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なぜ言語学は実体と属性という概念を放棄したか

「実体」と「属性」は、アリストテレス以来の、歴史ある概念である。

ギリシャ哲学の藤沢令夫氏(ふじさわ・のりお 元京都大学教授)によると、実体と属性の区別は、アリストテレス(前384‐前322)の『カテーゴリアイ(範疇論)』という書物にはじまる。

たとえば「この花は赤い」というとき、「花」はさまざまの知覚的な属性(この場合「赤い」という性質)をもつ。その属性を支え、または担うもの(基体)が「花」と呼ばれており、これが実体概念である。

 

こうして、

 


「性質をもつその当のものと、そのものに所属する性質自身とが区別され、この区別が基準に据えられると、前者は独立して存在しうる<実体>であり、後者は実体に所属し実体に依存してはじめて存在しうる<属性>であるという考えが、そこから生まれてきます。」(藤沢令夫『ギリシア哲学と現代』岩波新書、1980年、36頁)
 

 

このような、アリストテレスによる実体と属性のカテゴリー分け(アリストテレスは10個のカテゴリーをあげている)は、じつはギリシャ語の品詞に対応しており、「実体」は名詞に、性質などの「属性」は形容詞や副詞・動詞に対応しているという(村上恭一『論理学講義』成文堂、1998年、75頁)。

 

 

ならば、言語のあり方と<実体と属性>という哲学の概念には、もともと深い関係があることになる。

 

しかも、<実体と属性>という概念は、私たちにもわかりやすい区別である。

 

だが、現在の文法書は、この概念を積極的に活用していない。

ある一般向け英文法書によると、「名詞」とは「人、もの、事柄などを表す語」であり、「形容詞」とは「人・もの・物事の状態や性質を述べる語」と説明されている(宮川幸久ほか編著『アルファ英文法』研究社、2010年、68、223頁)。

 

名詞とは「実体」概念の語彙化であり、形容詞は実体の「属性」概念の語彙化であることは、この表現からは読み取りにくい。他の文法書でも、名詞と動詞・形容詞が、<実体とその属性>の関係にあるという明確な説明はあまり見かけないように思う。

 

これは近代の言語学が、哲学など古い学問からの独立をめざす過程で、伝統的な概念を排除していったことが原因のひとつであろう。

 

<実体と属性>という伝統的概念を継承しなかったことによって、近代の文法学は平明(→常識的)になったと同時に、理論的な基盤と歴史的な厚みを喪失した面がある。
 

私は、実体を「体(からだ)」と呼び、属性を「態(なり)」と呼んでいる。

 

態は、人の認識にとって、そのときどきに体がとる属性であり、固定せず、流動的である。

 

「花のつぼみ」という「体」は、「赤い」という静的な「態」として認識されることもあれば、「赤らむ」という動的な「態」として認識されることもある。

 

実体と属性の不可分かつ流動的な関係を認めることから、なぜ言語では体(名詞)だけでなく、その態(動詞・形容詞など)を表現するのかが理解されてくる。

 

言語学は、実体と属性という基本カテゴリーを、もういちど考えなおしてみたらどうだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
実体と属性という基本的な区分が西欧屈折語文法で採り入れられないのは、正に動詞の屈折にあるといえます。

一語の動詞に属性だけでなく、対象の性・数・時制が癒着融合しており、屈折語である日本語のように単純な概念に明確に語が分かれていれば実体と属性という抽象が理解されやすいといえます。

ドイツ語では冠詞や形容詞も人称変化や格変化を持っていますが、英語ではこれらが前置詞に分離されたり、文型に支えられたりし、膠着語化、孤立語化し、判り易くなっています。古代ギリシャ語にはアオリスト時制があり、さらにこの区分を困難にしています。

膠着語である日本語はこれが明確に分離しており、鈴木朖(あきら)『言語四種論』(1824年刊)は、言語を「体ノ詞」「形状(ありかた)ノ詞」「作用(しわざ)ノ詞」「テニヲハ」の四つに分けるべきことを述べています。

しかし明治以後の西欧文法を取り入れた山田孝雄は、この屈折語文法の影響を受け用言に陳述の機能を持たせ、助動詞を動詞の語尾変化である複語尾としてしまいました。

学校文法である橋本文法もまた叙述性を用言に認めています。これを批判した時枝文法に対し、戦後陳述論争が展開されいまだ決着しておらず、現在はモダリティー論へと拡大しています。

西欧言語論で注目すべきはアントワーヌ・アルノーとクロード・ランスロによる『ポール・ロワイヤル文法(一般・理性文法、附 明確で流暢な説明での話術の基礎)』(1660年)とロックの『人間悟性論』(1689年)であるのはご存じの通りです。

『ポール・ロワイヤル文法』では、動詞は断定を表すと解釈し、断定に加えて「述辞」、「節の主語」あるいは「時制」の意味を持つと解釈しております。この「述辞」こそが動詞が本来表す動的属性ですが、動詞に断言の意味を認め繋辞との区別がなされていません。これが山田文法に繋がっているもので、ヨーロッパの正当文法の立場となっています。

ソシュールがラングとパロールという区分には至りながら、カントの不可知論の立場から思想を「無定形のかたまり」とし、ラングとパロールの相違と関連を明らかにできず、ともに悟性の対象とし言語の本質としてしまいました。これは、動詞の断言と述辞を区分しながら区別できなかった『ポール・ロワイヤル文法』の精神を引き継ぐものです。

実体と属性という対象のもつ性質の抽象やラングによる媒介という理性による反映論の立場に立つことなしにはこれらの区分を論理的に説く事は不可能になってしまいます。

<実体と属性>という哲学の概念を科学的な言語論に齎すためには、西欧キリスト教単性社会の神の呪縛を明らかにし、唯物弁証法の反映論の立場に立たなければ論理的展開を図れないことを自覚できないところに現在の言語学の限界が露呈しています。■
| YAGURUMA”剣之介” | 2018/11/10 1:07 PM |









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