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         大鏡


竹生島 私のベストショット

北琵琶湖に浮かぶ竹生島(ちくぶしま)。

 

観音と弁天で知られるが、古代人には蓬莱山のような仙境に見えただろう。

 

神も仏も一体になれる夢のようなスポットだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

琵琶湖 竹生島 夏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:04 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
概念は認識が無限に接近する対象

むかし、

 

 

1=0.999....

 

 

という話をどこかで読んで腑に落ちない感じが残った。

 

たしかに 0.999... は 1 にどんどん近づくだろうが、1とイコールだと断定されると、「ほんとか?」と感じたのだ。

 

そこで知り合いの物理学者に聞いたら、両辺を0.999... で割って、

 

 

1÷0.999...=1

 

 

 

と考えたらどうかとアドバイスされた。

 

 

これなら左辺はたしかに1に「無限」に近づくから、それはけっきょく1と同じだと言われれば、ちょっと納得しやすくなる。

 

すべての数字は、それに無限に接近する過程を含んでいる。いや、数とは、それに無限に接近する過程そのものだという思想が、ここにはあるようだ。

 

これは、言語が表現する概念も同じではないか。

 

概念は、現実には人の認識として実在する。概念によって認識する人間がいなければ、概念はないのと同じである。人間の認識は、表現されて社会的に試される。表現が試されることによって、認識の規範たる概念が洗練されていく。

 

人間行動の規範たる道徳に完全に合致する人がいないように、具体的な認識は規範たる概念と完全には一致しない。むしろ認識とは、概念へと無限に近づくプロセスではないだろうか。

 

概念とは、概念に無限に接近する認識の過程そのものかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
長良川 私のベストショット

大日ヶ岳から伊勢湾に注ぐ長良川の上流は、いくつかの川に分かれている。

 

そのひとつ、板取川(いたどりがわ)は清流の峡谷。

 

ときに水面が不思議な色に染まる。

 

 

 

 

 

 

 

板取川(長良川上流)

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「矛盾」は対象認識のコツを教える概念

ひとくちに「矛盾」といっても、いくつかの層がある。

 

 

現実の矛盾  例:異なる政治勢力どうしの対決、内部に反乱勢力がいる組織。

 

表現上の矛盾  例:それが「好きだ」と言い、同時に「嫌いだ」という。「砂漠の球」のような突飛な表現。

 

概念上の矛盾  例:同じ人が誰かの父であり、同時に誰かの子である、ひとつのものに上があるということは、下もあるということ。

 

 

どれも、ちがうものが同じ時点で同居していることを指している。(以上は『ヘーゲル用語事典』未来社、1991年、105-106頁を参考にした)

 

 

基本になっているのは、,里茲Δ法現実じたいが矛盾していることだろう。それをそのまま表現すると、△良集従紊量圭發箸覆蝓△修良集修蓮↓のように互いに矛盾する概念による。

 

こうともいえる。L圭發垢覲鞠阿存在するから、表現上の矛盾をつくりだすこともでき、仝充造量圭發鯒Ъ韻垢襪海箸發任る、と。

 

 

こうした矛盾の論理になじむと、認識と表現の作法が一段上がる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
橿原神宮 私のベストショット

奈良盆地の橿原神宮(かしはらじんぐう)。

 

思ったより広大なのに驚く。

 

なぜ日本書紀は、ここを神武即位の地と記したか。

 

境内の大きな池を見ながら、灌漑施設の建設と神武伝説の関係を考えたりした。

 

 

 

 

 

 

 

 

橿原神宮 深田池 盛夏

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
なぜ言語学は実体と属性という概念を放棄したか

「実体」と「属性」は、アリストテレス以来の、歴史ある概念である。

ギリシャ哲学の藤沢令夫氏(ふじさわ・のりお 元京都大学教授)によると、実体と属性の区別は、アリストテレス(前384‐前322)の『カテーゴリアイ(範疇論)』という書物にはじまる。

たとえば「この花は赤い」というとき、「花」はさまざまの知覚的な属性(この場合「赤い」という性質)をもつ。その属性を支え、または担うもの(基体)が「花」と呼ばれており、これが実体概念である。

 

こうして、

 


「性質をもつその当のものと、そのものに所属する性質自身とが区別され、この区別が基準に据えられると、前者は独立して存在しうる<実体>であり、後者は実体に所属し実体に依存してはじめて存在しうる<属性>であるという考えが、そこから生まれてきます。」(藤沢令夫『ギリシア哲学と現代』岩波新書、1980年、36頁)
 

 

このような、アリストテレスによる実体と属性のカテゴリー分け(アリストテレスは10個のカテゴリーをあげている)は、じつはギリシャ語の品詞に対応しており、「実体」は名詞に、性質などの「属性」は形容詞や副詞・動詞に対応しているという(村上恭一『論理学講義』成文堂、1998年、75頁)。

 

 

ならば、言語のあり方と<実体と属性>という哲学の概念には、もともと深い関係があることになる。

 

しかも、<実体と属性>という概念は、私たちにもわかりやすい区別である。

 

だが、現在の文法書は、この概念を積極的に活用していない。

ある一般向け英文法書によると、「名詞」とは「人、もの、事柄などを表す語」であり、「形容詞」とは「人・もの・物事の状態や性質を述べる語」と説明されている(宮川幸久ほか編著『アルファ英文法』研究社、2010年、68、223頁)。

 

名詞とは「実体」概念の語彙化であり、形容詞は実体の「属性」概念の語彙化であることは、この表現からは読み取りにくい。他の文法書でも、名詞と動詞・形容詞が、<実体とその属性>の関係にあるという明確な説明はあまり見かけないように思う。

 

これは近代の言語学が、哲学など古い学問からの独立をめざす過程で、伝統的な概念を排除していったことが原因のひとつであろう。

 

<実体と属性>という伝統的概念を継承しなかったことによって、近代の文法学は平明(→常識的)になったと同時に、理論的な基盤と歴史的な厚みを喪失した面がある。
 

私は、実体を「体(からだ)」と呼び、属性を「態(なり)」と呼んでいる。

 

態は、人の認識にとって、そのときどきに体がとる属性であり、固定せず、流動的である。

 

「花のつぼみ」という「体」は、「赤い」という静的な「態」として認識されることもあれば、「赤らむ」という動的な「態」として認識されることもある。

 

実体と属性の不可分かつ流動的な関係を認めることから、なぜ言語では体(名詞)だけでなく、その態(動詞・形容詞など)を表現するのかが理解されてくる。

 

言語学は、実体と属性という基本カテゴリーを、もういちど考えなおしてみたらどうだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
八事霊園 私のベストショット

八事霊園(やごとれいえん)は、名古屋市営の巨大墓地。

 

付近のビルから見ると、墓・森・空が三層になっている。

 

死・生・空ということか。

 

 

 

 

 

 

 

八事霊園 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
概念は音も形もない普遍的認識

概念は、個別の感情や感覚(認知)を一般的認識へととらえかえして生まれた、脳内の普遍的認識である。

 

概念は、個々人の脳内にあり、個々人が音声・文字の組み合わせで表現し、その意味が他者に認識されるプロセスを通じて社会的に定着するが、概念じたいには色も音も形もない。

 

色も音も形もないままでは互いに区別できないし、移動にも表現にも不便なので、個々の概念は、それ特有の表象(音声シンボルの組み合わせや文字シンボルの組み合わせ)を対応させたかたちで脳内に蓄積される。ちょうど、いろいろな種類の透明の気体を区別し移動し表現するために、ひとつずつ名前を書いたガラス瓶に入れておくように。

 

では、概念にはどういう種類があるか。

 

英語でいえば、概念の代表は体(たい。属性を担う基体とみなせるもの)であり、これは名詞として表現される。次に、体が担う属性そのものが概念化されており(態。なり。動詞・形容詞となる)、それらの細かい認識をあらわす概念(相。そう)や、概念を連結するための概念(解。かい)もある。いわゆる「文型」は、複数の概念の集まり方(形式)によって内容が表現される概念(解)の一種である。また、「仮定法」や命令文のように、文型レベルでも時制レベルでもない、空想・命令という特殊な想念のレベルを表現する形式として存在する概念もある。

 

こうしたいろいろな種類の概念が、ひとつのまとまり=体系をなしている。概念を表現する表象も、体系をなしている。この体系性が、ひとつの言語の独立性の証し(本質)である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
熱田神宮 私のベストショット

雨の正月。

 

傘の下の真剣な祈り。

 

 

 

 

 

 

 

熱田神宮 拝殿から参拝者を撮る

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
概念は、対象をその普遍的な側面においてとらえかえした認識

言語は、個別の感情や感覚を「一般的なものとしてとらえかえして表現するところ」に成立する(三浦つとむ『言語過程説の展開』405頁)。

 

つまり言語は、対象をその一般的・普遍的な側面でとらえかえした概念によって表現する。だからこそ、言語は不特定の他者に個別の認識が伝達できるのである。

 

認知意味論とか認知言語学といわれる最近の議論は、よく見ると、表現が示唆する個別の認識を対象に論じていることが多い。それでも概念をあつかう言語論になっているようにみえるのは、個別の認識を、言語で論じているからである。

 

言語論じることと、言語論じることはちがう。言語論じるには、個別の認識のあり方ばかりでなく、概念の相互関係=体系を対象にする必要がある。

 

概念には、いわゆる「文型」のように、複数の概念の集まり方によって内容が表現される概念もある。「仮定法」のように、文型レベルでも時制レベルでもない、空想という想念のレベルを表現する形式として存在する概念もある。

 

それぞれの言語は、種々の概念がひとつの体系をなしている。個々の認識以前に、あらかじめ脳内の諸概念がまとまりをなしているからこそ、それは独立したひとつの言語であり、無限の表現が可能になるのである。言語学の課題は、まずこの概念の体系を探求することにあり、それには個々の表現の個々の認識が参考にされることになる。

 

言語表現を、普遍的概念と個別的認識の相互浸透の形式として研究する。それが言語学である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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