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         大鏡


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なにも怖くない基準で生きれば、なにも怖くない

近代日本のキリスト教文学のさきがけ、内村鑑三(1861-1930)の「基督信徒(きりすとしんと)の慰(なぐさめ)」(1893年)に、こういう話が書いてある。

 

 

支那宣教師某、四十年間伝道に従事して一人の信徒を得ず、然(しか)れども喜悦以(もっ)て世を逝(さ)れり。彼は得し処(ところ)なかりしや。否。師父ザビエーは東洋に於て百万人以上に洗礼を施したりと雖(いえど)も、恐くは現世より得し真結果に至つては此(この)無名の一宣教師に及ばざりしならん。

 

 

中国に40年宣教して一人の信徒も獲得できないまま、喜んで死を迎えた男。この宣教師は、有名なザビエルと比較しても「真結果」を得たのではないかと、内村鑑三はいう。

 

現世的な結果は、なるほど結果ではある。だが神の基準からすれば、神の規範を生きることが、すなわち「真結果」なのだ。

 

神とか阿弥陀というのは、生きているだけで人間に価値・意志・意味が与えられるように、人類がつくりあげた規範だ。

 

この規範を受け入れると、神や阿弥陀が主体の位置を占め、人間はその命令を受け止める客体となって、神や阿弥陀の力によって転態していくように感じる。この転態のプロセスで、真理が現実となる。

 

かの中国の宣教師は、なにも怖くない基準で生きたから、どんな結果も怖くなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
「なにも怖くない基準で生きていれば、何も怖くない」

ふつうの人には、「禅」の言葉のように聞こえてしまいます。

解説をすれば、いかにも説教臭く聞こえてしまいます。

ふつうの人の非自己の言葉はこうじゃないでしょうか。

我を忘れて暮らすこと、それができるかできないか。

悲しいとか、年とったとか、日が暮れたとか、

そんなことを忘れて暮らせるかどうか、

それがすべてだ、

ではないでしょうか。



| 葉うら | 2018/09/20 6:29 AM |









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