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"アイドンノー" 現象発見!

学生と英語の発音の練習をしていたら、ひとつ発見したことがある。

 

 

"I don't know."

 

 

という表現を、

 

 

"アイドンノー"

 

 

とか、もう少しそれらしく、

 

 

”アドンノ

 

 

のように発音する学生がずいぶんいるのだ。

 

簡単なセリフだから、どちらも十分通じると思うが、 "ドンノウ" はちょっと非標準っぽいし、 "ドンノー" にいたっては、英語として落第といってもいいだろう。

 

ほかの表現なら、なかなか英語らしく発音できるのに、なぜかこのセリフになると、"ドンノウ" とか "ドンノー" になる。そういう学生がずいぶんいるところをみると、これは何かの社会的学習によるものらしい。

 

 

これに似た話で、"there are" を、"ゼアラ" と読む学生が多いことには、前から気づいていた。ちょっと通な感じの発音だが、「ゼ」も「ラ」も日本語風。この "ゼアラ"は、なかなか広く流布している。"there is" が "ゼアリズ" になるのも同じ。

 

 

そういえば、the を "ザ"と読むのも、考えてみれば妙である。the をローマ字読みしても、"ザ"と読む必然性はない。ある有名人が、theを「テへ」と読んだという話があるが、じっさい、「テへ」のほうがローマ字読みに近い。

 

the の英語の発音は、むしろ「ダ」のようになる。なのに、なぜ「ダ」ではなく "ザ" が流布したのか。「ダ」だと、断定の「だ」と紛らわしいから、無意識に避けたのだろうか。

 

 

 

 

英語のようで英語ではない「カタカナ英語」については、本が出たりしているが、こういう英語っぽいエーゴ(?) については、とくに研究もなさそうだ。

 

こういうエーゴは、どういうメカニズムで流布するのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の筋トレ トランス・ボイス | 00:00 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
発音の前に、発語と呼ばれる構造そのものについての考察はあるのでしょうか。

時枝誠記にも音声論はあっても、声についての考察は確かありませんね。

「認識から表現へ」の、この転化の構造は、三浦つとむが考察した以上にやっかいな問題をはらんでいるように思います。

母親に抱かれた赤ちゃんが、母親に向かってさかんに喋っています。そこに他人が話しかけようとすると、喋るのを(表現を)やめてしまいます。表現する意志を止めようとしているわけではないのに、止まってしまいます。

ことばとしての表現をするというとき、何かしら意志以外の要素がいるのではないかと思うのです。

私たちが声を出す場合、かなり意志してそうするのですが、逆にそのとき、私たちは「出さずにすませる」ことを断念するというか、放棄するということも同時に実行しているのではないでしょうか。

動物であれば「鳴かずばキジも撃たれまい」というように声を出さずにいることは安全地帯にいることになっています。人間もまた、黙っていることによって満ちている領域を持っています。声を出すことは、その充足領域を手放すことになっています。だから最も安全な人の前でだけ赤ちゃんは声を出すのだと思います。

ことばを喋るというのは、確かに三浦つとむの言うように表現しようという意志なしには成立しませんが、そに意志の断念、ひとつの放棄の構造を踏まえて成立しています。言語学にはこの点が見落とされているのではないでしょうか。

放棄しながら意志する、という構造、この相反する構造を表現するのが「発語」と呼ばれる構造だったのです。

声を出して喋ってしまったとき、私たちは必ずどこかで何かを手放した、という印象を持っています。にぎっていたものを放したという感じです。そして喋ってしまうと、その印象はすぐに忘れられてしまいます。あたかもずっと喋っていたかのように喋ってしまう。

だから喋ってしまえば、自分が何かを放棄したのだということは自覚されなくなります。そして自分が意志して喋っているのだという側面だけに気がつくことになります。

なぜ「寡黙児」は家で喋れるのに、外で声を出すことができないのか。寡黙児は、喋る意志はあるのに、手放す方の構造に踏み切れないのです。

私たちでも、道ばたで誰かに声をかけたいと思っても声が出せないときがあります。それは自分が変に思われるからというだけでなく、「ださないでこのままにしておこう」という気持ちをすんなりと放棄することができないからです。
| 足利 | 2017/12/03 10:19 PM |









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