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英文和訳ではイチローになれない

丸山真男・加藤周一『翻訳と日本の近代』(岩波新書、1998年)

 

 

物故した二人の知識人の対談録。全体の主旨は、次のようなことである。

 

 

 

 

「徳川時代の文化の大きな部分は、翻訳文化であった。

 

いわゆる『読み下し漢文』は、徂徠も指摘したように中国語文献の翻訳であり、その語彙や表現法を採り入れて消化した日本語を媒介とする文化— すなわち徳川時代の儒者の文化の全体が、その意味での翻訳文化である。

 

その経験が明治の西洋語文献からの大がかりな翻訳を助けたのであり、近代日本を作りだした、ということができる。」(加藤周一「あとがき」186頁)

 

 

 

 

私がいう、「日本に英語はない」という状況を産んだ歴史的起源は、少なくとも江戸時代までさかのぼることになる。

 

 

ここでは、本書のなかで次の部分だけをメモしておきたい。

 

 

 

 

「徂徠の時代は、江戸時代を通して最高の知識人たちが異文化の存在を意識した時代で、…翻訳問題に関していちばん鋭い表現が徂徠ということかな。…

 

異文化の異質性を自覚し、それを完璧に認識しようという欲求が出てきたときに、比較的にオリジナルな思想が出るのね。

 

ちょっと逆説的だけれど、そういう傾向がある。福沢しかり、徂徠しかりです。

 

『朋あり、遠方より来る…』のまま読みつづけていたんじゃ、同文同種論みたいなもので、同じ文明という意識になってしまう。徂徠はそこを越えた。だから徂徠がなければ宣長は出てこなかった。」(丸山真男、34-35頁)

 

 

 

 

ここでいう「逆説」のロジックは、興味深い。

 

たとえば、日本人が野球というものの異文化性を自覚しながら、日本人の身体で徹底的に追求したとき、アメリカにはいないタイプの、ユニークな選手として自立できる。

 

 

 

<模倣を通して独自性へ>という対立物への転化は、対象に対する明確な異質性の自覚から産まれる。

 

たとえば明治以降の英語教育は、英語というものを徹底的に異文化として客観視し、これをとことん研究する態度を失ったとき、堕落を余儀なくされた。

 

今でもときに奨励される「直訳」法は、上記の「朋あり、遠方より来る…」という「読み下し漢文」方式に似て、まるで英語が日本語が「同文同種」であるかのような、安易な認識を人々にうながす。直訳法は、<英語>と称して、じつは珍妙な日本語に堕しているのだが、学校で行われると、まるで正統なことのように感じられ、人々はその堕落に気づかない。

 

 

最近の「コミュニケーション重視の英語」なるものも、堕落につながる側面を持っている。それは、「言語は道具に過ぎない」「とにかく話してみよう」といった安易な態度を奨励し、けっきょく人間としての品位を落とす結果さえ産んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









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