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毛沢東「実践論」と言語過程説

毛沢東の「実践論」(1937年7月)を久しぶりに読み直したら、ちょっとおもしろかった。

■<観念的自己分裂を活用した「場面の成立」が対象認識の出発点だ>という言語過程説の発想が出てくる。

すべての真の知識は直接的経験に源を発している

もっとも、人はすべてを直接に経験することはできない。

事実、多くの知識は間接に経験されたものであって、古代の知識や外国の知識はそうである。

[しかし]これらの知識も古代人や外国人にとっては直接に経験されたものであって、古代人や外国人が直接に経験したとき、もしかれらの知識がレーニンの言う『科学的な抽象』という条件にかなっており、客観的な事物を科学的に反映しているならば、これらの知識は信頼できるものであり、そうでなければ信頼できないものである。

だから一個人の知識は直接に経験された部分と間接に経験された部分という二つの部分からできていて、それ以外のものはない。しかも自分にとっては間接の経験が他人にとっては直接の経験である。

だから、知識の全体についていうと、どんな種類の知識もすべて直接の経験から切り離すことはできない。あらゆる知識の源泉は、人間の肉体の感覚器官による客観的な外界の感覚にある。」

(毛沢東(松村一人・竹内実訳)『実践論・矛盾論』岩波文庫版、16頁)

ここで毛沢東が「直接的経験」といっているのは、主体と客体が正面から向き合う状況になる=言語過程説がいう<場面が成立している>ことであり、それが人間の経験の直接の出発点であるということをいっている。

他方で「他人にとっての直接の経験」を自分も「経験」できるというのは、観念的自己分裂によって古代や外国の人が場面を成立させているところへ自分も飛んでいき、間接的に他人の経験を経験できるということをいっている。

毛沢東は、そういう人間の直接・間接の「経験」すなわち世界を認識する仕組みを知っていた。すなわちこれが人間の認識の表現たる言語が成立する仕組みであり、ついでにいえば歴史学が成立する根拠でもある。

■今回、岩波文庫版で読み直して気づいたのは、「体察」という独特の言葉が訳文にあることだ。

「われわれはよく、同志が活動任務を勇敢にひきうけることができないとき、自信がないと言うのをきく。…[しかし]もしその人が仕事の経験をつみ、虚心に状況を体察する人であって、主観的、一面的、表面的に問題を見る人でないなら、…仕事への勇気が非常に高まってくるであろう。」(同上書、19頁)

「体察」とは、頭だけでなく体全体で察するという意味であろう。いかにも東洋的なこの言葉は、私が見た国語辞典にはない。おそらく中国語の原文にあるのだろう。

この論文のタイトルは「実践論」だが、最後の言葉は

「これが弁証法的唯物論の知行統一観である」

となっている。

おそらく毛沢東の真意は、人間の直接・間接の「経験」を活かして、「深化する認識の運動」(13頁)をまずは頭で理解し(知)、次にみずから「体察」すること(行)が実践の要諦だというにあった。

直接の間接の「経験」による、「認識」(知)と「体察」(行)の統一。

これはまさしく外国語の習得や歴史の理解という「実践」にもあてはまるコツのなかのコツである。






| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 社会科学コテン古典 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









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