ごきげんようチャンネル


あきらけき かがみにあへば すぎにしも いまゆくすゑの こともみえけり

         大鏡


他人としてしゃべれ その1

今井朋彦「身体言語論」(今井邦彦編『言語学の領域II』朝倉書店、2009年4月所収)

文学座の俳優による言語論。これがえらくおもしろいのでメモしてみる。

■意識は未来を先取りする。

「オートバイでコーナリングする時、コーナーを抜け終えた時の体感をコーナーに入るまえにはっきりと持っていないといけないんです。いつでもわずかに『フライイング』して未来の体感を先取りして、それをいわば設計図にして現在の身体操作をコントロールしている。ある種の志向性に導かれていないと身体は動かない。」(内田樹)184‐185頁。

先を予測してはじめて動く人間の身体。しかし予測が浮かぶ場が問題。

「ダンスで振りを間違えるときは、たいていその振りが自分の『前』にある」(ダンサー木佐貫邦子)186頁。

身体のすぐ前(私のいうdream field。両手の届く範囲)に予測が浮かぶと、人間は思わずそれをなぞろうとするので身体全体の勢いを失う。勢いを失ったという意識がミスをさそう。

人間は予測しないと動けないが、予測が浮かぶ場はdream fieldではなく身体の内部でなければならない。

dream filed を利用して覚えた発音体感(サウンド・ステップス)は、身体の内部に収納されてはじめてスムーズな英語体験となる。







(つづく)









| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 英会話 | 10:40 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
留学前の定番問答 この道の遠さ、若者に語るべしや…
「ええ、大学院に留学したいんです。」

「どこに?」

「アメリカです。東海岸…」

だいたい毎年、私は院生とこういう問答をする。

若者の高い志(こころざし)は、もちろん諒とする。けれど問題は、それにみあう英語力がない場合が多いこと。

とくに私が心配するのは、

「ふむふむ、これならアメリカに滞在するうちに、立派な英語力を養えるわい。」

という感じがしないときだ。そう、基礎がないのだ。

「は? キソって、なんです?」

彼らはそう聞く。

「基礎ってのはね、じつは英語の声が出せる身体と、正確に発音できる調音力だよ」

私がそう答えると、彼らはポカンとする。

そのたびに、あぁ、道は遠いな… と思う。


| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 英会話 | 22:56 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
島崎藤村と吉田拓郎  新しい声を求めた身体   
子供 ずいぶん古いものなのに、清新さを失わない詩がある。

「まだあげ初()めし前髪(まえがみ)の
林檎(りんご)のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛(はなぐし)の
花ある君と思ひけり」(初恋

島崎藤村の『若菜集』(1897年)のなかにある一例だが、当時、こういうスタイルがいかに革新的だったか。それは江戸時代までの漢詩、和歌、俳句、川柳などをちょっと思い出すだけで一目瞭然だ。

それにしても、このリズム、この言葉使いを、藤村はどうやって生み出したのか。『若菜集』の序に、次のようにある。これまさにSound Stepsのことのようで、私は気に入っている。

生命は力なり。力は声なり。声は言葉なり。新しき言葉はすなはち新しき生涯なり。われもこの新しきに入らんことを願ひて、多くの寂しく暗き月日を過ごしぬ。」

藤村の時代、江戸から明治になり、社会が変わり、未来への希望も変わった。だからそれまでと違う表現が、どうしてもほしくなった。新しい言葉を作り出すのは若者、とくに若い作家の仕事だ。

藤村の筆跡を見ると、しなやかな女性的な指を連想させる。藤村の繊細な身体は、新しい時代にふさわしい、新しい「声」を求めてやまなかった。その煩悶の成果が彼の詩だった。

藤村は英文科出身で、新しい詩体を模索するために、英詩をずいぶん参考にしたらしい。新しい言葉のバイブレーションを、日本語とは異質な外国語から得たのだろう。このとき藤村25歳。そしてやがて彼の身体は煩悶をやめ、安定をえて、長大な散文の世界へと移っていった。

さて、私が同時代的に体験した「新しい声を求める身体」は、たとえばフォークソングとなって声をあげた。吉田拓郎なんかの本質は、紋切り型の「歌謡曲」の拘束を打破しようとする、「新しい身体」の有りようにあった。

最近の日本の若者がつくる歌詞には、よく英文が出てくる、これも日本語にはない身体の振動、「新しい声」を求める衝動の表現だ。

いつでもどこでも、新しい表現は新しい身体から出てくる。 スキー

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 英会話 | 00:00 | comments(3) | trackbacks(0) | - | - |
英語の発音? まずはこれを見てみよう
英語の発音に興味のある人に、ビデオ公開中。

驚きの画像です。

http://soundsteps.xux.jp/soundsteps/step1/step1_video.html

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 英会話 | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
英語を自由・平和・平等・個性の道具に      「ニッポンの英語」再考(その6・おわり )
英語教育の目的をどう考えれば、三すくみの混迷から脱出できるのか?

答えは、意外に簡単である。英語が容易に習得できるようになればよい。そうすれば、これら三つの目的(実用・教養・アイデンティティ)は、すべて達成できる。

「実用的な英語というが、それさえも、なかなか身につかないじゃないか」ー 英語国際語論があびやすいこの批判は、誰もができるようになる科学的な方法がいまだに存在しないことからきている。ここでいう科学とは、現実(この場合は英語という言語)の正確なミニチュアを作ることである。そうした科学に基づく技術は、合理的かつ容易に現実(この場合は母語をもつ人間自身)を操作できる。つまり科学は人間を自由にする。誰もが英語を実用できるためには、なにより英語の科学が必要である。英語の科学がないから、英語を国際語として駆使できないのである。

「そんな高級なことやっても、実際には役に立たないよ」「英語文化にばかり憧れるような人間をつくっていいのか」ー英語教養論が陥りやすいこうした欠点は、英語を広い意味での平和の道具としてとらえなおすことで回避できる。英語文化圏だけを理解するためというよりも、広く世界との相互理解の通路のひとつとして、英語を位置づければよい。

英語帝国主義論の「あせり」は、英語をスポーツのような身体技術にすることで基本的に消失する。他言語の身体技術化は、文化の優劣を超越した、人間平等の実感をはぐくむ。また、他言語ができない英語ネイティブよりも、英語ができる非英語ネイティブのほうが、人間としての可能性が豊かになるのだから、英語が容易にできるようになれば、「日本語人」としての誇り(アイデンティティ)を高めることになる。

このように、身体の平等性に基礎をおいた、真に科学的な方法によって、視野の拡大に役立つ内容が学習できれば、三すくみの矛盾はすっきりと解決するのである。

つまり、英語をめぐる問題は「やってもできない」ことにすべての根因があるといっても過言ではない。「やれば誰でもできる」仕組みが保障できれば、他言語を学ぶことは、なんの矛盾も弊害も生まない。

英語学習を、人間の身体性にもとづいた科学的な方法に変え、相互理解による平和に貢献する内容にすること。そのとき「英語」は、生徒の豊かな身体と個性をつくる絶好の方法へと飛躍できる。

Sound Stepsは、そのような方法である。だから私は普及を決意したのだ。
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 英会話 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
三すくみの対立    「ニッポンの英語」再考(その5)
日本の英語論を代表する、英語国際語論、英語教養論、英語帝国主義論をみてきた。

じつはこの三つの発想は、植民地だった朝鮮・台湾の日本語教育にそっくりである。(以下、多仁安代『日本語教育と近代日本』岩田書院、2006年、98,106,115−116頁から要約

日本が台湾で行った初等教育の中心は、「国語教育」とよばれた日本語教育であった。朝鮮でも、8歳から4年間の普通教育があったが、そこでも、もっとも時間を割いたのは日本語教育であった。日本語を重視した理由は、「国語」を学ばせることで、次のような包括的な目的が達成できると考えられたからである。

‘本語が「交通」語となる。植民地支配のためには、日本語が直接通じる部下や民衆が必要であった。…日本語教育のこの側面は、英語教育において実用性を重視する英語国際語(コミュニケーション)論に対応する。

日本語によって、植民地の「文化」をうながす。…日本語・日本文化をもちこむことで、現地人の教養が高まるという発想で、これは英語教養論に対応する。

F本語が現地人のアイデンティティを奪い、日本に「同化」させる手段となる。日本語教育の最大の目的はこれであった。…英語文化への「同化」を拒否する英語帝国主義論は、この裏返し、すなわち「同化」させられる側からの反発にあたる。

こうしてみると、近代日本における三つの英語論は、言語教育一般がもつ三つの側面に対応しているのである。(この三つは、体育、知育、徳育という近代教育の三つの側面にほぼ対応していることに注目されたい

そして日本の特徴は、三つが統合することなく、*三すくみで対立したまま推移していることである。対立がつづく背景には、日本がアジアでほとんど唯一、欧米の植民地になったことがなく、多くの人にとって外国語が話せる必要がなかったという歴史的事情がある。

*三すくみ trilemma …ヘビがナメクジを怖がり、ナメグジがカエルを怖がり、カエルがヘビを怖がるように、三者が互いに牽制しあって身動きできないこと。大辞泉より

英語国際語論は非文化性、英語教養論は非実用性、英語帝国主義論は非建設性と、それぞれに弱点をかかえていて、統合がむずかしい。国際語論と教養論は、実用性と教養に配慮した教育内容が工夫できれば両立可能かもしれないが、その場合も、英語への根本的警戒を主張する「帝国主義論」が、つねに統合をおびやかしている。

では、いったい、どう考えたらいいのか?


| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 英会話 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
英語帝国主義論の根深さ  「ニッポンの英語」再考(その4)
英語教育の目的についての三番目の見方は、英語帝国主義論である。

英語は日本文化(日本人としてのアイデンティティ)を破壊する帝国主義の一部だとして、英語教育そのものに警戒的ないしは否定的な議論である。望田幸男氏や大石俊一氏が代表的な論者であろうが、一見極端にみえるこの主張には、潜在的に多数の支持者がいる。

長年、明治大学で英語を教えてきたピーターセン氏は、次のように観察している。

「日本人には、英語に対して感情的になる人は少なくないようだ。中学の時から強制的に国民全員に英語を覚えさせようとするやり方を改めない限り、感情的な反応はなくならないだろう。」(マーク・ピーターセン『英語の壁』文春新書、2003年、69頁

日本における英語への反感は、今にはじまったことではない。

「英語という言語じたいが、帝国主義的な権力を常に発動する本質を持っているとは考えられない。にもかかわらず、英語が広く流通しているという現実と、英語が日本語および日本人を窮地に陥れているという言説を結びつけて危機感を煽る思考は、近代日本社会において一定の説得力を発揮してきた。ある時は「英語」の廃止を論じ、ある時は権力の源としての「英語」を我がものとしながら、「日本人らしい英語」を作ることを推奨し、さらには「英語」を逆手にとって「日本」を発信しようと唱える者を産み出してきた。「戦前」に限った過去の話ではない。」(山口誠『英語講座の誕生−メディアと教養が出会う近代日本』講談社選書メチエ、2001年、233頁より要約

皮肉なことに、英語帝国主義論者には、英語教師が多いようだ。ならば、「この人、英語のおかげで食べてきたんじゃないの?」という素朴な疑問は避けられない。餅屋が、「自分が売っている餅は毒入りだ!」と大声で非難しているような奇妙さがある。

誰にとっても「美しい日本語」とか、「死守すべき日本文化」なるものが、どこかに一律不変に存在するかのようにいい、そのうえで英語という言語を「敵」に仕立てる単純な対立的思考も、少々気になる。

英語帝国主義論の気持ちは、わからないでもない。しかし、英語への反発や警戒を根拠に、英語がもつ実用性や、生徒の視野を広げる可能性まで否定できるだろうか。これは、英語国際語論や英語教養論からの疑問である。

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 英会話 | 00:00 | comments(4) | trackbacks(0) | - | - |
英語教養論の底力  「ニッポンの英語」再考(その3)
英語教育の目的の二番目は、英語教養論である。

これは古くからある発想で、英語教育は生徒・学生の視野を広げ、世界についてより深い理解をうながすためにある、という考え方である。

英語そのものもさることながら、内容の教養性に重点をおく発想であるが、英語を実用的な技術(スキル)と考えがちな英語国際語論が盛んになるにつれて、英語教養論は後景に退いた。

たとえばNHKの英語教育番組は、ラジオの放送開始とほとんど同時に生まれ、今日までつづいているが、昭和初期の放送開始のころには、英文学者が講師になり、教養的な内容のもので、「英語講座」と呼ばれた。それが批判されて、実用性を念頭においた「英会話講座」へと変貌して今日に至っている。

今日では、英文学の鑑賞を最高の目的とするような教養至上主義は、さすがに無力になっている。しかし、英語を使って、生徒の視野を広げる教材・授業をつくるという方向は、これからも豊かな可能性をもっていると思われる。

たとえば、英語の特徴を生かした韻文を暗唱する、英語で俳句を作る、他国の英語教科書を読む、海外の学校とインターネットで交信する、日本のことを語ってみるといった活動である。

そういう意味で、英語教養論は、いぜんとして底力をもっている。というより、生徒の視野を広げるための教材・授業づくりは、今後も英語科目の基本線となるべきであろう。

英語教養論に対する批判としては、教養もけっこうだが、それだけでは実用性のあるコミュニケーションができるようにならないこと、やり方によっては、英語圏の文化(だけ)に憧れる感性をつくりやすいこと、であろう。

これらは英語国際語論、英語帝国主義論からの批判であるが、いずれも無視しがたい批判である。

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 英会話 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
英語国際語論の隆盛  「ニッポンの英語」再考(その2)
英語教育の目的について、現在もっとも代表的なのは、「英語国際語論」である。

英語はいまや国際語であり、外国語のなかでも一番実際的で、仕事などで必要も高まっている。ゆえに学校では実用的な英語を教えるのが正しい、という考え方である。

この考え方は、支持者も最多であろう。大学教師の構成をみても、かつて多かった英文学の専門家は減り、英語コミュニケーションなど、より実用的な分野を専門とする教師が増えている。

この考え方はもはや常識に近く、疑問の余地さえないように見えるが、問題もある。

ひとつは、国際語としての英語というが、学校の英語教育では、それが実際には身につかないこと。それが巷の「英会話学校」を繁栄させていることは、周知の通りである。(英会話学校が悪いというのではなく、学校ではできないから英会話学校へ、というのでは、時間と経済力のある人しか「国際語」を習得できないことになりかねない

もうひとつは、国際語であることを強調すると、英語なんて、用が足りればいいのだという「言語道具論」の発想を招きやすく、次のような疑問・反発が出てくる。

「果たして、言葉というのは用が足りればいいのか? ビジネスのことしか話せないとか、文化的な知識教養のないような人間が、「わかればいいんだ」とばかりに、しばしば奇妙な(勇気ある?)英語をしゃべるとすれば、そこに問題はないのか…」

これは英語教養論、英語帝国主義論からの疑問・反発である。

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 英会話 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
筑紫哲也氏の英語論   「ニッポンの英語」再考(その1)
8月11日、富山市でSound Stepsのセミナーをやってきた。参加した小学校教師のみなさんに話したことを中心に、記しておきたい。

「ニッポンの英語」は、混迷をつづけている。小学から大学まで、幼児から大人まで、「英語の教室」は、期待と失望がせめぎあっている。そしてけっきょく、何をどうしたらいいのか、暗中模索の状態だ。

とくに学校の英語教育の実力のなさは、民間の「英会話学校」のあだ花を咲かせる原因にもなっており、罪が深い。

ニュース23のキャスターで、「英語使い」でもある筑紫哲也氏は、この状況を次のように巧みに指摘している。

「ひとりの“英語使い”を生むために9人の“英語嫌い”を作ることが繰り返されてきた。英会話ブームは、この公教育の歪み、反動として生まれた。元の歪みが大きいほど、その反動も振り子が対極に大きく振れるものだ。何の苦労も努力も要らずに、あなたはすぐ英語がペラペラになる―といった、巷の会話術の宣伝文句は、それを端的に表している。」(國弘正雄『國弘流 英語の話しかた』たちばな出版、1999年、筑紫哲也「推薦のことば」1-2頁

では、そもそもニッポンの英語教育は、なにを目的にすべきなのだろうか。

とくに公教育は、入学したすべての生徒や学生に合理的で習得可能な学習内容を提供する義務がある。学習内容は目的によって変わるから、なにを目的に英語を教えるかは、重要な問題である。

現在、英語教育の目的については、大別して三つの考え方がある。英語国際語論、英語教養論、英語帝国主義論である。

つづく




| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 英会話 | 00:53 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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