変わる”のだ。

これはサウンド・ステップスのような全身の身体技法も同じだ。サウンド・ステップスをおこなうとき、身体技法が英語のそれに変更され”人が変わる”。





(つづく)






| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 教育をどうする? | 00:12 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「第三の場所」へ 英語の恥ずかしさをどうするか おまけ
(この記事は発表後に読者から寄せられた下記のコメントを参考にして、2008年12月29日に書き直した部分があります。)

窪田氏は「英語のスタンダード」77頁「中立的な核」202頁が社会言語学の観点からも設定できるかもしれないと示唆している。

英語学習者のアイデンティティを傷つけない<中立的な英語>を作ることはできないかという議論である。

<中立的な英語>とは、英語としての基準となる語彙や表現を指定したり発音の許容範囲を広く設定することをイメージしているようで、以前からこういう議論はあり、いまもその可能性が模索されている。(最近の発音面の例として J. Jennkins, The Phonology of English as an Interenational Language, Oxford University Press, 2000)

しかし<中立的な英語>の普及は難しいかもしれない。

歴史的には、英語ネイティブどうしの誤解を減らし、かつ外国人にも習得しやすくするために、英語の語彙・表現を最小限にした例として、オグデンのBASIC ENGLISHがある。

これはわずか850語でいろいろな表現が可能になる画期的な工夫であったが、普及運動は1930年代がピークで、その後は衰退した。

その原因として、850語というBASIC ENGLISHの「小ささ」が、かえって学習者をしばる制約の「大きさ」になったことがある。

BASIC ENGLISHや<中立的な英語>論が力を得るとすれば、人を理屈抜きにひきつける美しさをそなえ、それをプロデュースするセンスと体制をもったときであろう。

ネイティブの言葉でもなく母語の世界でもない「第三の場所」とは、「ノンネイティブの美」の世界である。

話す人の美意識を満足させる「第三の場所」を作ることが必要であり、その美意識は母語や性別や年齢や目的や個人によって違う。

英語の語彙が多すぎるから英語ができないのではない。アメリカ人がおおげさだから英語になじめないのではない。

自分の英語に自分の美意識が満足しないから、英語を話す自分が恥ずかしく、自分のアイデンティティが英語を拒否しつづけるのだ。

一人ひとりが、自分の美意識を満たす「パフォーマンスのスタイル」33頁を構築すること。

それが外国語学習の本質だ。




| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 教育をどうする? | 20:28 | comments(4) | trackbacks(0) | - | - |
「第三の場所」へ 英語の恥ずかしさをどうするか おわり
どうすれば母語でも外国語でもない「第三の場所」が発見できるか。

ひとつのヒントは、アメリカの英語クラスで、アメリカ英語のおおげさな発話態度や合の手を「冗談のフレイムのなかで使用することは好意的に受け入れられた」という著者の観察である。203頁。

英語を冗談にしてしまうこと。英語を笑うこと。

それは英語よりも自分のほうが大きくなるひとつの方法である。

他には怒りや祈りを使うことも有効であろう。

また、常人にはなかなかできないが、「英語を越える」すぐれた道は、「英語かどうか」など完全に越える活動をおこなうことである。

英語を自分の歩みの道としたマザーテレサのような例にみられる。

外国語は「第三の場所」である。

「第三の場所」をわれわれは自分でつくり、そこで「演じられたアイデンティティ」33頁を演じるのだ。

外国語は母語の自分を越える演技である。

それを自覚することから本当の外国語がはじまる。



(おわり)





| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 教育をどうする? | 01:19 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「第三の場所」へ 英語の恥ずかしさをどうするか その5
私は「フレイム」という本書の提唱とは別の表現に注目した。

本書のなかに一か所だけ出てくる「第三の場所 Third Place」(Kramsch 1993)という言葉である。31頁。

外国語の学習者が探し求めているアイデンティティは、母語のそれでもなければ外国語のそれでもない。

母語にあくまでも固執するのであれば、外国語は原則的に要らない。外国語のアイデンティティに完全に同化するのは、既述のように不可能であり不適切である。

したがって、外国語の学習者が求め、選択し決断するアイデンティティとは、必然的に母語でも外国語でもない「第三の場所」となる。

「第三の場所」こそ、本書がいう学習者自身の「フレイム」が育つべき「場所」である。

しかし個々の学習者が自力でそれぞれの「フレイム」=「第三の場所」を見つけることは、いちじるしく難しい。





(つづく)






| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 教育をどうする? | 01:19 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「第三の場所」へ 英語の恥ずかしさをどうするか その4
■不可能であり不適切でもある「ネイティブの英語」にかわって、本書は「フレイムframe」というキーワードを提案する。

人はもっと適切なアイデンティティを常に構築しつづける。iii、46、100、204頁。人は常に「模索」し「選択」し「決断」しているのである。33、205、207頁。

いいかえると、外国語の「学習者は教師の目からみて良いと思われるものを単に無批判に受け入れ、再現できるものではない」ii頁。

そこで、

「学習者が言語を使用している状況を自分自身で定義し操作する能力」を開発する必要がある。209頁。

いいかえると、

「学習者自身に…自分のアイデンティティを定義させる教育へとパラダイムを移行」させることだという。211頁。

これは自分の発話をつつむ「フレイム」という意識をもちこれを操作することである。

「社会における適切な言語使用とはいったい何なのでしょうか。われわれはいったい何をよりどころにして、またどうやってそれを身につけていくのでしょうか」i頁。

これが本書の問題意識であるが、

その答えは

<外国語の場合、学習者は既存の社会規範を無批判に受け入れるのではなく自分のアイデンティティを入れるフレームを自分で作れるようになることが必要であり、教師はそれを手助けする視点と方法をもつ必要がある>

ということのようだ。




(つづく)





| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 教育をどうする? | 01:18 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「第三の場所」へ 英語の恥ずかしさをどうするか その3
■「ネイティブの英語」なるものをめざすのは、不可能であるばかりでなく不適切であることも本書は指摘している。

・外国語について社会的に適切な用法を「教える」ことは、「学習者に既存の[アメリカ的な]規範を押しつける」ことである。31、211頁。…これがいわゆる「英語帝国主義」論者の最大の攻撃点だ。

・ネイティブ的な話し方に「過度な同化」をする外国人はネイティブにとっても印象が良くない。210頁。…これは忘れがちなことだが、われわれ外国人がアメリカ人のように話そうとすることは、べつに歓迎されることではない。じっさい、外国人がなれなれしい日本語で話したら、われわれはどう思うだろう。





(つづく)







| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 教育をどうする? | 01:17 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「第三の場所」へ 英語の恥ずかしさをどうするか その2
■「ネイティブの英語」なるものが全盛だが、それが不可能であることを社会言語学的な観点から本書は指摘している。

・ある社会(たとえばアメリカ合衆国)で適切とされる言語規範のすべてを教授することは不可能だし、上級の学習者でも社会的に適切な話し方を身につけることは難しい。2頁。

・職場と家庭では違う言葉づかいが普通であるように、どの社会でも一人の人間がいろいろな「言語のレパートリー」をもっているし、人間の言語アイデンティティは状況に応じて「常に流動的」で変化する。41、116頁。

外国語について、これだけ多様で流動的な「適切な言語使用」を習得するのは不可能である。

したがって「ネイティブの英語」なるものを「めざす」ことは社会言語学的にみて非現実的である。






(つづく)






| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 教育をどうする? | 01:16 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「第三の場所」へ 英語の恥ずかしさをどうするか その1
窪田光男『第二言語習得とアイデンティティ』(ひつじ書房、2005年)

「私は英語で話すとき、なんとなくではありますが、まるで何か別の自分を演じているみたいだと感じてきました」i頁。

英語を話すことの気恥かしさ。

それは外国語が要求するアイデンティティと自分のアイデンティティの葛藤であり、しばしば「苦痛」「反発」まで引き起こす。36、204頁。

外国語と個人のアイデンティティの関係は、根深い問題をふくんでいる。

この問題を正面から論じた、希少価値のある一冊。




(つづく)





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