ここでは、私がゴチックにした「個々人の社会的に規定されている生産」という語句に注目したい。
普通に読むと、<個々人が社会的に規定されながらおこなう生産>という意味のようでもある。
だが、その直前には、「社会で生産をおこなっている個々人」とある。これは<生産する個人>をさしている。マルクスは表現を逆転させて言い直すことがよくあることを考えると、ここは<生産する個人>を逆にして、<個人を生産すること>、つまり
<個々人を、社会的に規定されながら生産すること>
という意味に読める。
『経済学批判』に収録された唯物史観の「公式」の冒頭は、既述のように、「人間は、その生活の社会的的生産において…」(岩波文庫版、13頁)となっていた。これは明らかに、<人間は自己の生活を社会的に生産する>ということである。
ならば、「序説」の上記の冒頭も、
<個々人を生産すること=個々人の生あるいは生活を生産すること>
ということを述べているのであり、すると「序説」冒頭部分の全体の意味は、
<社会で生産をおこなっている個々人、逆転させていうと、社会的に規定されながら個々人を生産すること[=個人の生活]が、当然の出発点である。>
といったことになろう。
「序説」の後続部分をみても、この推測は正しいと思われる。「社会的に規定されながら個々人を生産すること」という表現のあと、マルクスは、もっぱら「漁師」や「漁夫」や「ロビンソン物語」といった人間をとりあげ、そうした人間類型が、「自然によって定められた」のではなく、「歴史のなかで生じてきた」と述べている。まさしく、歴史は「社会的に規定されながら個々人を生産」してきたと述べているのである。
20代後半の『ドイツ・イデオロギー』と同様、30代後半の『経済学批判』においても、マルクスは「生活の生産」という観点から歴史観を組み立てていると考えられるのである。
(つづく)