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ソシュールの「恣意性」徹底批判 おわり
【まとめ】


『一般言語学』をめざすというなら、言語において、ある概念がある音声に結びつく一般的な原理、先の例でいえば、<女性の夫選びに共通する本質的ロジック>を発見しなければならない。

ソシュールは、それに成功しなかった。

彼は講義の中で、


「私たちはシニフィアン[聴覚的なもの]とシニフィエ[概念的なもの]の結びつきを曖昧性なく示す言葉を手にしていません。…適当な用語がないのです。」(前掲訳書、118−119頁)


と述べている。

じっさい、彼が板書した、概念と聴覚イメージの合体図のどこにも、両者をつなぐものは描かれていない。(たとえば、前掲訳書、87、94、95、102、114、119頁)


しかし、図示はできなくとも、両者をつなぐイメージがないわけではなかった。それがラング(langue)である。

ラングとは、



「言語能力の社会的所産であり、同時にこの能力の行使を個人に許すべく社会団体の採用した必要な制約の総体」(ソシュール(小林英夫訳)『一般言語学講義』岩波書店、初版1940年、21頁。この部分については、影浦ほか訳書よりも記述が明確な小林訳を採用した)



すなわち言語規範(こうでなければ、この言語とはいえないという認識)のことである。



※じっさいには、言語規範は概念の機能である。概念が社会的な規範として機能するからこそ、概念の表現たる言語は他人格にも<意味>がわかるのである。



既述のように、言語の恣意性を過度に強調することについては、ソシュールははじめ自制的であろうとした。しかし、彼はけっきょく、言語の一般的性質として、恣意性以外のものを見つけることができなかった。

ならば問題は、言語が<恣意的な規範>として成立するゆえんを説明することである。そこでソシュールは「恣意性」を帳消しにする原理として「差異」をもちだし、この「差異」がラング(言語規範)を作りだしていると主張した。



「言語のシステム全体を、音の差異と概念の差異とが結びついたものとみなすことができます。…

差異が互いに依存しあうおかげで、ある概念の差異をある記号の差異とつきあわせることで一見実定的な項に似たものを得ているのです。…

ものごとは結局、記号の恣意性という根本的な原理にたどりつきます。…

システムにおける項の相互関係[=差異]は、連辞的な相互関係であろうと、連合の相互関係であろうと、恣意性を限定するものと理解することができます。」


(ソシュール『一般言語学講義』前掲影浦ほか訳書、177−178頁)



ここでいう「差異」なるものは、けっきょく語の形態や機能の整理、つまり昆虫採集レベルの原理でしかない。

女性の夫選びの例でいえば、ある女性がある男性を夫に選んだのは、他の男性と比べたときの「差異」のゆえであると説明するようなものである。これは一見、もっともな説明であり、現象の観察として間違いというわけでもない。

しかし、男性のあいだの「差異」が参考にされるのは、ありがちな事実にすぎない。一般理論にとって真の問題は、女性というものは、男性のどこに魅力を感じるかを見出すことである。


そして、「差異」の前提となる「恣意性」にしても、記号の編成の恣意性と紛らわしい言い方になっていたり、言語の系統発生(これは恣意性をふくみうる)と個体発生(これは恣意性をむしろ排除して成立する)の区別が不明瞭なまま受けとられやすかったり、複数言語間の音声のちがいを恣意性と錯覚したものであった。







ソシュールは、音声と概念をつなぐ一般原理を見つけることができず、言語の壁にぶつかって悩んだあげく、はじめ警戒していた「恣意性」という麻薬に手を出し、これを一般原理(本尊)の地位にまつりあげ、「差異」(形態と機能による分類という初歩的な手法)を脇侍とする<恣意教>をつくりあげ、みずからその信者になってしまった。


「恣意性」は、ソシュールの一般理論の挫折の告白なのである。


それでも、ソシュールの講義録が出版されると、社会現象や他の研究対象とは区別され、話し手からも独立した、言語の自立的構造が「差異」という原理で明らかできるのではないかという期待を刺激し(構造主義の祖ソシュール!)、さらに「恣意性」や「差異」はポストモダン的な不可知論の根拠ともされて、ソシュールの名声は死後にむしろ高まった。

本人のあずかり知らない、後世の人々の願望が、ソシュールの「恣意性」を誇大解釈した面がある。ソシュールについて「恣意性」を語るなら、こうした死後の経緯の「恣意性」のほうこそ、注目すべきかもしれない。










(おわり)










 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 21:35 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
「恣意的な記号のシステム」の要因

 ソシュールは、 5Pで、
「言語学は、書かれたテキストを、真の対象を入れる封筒あるいは真の対象を知らしめる外装と見なします。真の対象はもっぱら話し言葉[langue parlée]なのです。」と、
テキストを言語学から排除しています。これは、比較言語学の欠陥を引き継ぐものと思いますが。

 このため、テキストの単語=発話の音韻の集まりを正しく位置付けられず、記号としての言語は名辞と種としての概念の結び付きであるのに、聴覚イメージを概念と結び付け、シニフィアンを聴覚的なものとせざるを得ない論理的強制に陥っています。
 この名辞と概念の結びつきが恣意的なのですが、上記混乱が恣意性の浮き上がりの一因では。(三浦つとむ著『言語学と記号学』第一部 言語学と記号学 参照)■
(なお、小林秀夫訳は小林英夫訳では。)
| YAGURUMA"剣之助" | 2013/12/12 2:52 PM |









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