ごきげんようチャンネル

科学とは、正確に驚くことである。 Y.M.
           

三層の思想で生きる その3

ならば、いまのわれわれがもつべき思想とは、どういうものか。

 

私の見方のエッセンスを述べてみる。

 

思想は、大きく分けると、個人による自分自身についての思想と、社会(二人以上の個人の集まり)がもつ思想のふた通りがあるが、まず、個人(一人の人間。たとえば「私」)がもつべき思想を述べよう。

 

一人の人間は、身体の存在・身体による行い・身体がもつ考え、の三層に分けることができる。<存在・行動・認識>の三層である。これらの三層が発揮するもの(私は連関力と呼んでいる)は、それぞれ、価値・意志・意味である。和語でいうと、価値・意志・意味とは、<富(とみ)・志(こころざし)・語り>であるといえる。

 

個人の存在が発揮する「富(とみ)」とは、身体の健康状態や、外見や、食べるもの・住んでいる場所、所有物、親族、友人、コネ、経験をもとにした能力といった、物質的な条件・環境が社会的に蓄積・発揮する価値を指す。個人の「志(こころざし)」とは、その人がどの集団に属するか、どこに顔を出すか、誰とつきあうかといった行動を通して社会に示す自分の意志である。個人の「語り」とは、言葉や作品などを通して自分が社会的に表現する意味である。

 

「志」と「語り」は、しばしば統一されている。スマホで撮った写真を友人に送るのは、写真によって対象についての自分の認識を「語り」、かつ友人に自分のなんらかの「志」を伝える行為である。

 

個人は、ひとつの身体として存在し、行動し、考える。そういう個人の三層のあり方が発揮する社会的な力は、価値・意志・意味、つまり<富・志・語>である。

 

これらの三層は、どれが欠けても他が成り立たない関係にあるのだが、そのなかでも、あるべき思想として私が強調したいのは、志(こころざし)の重要性である。

 

志は、富や語(かたり)のあり方を先導する。「自分がどうなりたいか」が明確な人は、それに必要な行動をし、富をつくり、語る。

 

志のあいまいな人は、思想のない人である。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 06:31 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
三層の思想で生きる その2

アニミズムのような原始的な思想も、拝火教のような儀式的なものも、完全に消滅するのではなく、形を変えて現代に生きている。朱子学の良さを現代に生かそうとして生活している人も、少数ではあれ、今もいることだろう。

 

さて、文学部あたりで思想や哲学を勉強すると、過去の論者が述べた内容、つまり過去の人がそれで生きた思想がいろいろと出てくる。西洋思想なら、プラトン、アリストテレス、デカルト、カント... などとくる。

 

そういうものは、過去の思想である。社会は変化し、実際にそれで生きている人は、もうほとんどいない。そういう意味で、死んだ思想である。

 

だが、それらは今も研究され、本が読まれ、引用される。細々とながら、死んだ思想が今も現代人の身体のなかで生きようとしている。

 

それは、過去を生かそうとする貴重な努力ではある。だがそこには、勘違いが生まれやすいように思う。

 

私がいいたいのは、いや、私が自分自身に言い聞かせたいのは、こうした死んだ思想を、いつまでも生かしておくのは良くないということである。

 

すでに死んだ思想である以上、いったん完全に死んでもらったほうが良い。

 

いまや、そういう過去の西洋思想を生きている人はいない。そこには、いまも使える思想の断片が見つかるかもしれないが、それは断片であって、それもやはり、いったんは死んだものとみなすべきだろう。

 

思想とは、ほんらい、いま生きている人がそれで生きるほどの、力強いものであるはずだ。

 

死んだ思想を、そのまま現代人が生きることは、もうありえないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 10:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
三層の思想で生きる その1

その思想で生きている人がいるとき、その思想は生きている。

 

御茶ノ水駅を出て聖橋を渡ったところに、湯島聖堂がある。かつて江戸時代には朱子学を中心にした教学の場として有名だった。

 

久しぶりに訪れて感じたのは、「朱子学の教えのとおりに生きている人は、もうほとんどいないだろう」という感慨だった。朱子学は基本的には死んだ思想である。

 

思想は、いつか死ぬ。それは、思想を支える社会そのものが変化するからである。社会生活に適合しなくなった思想は、担い手を失って死んでいく。それは必然であり、当然であるともいえる。

 

だが、思想の面白いところは、完全に死んでしまうことも滅多にないということである。

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 09:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
自分の知られざる能力を信じて微調整せよ 「声の力」はその例だ おわり

ところで、発音のような人間のベーシックな活動を考えるとき、大事なのは、はじめに述べたように、身体の活動の大部分は無意識のうちに、自律的にコントロールされているものだということを利用する姿勢ではないだろうか。

 

自分の声を録音して...という先の方法にしても、聴こえてくる声のうち、自分が左右できる部分はごく一部なのだ。骨格、声帯の長さなどは自分では変更できない。吐いたら、自然に吸うものだという呼吸の原理も変更できない。声帯の震えを身体の共鳴を利用して拡大するという声の原理も変更できない。

 

われわれが意識的に行えるのは、身体の機構の微調整にすぎない。だから人間は、微調整の仕方を工夫すればよいし、それで十分なのだ。

 

あとは身体が自律的にやってくれる。身体の力にまかせればいいのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 06:42 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
自分の知られざる能力を信じて微調整せよ 「声の力」はその例だ その4

外国語を習得するときの難関のひとつが、発音である。日本では「発音は適当でもいい」といった意識がかなりあるようだが、これは大人が外国語の発音を習得できる方法が、まだ発見されていないことの反映である。方法がわからないから、「発音は適当でもいい」と思うしかなかったのだ。

 

そこで、まず上記の△量未任△襦自分の声を録音し、研究するという山さんの方法を、外国語に応用してみたらどうなるだろうか。すでに録音した自分の声を聴き、客観的に観察し、ベストの部分を自分で発見する。スポーツでいえば、ルールや定石が頭で「わかる」段階である。

 

山さんによれば、次に、録音して発見した自分のベストの部分を意識しながら、何度も自分の声を録音しては聴くという作業をする。外国語の場合なら、「我ながらいい発音だ」と思える部分を拡大し、くりかえすのである。スポーツなら、これは素振りや筋トレやセットプレーをやって「きたえる」段階である。

 

以上の「わかる」「きたえる」は、じっさいに「つかう」ための準備である。

 

そこで、いよいよ「つかう」のだが、これは上記の △弔泙蝓崑召里海箸傍い鬚箸蕕譴董⊆分の声のチェックは無意識化している」ようにするのがコツである。

 

「つかう」ときには、自分の声に気をとられるのではなく、話の内容に集中しているのが良い。たとえば、会話や演技や歌やゲームのような活動をして、表現する内容のほうに注意がいくように工夫するのである。

 

言語の意味の世界は、声そのものではなく、抽象的で非物理的な概念の組み合わせで成り立っている。言語の本丸は、音声ではなく自分が表現している意味のほうにある。とくに外国語では、意味の表現じたいに夢中になる体験をつくることが大事である。無意識につくる自分の音声を通して意味に没頭することが、「外国語体験」の真髄だからである。

 

これはスポーツの試合で、自分のフォームや動きをチェックしようとするのではなく、ボールに集中するほうがのびのびとプレーできるのと似ている。もちろんこれは、上記の△弔泙蝓屬錣る」「きたえる」の準備作業とペアになっての話である。

 

声は、自分でモニターしようとすればそれも可能であることを利用して、「わかる」「きたえる」をおこなう。そして、モニターしないで無意識化することも可能であることを利用して、「つかう」をおこなう。

 

このように声のメカニズムを利用し、自分の外国語を上達させるという方法が考えられる。

 

たとえば、小学校の英語の時間に、「わかる」「きたえる」を抜きにして、「つかう」ことばかりをやらせているケースがあるようだが、これは片手落ちである。

 

小学校でも自分の声を録音して、みずから「わかる」「きたえる」のプロセスを強化し、そのうえで、「つかう」活動に入ってみたらどうだろうか。こうして、じっさいに「つかう」うちに、もっと「わかる」「きたえる」をやってみたいという意欲も湧いてこないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 05:04 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
自分の知られざる能力を信じて微調整せよ 「声の力」はその例だ その3

話したいことを決めたとき、脳に浮かぶ「うっすらとしたテンプレート」とは、言語論でいえば自我が対象からつくった認識にあたる。認識は心のなかでつくられ、多少の形象性があったりもするが、多くは形のない、透明の雛形のようなものである。

 

この認識を、表現規範(こういう概念はこの音声で言うというルール)にもとづいて、言語の表現つまり声に変換する。これが「話す」ということである。

 

ここまでは常識である。重要なのは、こうして自分が発した声が、聴覚を介して自分に帰ってくるということである。自分の声を自分が聴くのだから、これは必然的に、じっさいの声と、はじめのテンプレート=認識とがうまく対応しているかチェックする機会となる。

 

ここで、二つの可能性がでてくる。

 

ひとつは、他のことに気をとられている場合である。このときは、自分の発した声は認識のテンプレートどおりになっていると、人は自動的にみなしてしまう。つまり声とテンプレートの相互チェックは無意識に行われるので、自分の発話が邪魔されることはない。

 

もうひとつは、自分の声に聴き入り、はじめのテンプレートにふさわしい声になっているか、意識的にチェックする場合である。このときは自分の声が気になって、とたんに話しにくくなる。

 

山さんの本は、△虜邏箸蓮⊆分の声をレコーダーに録音し、それを聴いてチェックすることで代用すべきだという。言いながら聴くのではなく、言ったあとで聴くという手段をとり、自分の声をもっぱら聴いて、そのなかのベストの部分を発見するのだという。

 

さてそこで、このような声の仕組みは、外国語の習得にも役立つと思うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 22:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
自分の知られざる能力を信じて微調整せよ 「声の力」はその例だ その2

人間の精神の大半が自律的だというのはどういうことか。それは声とどういう関係にあるか。

 

この本に、次のような説明がある。

 

 

 

「自分が話したいことを決めた時点で、人の脳にはうっすらとしたテンプレートが浮かび上がります。意識してもしなくても、です。それをそのまま伝えるべく声にするわけですが、自分の耳と聴覚を通して聴くと、脳に浮かび上がっていたテンプレートと重なって、大きなズレがあれば修正します。それが聴覚フィードバックでもあるのですが、聴覚フィードバックの働きは、他のことに身体や脳が使われていると、脳内のテンプレートが聴覚を補完し、あたかもテンプレートのとおりに話したと思わせるのです。」103頁

 

 

 

この説明はちょっと複雑で、わかりにくいかもしれないが、言語という精神活動の秘密に、生理的な角度から迫った優れた例と思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 07:16 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
自分の知られざる能力を信じて微調整せよ 「声の力」はその例だ その1

山広子『人生を変える「声」の力』(NHK出版、2017年4月)。

 

NHKの「こころをよむ」シリーズの一冊。この6月まで、第二放送で著者みずから解説もしている。

 

誰もが、声を発しながら人生を送る。人生とは声のことだ、といってもいいくらいなのだが、声は空気に似て、あまり注目されない。そういう「声」の重要さを解説した本。

 

私があらためて注目したのは、人間の身体は、大半が「自律的」だということ。このテキストに、こうある。

 

 

 

「脳や脊髄といった身体の司令塔はもちろん、胃や腸といった内臓も、身体の機能を調整する自律神経も意志では動かせません。代謝の速度を調整することも、体温を上げたり下げたりも、自分ではできません。自分の身体なのに、主導権は別のなにかが握っているみたいですね。しかしそれらが自律的に、緻密に動いてくれるから私たちは生きていられるわけです。」145-146頁

 

 

 

その通り。こういうことは、年令が高くなるにつれて、いっそう強く感じるようだ。

 

この事実から、「なんだ、自分で左右できるのはわずかなのか。それならがっかりだ」と思うのは、早とちりである。

 

身体の大半が自律的だということは、いいかえると、自分の調整次第で、身体という自律的な機構の働きが大きく変わるということである。

 

たとえば、車を運転する人は、自分が運転していると思っているが、車じたいは、社会的に製造された複雑な機械で、あらかじめ作られたものである。ドライバーは、この機械のルールにしたがって、その動きを調整しているにすぎない。だが、ドライバーによる調整は、車の動きを決定する。

 

この本は、声が、聴覚をはじめ身体のさまざまな機能を動員していることに着目し、「自分」が声を微調整するだけで、人生が変わるほどの変化が身体に自律的に起こるといい、その仕組みと方法を説明している。

 

このことから私が考えたのは、身体だけでなく、精神も大半が「自律的」なのではないかということである。私たちは、「自分」が考えたり話していると思っているが、じつはその作業の大半は、あらかじめセットされたものの調整で十分なのではないかと。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 07:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「土台」とは、生産と育成による物質的富の蓄積と、その生産・交通・消費の様式である

社会の「土台」とは、具体的にはなにか。

 

土台とは、社会が蓄積した物質的富およびその生産・交通・消費の様式のことである。物質的富を生産・交通・消費する、当該社会に生活する人類の能力を、労働力と呼ぶ。

 

人が生産・交通・消費する物質的富には、工作物や貨幣や家畜のような「物象」(人間の労働力が加わっているため、社会的に交換価値をもつとみなされる物質・生物全般)と、人類という観念的物質の二種がある。

 

物象づくりを「生産 production」と呼ぶ。観念的物質たる人類づくりも生産の一種であるが、これはとくに「育成 education」と呼ぶのが良いだろう。

 

この「育成」には、家庭での養育や学校での学習のような他者育成(教育)だけでなく、自分の身体=社会の物質的富を維持・成長させるために役立つ食事・スポーツ・娯楽・交際などの自己育成が含まれる。接待や事務のようなサービス労働は人類づくりの一種であるから、「育成」に入ることになろう。

 

物象の生産と人類の育成は、互いに高めあう関係にある。物象づくりのなかで人類は規律を学んで育成されるし、人類が自分をよりよく育成することによって、物象の生産はより高度になる。

 

物質的富(物象・人類)の生産・育成におとらず重要なのは、物象・人類の交通(場所の移動)や消費の、社会的な様式である。生産・交通・消費は、互いに規定し規定される関係にあるからである。

 

世界史に現れた代表的な「土台」の様式には、奴隷制・農奴制・資本制といったものがある。

 

物質的富の生産・育成は、別の面からみれば社会的行為の体系(上部構造)をなしており、それは個々の人による思考とその表現(意識諸形態)による協働なしでは行えない。

 

社会や個人を、すべて「土台」という物質的富の角度からみることも可能である。同様に、社会や個人を、すべて上部構造に組み込まれ、意志を生産・交通・消費している存在としてみることも可能である。そして、社会や個人を、もっぱら意識諸形態を媒介として、意味を生産・交通・消費する存在としてみることも可能である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 06:54 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
英語の日付はどう読む? これで全部わかる。

英語の日付の読み方。わかっているようで、自信のない人も多いのではないだろうか。

 

まず、覚えておくといいのは、日付は歴史のなかで一回しかない、その日の個性を表す固有名詞だということである。だから英語で日付を書くとき、月や曜日のように大文字で書けるところは大文字にして、固有名詞として表現する。

 

ところで、英語の日付のおもしろいところは、「序数(◯番目)で書かない場合も、序数で読む」「theを書かないが、theをつけて読むことがある」ということである。

 

なぜそうなるのか。

 

日付は、人名と同じく、全体としてtheのない典型的な固有名詞である。ところが同時に、日付には「その月の◯番目の日」という認識もふくまれている。だからthe ◯th と序数で言いたくもなる。

 

そこで、日付は序数で書かず、theも書かないが、読むときは必ず序数として読み、はじめに曜日をつけたときは、日付にtheもつけて読んでいる。書き方と読み方でちがいをもうけて、うまく妥協しているわけである。

 

具体例を、私のトランス・グラマーの原稿から引用してみよう。文中に「原独体」とあるのは、無冠詞・大文字で表現する、典型的な固有名詞のことを言っている。φという記号は、無冠詞であることを表す。

 

 

 

 

 

日付は「ひと」が暮らしを営む人間的な時間概念であり、歴史のなかで一回しか現れない、その日の個性なので、無冠詞の原独体です。

 

なお、日は、「その月の◯番目の日」という意味なので、つねに序数として読むことに注意してください。

 

アメリカ式とイギリス式(UK のほかオーストラリアなど)とでは月と日の語順がちがいます。また、イギリス式では、声に出して読むとき、月の前に of をつけます。

 

アメリカ式でもイギリス式でも、年の前にコンマがあるのは、「同じ名前の月日は毎年あるが、どの年かというと…」というように、認識に揺れ(選択感)があることの表現です。

 

アメリカ式:

書き方: φMarch 30, 2018 または φMarch 30th, 2018

読み方:  φMarch thirtieth twenty eighteen

 

イギリス式:

書き方: φ30 March, 2018 または φ30th March, 2018

読み方:  φthirtieth of March twenty eighteen

 

 

 

これに曜日をつけると、アメリカ式でもイギリス式でも、日の読み方にtheが加わります。同じ曜日の日(例えばMonday)がいくつかあるなかで、「3月の30日目」という、特定の個性を選択したことを表すtheです。

 

曜日の後ろにコンマがあるのは、「同じ曜日のうち、どの日かというと…」という認識の揺れ(選択感)の表れです。

 

アメリカ式:

書き方: φMonday, March 30 2018 または φMonday, March 30th 2018

読み方:  φMonday, March the thirtieth twenty eighteen

 

イギリス式:

書き方: φMonday, 30 March 2018 または φMonday, 30th March 2018

読み方: φSunday, the thirtieth of March twenty eighteen

 

 

 

以上、イギリス式では表記にofがなくても月名にofをつけて読むこと、アメリカ式でもイギリス式でも、日は序数で書いていない場合も序数で読むこと、曜日が先だてば日にtheをつけて読むことに注意してください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 03:12 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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