ごきげんようチャンネル


あきらけき かがみにあへば すぎにしも いまゆくすゑの こともみえけり

         大鏡


<主語の謎>は心のスマホで解決

英語ネイティブに、「日本語では主語を言わないことも多い」といったら、はじめは驚くかもしれない。

 

だが、日本語だけでなく、主語らしいものをとくに言わない言語は少なくない。

 

主語がある言語と、主語らしきものがない言語。<主語の謎>は、言語学の基本問題のひとつだ。

 

そしていまや誰もがスマホを持ち歩き、動画まで撮れるようになって、ようやく<主語の謎>が誰にも合点できる時がきた。

 

 

話し手の心には、いろいろなものが浮かぶ。だが話し手は、身体をもったまま自分の心のなかには入れない。

 

そこで、こうする。

 

話し手は、心のスマホを用意する。そして、それを自分の心のなかにある誰かに渡す。もちろん、これは観念上の想定だ。

 

するとその「誰か」は、話し手の心のなかのものを撮ってくれるだろう。

 

たとえば英語なら、心のなかの ”I” に心のスマホを渡す。”I”は、"love" といいながら"you" を撮影する。この様子は、

 

 

"I love you."

 

 

という画像になる。これを you に送信すれば言葉になる。

 

日本語なら、心のなかの自分に心のスマホを渡し、こうつぶやいているところを自撮りして、送信する。

 

 

「ほれてんねん」

 

 

 

"I love you." のように、誰が(主語)、何をどう撮っているかをいちいち言う言語もある。「ほれてんねん」と、動作や心情を中心に表現する言語もある。

 

話し手が誰に心のスマホを渡し、何を撮影させているか。その様子を客観的に表現する言語と、誰が撮影しているか(主語)よりもむしろ、撮影した画像の内容を中心に表現する言語のちがい。

 

どちらにせよ、心のスマホのおかげで、われわれは自分の心のなかを撮影できるし、撮れたらそれを人に送ることもできる。

 

心のスマホの原理は、どの言語でも同じだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
強いから弱くなれる 弱い人が強い人をつくる

一見、菩薩にみえない人たちがいる。

 

赤ん坊、子ども、病人。

 

こういう人たちは、他者の手助けを求めている。弱い人を助ける人は、強い菩薩になれる。

 

強い菩薩を生むのは、弱者たちだ。

 

 

非暴力のガンジーは「弱い人」のようにもみえる。だが、弱いからこそ、多くの独立運動家を生み、キング牧師を励ました。

 

ガンジーは強いから弱くなれた。弱くなれたから、多くの菩薩を生んだ。

 

スーパー菩薩は、強いから弱くなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 08:33 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「古墳時代」の人類史的意味

『古墳時代の考古学』という10巻シリーズが、2010年代に発行されている(同成社刊)。

 

「刊行の趣旨」と題する編集代表者の文に感心したので、メモしておきたい。

 

 

「社会の膨大なエネルギーが墳墓記念物の造営に投入されたという点で、日本史上でも異彩を放つ古墳時代。上古の日本に高大な墳墓を造って死者を弔う事例が存在したことは、江戸時代以前から人びとの知るところであったが、その存在を以て一つの時代を画そうとという試みは、いまだ日本の近代考古学揺籃期の空気が漂う19世紀末に、八木奘三郎によって提唱された。八木自身が慎重にも『便宜上』という語を付して呼称した『古墳時代』は、以来幾多の発見と研究の積み重ねを経て、また、とりわけ皇国史観の強要から解放された第二次世界大戦後の実証的、理論的研究の進展によって、今日では明確な歴史的意義と内容を有する時代として区分されるに至っている。」

 

 

「古墳時代」という名称と認識は、ここ100年ほどの曲折を経て、次第に確立したことがわかる。

 

日本史の時代名は、政治の中心となった地名を冠することが多いが、「古墳時代」は、無数の「墳墓記念物」をもって時代名としている。それは、「旧石器」「縄文」「弥生」のように、器物の様式による時代名とも異なる、雄大なイメージを喚起する名称だ。

 

それは、今日のわれわれから見て、そうとう異質な生産力と観念が支配した時代であった。

 

われわれがそうした時代との結びつきを見出すとすれば、「ご先祖の話」といった直系的な感覚よりもむしろ、世界史・人類史という地球横断的な思考経路を経由したほうが、生産的なような気もする。

 

大型の墳墓をさかんに造営した時代。これは、人類史のあちこちに存在した。

 

大型造営物に社会のエネルギーを集める人間の行為の価値・意志・意味の多様性と変化という角度から、人類の歴史を考えてみるのも面白いだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
それが必要のようにみえるのは、それがそこにあるから

商品、貨幣、国家、軍隊といったものは、必要なようにみえる。ないと困るし、なくならないようにもみえる。

 

そうかもしれない。

 

だが、商品、貨幣、国家、軍隊が必要なようにみえるのは、げんに商品、貨幣、国家、軍隊がそこにあるからかもしれない。

 

げんにあるものについては、人間はその存在理由を納得しようとする。

 

断捨離(だんしゃり)という言葉が定着している。だが、断捨離したすっきりライフは、なかなか実現しない。そのひとつの原因は、すでにあるものがなくなることへの不安だろう。

 

原因と結果を混同することを、「転倒した認識」という。

 

商品、貨幣、国家、軍隊が存在するのは、それを必要とする原因があるからだと、われわれは思う。

 

だが、そうではないのかもしれない。

 

げんに商品、貨幣、国家、軍隊があるから(つまり商品、貨幣、国家、軍隊の存在が原因で)、われわれはそれが必要だと思ってしまい、それが必要だと思うから、商品、貨幣、国家、軍隊という原因が、結果として生まれつづける。

 

転倒した認識、すなわちいったん確立した思考の堂々めぐりを打ち破るのは、むずかしい。だが、仏教にせよ、マルクスの商品論にせよ、画期的な思想は、思考の堂々めぐりに気づくところからはじまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 07:10 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
権力は心の構造に基盤がある(長文)

一般に政治学では、権力 power の定義がはじめのほうで論じられる。政治は権力現象の一種なので、あらかじめ権力の本質をとらえておく必要があるからだ。

 

滝村隆一氏(1944-2016)の政治学も、権力の定義がはじめに出てくるのだが、その内容がやや難解になっている。このことは、滝村氏の理論が理解されない一因になっていると思われる。

 

滝村氏による権力の定義として、まとまりの良い部分を引いてみよう。ややこしい言い方になっているが、まずはそのまま引用する。

 

 

「諸個人によって<観念的に対象化された意志>が、ちょうど反転するように観念的に客観的な存在として、諸個人の<独自の意志>を規制し拘束したとき、この<観念的に対象化された意志>を<規範>という。そして<権力>とは、何よりもこの、諸個人の<独自の意志>を規制し拘束する、<規範としての意志>の<観念的支配力>を、とりあげたものである。」(滝村隆一『国家論大綱 第二巻』勁草書房、2014年、435頁。以下、滝村『国家論大綱』と記す)

 

 

人間社会には、物質的財貨を生む力(生産力)もあれば、人間の相互関係を生む力もあり、両者は車の両輪のような関係にある。これらをあわせて「社会的諸力」と呼ぶと、権力とは、「社会的諸力」を、人間どうしの支配/服従という側面からみたときの概念である。友人関係でも、家族でも、クラスでも、会社でも、たいていの社会関係において権力は日々発動している。

 

権力は商品のように一個の物として目に見えるものではなく、その本質は支配/服従という「観念的事象」、すなわち人間の心のあり方にある。(滝村『国家論大綱 第一巻上』56頁)

 

といっても、ここから話が少々むずかしくなってくる。ありていに言って、これまで社会科学は、人間の心の仕組みについて明確な理解をもたなかった。社会科学者ばかりでなく、たいていの人は、権力とは心の仕組みの問題だと言われても、ピンとこないであろう。

 

そこでまず、人間の心の仕組みを一枚の図に描いてみよう。もちろん、これは私(三浦)の私見である。

 

 

 

                

      対象 ←   <行動>   ←  自分

 

             規範        ↗

                ↘

              ↑   <意志>

                                               ↗

              自己

 

 

 

 

この図において、心は自己と自分に分裂している。自己は、客として、ドライバーとして、住民として...など、機会に応じていろいろな種類が立ち上がる。自己は、いろいろな規範を参照し、規範による命令を受けながら意志を形成し、その結果、身体をもつ自分が対象に向かって行動する。

 

先に引用した滝村隆一氏の権力の定義は、上の心の図の規範の部分に、<組織が制定した意志>が来る場合のことを述べていると考えられる。

 

 

 

     対象 ←   <行動>   ←  自分

 

         組織が制定した意志  ↗

                

             ↑    <意志>

                                             ↗

              自己

 

 

 

個人の自己は、おのおの独自の意志をもっているが、自己は自分の属する組織が制定した意志をつねに参照しなければならない。組織が制定した意志=組織的規範による命令を受けて、自己の意志は拘束され、この拘束された意志にもとづいて、身体をもつ自分は対象に向かって行動する。個人はいろいろな組織に属しているから、「今度の土曜は、会社を休んで子どもと出かけるべきか?」などと、父親としての自己と社員としての自己が葛藤する場合もある。このとき、<組織が制定した意志>という特殊な規範による自己の意志への支配力(図の  )が、権力である。

 

権力者とは、この<組織が制定した意志>という特殊な規範の裁可・決定権をもっている人物のことである。

 

そして権力のなかには、国家に属するすべての自己を拘束するとりわけ強力な権力=<権力のなかの権力>がある。<権力のなかの権力>には、社会の成員全員の物質的生活に関わる経済的権力(たとえば電力会社)と、社会の成員全員の観念的生活に関わる政治的権力(たとえば国家権力)がある。政治的権力には、神的・宗教的なもの、情報的・思想的なもの、法的・現実的なものといった区別がある。(滝村『国家論大綱 第一巻上』2003年、64頁参照)

 

...

 

社会関係とは人間がつくる関係であるから、当然、その本質には人間の心が関わる。

 

したがって、社会関係の分析にあたっては、人の心の構造を理解しなければならない。心の理解が欠けていれば、権力の分析といっても、目に見える具体的な行動やその結果を観察し、その社会的「機能」を論じるぐらいしか方法はなくなる。いきおい、分析は場当たり的になる。

 

滝村隆一氏は、しごく真っ当な権力観を述べているのだが、滝村氏自身をふくめて、これまでの社会科学は、上のような人間の心の構造を明瞭に提示しなかった。そのため、われわれは権力の本質についての理解を共有しにくかったのである。

 

 

 

 

 

注:権力とは、心理的服従であるという有力な見方がある(たとえば丸山眞男)。しかし、<組織が制定した意志>=規範による拘束は、心理的服従とイコールではない。心理は、同じものに対しても人によって異なりうるし、同意や承認を拒む余地があり、服従しなくても罰せられるとは限らない私的なものである。それに対して規範は、たとえば社内規定や法律のように、いったん発せられれば制定した当人も従わねばならない客観性をもち、それにしたがって行動しなければ処罰の可能性がある社会的なものである。権力とは、たんなる心理的服従ではなく、<組織が制定した意志>=規範という社会的客観的な存在がもつ、成員全員の意志を現実に拘束する一般的な力をいう。この点につき、滝村『国家論大綱 第一巻上』238ー239頁参照。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
心をつくる秋のはつ風

少し秋めいてきた。

 

 

おしなべて ものを思はぬ人にさへ 心をつくる 秋のはつ風   

 

西行法師   新古今和歌集 巻四 秋歌上 299

 

 

自己が風を対象にして「秋のはつ風」という認識をつくり、その過程で自分の心がつくられていくことを実感した歌。

 

 

さて、「秋のはつ風」が来ると、心はもの思いに乱れ、心がなくなってしまうかのような「心づくし」に至る。

 

 

木の間より もりくる月の影見れば 心づくしの秋は来にけり   

 

よみ人知らず    古今和歌集 巻四 秋歌上 184

 

 

風に心をつくり、月に心をつくす秋。

 

こういう歌を読んでいると少し心が深くなるように思うのは、自分が日本の風土のなかにいるからか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 06:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
日本の都市に城壁が少なかったのはなぜ?

都市をぐるりと囲む長い壁。

 

それは人々に安全をもたらし、多種の生業を繁栄させ、文明になくてはならない要素であった。

 

そういうことをあらためて指摘したコラムがあった。

 

 

http://time.com/5371686/walls-civilization-history/?utm_source=time.com&utm_medium=email&utm_campaign=the-brief-pm&utm_content=2018082117pm&xid=newsletter-

 

 

トランプ政権で話題の、アメリカ・メキシコ国境の壁の建設に賛成しているのかと思ったが、内容はもっぱら古代都市の話になっている。

 

壁のなかに住むことで、攻撃や待ち伏せの恐怖から解放され、僧侶、詩人、音楽家など、武器をもたない職業が多様に生まれた。壁のない世界と比べると、それはまったくちがう世界といってよかった。コラムはこれを「戦闘員になることから解放されたという革命 the Civilian Revolution」と名づけている。

 

そして現代では、都市を囲む壁は取り払われたが、サイバー攻撃に備える電子的な「壁」がやはり必要だ、と。

 

なるほど、歴史における壁というものの力について考えさせるコラムだ。

 

 

ところで日本では、古い時代から都市を防護する壁があまりなかった。

 

平泉合戦時の阿津賀志山(あつかしやま)防塁や、元寇防塁のような臨時のものはあったし、鎌倉七口のように自然地形を利用した防御体制の例もあり、戦国以降には城の周囲を広域的に囲む「総構え」や秀吉の御土居の例もある。だが一般的にいって、人々の集住地を守るために人工の長壁をつくるという伝統はあまりなかったようだ。

 

それはなぜかというのは、以前から気になっていた。

 

ひとつは地形の問題で、大きな平野が少なく、近くに立て篭れる山があり、川でさえぎられている場所が多いために、壁を築くという発想が生まれにくかったことが考えられる。異民族の侵入の心配がほとんどなかったことも理由のひとつだろう。

 

だが、ほんとうにそれだけだろうか?

 

いまの私には、うまく答えられないのだが、安全が文明文化の条件である以上、壁の問題は、日本の歴史を考えるうえで、けっこう大事なポイントではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
希望の案内人

第二次世界大戦中。スペイン国境まで十数キロの、フランスの小さな村。

 

そこは、ナチスドイツの追求を逃れ、スペインからアメリカに亡命しようとするユダヤ系の人々であふれていた。そのなかに、ひとりの若い母親と4歳の女の子がいた。

 

月のない夜、国境越えが決行された。

 

山を登るにつれ、苦しくなる。はじめ若い母親は女の子を抱えていたが、すぐに力尽きた。周囲の人が女の子を運んだ。

 

やがて、最年長の老人がうずくまって言った。

 

「もう進めません。わたしにかまわないで、行ってください」

 

すると、案内していた地下組織のメンバーが、かがみこんで熱心に告げた。

 

「あなたに残った力は、どんなにわずかであっても仲間全体のものです。あなたはまだ死んでいません。私たちは、あの女の子を運ぼうとしています。あなたが息絶えてしまうまで、われわれを助けてください。どうか、あの女の子を助けてください。」

 

逃避行のなかで、三人の老人が三度同じことをいい、そのたびに同じことを告げられて立ち上がった。

 

朝の光が射したとき、一行は山を越え、スペイン領に入っていた。

 

落伍者はいなかった。

 

 

(F・アウズラー(鳥羽徳子ほか訳)『現代のたとえ話』教文館、1974年)

 

 

 

これは実話だそうだ。

 

山中の老人たちは、いったん自分への希望を捨てた。しかし、女の子への希望が、老人たちの新たな希望になった。

 

希望とは、自分だけで抱くものではないー そう思えたとき、本当の希望になるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
拉致大国・日本 従軍慰安婦と中国人強制連行4万人

戦中の日本が朝鮮半島から多数の人々を強制連行したことはかなり知られている。

しかし、日本が中国人を大量に日本本土に「拉致」して強制労働させていたことを知っている人は案外少ない。

中国人強制連行は1942年11月27日、東条英機内閣の閣議決定にもとづいて始まった。

この閣議決定はこう述べている。

「特に重筋労働部面に於ける労力不足の著しき現状に鑑み…華人労務者を内地に移入し以て大東亜共栄圏建設の遂行に協力せしめんとす。」

この決定をうけて1943年には試験移入が実施され、1944年2月28日の次官会議で本格移入の開始が決定された。

連行の方法は、日本の傀儡である中国の行政機関が行政組織に人数割りして供出させた「行政供出」と、日本軍がとらえた捕虜などを収容所で「訓練」してから連行した「訓練生供出」の二種類が九割近くを占めた。このなかには、日本軍が掃討作戦でとらえた一般民衆を無差別に連行した例が多数含まれていた。まさに「拉致」である。

日本に「移入」された中国人は全部で3万8,935人。鉱山、土木建築、港湾荷役など全国135か所の事業場で働かされた。うち死亡と記録された者は6,830人、17.5%。たとえば静岡県仁科鉱山では、連行された200人のうち104人が死亡したことがわかっている。

閣議決定による正式の政策であり、外務省は嘱託調査員をつかって詳細な記録を作成した。それが幸い焼却を免れて発見されたために、今日では上記のような細かい数字や氏名まで判明している。(外務省『華人労務者就労事情調査報告書』1946年)

しかし中国や連合国による戦犯追及を逃れようとしたためか、この報告書は連行者の死因について栄養失調や過労を「大腸炎」と記述するなど、虚偽と思われる記載を含んでいる。

(以上のデータは、神戸港における戦時下朝鮮人・中国人強制連行を記録する会編『神戸港強制連行の記録』明石書店、2004年、132‐133頁より)

 

女性についての従軍慰安婦問題も、こうした男性の強制連行の実態とペアでとらえる視点が必要なのではないかと思う。

 

あの戦争(私のいう1931ー1951年の「20年戦争」)の実態については、日本政府による資料焼却、中ソ朝と国交がなかったことなどにより、長く隠蔽されてきた事実がまだまだ存在する。

 

20年戦争から半世紀以上たったが、日本の戦争責任は、これから本格的に認識が深まろうとしている。

 

 

 

 

 

 

 






 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
トランプの「ホームラン戦術」

アメリカの報道を見ていると、トランプの tweets をいちいち紹介しているのが目につく。

 

彼の「つぶやき」が、会見や演説といった従来の形式を凌駕し、議会や裁判所の動向よりも報道を占拠している。

 

大統領の本音らしいものが書いてあるので、報道しないわけにもいかないのもわかる。だが、けっきょくトランプの指先ひとつによって、巨大な報道機関が手もなく翻弄されているようにも見える。

 

そして大統領といえども、一人の人間が言った言葉は、数日のうちに消費されてしまう。たとえそれが事実誤認や下品な品性を含んでいても、つぎつぎに「つぶやき」が連発されると、報道機関もいちいちそれをただす余裕を失う。

 

ホームランになって、ボールがフェンスの向こうに消えてしまえば、なにを言おうが、なにをしようが後の祭り。歴史のなかには、こうした実例がたくさんあり、私はこれを「ホームラン戦術」と呼んでいる。

 

邪魔者は暗殺する、問題のある法律はさっさと採決してしまう。汚い手を使っても、とにかく当選してしまえばこっちのもの。勝手な発言も、次々に言えば誰もただせないー

 

ホームラン戦術とは、このように、先に既成事実を作ってしまう戦術のことだ。

 

トランプの言動は、ことごとくこの戦術にもとづいているともいえる。

 

もしも日本の総理大臣が「つぶやき」戦術を真似したら、日本の報道機関はかんたんに翻弄されるかもしれない。

 

この男を軽く受け取ってはいけない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:04 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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