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         大鏡


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「史的唯物論」という言葉は、過去の概念にしたほうがいい

「史的唯物論」(あるいは短く「唯物史観」)という言葉は、他に言葉が見つからないとき、ためらいながら私も使ってきた。

 

だが、この言葉にはやはり問題がある。

 

「史的唯物論」の原意は、「弁証法的唯物論の社会への応用」(ブリタニカ)である。

 

この「唯物論 materialism」という言葉は、物質の対概念たる観念の実在を否定するかのように響く点で、ミスリーディングである。

 

資本とか価値といった基礎概念、そして「唯物論」という言葉じたい、観念の一種であって、通俗的な「唯物論」に浸っていたら実在しえないものである。

 

通俗的でない「唯物論」の論者は、「唯物」とは人間の観念的主体性を否定するものではないと弁明した。だがじっさいには、「唯物」を前提にしながら人間の主体性を説明する方法に苦慮し、けっきょく論者のあいだで合意もできなかった(たとえば1940年代の「主体性論争」)。

 

<唯物論 vs.観念論>というのは、(とくに壮年期以降の)マルクスがほとんど問題にしなかった無意味な対抗関係であり、それこそ「観念的」な空論である。こうした愚かな自家中毒を長引かせた原因のひとつが、「唯物論」というミスリーディングな表現であった。

 

また、弁証法的唯物論は、歴史的に「マルクス主義」の構成部分とされてきた(代表例がレーニン「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」1913年)。そして今では「マルクス主義」という語には、かつてソ連が広めた「公式教義」的な威圧感と偏狭なイメージがつきまとっており、あまり使われない。同様に、弁証法的唯物論の歴史への適用とされた「史的唯物論」という表現にも、古い教条的なイメージがつきまとっていないとはいえない。

 

望月清司は、資本主義を超える歴史段階まで展望するマルクスの歴史認識を「歴史理論」と呼んで、ソ連流の「史的唯物論」から距離を置いた(望月『マルクス歴史理論の研究』岩波書店、1973年)。

 

滝村隆一は、史的唯物論という語も使ったが、晩年の著作ではむしろ「社会構成理論」と呼ぶことが増えた(滝村『国家論大綱 第一巻 上』勁草書房、2003年、310ー311頁)。

 

思想系や政治学系の著作では、「史的唯物論」はしばらく前から使われなくなっていたのかもしれない。歴史学の分野では比較的使われつづけたが、そこでも「史的唯物論」はけっきょく「唯物論」の枠組みに制約されて、人間の観念性・主体性を積極的かつ説得的に含みこむことはできなかった。

 

いまや「史的唯物論」は、「唯物論」とともに、過去に使われた歴史的表現と位置づけたほうがよさそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









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