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   『山家集』1118

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ソシュールの「恣意性」について

ソシュールの有名な命題に、「能記と所記の結びつきは恣意的 arbitaire である」というのがある。

これには、

 

,劼箸弔慮生貽發如△△覲鞠阿ある音声に結びついていること

 

異なる言語間で同じ対象の呼び方を比較した場合

 

のふたつのケースがある。

 

,離院璽垢砲弔い董▲筺璽灰屮愁鵑魯侫薀鵐垢慮生豎惻團丱鵐凜Д縫好箸忙親韻靴董

「ソシュールの主張とは逆に、能記と所記の結びつき、言いかえれば音素系列と意味との結びつきは必然的である」

と反論している。(ロマーン・ヤーコブソン(花輪光訳)『音と意味についての六章』みすず書房、1977年、153頁)

 

たしかに、いったんある対象がある音声と結びついたあとは、その言語を習得したい者にとって、この結びつきは恣意的ではなく逆に必然的となる。

 

バンヴェニストの例をひけば、「概念<牛>は音響イメージ boef の魂のようなもの」となるのであり(同上書、152頁)、いまではフランス語で概念<牛>が表現したければ、嫌でも boef と言わねばならないからだ。

他方、上記の△垢覆錣前曚覆觚生豐屬波羈咾靴燭箸、たしかに能記と所記の結びつきはほとんど恣意的のように見える。そこから、

「ソシュールの言語学は単一システムの言語学ではない。それは根本的に他の言語との交換(翻訳)を前提している」(柄谷行人『トランスクリティーク』岩波書店、2004年、499頁)

という洞察も生まれる。

 

ソシュールは多くの言語に通じた語学の天才であったから、能記と所記の結びつきの恣意性に注目しがちであった。そこから彼自身、不可知論に陥ったらしいし、ソシュールによる「恣意性」の強調は、ポストモダンのある種デカダンな発想に根拠を提供することにもなった。

 

だが私は、 ↓ どちらの場合も、<能記と所記の結びつきは恣意的であり、かつ必然的でもある>と考える。

 

能記と所記の結びつきは、社会的な言語伝達のプロセス(マルクス『資本論』にいう価値形態の発展と同じロジック)によって確定していく。この結びつきは、それぞれの社会がそれぞれに決めることができる(恣意的)。だが、いったん能記と所記の結びつきが確定すれば、その言語社会にいる者は、その概念(所記)をそのように表現(能記)しなければならない(必然的)。

 

上記の△里茲Δ吠数の言語間で、たとえば翻訳をする場合は、能記と所記の結びつきがふたつの言語のあいだで錯綜することになり、恣意的と必然的が交錯することになる。だが、いくら交錯しても、言語における能記と所記の結びつきが恣意的であり、かつ必然的でもあるという本質は同じである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









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