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         大鏡


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真実が現れるフィクション 浄土三部経について

浄土三部経を読みながら、クリアに実感した。

 

ここに書かれた内容は、フィクションである。

 

ブッダが弟子に説法するという仏典の定型を踏襲しているが、歴史上のブッダが阿弥陀の浄土を説いたということは、まずありそうにない。

 

阿弥陀の極楽浄土は豪華絢爛だとあるが、これは瞑想体験にもとづいた空想であろう。

 

四十八願も、法蔵菩薩も、フィクションである。

 

頭を冷やして考えてみれば、以上は明白なことである。

 

観無量寿経以外は、歴史上のブッダの入滅から数百年たって、紀元前後にインドで書かれたらしい。すべて想像の産物であろう。


 

 

偽経(ぎきょう)という言葉がある。

 

偽経とは、「西域や中国・日本などで、俗信や、正統仏教とは別の思想を取り入れて偽作された経典」(大辞泉)のこと。浄土三部経は起源がインドにあるようだから、偽経ではない。しかし、後世の想像の産物であるのに、ブッダが説いたかのような形式をとっているところはフィクションであり、内容も歴史的事実ではない。

 

 

 

小説やおとぎ話は、自他ともに認めるフィクションである。では、寺院の教義を支える経典は、小説やおとぎ話とどこがちがうのか。

 

二点が重要だ。

 

ひとつは、経典は、寺院、僧侶、信者といった歴史ある組織や実績によって真実性が担保されていること。宗教の教えのために生命を犠牲にした人がたくさんいる。小説を守る?ために死んだ信者とか、おとぎ話を教義にした寺院・僧侶というのは、聞いたことがない。(神社なら、桃太郎神社のような例があるが)

 

もうひとつは、経典は生老病死のような、人間の力を超える現実への直接的な処方箋であること。こうした問題は、観念上で解決するしかない。観念上の解決は観念の産物によるほかはない。経典はフィクションたるべく運命づけられている。そしてフィクションたる経典から寺院、僧侶、信者、そして勇敢な行為といった現実が生まれ、そうした現実ゆえに経典の真実性は増す。

 

 

 

宗教の要諦は、教義の内容が歴史上の事実に合致しているかどうかではなく、現実を超越できる力を、人々に与えることができるかどうかである。

 

フィクションだからこそ生まれる真実性、つまり人の心にとっての実在性。それが大事なのだ。

 

経典はフィクションではないかと言われたら、

 

「しかり。だがフィクションゆえにこそ、現れる真実がある。その真実に生き、死んだ人たちもいる。真実なるがゆえに、我信ず」

 

そう斬り返す気概が、宗教の真骨頂だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









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