ごきげんようチャンネル


あきらけき かがみにあへば すぎにしも いまゆくすゑの こともみえけり

         大鏡


<< 本質は三種類ある 物性・習性・規範 | main | トランスの実体は、投射力・転態力・反射力 >>
人間の労働力は「自然力」である

物質(身体としての人間をふくむ)を客体とする投射を、労働という。観念としての人間を客体とする投射が行動であり、自分の観念を客体とする投射が認識である。

 

労働という投射の実体は労働力である。労働は、客観的には生産であり、生産をおこなう実体が生産力である。行動という投射の実体は行動力であり、行動は客観的には組織づくりである。組織づくりをおこなう実体が組織力である。認識という投射の実体は認識力である。認識は客観的には表現づくりであり、表現をおこなう実体が表現力である。

 

『資本論』は、物質を客体とする投射である生産力を、「自然的生産力」と「社会的生産力」に分けている。

 

自然的生産力は、人間自身にそなわる労働力(筋力、集中力、認識力、協調力など)と、それ以外の「外的自然」からなる。人口(人間の多さ)は、社会がもつ人間自身の自然的生産力の可能量の、ひとつの指標である。外的自然には、土地の豊穣、天産物など生活手段における自然的富と、落流・可航水流・金属・石炭など労働手段における自然的富がある。歴史の初期には生活手段における自然的富が重要であるが、歴史が発展してくると、労働手段における自然的富が決定的に重要となる。

 

自然的生産力がある程度まで大きいことは、生活手段生産以外の生産的労働が可能になるための歴史的前提であるが、自然的生産力だけで生産的労働が増大するわけではない。自然的生産力が大きい(自然条件に恵まれている)ことが人間に直接与えるものは、多くのひまな時間である。人間がこのひまな時間を自分の生産力向上に利用するには、一連の歴史的事情が必要である。また、このひまな時間を他人のための剰余労働に消費するためには、なんらかの外的強制が必要となる。

 

社会的生産力は、人間自身をふくむ自然力の社会的統御や積極的利用にもとづく生産力のことであり、それは具体的には、社会的分業、協業、工場内分業、機械の利用といった歴史的発展から生まれる。

 

 

(以上の記述は、『資本論辞典』青木書店、1966年、457-458頁の「労働の自然的生産力」「労働の社会的生産力」の項(執筆・岡崎次郎)を下敷きにした。)

 

 

ここで注目すべきは、人間がもつ自然的能力たる労働力(筋力、集中力、認識力、協調力など)が、「自然力」としてとらえられていることである。


そう理解するなら、社会的生産力の歴史的発展によって人間の能力が開発され、人間の「自然力」が上昇すると、そのぶん自然的生産力も増大することになる。

 

むろん人間の世界では、道路水道電線などのインフラや道具機械のような、いわば「準外的自然」が、生産力を飛躍的に高めている。だが、これら準外的自然も人間の「自然力」=労働力の発揮たる労働が生んだものである。

 

つまり、外的自然および準外的自然による自然的生産力と、労働の編成による社会的生産力は、けっきょく人間の労働力という「自然力」に依存する。

 

史的唯論というときの「物 material」とは、人間の労働力を「自然力」とみる観点のことである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









http://soundsteps.jugem.jp/trackback/4576
#誰が書いてるの?
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< August 2018 >>
-->
#新しい記事
#過去の記事
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人
敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人 (JUGEMレビュー »)
ジョン ダワー, John W. Dower, 三浦 陽一, 高杉 忠明
#著書/共著
敗北を抱きしめて 下 増補版―第二次大戦後の日本人
敗北を抱きしめて 下 増補版―第二次大戦後の日本人 (JUGEMレビュー »)
ジョン ダワー, John W. Dower, 三浦 陽一, 田代 泰子, 高杉 忠明
#コメント
#トラックバック