ごきげんようチャンネル



春ごとの花に心をなぐさめて 六十(むそぢ)あまりの年を経にける


西行

宇宙は死の世界

水があり、生物がいる天体が近いうちに見つかりそうだという。

 

そういう天体があったとしても、それは宇宙のごく一部である。

 

宇宙の大部分は、生命のない死の世界だ。

 

死の世界では、物質どうしが関係しあって運動している。

 

 

神仏は、宇宙の擬人化である。神仏は宇宙つまり死の世界の住民である。

 

宇宙服がないと宇宙空間に出られないように、人は死の世界には堪えられない。だから神仏を人のかたちに描いた。

 

神仏は、宇宙すなわち死への帰還という現実への媒介として、人間が生んだ半人半神である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
宇宙=神仏は人間から隔絶している だから人間に歴史が生まれた

仏像のすごさ。

 

それは、人間の形をしていながら、明らかに人間ではないことにある。

 

人間の世界と仏の世界は、はっきりと分かれている。神道の神も人間とは区別される。

 

ほんらい、神仏ひいては宇宙は、人間を救おうとして存在するわけではない。

 

だからこそ、人間は懸命に祈るのだ。だからこそ人間は、神仏が振り向いてくれたとき、天を仰ぎ、地を踏んで感謝するのだ。

 

人間を救うと誓った阿弥陀如来や観音菩薩は、宇宙の異端者である。異端者であるからこそ、阿弥陀や観音への感謝は増すというものだ。

 

 

人間の力から完全に外れた存在。それが神仏であり、宇宙である。

 

人間と神仏の関係をそうとらえるとき、人間の歴史が姿を現してくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
多重自己の世界をつくる

人間が生きているということ。それは「自己分裂」(三浦つとむ)つまり自分から自己が分離するということである。

 

いったん自分から自己が分離すると、自己から自己’ が分離するし、自己’ から自己’’ が分離することもできる。

 

たとえば、小説家の自己は、自分の意識のなかに主人公自己’ を見出す。この主人公 が " I'II kill him." とつぶやいたとき、この”I”は、主人公自己’から分離した自己’’ である。

 

自己は、自分ではないものを自己’ にすることもできる。絵画のなかのリンゴを自己’ とし、周囲のテーブルや皿を自己’’ として、画面を構成できる。

 

絵画が華やかな世界をつくれるのは、画家の自己が画面のなかにいくつもの自己’を配置し、他のものを自己’’ とする多重構成をとれるからである。すぐれた小説家の自己も、何人もの登場人物を自己’ として作品に配置し、他の登場人物を自己'' として、複雑に関係させる。

 

何重もの自己分裂。これが人間を人間たらしめているものであり、これを活用する力が、その人の力量である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:00 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
意志はしぼるほどよい 意味は拡散するからおもしろい

「城郭の本質は、軍事的な防御施設である」(中川均『城館調査の手引き』山川出版、2016年、8頁)

 

この場合、「本質」を「意志」といいかえることができる。

 

「城郭は、軍事的防御という意志を表す生産物である」

 

生産物や組織が表す社会的な意志は、明快なほうがアピール力も鋭くなる。

 

 

他方で、城郭は、人にさまざまな意味も伝える。

 

切岸、竪堀、曲輪のような、山城をめぐる概念を多く知るほど、多様な意味が引き出せる。外国の例と比較することも、山城の概念を豊かにし、意味を多様にする契機になる。

 

山城に、土木技術の観点から現代的意味を汲み取ったり、「荒城の月」ならぬ詩的な感慨を読み取ることもできる。観光地にしたらいくらの収入になるかという価値の観点から、地元にとっての意味を引き出すことも可能である。

 

 

これらの意味は、軍事的防御という意志の下に統合されて、ひとつの山城を構成している。

 

意味は拡散するほど豊かになり、意志はしぼられるほど明確になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
価値形態論の理解には二つのトランスが必要になる

下図のように、労働主体(労働力)は労働対象を商品すなわち相対的価値形態へと転態させる。

 

 

 

 

   商品(相対的価値形態)                 労働対象

   ▽

              

                労働力

 

 

 

上記の右辺は労働力の生産的消費(労働)。上辺は商品の消費的生産(生産)である。

 

 

左辺の交換のプロセスで価値が発現し、ここがマルクスのいう価値形態論になる。そのトランスは、上のトランスとは別の主体たる買い手の価値概念が出発点になり、次のようになる。

 

 

               

 

              

               価値

 

 

   ▷  相対的価値形態

              

 

               買い手の価値概念

 

 

 

等価形態は、このトランスの中心、規範の位置にある。

 

マルクス『資本論』の価値形態論の I ~ IV の諸段階は、特定の商品が一般的等価形態すなわち全社会一律の価値基準となり、買い手が価値という概念を身につけるプロセスの叙述である(これは特定の表象をもつ概念が、社会的規範として成熟するプロセスとパラレルである)。

 

資本主義以前の時代では、地方によっていろいろな物品が貨幣の役割を果たした。また、権力からみた貨幣的物品と、生活者からみた貨幣的物品が異なることもあった。

 

江戸時代には、権力からみれば、貨幣とならんで米が物品の等価形態であり、他方で武士や庶民の生活面では、貨幣や米以外の物品もしばしば等価形態として用いたようだ。日本では価値形態 II あるいは III の時代が長くつづいたのだ。

 

商品の価値が一元的に一般的等価形態すなわち貨幣によって表示される価値形態 IV の段階。あらゆる人間が労働対象になるだけでなく労働力商品になり、「価値」を測られる段階。それは、一般的等価形態すなわちあらゆるものの価値を測る規範たる統一貨幣が確立する明治以降である。

 

その意味で、価値形態論の行論は、歴史の象徴的叙述でもある。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
価値・意志・意味は、受け手の能力による転体

聞き手が表現の意味を受け取るプロセスを、次のようなトランスとして図示してみる。

 

 

 

                                          表現体

 

 意味(一般的・特殊的)

            

             聞き手の認識力

 

 

 

この図を下から反時計回りに追うと、聞き手が認識力をもって表現体に投射し、そこから意味という転体をつくり、その意味からの反射を受ける(表現体の意味を了解する)。

 

この図には描いていないが、この◁の真ん中では、認識主体が抱いている観念(感覚・感情・概念)がこのトランスの規範として作動している。

 

意味には、社会一般に共有された概念を規範とする一般的な意味と、その認識主体に特有の観念(「あの人はこういう人だから」「これはこういう場面での表現だ」といった特殊的認識)を規範とする特殊的な意味がある。

 

こうして、聞き手の認識力(自己)は、観念に依拠しつつ表現体を意味へと転態させる。

 

このロジックは、買い手の価値認識能力が、労働対象の生産に費やされた労働力の量に依拠しつつ、労働対象を他の商品や貨幣と交換して価値を実現させるという、マルクス『資本論』の価値形態論とパラレルである。

 

 

人間社会ではもうひとつ、組織に接する人の行動力が、観念的に理解された組織の内容である組織態に投射し、この組織態が規範に依拠して転態して、社会的意志(支配されたいという意志を含む)という転体が生まれるトランスがある。これは別項とする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
三浦つとむに欠けていたもの 道半ばだった『資本論』の言語への適用

言語学の三浦つとむ(1911-1989)の功績のひとつは、「自己分裂」という人の心の根本機構を、ずばり指摘したことにあった(三浦つとむ『日本語とはどういう言語か』講談社学術文庫)。

 

三浦つとむの影響を受けて「言語過程説」を名乗った人たちもいた。しかし「自己分裂」の論理を受け継いだ人は、ほとんどいないようである。言語過程説の鋭い論客であった英語学の宮下慎二(1947-1982)でさえ、自己分裂の論理を活用しなかった。

 

その原因はなにか。

 

「自己分裂」は、日常的な心的事実として誰もが思い当たるものの、この一見奇矯なロジックを、三浦つとむが言語学の基礎として、きちんと根拠づけなかったからであろう。

 

三浦つとむが気づいていたかどうかはわからないが、じつは自己分裂の論理は、「社会的平均的労働力」の発揮が抽象的人間労働であるというマルクスの論理を、言語に応用したものである。

 

労働力の発揮たる労働が人間社会の基礎であるのと同様に、観念的労働力の発揮たる自己分裂は、人間の思考の基礎である。労働と自己分裂=認識が同じロジックを共有していることを指摘すれば、自己分裂はきちんと根拠づけることができたのである。

 

自己分裂とは、

 

<自己(観念的労働力)が、物理的現実を超えて自由に作動(労働)して心内の対象を認識し、その認識を物質的に表現する(生産物を作る)から、人間は社会をつくれる>

 

ということである。

 

 

もうひとつ、三浦つとむの言語学に欠けていたことがある。

 

それは、なぜ認識から言語という表現体が生まれるか、表現体がなぜ意味となるかについて、まとまった説明をしなかったことである。<認識→表現→意味>についての三浦つとむの説明は、当時の論壇への対応に忙しかったせいか、舌足らずで終わったように思われる。

 

これも、労働の生産物が他の商品や貨幣と交換されるプロセスによって価値に変換されるというマルクス『資本論』の価値形態論を応用すれば、表現体が聞き手の労働力と交換されるプロセスによって意味に変換されるというロジックが見えてくる。

 

 

 

三浦つとむは、『資本論』をはじめとするマルクスの論理を言語学に応用できた、唯一の言語学者であったと思われる。

 

言語過程説は衰退したが、それは三浦つとむがマルクスの論理をとりいれようとしたからではない。逆に、マルクスの論理を正面から活用せず、言語のロジックをきちんと根拠づけなかったことが、言語過程説の衰退を招いたのである。

 

言語のような心的現象をあつかうには、堅固な論理を基礎にしなければならない。三浦つとむが始めた試みは、終わったのではなく、これから本格化すべきものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
概念は感覚ではない 人間は芯のところでは概念を生きている

意味論の専門家の話を聞いたら、人間の日常的な身体経験が英語の前置詞の元にあるということを力説していた。

 

これは近年流行の見方で、そういうことを図解した本もある。

 

この見方は言語の大事な面を言っていると思うが、言語観が浅いような気がする。

 

身体経験という感性的なものに関心がとどまりがちで、感性を超えて成立する概念に十分気づいていない。

 

 

...

 

 

マルクス『資本論』第一巻の価値論を読むと、似た展開になっている記述が何箇所かある。どれも、マルクスがあることをなんとかして説明しようとした部分である。

 

「あること」とは、人間が現実の対象を観察するときの感性と、人間にとっての商品の価値という、感性を超えて成立する概念の区別である。人はこの区別がなかなかできない。このことをマルクスは知っていたから、彼は『資本論』のなかで、くりかえし同じことを指摘したのである。

 

そうした記述の例をあげよう。

 

 

「たとえば、物が視神経に与える光の印象は、視神経それじたいの主観的刺激としてでなく、[人間にとっては] 目の外部にある物の対象的な形をとってたちあらわれる。」(マルクス『資本論』第一巻、ちくまコレクション版、111頁)

 

 

つまり、人間が受けとる光の印象は、身体の内部にあるというより、身体の外部にある「物と物との関係」として映る。これに似て、価値は人間の頭脳の産物、つまり概念であるのに、あたかも商品と商品のあいだに存在するかのように映る。人間の内で生じたものが、身体の外にあるように見えるということである。これをマルクスは「位置の取り替え quid pro quo 」と呼んだ(同上書、111頁)。

 

そして、ここからが肝心。

 

視覚の場合は、「光線が現実に [人間に] 投げかけられる物理的な関係」つまり感覚である。ところが価値という概念は、「生産物の物理的性質とも、物理的性質から生まれる物的関連とも、まったく関係がない」(同上書、111頁。太字は引用者)。

 

視覚は人間と、人間の外部との物理的・感性的な関係だが、価値は人間が内にもっている、感性から自立した規範、すなわち概念である。

 

同じく超感性的な「人間の頭脳の産物」の例として、「神」のような宗教的概念がある(同上書、111-112頁)。いったん「神」という概念を内にもった人間は、日々の感性的な出来事から自立した規範として、「神」を生きていく。

 

 

...

 

 

心理学の認知研究の影響をうけた現代の意味論は、人間の感性的な体験にうったえて言語を説明しようとする。これは魅力的な近道のようにみえるし、じっさい、たとえば英語の前置詞を直感的に習得するには、ある程度有用であろう。

 

ただ、言語の直接の規範は、感性ではなく概念である。「上」とか「空っぽ」とか「熱さ」のように、感性的な体験がベースになっている概念もある。「火曜日」とか「進化」とか「ビット」のように、感性的体験から離れた概念もある。

 

いずれにせよ、概念となれば、それはもはや感覚ではない。概念は五感とつながってはいるが、「人間の頭脳の産物」(マルクス)であり、超感性的な規範である。感覚ではないからこそ、概念なのである。言語は、感性を超越した概念によって成立する。

 

言語表現がもつさまざまな意味の背後には、概念がある。概念は、そのときどきの感性的現実から自立している。だからこそ、小さな部屋にこもって、壮大な小説が書ける。

 

現在流行の認知論的意味論については、このあたりを留保しておくといいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
マルクス生誕200年 風貌と学説の説得力について 

今年はマルクス(1818ー1883)生誕200年ということで、生地のトリーアでは展覧会が開かれたり、中国寄贈の銅像が披露されているという。

 

マルクスについては、彼の主著『資本論』初版の発行が1867年、つまり日本の江戸時代最後の年(慶応3年)であることを覚えておくと役立つと思う。『資本論』は、日本の近代150年と同い年である。

 

ところで、Al Jazeera がトリーアを取材した動画を見ていて、ひとつ気がついたことがある。

 

 

https://www.aljazeera.com/news/2018/05/karl-marx-sells-200-years-birth-180505123401189.html

 

 

それは、マルクスの風貌が、彼のカリスマ性に少なからず影響を与えているということである。

 

彼の写真を見ると、眼光はするどいが、ヒゲモジャで、お腹の出たおじさんである。2歳年下の盟友エンゲルス(1820-1895)が痩せ型であるのと比べると、信頼感と親しみがもてる。

 

はじめ、ほぼ同世代のブラームス(1833-1897)に似ているな、と思ったが、「そうか、マルクスもブラームスも、サンタクロース体型なんだ」と気がついた。

 

マルクスが、サンタクロース風の「お父さん」といった風貌でなかったら、おそらく彼の学説の影響力もちがっていたのではないか。

 

いま、トリーアの街では、マルクスのマスコット人形が売られているという(写真下)。やはり、お腹の出たヒゲモジャおじさんである。

 

 

 

 

 

 

 

 

「共産主義の父」カール・マルクス、生誕200年を記念した0ユーロ紙幣が大人気(BUSINESS INSIDER JAPAN)

 

 

https://geeek.jp/shadomatome/article/47170

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 18:48 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「じつは一年前に勝負はついていた」 無印良品・松井忠三氏の"歴史観"

無印良品を立て直したリーダーとして知られる松井忠三(まつい・ただみつ)氏の著書『覚悟さえ決めれば、たいていのことはできる』(サンマーク出版、2015年)。

 

仕事や問題の「本質」をみきわめて、これをやると決めたら、成果が出るまで工夫を重ね、徹底して実行する。そういう強い意志と行動が組織の命だという。

 

読んでみると、ありがちな発想をひっくり返す見方が、随所に書いてある。これは名著だろう。

 

この本の終わりに、歴史観につながる一言がある。

 

商品開発でも販売手法の変更でも、新しいことをはじめてからその成果が出るには、だいたい一年かかる。ということは、

 

 

「今出ている数字は一年前の仕事の結果であり、実は一年前に勝負がついているということです」(188頁。太字は引用者)

 

 

これは、ついつい今だけを見てしまう発想をひっくり返している。

 

歴史の事件は、実はそれ以前に発生が決まっている。いま何をするかで、将来起こることはすでに決まっている。

 

歴史観とは、そういう見方を鍛えることである。

 

 

 

同じことは、われわれの人生にもいえる。今病気になったのは、過去に自分がしたことの結果である。一年後を決めるのは、今なにをするかである。

 

 

「つまり、今少しでも始めることで、来年の自分を変えていくことができる」188頁

 

 

いま生きているということは、過去を引き受け、未来を決めるということである。

 

その覚悟があると、すべてがちがってくる。

 

なるほど、「覚悟さえ決めれば、たいていのことはできる」のだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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