ごきげんようチャンネル

Life is for those who have a hope.

Action is of those who embrace a yearning.

History is made by life and action, hope and yearning.


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言語世界は現実世界から独立している 永遠の誤解から解放されるために

私もそうなのだが、言語について説明しようとすると、つい目の前にある物を指して説明したくなる。教室なら、ペンや黒板消しを手に持ち、それを示しながら説明したりする。

 

ところが、日常生活では、自分の目の前の物や出来事を対象にして語ることは、意外に少ない。予定とか予想とか、過去の出来事とか、仮定の話とか、怒りや喜びのような内心の感情のように、現在目に見えること以外のことを語る機会が多い。

 

しかも、「信号が赤だ」というような、目の前の現実を語っているように見えるときも、言語じたいは、その現実を直接語っているとは言えない面がある。

 

現実に信号があろうがなかろうが、「信号が赤だ」は、それ自体で言語として成立しているからである。「信号が赤だ」は、視覚によって得た自分の認識を直接語っている場合もあるが、「信号が赤い」という体外の現実は、言語にとっては間接的な事情に過ぎず、必ずしも実在する必要はない。

 

言語表現の直接の対象は、体外の実在物ではなく、体内の自分の認識である。言語は、体外の現実と五感を通して間接的につながっているだけである。

 

この事実を明瞭に理解することは、人間にとって難しい。

 

最新の言語学と思われている認知言語学でさえ、人間の知覚から出発しているために、体外の現実が言語の直接の基盤であるかのように考える傾向がある。だから認知言語学は、認知を超越した抽象的概念に目を向ける姿勢に乏しく、言語が現実を超越する驚異的な力の前に、無力である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
認知言語学もソシュールパラダイム下にあり、言語規範であるラングを言語と捉えているため、表現を直接に支えている個別の概念認識を捉えられないということですね。

言語を表現としてではなく、語(スキーム)の煉瓦的積み重ねとしてしか捉えられない言語道具観の一類型ということになります。

これでは、フィクション、文学という観賞を目的とした言語表現は全く扱えないことになります。

認識ではなく認知を科学的概念と誤解し、言語を記号としてしか理解できず、文法まで記号にしかねない状況です。■
| YAGURUMA"剣之助" | 2017/11/04 10:46 AM |









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