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プルーストの「私」について なぜ「私」が<普遍的非人称>になれるか
マルセル・プルースト(1871-1922)の「失われた時を求めて」の「私」について、興味深い指摘をした本があることを教えてくれた人がいた。



鈴木道彦『マルセル・プルーストの誕生』(藤原書店、2013年)



プルーストの「私 je」は、プルースト自身というより、むしろ、



「人間の原型、普遍的で非人称的な、同時にプルーストでもあれば全人類でもある原型」



であるというのである。68頁。



これは当時の現象学や匿名性の文学と関係があるというが 26頁、ここでは、なぜ「私」が一人称の限界を超えて、普遍的な非人称として自立できるか、ということについてメモしておきたい。


英語の "I" も同じだが、一人称とは、話し手が自己を話し手として認識したことを表す呼体詞(いわゆる代名詞)である。

呼体詞に限らず、言語があらわす概念には、具体性とともに普遍性がある。たとえば、すべての具体的な個人は、誰もが自分を "I" と呼ぶ。この "I" は、他にはない具体的な「私」であると同時に、<自分にとっての自分>という普遍的な関係(誰もがもつ関係)を表現してもいる。

だから、プルーストが「私」と書いているのをみて、われわれは、それが作者プルーストであると同時に、われわれ自身のことでもあると了解することができる。

プルーストは、<具体的であると同時に普遍的>という言語の性質を利用して、いったん読者の「私」に入り込む。この回り道をたどって、プルーストは、他者と自分をふくむ普遍的な「私」に到達しようとしたのである。(66頁同旨)



プルーストがこの作品のなかでほとんどすべて「私 je」とだけ述べて、それが誰であるか、固有名詞で示さなかったのは、「私」が誰でもあることを示唆するためであった。

ならば 「私」でなくて、「彼」でもよかったのかもしれないが、「彼」だと女性ではないという限定がつくこともあって、プルーストは「私」を選んだのかもしれない(じっさい、プルーストは同性愛者でもあった)。


プルーストの「私」は、具体的でありながら普遍的という概念の本質が、芸術の志向力によって異様な力を獲得した例なのだ。



最後に、本書からプルーストの言葉を引いておく。



「文体というものは、ある人びとが考えているのととちがって、いささかも文の飾りではありません。技術の問題ですらありません。

それはー画家における色彩のようにーヴィジョンの質であり、われわれ各人が見ていて他人には見えない特殊な宇宙の啓示です。」472頁。










 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 18:25 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









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