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あきらけき かがみにあへば すぎにしも いまゆくすゑの こともみえけり

         大鏡


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自己はどこにいるか

主語らしきものがなくても平気、冠詞にあたるものもない。そういう言語を母語とするわれわれが、そうでない言語を習得するには、それなりの構えが必要になるだろう。

 

英語を数年やった学生が、

 

egg is white.

 

などということがある。教室で冠詞を軽視しているからだが、冠詞が身につかない原因の根は深い。

 

そもそも言語は、自分の心を表現するために自己というものを分離させ、自己に自分の心を表現させるという自撮りの仕組みで成り立っている。

 

いわば、自己がスマホになって自分を撮影するのだが、このスマホは居場所を瞬時に変えられる。自分の外にもいられるし、自分の心の中の対象の位置にいることもできる。

 

日本語では、自分の心の中の対象(主語にあたるもの)の位置にスマホをおき、そこからみた心の光景を直接表現することが多い。「好きやねん」と。ところが英語では、自分の外にある自己の位置から、自分の心を客観的に描く目線が基本になる。客観的な様子を外から表現するので、英語では主語があるのが普通になる。"I love you."

 

日本語が、動くカメラから見た光景を直接描きがちだとすれば、英語のほうは、じっとしている画家の位置から観察した絵画のような性格をもっている。

 

冠詞も、英語が画家的な目線をとることの産物だといえる。

 

egg is white.

 

これだと絵としての客観性に欠ける。

 

An egg is white.

The egg is white.

 

のようにすると、独立した一枚の絵らしくなる。

 

冠詞を忘れない感覚は、自分の外に自己を維持し、画家が絵を描くような構えをとることで身につく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
ここは、対象の実体と属性をセットで表現することが規範化されているか、否かの問題のような気がします。おまけに、対象の性・数と話者の主観への反映である時制が動詞に一体化されている、屈折語の特性をきちんと理解する必要がありそうです。

また、対象としての実体の普遍概念を裸で提示することは日本語でもありえず、格助詞「が」か副助詞「は」で、その捉え方を明示しており、この点は宮下眞二が指摘した、個別認識、普遍/特殊認識の対応がありそうな気がします。■
| 矢車 剣之介 | 2018/09/24 9:34 PM |









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