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言語神授説と言語芸術説 形式しか扱わない純粋さと薄っぺらさ 

「ヨーロッパの文法論や言語学に、科学と名のる資格があったかどうか、実はそれすら疑問だったのである。」

そう喝破した本がある。(三浦つとむ『日本語の文法』勁草書房、1975年、2頁)

西欧言語学には、そもそも科学を名のる資格がない。それはどういう意味なのか。

 





言語学の田中克彦氏は、西洋言語学を研究するうちに、「西洋の言語の思想の根底には、ことばは神が作って人間に与えたものだという『言語神授説』のかげがいつもつきまとっている」ことを発見したという。
 

 


「神の作りたもうたものは完全である。そして完全な製作物は一つしかない。人間はただひたすらそれをおしいただいて使わせていただいているだけだ。そのような完全な製品−言語は人間から独立して存在していなければならず、変化してはならず、たとえ変異が現れたとしてもその多様は見かけにすぎず、本質を表すものではない。」(田中克彦『言語の思想』岩波現代文庫版、原著1975年、vi頁。太字は引用者)

 



西洋言語学には、こういう言語神授説の発想が隠れている。構造言語学しかり、チョムスキーの「言語についての生理神学」しかり。(同前書、v頁)

西洋言語の文法がラテン語を範としてつくられたことも、言語神授説のひとつの背景になったかもしれない。ラテン語はカトリックの正統言語であり、神と語る言葉であったからである。
 

 

 

 

木田元氏は、西洋哲学における「理性神授説」の伝統を指摘している。

木田氏は、ニーチェ以前の西洋哲学は「なんらかの超自然的原理を設定し、それを参照しながら存在するものの全体を見るような、かなり特殊な思考様式」であるという。(木田元『反哲学入門』新潮文庫、2007年、43頁)

日本人は、自然を超越した「超自然的原理」という発想はあまりしない。その意味で西洋哲学はわれわれとは「思考の大前提がまるで違う」。(同前書、45頁)

たとえば、デカルトのいう「理性」とは、われわれがなんとなくイメージするように「人間の認知能力の高級な部分」などというものではない。人間の理性とは、「われわれ人間のうちにあるけれど、人間のものではなく神によって与えられたもの、つまり神の理性の出張所のようなもの」のことである。(同前書、45頁)

神は世界創造の仕上げとしてみずからに似せて人間を創造した(創世記)。したがって理性の本部?は神そのものであり、神の出張所たる人間は、神から分け与えられた理性をうまく使うことで、同じく神の創造物であるこの世界を成り立たせている原理を正しく認識できるはずだ−。これがデカルトの根本発想であった。(同前書、155頁)

神学校の生徒だったころのヘーゲルの記録を調査したディルタイ『ヘーゲルの青年時代』(久野・水野訳、以文社、1976年、原著1906年)を見ると、愛とか神とか理想といった抽象概念の探求に青年ヘーゲルが没頭したことがうかがえる。異様なほどの「超自然的原理」による思考である。ヘーゲル哲学の背景には、「理性神授説」があった。
 

19世紀までの西洋哲学は、神授的理性の追求であった。言語学も、その理性を表現する神授的表現形式の探求という傾向があった。

 

 


人間の能力である言語と理性、そしてこの世界そのものが、神からの授かりものであるー。 この感覚は、西洋の学問を長いあいだ規定した。

 

言語が神からの授かりものであるなら、神秘的なほど美しい秩序が内在するはずである。たとえ言語神授説を意識せずとも、言語学が他の学問の侍女たる地位を脱するためには、言語の神的な秩序を証明する必要があった。

 

そして、近代になって言語神授説が力を失ってくると、今度は言語芸術説が言語学のアイデンティティを(秘かに)支えた。言語学は、「体系としての純粋性を汚すいっさいの環境から解放」されようとし、政治も社会も文化も「閉め出す」方向にすすんだ。(田中克彦『言語の思想』前掲、iv頁) その結果、田中克彦氏が「純粋で繊細」と呼ぶような成果が得られた。
 

 


「近代言語学の体系がいかに美しく、純粋に、繊細に作られているか、およそことばにかかわる仕事に従事する人、とりわけおそれを知らぬ言語評論家たちには、ぜひ一度のぞいておいてほしいものだ。それはまるで芸術作品だと言ってもいいくらいである。」(田中同前書、iii頁)
 

 


田中氏が「芸術作品」というのは、おそらく音素の構成とか、音声の響きとか、文字の体系とか、代名詞の変化とか、動詞の活用表とか、連辞関係とか、文法の体系全般のことであろう。いずれにせよそれは、言語の形式的・感性的側面を指している。
 

 

 

形式的・感性的な側面への着目は、言語体系の純粋さと繊細さを際立たせると同時に、薄っぺらな言語観を生む原因にもなった。

言語学の薄っぺらさを象徴するのが、「概念 concept」についての態度である。

 

 


「言語の意味とは、ソシュールによれば所記(シニフィエ)であり、それは概念からなる。

ところが、意味を概念であるとする考え方は、サピアなどの文化人類学的言語学者の間では受けいれられたが、20世紀の多くの言語学者は概念というものがあいまいでよく理解できないため、この考え方に抵抗を感じてきた。たとえばアメリカでは、20世紀半ばまで行動心理学が支配的だったこともあり、概念を科学的な言語研究にもちこむことに躊躇があった。

しかし認知意味論は意味が概念的なものであることを抵抗なく受け入れる。その背景には、認知心理学が発展したため、概念という考え方に抵抗がなくなったことがある。」(松本曜『認知意味論 シリーズ認知言語学入門 第三巻』大修館書店、2003年、4−5頁より要約。太字は引用者)
 



そもそも言語は、概念(対象を普遍性の側面において把握した認識)による表現であり、言語学者が意識しようとしまいと、言語学は日々概念を扱っている。<概念>という概念に「多くの言語学者」が「抵抗を感じてきた」とすれば、それは驚くべきことのように思われるが、これまで見てきた西洋言語学の来歴を考えると、不思議ではなくなる。

言語神授説や言語芸術説を暗黙の前提にした言語学は、概念ぬきの形式的な学問になりやすい。神は概念ではなく全体であり、美は概念ではなく感性だからである。

言語学が美しい形式を探求する学問になったことから出てくるひとつの問題は、西洋の言語学が、「それ[言語]を話す人間をも閉め出」してしまったことであった。(田中克彦前掲書、vi頁)

言語は、具体的な人間が具体的な対象について語ることが原点である。ところが、言語表現から人間(表現主体)を排除することも可能である。

 



太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

 

 



三好達治の詩だが、「それで、太郎を眠らせたのは誰?」という質問がネットにあって、笑ってしまったことがある。この詩は「誰が、いつ、どこで、なぜ」といった内容上の具体性を極限まで薄めることで、静かな表現効果を生んでいる。言語はこのように、話し手を脱落させて抽象的にも表現できるし、それを理解することもできる。

 

人間を閉め出した言語表現を、人間を閉め出したまま分析することもできる。言語が表現する対象とは別に、言語による表現じたいが、独立した具体的な認識の対象になるからである。

上の詩の例でいえば、「太郎」と「雪」が文法的にどうつながっているかを論じることは可能であり、そのさいの「太郎」や「雪」は、分析の対象として十分に具体的であって、そこでは「誰が書いたか」といった表現主体の問題は無視できる。

たとえば、西洋流の言語の説明は、「これは文中のこの語を修飾している語である」といった独特の表現をする。
 

 


「現在の文法論は…語と語との結びつきは修飾であるとい、修飾語と被修飾語という機能関係で片づけてしまう。これはヨーロッパの文法論から借りてきた扱い方である… こんな解釈で文の構造を法則的に説明したかのように思っているとしたら、大きな錯覚である。文法学と称しても科学ではなく、大学を受験する青年を苦しめるくらいの有用性しかない。」(三浦つとむ『日本語の文法』勁草書房、1975年、36-37頁)
 

 


文中で互いに修飾し修飾される語どうしの構築物。この意味での言語は、ガラスの馬車の置き物のように、純粋で、薄っぺらで、手軽で、動かない。

現代の言語学者にとって、言語はもはや神の秩序の証明でもなく、芸術的作品でもないかもしれない。しかし、今日の言語学の研究書は、言語神授説や言語芸術説に淵源する、動かないガラスの馬車を制作している。

 

西洋の言語学が対象にしているのは、「人間をも閉め出してしまった」(田中克彦)言語表現である。それは言語の普遍性に着目するから、抽象的であり、文中の語どうしの関係だけを問題にするから、具体的である。


個々の語の意味を探求したり、語どうしの関係を記述して満足すること。すなわち形式や機能にしたがってガラスの部品をつくり、ミニチュアの馬車を組み立てて楽しむのは、自由かもしれない。しかし、動かない置き物に乗って、それを動かせるようになる人は少ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 07:46 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
日本では言語言霊論が忌み言葉を生み出しています。

日本語記述文法というのも、与えられたものを記述するという発想で、科学的解明とは程遠いものです。

日本語記述文法の理論 【ひつじ研究叢書 〔言語編第19巻:2000/7 近藤 泰弘 (著)】は、次のような目標を掲げています。

   1.特定の言語理論になるべく依拠しないものであること
   2.日本における伝統的な文法体系と大きく相違しないこと
   3.各種言語の伝統文法と比較して大きな違和感のないものであること
  加えて、コンピューターを使ったテキストデータベースの作成や、形態素解析により文法解析を進めようとするものである。

これも、まったくのガラス細工ですね。■
| YAGURUMA"剣之助" | 2017/08/25 9:29 AM |









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