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言語は概念の産物 認知や感性から自立している マルクスの価値論から学ぶ

認知言語学の専門家の話を聞いたら、人間の日常的な身体経験が英語の前置詞の元にあるということを力説していた。

 

これは近年流行の見方だが、言語観が浅いような気がする。身体的感覚(感性)を超えて成立する概念に、十分気づいていないからだ。

 

 

...

 

 

マルクス『資本論』第一巻の価値形態論を読むと、似た展開になっている記述が何箇所もある。どれも、マルクスがあることをなんとかして説明しようとした部分である。

 

「あること」とは、人間が現実の対象を観察するときに喚起される感覚と、人間があらかじめ脳内にもつ概念の区別である。人はこの区別がなかなかできないことをマルクスは知っていたから、彼は『資本論』のなかで、くりかえし説明したのである。

 

そうした説明の例をあげよう。まずは感覚の場合から。

 

 

「たとえば、物が視神経に与える光の印象は、視神経それじたいの主観的刺激としてでなく、[人間にとっては] 目の外部にある物の対象的な形をとってたちあらわれる。」(マルクス『資本論』第一巻、ちくまコレクション版、111頁)

 

 

この場合、視覚像という感覚は、「光線が現実に [人間に] 投げかけられる物理的な関係」(111頁)である。

 

ところが、価値という概念は、「生産物の物理的性質とも、物理的性質から生まれる物的関連[たとえば上記の視覚像]とも、まったく関係がない」(111頁。太字は引用者)。

 

価値は、感性から自立した普遍的認識すなわち概念である。だが概念は、現実には身体的感覚(感性)と結びついて喚起されたり表現される。そのため、概念は感性とは次元がちがうことに、人はなかなか気づかない。

 

感性的な生産物が、感性を超越した人間の脳の産物たる「価値」と関係づけられることで商品になるのと同じく、感性的な表現態(音声・文字)は、感性を超越した人間の脳内の「概念」に関係づけられることで言語になる。

 

同じく超感性的な「人間の頭脳の産物」の例として、「神」のような宗教的概念がある(同上書、111-112頁)。いったん「神」という概念を内にもった人間は、日々の感性的な出来事から自立した規範としての「神」を生きていく。

 

 

...

 

 

心理学の認知研究の影響をうけた現代の認知言語学は、人間の感性的な体験にうったえて言語を説明しようとする。これはわかりやすい近道のようにみえるし、じっさい、この発想は言語の習得にある程度活用できるだろう。

 

だが、言語の直接の規範は感性ではなく概念である。「空っぽ」とか「熱さ」のように、感性寄りの概念もある。「火曜日」とか「進化」のように、感性から遠い概念もある。

 

いずれにせよ、いったん概念となれば、それはもはや感覚・感性ではない。概念は五感とつながってはいるが、「人間の頭脳の産物」(マルクス)であり、感性を超越した普遍的認識であり、認識の規範である。いま痛くはなくても、「痛い」という概念はすでに成立しているから、人はいつでもこの語を活用できる。

 

概念は感覚ではない。感覚ではないからこそ、それは概念なのである。言語は、感性を超越した概念によって成立する。だから人は、小さな部屋にこもって壮大な冒険小説が書けるのだ。

 

言語表現は、具体的な状況に応じて、さまざまな意味として現象する。だが、意味という現象が生まれ出てくる根源つまり本質は、概念である。概念は、そのときどきの感性的現実から自立している。

 

現在流行の認知言語学とか認知意味論については、このあたりを留保しておくといいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
認知意味論はラングを言語本質とする構造言語学のパラダイム下にあり、意義と意味の相違と関連を捉えることができていません。

このため、感性的認識(認知)と超感性的認識(概念的認識)の区分と関連を明らかにすることができず、認知心理学者であるマイケル・トマセロは共同注意に言語の本質を求め、人の認識と動物の認識を同一次元に平面化しています。

対象→認識→表現という表現の過程的構造を捉えられずに、対象→表現という短絡思考に陥る論理的強制を受けることになります。

ここには、宗教批判をヘーゲルの観念論的弁証法の転倒で完了したとするマルクスの唯物弁証法のキリスト教単性社会での思考の限界が露呈していると愚考しております。

貴、トランス・ヒストリーがこの限界を超え人文科学のコペルニクス的転回の端緒となることを願っております。■
| YAGURUMA"剣之助" | 2018/03/18 12:51 PM |









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