■町の英語教師になった著者が遭遇する仰天の日本人英語。
これをなんとかしようと格闘するうち、著者は彼らの「英語」と自分の知っている「英語」を混ぜ合わせて、「新しい言語」をつくっているような気がしてくる。 30頁
ここから、一読者として私は思った。
そもそも混ぜ合わせる以前に、日本人が英語だと思っているものは、日本人がつくった「新しい言語」つまり ”エーゴ” ではないだろうか。
ある大学生が「俺たちは結局、大学までかかってある種の音なし符号文字を習ったんだなあ」と言ったという。137頁
これも似たことを言っている。
英語の文献資料を使ってきた私も、自分の「英語」は50歳前まで「ある種の音なし符号文字」つまり ”エーゴ” だったと思わざるをえない。それを私が自覚したのは、自分の発音や冠詞の不安定さだった。
日本で生産され日本で消費される ”エーゴ”。それはアルファベットという「符号文字」を使った日本語の補助表現である。
「オーバースロー」「リストアップ」のような日本語感覚を満足させる自作カタカナ語のほか、
New Open(新装開店)
のような”エーゴ”の掲示文の簡潔さと洗練は、補助表現として完璧である。
"エーゴ"は、英語ではない。しかし、われわれは、日本語の補助表現として "エーゴ" を発達させてきた。
著者・中津氏は日本語の補助表現としての「エーゴ」を否定しようとしたようだが、それはドンキホーテに近いことである。
”エーゴ”には独自の論理と存在理由がある。それは「間違った英語」のようにみえるかもしれないが、ほんらい英語ではなく、日本語の一部として確立したのであり、日本語としてみれば、間違っているわけではない。
(つづく)