ごきげんようチャンネル

鳥倦飛而知還 鳥 飛ぶに倦みて 還るを知る


陶淵明・歸去來兮辭


教育はギフトである その1


記号と言葉の対応. 認識を操作する記号と言葉の力にあらためて気づく.


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小島寛之『数学でつまずくのはなぜか』(講談社現代新書、2008年)に、数学教育の存在理由について代表的な発想をいくつか紹介した部分があった。28-32頁。

読んですぐに思ったのは、「これはまるで英語と同じだな…」ということだった。

数学教育と英語教育。

まるで違う教科のようにみえるが、これが「必須科目」とされる理由をあげてみると、次のように見事に類似している。

①数学実用論(「数学はこういうところで実際に役立っているのだから学ぶ価値がある」と生徒に説明する)=英語実用論(「英語はこういう風に役立つから勉強しろ」と生徒に説明する)。

実用論は、ある意味「いやらしい」 と小島氏は述べている。これだと「役に立つものしか必要ない」という「浅ましい根性」につながりかねず、あまり感心しないと。31、32頁。







(つづく)









| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 教育をどうする? | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
辞書引き学習法に人類の希望をみた
さっきのNHKの朝のニュースがおもしろかった。

「辞書引き学習法」が注目されているという。

授業や自宅で小学生に国語辞典を引かせ、引いた言葉を大きな付箋に書いてその頁に貼り付けていく。

引けば引くほど付箋だらけになって辞書が分厚くなり、小学生にはそれがやりがいになるという。

たとえば「保健所」を引くと「役所」というわかりにくい言葉が出てくる。そこで「役所」を引くと今度は「官庁」という知らない言葉が出てくる… つぎつぎ引くうちに付箋が増える。

イモヅルとはこのことだ。いや、モグラたたきに近いか…

普通なら「これだから辞書なんて面倒くさい」となりそうだが、それが逆で「言葉の意味がわかるのはうれしい。つぎつぎ引くのがおもしろい」と子どもが言っている。

印象に残ったのは小学生が国語辞典の頁を手でめくっている様子。紙を一枚ずつめくって目的の語を探す動作には、ていねいな手仕事の良さがあるような気がした。

面倒そうに見える手作業には、じつは独特の魅力がある。手作業は脳の活性化にもいいから、「辞書引き」は小学生に限らず人類的に恩恵があるはずだ。

ちなみに私は毎日かならず辞書を引く。言葉の定義を確認することで自分の思考に確実感が得られるからだ。英語の場合、意味だけでなく発音が大切で、それには辞書の発音記号を活用しようとも言ってきた。

しかしいつも電子辞書だ。

子どもが辞書を引く様子をみて、私も久しぶりに紙の辞書を引いてみようと思った。

けれど、はたして紙の辞書、いったいどこに置いたか…




| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 教育をどうする? | 07:56 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
化粧教育と英語教育 おわり
化粧も英語も「型」の身体文化であり、美を通して人のアイデンティティを拡大し安定させ元気づける役割がある。

われわれ男性からみると、女性は化粧というものをよく知っているというイメージがある。

しかし本書を読んでみると、そうとも限らないらしい。

男も女も、ほんとうにきれいになるのはこれからだ。

最後に、本書のいちばんのメッセージを。


「美は一見するとやさしい、優美なものだ。にもかかわらず、実はその内部に多大な力を秘めている。美しいものは暴力や権力を想起させることなく人心を虜にし、当人が自覚しないうちに価値感を変えてしまい行動を変えてしまうほどの力がある。嬉々として人を従わせる力をもつもの。それが美だ。」209頁。





(おわり)






| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 教育をどうする? | 14:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
化粧教育と英語教育 その5
■化粧教育は三つの側面をもつ。

_奮愿基礎知識の教育…化粧成分の化学、紫外線、肌・髪の生理。

⇔鮖謀基礎知識の教育…成人の証、ハレの表現、清潔感覚の表現、身だしなみの多様性、身体加工の多様性。

N冤的基礎知識の教育…外見が差別につながりやすいこと、化粧はプラスとマイナスの両面をもつこと。

まとめとして、化粧は誰もが窮屈な思いをしないで自分のままで生きるためにあることを確認する。156頁。

女性は新しい流行については知っていても、化粧というものについての基礎知識は意外ともっていない。その「持っていない基礎知識」をもってもらうことこそ、上記の「化粧教育」である。

つまり化粧というものをもっと冷静に知ることによって「ファストビューティ」の限界を知り、より落ち着いた「スロービューティ」へと移行しようという提案である。

基本的に賛成できる。







(つづく)






| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 教育をどうする? | 14:26 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
化粧教育と英語教育 その4
■著者は「スロービューティ」を提唱する。

1920年から30年代を境に社会の「スピード時代」化が加速し、若さと健康と美(動きのにぶい肥満を否定する)は一体のものだという人間観が普及した。78頁。

ここ100年ほどのスピード時代の美を、著者は「ファストビューティ」と呼ぶ。それはファストフードのように画一的で結果偏重で、マニュアル化され他人まかせで、いつでも何度でも同じものが再現される。

ファストビューティは近代化の産物であり、なかでも大きかったのは大量生産と徴兵制(総力戦)の影響であろう。

それに対して「スロービューティ」は、多様で過程重視で、勘や熟練を重んじ、自力開発的で、一期一会を大切にする。115頁。

著者のいう化粧教育は、この「スロービューティ」の考え方を普及しようとするものだ。





(つづく)





| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 教育をどうする? | 13:58 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
化粧教育と英語教育 その3
■著者のいう「美人の三条件」は、言葉づかい、立ち居振る舞い、教養。ここで「美人」とは、性別も年齢も人柄も問わないという。187頁。

著者は女子大生の外見は格段に向上したのに「美しくない」と感じていた。やがてその原因は「見た目と言動の不一致」にあると気づいた。外見以外の部分が美しくないのだ。206頁。

言葉づかい、立ち居振る舞い、教養の三条件は外見上の美とは別次元であり、誰でも始めることができ、誰でも生涯にわたって獲得しつづけることができる。しかも「人それぞれ、年それぞれの美しさ」である。187頁。

三条件は、いいかえると「型」を意識するということであり、それを各自が工夫して独自に表現すること、すなわち「型の使いこなし」の問題である。190頁。

現状では若いこと健康であることばかりが美の基準になっているため、「大人になると責任が増えるだけで損だ」という意識が子どもや青少年に「蔓延している」という。188頁。

上の世代が「型」を使いこなして子どもに憧れられる存在になることが著者の考える「美」であり、それが大人の責任である。189頁。

ついでながら、言葉づかい、立ち居振る舞い、教養の三条件は、そっくり外国語にも言える。

外国語とは「型」を個性的に使いこなす、その美なのだ。





(つづく)





| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 教育をどうする? | 10:23 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
化粧教育と英語教育 その2
■身体論として興味深いのは、日本人の身体技法が近代以前の伝統的なものと近代以降に導入された西洋風の「二層構造」になっているという矢田部英正氏の観察である。180頁。

じっさい、日本人の身体技法が二層構造になっているとして、大事なことはそれをどうするかだ。

伝統的な身体技法を捨てればいいとか、逆に西洋風の身体技法を拒否すべしという発想もありうるが、どちらも実際的ではない。

われわれがやるべきことは、無意識になっている自分の身体技法を意識化し、意識的に洗練させることによって身体をより自由につかいこなす技術へと昇華することだろう。

だとすれば、英語の場合なら「ジャパニーズ・イングリッシュでいいじゃないか」といった開きなおりは最悪だろう。洗練させようもない無原則な身体技法?(ジャパニーズ・イングリッシュ)をだらだらと続けることになるからだ。





(つづく)







| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 教育をどうする? | 09:07 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
化粧教育と英語教育 その1
石田かおり『化粧と人間』(法政大学出版局、2009年)

日本の化粧の歴史と化粧教育の必要性を論じた本。

おもしろかったところをメモしておく。

■化粧は事実として「アイデンティティと人間形成に多大な力をもつ」。だから化粧の理想は「だれもが自分のままであることで窮屈な思いをしないで生きていくためのもの」になることである。154、156頁。

■統計調査から推測できる日本女性の化粧観。「自分の容貌に自信がもてず、年をとるとなおさら美しさから遠ざかる。生まれつきの容貌はどうにもならない。だからせめて化粧で人並みになる。その化粧は厚いものに見られてはいけない。ナチュラルな感じがよい」。だから美容整形をうける女性は人より美しくなりたいというより「人並みになりたい」という願望が強い。98頁。

■おもしろいのは、日舞の名取りである著者が和服の着付けを女子学生に教えているという部分である。

和服を着ると、足の位置、手の位置、姿勢、重心、つま先の方向、歩き方、座り方…すべてに困惑し、発見がある。着ている時間のすべてが何かを教えてくれる「スロー」な衣服である。だからこそ「身体技法や美しい姿勢を意識させるために、和服はじつに便利で効果的な道具」なのだ。178頁。

和服によって身のこなしや姿勢が変わる。つまり和服という全身を包む衣服を着ることで、おおげさにいうと”人が変わる”のだ。

これはサウンド・ステップスのような全身の身体技法も同じだ。サウンド・ステップスをおこなうとき、身体技法が英語のそれに変更され”人が変わる”。





(つづく)






| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 教育をどうする? | 00:12 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「第三の場所」へ 英語の恥ずかしさをどうするか おまけ
(この記事は発表後に読者から寄せられた下記のコメントを参考にして、2008年12月29日に書き直した部分があります。)

窪田氏は「英語のスタンダード」77頁「中立的な核」202頁が社会言語学の観点からも設定できるかもしれないと示唆している。

英語学習者のアイデンティティを傷つけない<中立的な英語>を作ることはできないかという議論である。

<中立的な英語>とは、英語としての基準となる語彙や表現を指定したり発音の許容範囲を広く設定することをイメージしているようで、以前からこういう議論はあり、いまもその可能性が模索されている。(最近の発音面の例として J. Jennkins, The Phonology of English as an Interenational Language, Oxford University Press, 2000)

しかし<中立的な英語>の普及は難しいかもしれない。

歴史的には、英語ネイティブどうしの誤解を減らし、かつ外国人にも習得しやすくするために、英語の語彙・表現を最小限にした例として、オグデンのBASIC ENGLISHがある。

これはわずか850語でいろいろな表現が可能になる画期的な工夫であったが、普及運動は1930年代がピークで、その後は衰退した。

その原因として、850語というBASIC ENGLISHの「小ささ」が、かえって学習者をしばる制約の「大きさ」になったことがある。

BASIC ENGLISHや<中立的な英語>論が力を得るとすれば、人を理屈抜きにひきつける美しさをそなえ、それをプロデュースするセンスと体制をもったときであろう。

ネイティブの言葉でもなく母語の世界でもない「第三の場所」とは、「ノンネイティブの美」の世界である。

話す人の美意識を満足させる「第三の場所」を作ることが必要であり、その美意識は母語や性別や年齢や目的や個人によって違う。

英語の語彙が多すぎるから英語ができないのではない。アメリカ人がおおげさだから英語になじめないのではない。

自分の英語に自分の美意識が満足しないから、英語を話す自分が恥ずかしく、自分のアイデンティティが英語を拒否しつづけるのだ。

一人ひとりが、自分の美意識を満たす「パフォーマンスのスタイル」33頁を構築すること。

それが外国語学習の本質だ。




| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 教育をどうする? | 20:28 | comments(4) | trackbacks(0) | - | - |
「第三の場所」へ 英語の恥ずかしさをどうするか おわり
どうすれば母語でも外国語でもない「第三の場所」が発見できるか。

ひとつのヒントは、アメリカの英語クラスで、アメリカ英語のおおげさな発話態度や合の手を「冗談のフレイムのなかで使用することは好意的に受け入れられた」という著者の観察である。203頁。

英語を冗談にしてしまうこと。英語を笑うこと。

それは英語よりも自分のほうが大きくなるひとつの方法である。

他には怒りや祈りを使うことも有効であろう。

また、常人にはなかなかできないが、「英語を越える」すぐれた道は、「英語かどうか」など完全に越える活動をおこなうことである。

英語を自分の歩みの道としたマザーテレサのような例にみられる。

外国語は「第三の場所」である。

「第三の場所」をわれわれは自分でつくり、そこで「演じられたアイデンティティ」33頁を演じるのだ。

外国語は母語の自分を越える演技である。

それを自覚することから本当の外国語がはじまる。



(おわり)





| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 教育をどうする? | 01:19 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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