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皇国史観が死滅しない理由 平泉澄論

戦前、力をもっていた皇国史観は、敗戦後に日本神話をどう説明したか。

 

日本の戦争を支えた神話的歴史観は、戦後、学校教育で否定されたから、さすがに猿田彦とか神武天皇を「史実」と言うわけにもいかなくなったはずである。

 

では、日本神話に依拠する自分たちの歴史観を、彼らはどう言いつくろったのだろうか。

 

そう思いながら、皇国史観の大御所・平泉澄(1895-1984)が戦後に書いた『物語日本史』(現在講談社学術文庫、1979年)を読んでいくと、なかなかの論法になっていて感心した。

 

じっさい、彼の論法はマイナスにもプラスにも応用できる諸刃の剣であり、しかも切れ味のいい逸品である。

 

 

 

日本神話について、平泉氏の見解が分かる部分を引用してみよう。

 

 

 

「神話を、そのままの姿で、今日の知識から批判すれば、どれもどれも荒唐無稽、つまりデタラメで、信用もできず、価値もないように思われるでしょうが、実はその中に、古代の宗教、哲学、歴史、道徳、風俗、習慣が、その影をうつしているのであって、その民族の世界観と人生観、その知性と徳性とを、これによってうかがうことができる、貴重な資料なのです。」(平泉澄『物語日本史』前掲、上巻、40頁)

 

 

 

神話が「貴重な資料」であるとしても、神話はその民族の世界観を「うかがうことができる」だけであって、その民族の唯一の世界観でもなければ永遠不変の世界観でもない。その点を留保すれば、上記の文はおおむね首肯できる内容である。

 

さて、平泉氏の筆は、ここからにわかに熱を帯びる。

 

 

 

「そこで我が国の伝えはどうなっているか、といいますと、天地の初め、すなわち世界創造の時に、最初に出現せられたのは…神であることは、すべての伝えに共通しています。これはすこぶる重要な点です。なぜかといえば、我々が動物から進化したとするか、または野蛮な人間から発達したとするか、いや発達ではなくて堕落してきたものとするか、それとも神から出たものとするか、その出発点の相違は、その民族の宗教に、道徳に、政治に、重大な影響があるからです。」(平泉同前書、40−41頁)

 

 

 

これはなんとなく納得できそうな文であるが、ここには、自分たちを「神から出たもの」としない民族がもしあれば、それは愚かな民族であるといいたげな口吻が感じられる。民族の起源を神に求めない歴史観など取るに足りない、という結論への伏線が敷かれているのである。

 

平泉氏はこう続ける。

 

 

 

「簡単に進化論をうけとる人は、人は猿から発達したようにいいやすいのですが、猿はいつまで経っても猿です。動物園の猿の子が、人になって生まれてきた例(ためし)がありますか。猿は猿、人は人、別のものです。それを誤解して、猿こそ我々の祖先であるとすれば、祖先崇拝は出てきますまい。先祖の恩徳を感謝する厳粛な祭は行われますまい。」(平泉同前書、41頁)

 

 

 

東大国史学科の学生が農民の歴史を調べたいと言ったとき、平泉澄教授は、「百姓に歴史がありますか、豚に歴史がありますか」「もし野蛮人に歴史ありとするならば、鳩にも雀にも歴史ありとしなければなるまい」などと言い放ったといわれる。(若井敏明『平泉澄』ミネルヴァ書房、2006年、100−102頁)

 

「百姓に歴史がありますか」などは、表現に誇張があるかもしれないが、上記の『物語日本史』からの引用文を読むと、主旨において平泉氏がこのような発言をしたことは事実だったのだろう。

 

このような発想の背後には、<わが民族の一員なら、誰もが祖先崇拝をすべきだ>という主張が先にあり、それに都合の悪い理論(たとえば進化論)や、皇室尊崇や祖先崇拝とは関係の薄い研究対象(たとえば農民史)を軽蔑し拒否することで、歴史から排除しようとする態度がある。

 

自分が欲しいものの根拠を歴史のなかに探し出し、それ以外のものは拒否することで、自分の欲しいものこそ事実の主流=歴史の本体なのだと主張する。皇国史観に限らず、多くの歴史観がおちいりがちな自家中毒的傾向である。

 

そこでは歴史観が空想化しているのだが、皇国史観はまわりくどい議論を排除し、はじめから強烈な価値を主張するので、独特の魅力がある。

 

 

 

 

平泉氏は、さすが事実に忠実たらんとする歴史家らしく、「神話をそのまま歴史的事実とは思われませんが…」「あとからしらべてみると、五百年ばかりの間違いが出ましたけれども…」など、神話の虚構性を認める表現をくりかえしている。54、38頁。

 

ところが氏は同じ本で、神武天皇の話は神話ではなく事実であったかのようにも書いているのである。

 

 

 

「神武天皇の国家建設は、今よりおよそ二千数百年前のことであったでしょう。しかしそれは日本民族が、神武天皇の御指導により、神武天皇を中心として、一致団結し、高い理想に向かって踏み出した時点であって、日本民族自体は以前から存在し、ことに神武天皇の御一家、つまり皇室の御先祖は、前々から光輝ある家柄として、徳を積まれていたに相違ありません。」(平泉前掲『物語日本史』39頁)

 

 

 

「民族の統一といい、国家の建設という。言えば簡単であり、容易であるようであって、実際は非常に困難な大事業でありますから、普通平凡の人にできることではありません。それをやりとげられたのでありますから、神武天皇始め御歴代天皇の御苦労は、非常なことであったでしょう。」(同上書、55頁)

 

 

 

ここで平泉氏は、神武天皇の国家建設は今から二千数百年前にあたるだろうと書いているが、実年代でいえば、二千数百年前は縄文時代末期から弥生時代の始めにあたる。卑弥呼より数百年以前であるが、平泉氏の文は、その時点で民族が統一されたとか国家が建設されたと主張しているように読める。

 

万が一、今後の研究でそれが事実だと証明されたとしても、その時点で「日本民族が…神武天皇を中心として、一致団結し、高い理想に向かって踏み出した」というのは、まったく空想的である。

 

まず、ここでいう「日本民族」とは、日本列島のどこに居住する、どういう人々のことを指しているのかが不明である。かりにそれが神武東征のルートや奈良盆地周辺の「日本民族」の話だとしても、その人々が太古の昔に「神武天皇」を中心にして「一致団結」したとか「高い理想の向かって踏み出した」などというのは、記紀の記述以外には根拠がなく、二重三重に空想を重ねるほかに納得のしようがない。

 

 

平泉氏の記述が空想的であること以上に問題なのは、上記の文は事実の主張ではなく、神話の解説のようにも読めることである。つまり、いずれも冒頭に、<古事記・日本書紀に書いてある神話を解説すると…>という但し書きがついているようにも読める。

 

このあいまいさをどう理解すべきか。

 

おそらく平泉氏は、記紀神話の虚構性を認めねば戦後の人々に受け入れてもらえないことを意識して、これは神話であると明記しつつ、しかしこうした神話は多くの民族がもっているのだから、建国事情に神話性がつきまとうのは日本だけではないと正当化した。そして、建国神話の内容の話になると彼の気分はおおいに高揚し、<神武天皇の偉大なる民族統一>のイメージに陶酔しないではおれなかった。

 

そのとき平泉氏の肉体は、神武天皇の民族統一がいつであったかとか、どれほどの史実性があるかというような問題よりも、国家建設の瞬間への感動で満たされていたのであろう。

 

 

ここで重要なことは、空想を空想する平泉氏の肉体は、疑いなく実在したということである。架空の国家建設イメージへの、現実の人体=平泉澄による陶酔と感動という「実在」から、皇国史観ははじまるのである。

 

<現実の人体による空想の実在化>という手法は、平泉氏本人にはじまり、歴史じたいの理解へと拡張される。

 

 

 

「我々日本民族は、その祖先は神であったと信じ、敬い、そして祭ってきたのです。」(平泉澄『物語日本史』前掲、上巻41頁)

 

 

 

短い文だが、この論理は見事である。

 

たとえ神話は架空であったとしても、その神話を信じた人々は多数実在した。この<人体の実在性>に依拠すれば、あらゆる観念は実在と化すことができる。

 

現代では、<人体による観念の実在化>は日常的におこなわれる。タレントを起用したテレビのコマーシャルでは、タレントの人体に商品を持たせることによって、たとえば<もっときれいになった自分>という観念が、われわれの身体において実在化する。

 

 

 

 

ちなみに、上記の平泉氏の文にある「日本民族は、その祖先は神であったと信じ…」という部分には、皇国史観のあいまいさが顔を出している。

 

天皇の家系は天孫降臨にはじまる「神」であるが、平泉氏は「日本民族それ自体は[神武天皇による国家建設の]以前から存在」していたとも書いている(平泉澄『物語日本史』上巻39頁)。つまり、神たる天皇と、それを崇敬する人民たる日本民族は、出自が同じではない。もちろん、「日本民族」は死んだ祖先を敬い祭ってきた。つまり日本民族も死ねば「神」となるのだが、それは天皇家という生まれながらの「神」とは性質がちがう。

 

日本神話によっても、神が人間を生んだという話はでてこないから、日本民族は天皇家とは血のつながりがない。したがって、どこまでいってもふたつの「神」が同一になることはないはずである。「日本民族は、その祖先は神であったと信じ…」というのは、ふたつのちがう「神」を混同させたような記述である。

 

おそらく平泉氏の頭脳のなかでは、神の世界でも「国家統一」が行われている。彼の神の国では、徳高き天皇家の神を、奉仕民たる日本民族の祖先神たちが敬っており、この感動的な構図を指して、「日本民族は、その祖先を神であったと信じ…」とあいまいに表現したのであろう。

 

 

 

 

こうしてみると、皇国史観は二段階の論理をとっていることになる。

 

民族性を個人の価値の中核とみなし、歴史のなかに民族固有の価値的概念をさがす。それは日本では、<天皇による建国と、その偉業に対する人民の賛仰と奉仕という体制が太古の昔に確立し、その後一度も断絶しなかったという人類史上類のない伝統>すなわち「国体」である。

 

,硫礎佑鯊慮修靴浸績や人物をさがしだす。たとえば<神武天皇による建国>がそれである。そして,鮨じて行動した◆覆燭箸┐佇神澄)が存在する以上、,蓮△燭鵑覆覲鞠阿任呂覆実在=史実となる。そこに歴史の感動がある。この感動をわがものとして生きるとき、歴史は個人の道徳の中核となる。

 

 

ここでは、「国家」「民族」という一般的かつ価値的な概念が「国体」すなわち日本固有の概念として特殊化されている。

 

,旅饌里箸いΣ礎佑砲弔い董∋房太の乏しさを理由に否定する者に対しては、△亮仝気垢覆錣噌饌里鯊膸に思い、それで行動した人物がいたという「史実」をもって反論できる。

 

「国体確立の史実はどうであろうと、それを信じて立派に行動した人が実在した」という論理によって、虚構の概念が、歴史の本体としてゆるがぬ地位を確立するのである。

 

観念を実在化するのは、人間の身体である。どんな空想であれ、それを信じた人がいれば、それはもはやたんなる空想ではなく実在である。皇国史観は、平泉氏本人をふくむ実在の人物を媒介として、日本神話の虚構性を史実性へと変換した。

 

世界の多くの人々の歴史感覚には、神話的な側面があると思われる。<事実はともかくとして、物語としては…>といいながら、じつは神話にある種の史実性を感じている。この<神話感覚>のなかに、今も皇国史観は生き延びる道を探している。

 

 

 

平泉澄(1895-1984)と同時代人で、皇国史観の対極的存在でもあった羽仁五郎(1901-1983)が、晩年、パーティーの挨拶で、

 

 

 

「諸君、歴史はアジテーションであります!」

 

 

 

と叫んだという話を、そこにいた人から聞いたことがある。

 

「歴史はアジテーションである」という観念については議論の余地があるとしても、「羽仁五郎がそう言った」というのは疑いのない事実である。

 

人は、ある観念の当否もさることながら、その観念を生きた実在の人物の重みを受けとめる。劇も、音楽も、言語も、あらゆる創造は肉体による観念の実在化のプロセスである。

 

皇国史観そのものは、<天皇による建国と、それに対する人民の賛仰=国体の確立と、その後も国体に断絶がないという人類史上類のない伝統>といった架空にはじまる観念である。

 

それがいかに歴史のなかで破綻した自民族中心主義であれ、<神話感覚>すなわち空想と混同をまじえた感動と陶酔を求める心情が我々の肉体にあるかぎり、この国で皇国史観の根が絶えることはないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 史的唯物論から史的連関論へ | 13:00 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
安酸敏眞氏の講演録、読んでみましたが、ちょっと古い議論のような印象を受けました。
| みうら | 2017/08/27 11:48 AM |
神話もまた当時の人々の認識の表現であり、認識である以上その対象が存在します。

文献学すなわちフィロロギー(Philologie)を説いたアウグスト・ベークの「人間精神から産出されたもの、すなわち、認識されたものを認識すること」(das Erkennen des vom menschlichen Geist Producirten, d.h. des Erkannten)という方法論により神話から史実を明らかにしたのが古田武彦による一連の古代史論です。

このような唯物弁証法の論理により真実の歴史をあきらかにすることなく、観念論に依拠する皇国史観を克服することは困難と思われます。

古田武彦『失われた九州王朝』『盗まれた神話』
ベークに関しては、安酸敏眞氏による一連の著書があります。

「現在(いま)、あらためて≪人文学≫を問う」もホットな話題です。
https://www.waseda.jp/flas/rilas/assets/uploads/2015/12/6c63d985e5dee933cf3e104702e50cb1.pdf#search=%27%E7%8F%BE%E5%9C%A8%EF%BC%88%E3%81%84%E3%81%BE%EF%BC%89%E3%80%81%E3%81%82%E3%82%89%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%A6%E2%89%AA%E4%BA%BA%E6%96%87%E5%AD%A6%E2%89%AB%E3%82%92%E5%95%8F%E3%81%86%27

以上、ご参考まで。■
| YAGURUMA"剣之助" | 2017/08/27 11:31 AM |









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