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マルクス永遠の誤読 『経済学批判要綱』序説の場合 その2

この部分の正確な意味を把握するためには、後続する文との関係も考慮する必要がある。だが、マルクスがつけた小題「(1)生産」の部分だけでも、訳本で九頁くらいある。しかもマルクスが生前公刊しなかった、比較的自由なメモであるから、文脈をたどるのは容易ではない。

 

そこで、私の個人的な見方であることをお断りしたうえで、結論から述べてみたい。

 

ここでマルクスがいう "produktion der Individuen" とは、「諸個人生産すること」だけでなく、「諸個人生産すること」という意味を含んでいる。

 

この文のあとにつづく内容をみると、スミスやリカードが議論の出発点においた「ばらばらの個々の猟師や漁夫」や、ロビンソン物語の歴史的起源である(以下、訳文は前掲の筑摩版142頁以下による)。つまり、ここでマルクスが問題にしているのは、なぜ過去の経済学は、こうした「生まれながらに独立した主体たち」という観念から出発したのか、ということである。

 

この問いに対するマルクスの答えは、その直後に書かれている。

 

 

 

「18世紀のこの個人は、一方では封建的な社会形態の解体の産物 das Produkt であり、他方では16世紀以来、新たに発展した生産力の産物 das Produkt であった。」(筑摩版、143頁)

 

 

 

つまり、”諸個人の生産 Produktion der Individuen" とは、諸個人による物質的生産のことでもあるが、同時に、”ばらばらの諸個人”という観念を、過去の経済学が生産したことを指している。

 

「諸個人生産」という表現には、マルクスがときどき見せる、皮肉をこめた二重の意味、つまり言葉遊戯の側面も感じられる。

 

...

 

もし、以上の私の読みが正しいとしても、それがどれほど意味のあることなのだろうか。

 

たいした意味はないという人もいるだろう。ただ、経済学のみならず、憲法、社会学など社会科学では、「個人」はキーワードのひとつである。その点では、一面的な読みによるあいまいな訳によって、マルクスの思考から得られるものがひとつ欠け落ちていたともいえるであろう。

 

『資本論』の邦訳のなかにも、誤訳とまではいかなくても、真意が読み取れないような訳になっていると感じる部分が、ときどきある。

 

そういう意味で、マルクスはまだ正確に読まれていない。そう言っていいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 08:20 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









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