ごきげんようチャンネル



Smile, what's the use of crying?

You'll find that life is still worthwhile

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イエスはいつも試されて十字架にいる

高久眞一『キリスト教名画の楽しみ方 イエスの生涯』(日本基督教団出版局、2009年10月)

この本の最初に、イエスが生まれた時の様子を描いた絵がある(ルーブル美術館蔵)。6頁。

空想による絵だが、ひょっとしたら、これはキリスト教のエッセンスを凝縮した作品ではないか。



まず意外なのは、イエスだけを描くという降誕図の伝統を破って、ほかの赤子が生まれた様子もいっしょに描いていることだ。イエスを見つめるマリアのほかに、もうひとり母親が描かれている。

イエスだけでなく、ほかの赤子も絵の光源になって、下方から部屋全体を照らし出している。その肌色がなまなましい。この絵はイエス以外の赤子も描くことで、生誕というものもののなまなましさを描いている。

気になるのは、画面の左端に顔が異様に膨れた幼児が描かれていることだ。誰かの腕がイエスに向かってこの幼児を差し出している。なんとかこの子を治してほしいという親の願いの表現なのかもしれない。

のちに救い主とされるイエスだが、それならイエスはこの子を治癒できるのか?

そういう厳しい目でイエスを見ている画家の視線がある。

イエスは、たえず試されている。だからイエスを通してこの世の真実がいつも露わになる。

そういう救いの原理が描かれているような気がする。

イエスもまた試されつづける。だからそこにイエスの偉大さ、精神を永続的に革新する力が現れる。


作者の名はエールトゲン・ファン・レイデン(1498-1564)。

この人は、たんなるイエス賛美ではなく、イエスの真実を描いたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | イエスの虚像 | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
God is Music. 神は音楽である

先日、アメリカ人の歴史学者(ベルギー史)と話したとき、宗教の話になったので、

 

 

 

「キリスト教の神様のイメージって、白いヒゲの老人でしょうかね」

 

 

 

と聞いてみた。すると、

 

 

 

「そう。それも、なぜか神は白人の男性でないといけないことになっている」

 

 

 

という答え。私が「ふむふむ」と思っていたら、

 

 

 

「でもね、私にとっては、神は音楽だ。 God is music. 」

 

 

 

と言う。もう少し説明してくれと言ったら、

 

 

 

「うーん、説明はむずかしい。とにかく、神は音楽だ」

 

「バッハみたいな?」

 

「そう」

 

 

 

神や音楽の本質は、言語を超えた高度な概念である。

 

詩や小説、そして人の生き方を見ることが、そういう高みに連れて行ってくれることもある。

 

人間の歴史は、概念の開発と、その実現に向けた歩みである。

 

 

 

 

 

 

 

    教会の天井フレスコ画の例。右の白髪白髭の老人が神。イエスや

    精霊のハトも一緒に、マリアに戴冠しようとしている

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | イエスの虚像 | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
聖書は革命の書である

救い主イエスを身ごもったと告げられたマリア。研究によれば、そのときマリアは13歳くらいか。田舎の貧しい水くみの少女だった。

 

驚くマリアが、神をたたえて歌う。これがいわゆる「マリアの賛歌」だが、そのテキストは、バッハの「マニフィカート」などの名曲にもなっている。

 

ところで、解放の神学によれば、「マリアの賛歌」は革命の歌だという。

 

 

 

 

「わたしの魂は主をあがめます。

身分の低い、この主のはしためにも

目を留めてくださったからです…

 

 

主はその腕で力をふるい、

思い上がる者をその座から引き降ろし、

身分の低い者を高く上げ、

飢えた人を良い物で満たし、

富める者を空腹のまま追い返されます。」

 

 

(ルカ1・46〜56)

 

 

 

 

なるほど、まさにこれは革命の言葉だ(ロバート・マッカフィー・ブラウン(山下慶親・栗林輝夫訳)『意外な知らせ 第三世界の目で聖書を読む』日本基督教団出版局、1989年、99-110頁)。

 

 

そもそも未婚の女性が子を産むことが死罪とされた時代に、マリアのような貧しい女性に神の子が宿ったと主張することじたい、革命性(価値の逆転)に満ちている。(原栄作『パン屑を集める心 逆説の真理としての聖書』新教出版社、1993年、13−14頁)

 

 

 

同じマリアという名で有名なのは、マグダラのマリアである。

 

こちらのマリアは生みの親のマリアにかわって成人後のイエスにつきそった女性で、イエスの死をみとどけ、埋葬にたちあい、復活後のイエスに接したとされる。イエスの足に塗油した罪深い女マリアと同一人物ではないかと言われる。

 

つまりマグダラのマリアも、社会の底辺の象徴である。(ドナテルロの彫刻は胸をうつ)

 

 

 

 

 

 

 

ドナテルロ「マグダラのマリア」(1453-1455)

 

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/7112/museo_duomo2.html

 

 

 

 

こうした最低辺の女性こそ、聖書のシンボルである。聖書=革命の書という解釈は、聖書の本質をついていると、私は思う。

 

 

 

 

なお、旧約聖書に、「マリアの賛歌」の原型と思われる一節がある。預言者サムエルをみごもったときの「ハンナの祈り」といわれるものである。これも、地位の低い女性の歌である。

 

 

 

 

「主にあってわたしの心は喜び…

 

主は何事も知っておられる神

人の行いが正されずにすむであろうか。

 

勇士の弓は折られるが

よろめく者は力を帯びる…

 

弱い者を塵のなかから立ち上がらせ

貧しい者を芥のなかから高く上げ

高貴な者とともに座につかせ

栄光の座を代々の仕事としてお与えになる。」

 

 

 

(サムエル記・上2・1〜2・9)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | イエスの虚像 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
本当に「復活」したのはペテロだった

ペテロは、イエスによって十二使徒のなかの首位と認められた人。バチカンのサン・ピエトロ大聖堂は、ローマで殉教したペテロの墓の上に建造されたという。

 

もと漁師で、イエスが捕らえられたとき、自分も逮捕されるという恐怖から、イエスを「知らない」と三度も言ったペテロ。

 

そういう聖書の記述から、ペテロの性格は「直情的」とか「動揺しやすい」とか形容されることが多い。もっとはっきり言えば、ペテロは無教養で単純な、ある意味の「ダメ男」だったのではないかと、私は思う。ダメ男だったからこそ、イエスは使徒のなかの筆頭と認めた。

 

処刑されたイエスは、ユダヤに伝承されるキリスト(救世主)だったのだー。

 

そう気づいたあとのペテロの活動は、彼が「直情的」だったからこそ、熱が入ったのではないか。

 

 

 

 

キリストの死後、己の生をもう一度生き直そうと覚悟を固めた弟子たちの、その決意こそが、本当の意味の復活だった。」(原求作『キリール文字の誕生』上智大学出版、2014年、163頁)

 

 

 

 

イエスの復活の物語は、残された人々が抱いた幻想であったと解釈する人もいる。罪なきイエスの処刑を阻止できなかったことへの後悔。この後悔が、処刑によってイエスがキリストであったと確信できたこととペアとなって、周囲の人々を強い感情へとかりたて、イエス復活という共同幻想へと誘ったのではないか、というのである。

 

ペテロとよく比較されるパウロは、手紙が書けたくらいであるから、ペテロよりも教養があったのだろう。そのパウロも、かつてイエスの教えを否定し、キリスト教会を迫害したという負い目を背負ったからこそ、勇敢な布教活動ができた。

 

 

人間は、負い目を自覚するとき、ようやく人となる。

 

 

自分への後悔だけでなく、他人への謝罪をふくむとき、負い目が財産となって、勇気ある活動へと人をかりたてる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | イエスの虚像 | 13:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
天地創造神話は、この世への賛歌である

田川建三『キリスト教思想への招待』(勁草書房、2004年)

 

キリスト教のいい入門書はありますか、という学生に、この本を紹介することがある。

 

聖書学の碩学である田川氏。本書で田川氏は、キリスト教のよき遺産とはなにかを解説している。

 

そのひとつは、この世を力強く肯定し、感謝する精神である。

旧約聖書の創世記は、「初めに神は天と地を創造された」という有名な文にはじまる。

田川氏は、世界と人間を「造った」のが神であるかどうかは現代では大事ではなく、むしろ世界と人間が「造られた」ものであるという真実が重要だと指摘する。たしかに、誰も世界と人間を自分で作ることはできない。すべてはあきらかに被造物である。3頁。

しかも、世界と人間は驚くべき秩序を与えられている。紀元200年ごろのキリスト教著作を引用しよう。

 

 


「天がいかに広くひろがり、いかに速く回転しているか。闇と光がうまくめぐるおかげで、われわれは労働と休息を交互にとれるのだ。春は花、夏は収穫、秋の実り、冬にはオリーブ。そしてなにより、われわれ人間の形の美しさ。まっすぐな姿勢、立った顔、すべての器官が砦の中のようにうまく配置されている。」(9−10頁より要約)
 

 


だからイエスは、この世界を賛美してやまなかった。
 

 


「神の国は大地に種をまく人のようなものである。あとは昼夜、寝たり起きたりしている。しかしこの人自身が知らぬ間に種は芽を出し成長する。大地がおのずと実を結ぶのである。まず青草が、それから穂が、そして穂の中に豊かな穀物が。そして時がいたれば、彼は鎌を入れる。収穫が来たのだ。」(マルコ4・26−29)
 

 


イエスの教説の基礎にあったのは、世界と人間の強い肯定であった。田川氏は「キリスト教から創造信仰を消し去ったら、一緒にイエスまで消えてしまう」と述べている。34頁。
 

創世記の記述は、ユダヤ教の聖典である旧約聖書の冒頭に記されている。ところが、神がすべての人間を創ったことを強調すると、ユダヤ人だけが神に優遇される理由が説明できなくなる。そのため、ユダヤ教では創世記神話は重視されなかった。7頁。20世紀に一世を風靡したバルト神学も、創造神話がキリスト教独自のものではないうえに、神の子キリストがこの世にやってくる理由を説明しにくくなるため、創造信仰を「自然神学」と呼んで排斥した。30頁。

ところが、初期キリスト教の布教はむしろ創造信仰が中心であった形跡がある。8、36、39頁。周囲のユダヤ教やギリシア・ローマの伝統思想に対抗してキリスト教を布教するためには、「民族の枠をこえる」価値として創造信仰が役立ったからである。45頁。

パウロ(前10‐65ころ)も、宣教の初期には創造信仰を強調したようだ。しかし、そうすればするほど、人々は「復活のキリスト」という論理が理解しにくくなった。現世の強い肯定と、人間の原罪の強調では正反対だからである。だから人々は「ちっともパウロ流の神様を信じてくれず、腹が立ってきた。だからパウロは異邦人はみな罪人なのだと言い立てるようになっていったのだろう。」(39頁より要約)と田川氏はいう。

そもそも、キリスト教徒の使徒信条にいう「復活」とは、それぞれの肉体の復活を意味する。もしもこの自然世界、物質世界を否定するのがキリスト教なのであれば、肉体のこの世への復活を望むのはおかしい。63頁。

まして創世記は、六日間の創造の行為の記述のなかで、「神はこれを見て良しとした」という表現を繰り返している。これは他の創造神話にはない創世記の大きな特色である。

 

 

この被造世界は「良い」。「美しい」。

 

 

自然への驚嘆と感謝こそ、キリスト教の原像なのである。

 

だから、「人間は自然を征服してよい」という発想は19世紀までキリスト教世界にはなかったし、今日でも自然への感謝の念は、日本よりも深くヨーロッパに根づいているといえる。75頁。

たとえばヨーロッパのあちこちの市場で売られる自然でおいしい野菜。自然の恵みを自然なままに感謝して食べる精神。これは「創造信仰がつちかった伝統である」16頁。

 

 

自然への驚嘆と感謝は、科学とも矛盾するものではない。古代人が自然を有難い驚きと感じたのは無知だったからではなく、自然の精密さを知っていたからであった。20頁。

科学とは、正確に驚き、感謝することなのだ。

 

卵がどうして魚になるのか。種から実がなるのはなぜか。自然が神の理性によって創造されたものである以上、人間の知恵がそれに及ぶはずもない。それは科学で説明できるものではない。自然は人知を越える存在である。


そして、人間もまた神によって創造されたものであるから人知を越える存在であり、人間どうしは平等である。そういう感覚から、互いの立場を尊重する「距離の自覚」も生まれる。73頁。ヨーロッパで人権思想が生まれた遠い背景には、創造神話があったのかもしれない。


田川氏はこう述べる。



「人間が誠実に生きていくことができるためには、この自然世界の中で人間として生きているという事実そのものを有難いこと幸せなこととして自分の中で肯定的に受けとめるのでないといけない。」56頁。
 


自然への驚嘆と感謝。

それが田川氏の指摘する、キリスト教の第一の偉大な遺産なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | イエスの虚像 | 06:10 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
闇があるのは光がある証拠  内村鑑三の反骨精神

若松英輔『内村鑑三をよむ』(岩波ブックレット、2012年7月)に触発されて、内村鑑三(1861-1930)の「基督信徒(きりすとしんと)の慰(なぐさめ)」(1893年)を読んでみた。

 

まだ三十代前半だったにもかかわらず、多くの歴史上の事例を挙げているところからも、内村の勉強ぶりがうかがえる。

 

妻を亡くした悲しみとその信仰的解決への葛藤を述べた第一章がとくに心をうつが、他のところで印象に残ったエピソードがある。

 

 

 

 

支那宣教師某 四十年間伝道に従事して一人の信徒を得ず、しかれども喜悦もって世を逝(さ)れり。彼は得(え)しところなかりしや。

 

否(いな)。

 

師父ザビエーは東洋において百万人以上に洗礼を施(ほどこ)したりといへども、おそらくは現世より得(え)し真結果にいたっては、この無名の一宣教師に及ばざりしならん。

 

 

 

 

ある宣教師は、中国に40年宣教して一人の信徒も獲得できず、しかも喜んで死を迎えたというのだから、まるで冗談のようである。

 

しかし、この一宣教師は、有名なザビエルと比較しても「真結果」を得たのではないかと内村鑑三は問う。

 

このあたり、真実追求の人・内村の面目躍如というべきだろう。

 

上記若松氏の『内村鑑三をよむ』から、印象に残る文を引用しておく。

 

 

「闇があるから光があるのではなく、光があってはじめて闇があり得るように、労苦があるから救いがあるのではなく、救いがあるから労苦が人間に訪れることを、彼[内村鑑三]は決して忘れることはなかった。」

 

(若松英輔『内村鑑三をよむ』前掲、8頁)

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | イエスの虚像 | 21:04 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
精神の革命家・内村鑑三「勇ましい高尚なる生涯」

内村鑑三『後世への最大遺物(1894年)』(岩波文庫版)

有名な講演の筆記録。このとき内村34歳。読み直すと、気張ったようなところもあり、退屈なところもある。しかし講演の要旨は明快で、深く考えさせるところがある。

 


誰もが遺せる「後世への最大遺物」とはなにか、と内村は問う。

 


財産、事業、教育、学問、芸術。



どれもいいことである。しかし、運や才能や犠牲が必要なものばかりで、理想的な「遺物」とはいえない。53頁。

では、最大の遺物とは何か。それは、一人一人が残す

 

 

「勇ましい高尚なる生涯」54頁

 

 

である。

内村がいう「勇ましい高尚なる生涯」とは、「われわれに邪魔のあるのはもっとも愉快なこと」であり、「邪魔があればあるほどわれわれの事業ができる」。そういう人生のことである。67頁

たとえば、

 

 


「もしここにつまらない教会が一つあるとすれば、そのつまらない教会の建った歴史を聞いたときに、その歴史がこういう歴史であったと仮定(かりさだ)めてごらんなさい。

この教会を建てた人はまことに貧乏人であった、この教会を建てた人は学問も別にない人であった、それだけれどもこの人は己のすべての浪費を節して、すべての欲情を去って、まるで己の力だけにたよって、この教会を造ったものである…

こういう歴史を読むと私にも勇気が起こってくる。かの人にできたならば己にもできないことはない、われも一つやってみようというようになる。」60頁

 

 


ここが、もっとも聴衆の感動を呼んだ部分だろう。

内村がいうように、歴史は「勇ましい高尚なる生涯」によってエネルギーを充填された世界である。しかし、その「生涯」はなにも大がかりなものである必要はない。むしろ、小さいささやかなものほど後世に残るともいえる。
 

 


「もし私に金がたくさんあって、地位があって、責任が少くして、それで大事業ができたところが何でもない。たとい事業は小さくても、これらのすべての反対に打ち勝つことによって、それで後世の人が私によって大いに利益を得るにいたるのです。」67頁
 

 

 

内村は、世の人々を勇気づける少数者であることに価値を見出す精神の革命家であった。

 


「いつでも、正義のために立つ者は少数である」66頁
 


この講演には、「生涯を立てる」という表現が二度ほどでてくる。61、62頁

どんな小さなことでもいい。「これが私のやりたかったことだ」と「仮定め」て、一途にやりとげる。そのとき、困難が多いほど、むしろ喜ぶべきだ。それだけ後世に残す遺産も多くなるのだから。

 

こうして人は、「生涯を立てる」。

 

けっきょく、この世にもっとも長く生きるかもしれないのは、高い意志である。

 

 

 

 







 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | イエスの虚像 | 20:14 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
マタイ受難曲 思想は人間の行動で実証される

いま午前7時前。FMの番組がマタイ受難曲を紹介している。

 

イエスの受難を描いたバッハの大曲だが、キリスト教には、ある意味でイエスの物語以上に重要なエッセンスがある。

 

それは、イエスの受難の物語に感動し、聖書を指針に生きた人々が、これまで大勢いたという事実である。

 

イエスの人格と生涯には、疑問符をつけることも可能だ。フランス革命のころに、あるカトリックの神父が、聖書を引用しながらイエスを「嫌われ者で狂人の馬鹿者」と実証?した遺書をものし、これが各地で密かに読まれていたという実話を読んだことがある。

 

しかし、イエスの実態がどうであれ、バッハがイエスの物語に感動し、その感動を大曲として表現したことは疑いのない事実である。

 

いま問題になっている籠池氏の右翼思想も、構造は似たところがある。右翼思想じたいは、古くて反時代的なものであっても、それに共鳴する人物が実際にいて、政治家や大金をあやつって学校までつくろうとしたことは、疑いのない現在の事実である。

 

思想の内容もさることながら、それを信奉する人物が現にいるかどうか。

 

思想は、どんなに古いものであっても、生身の人間の行動によって常に新しい現実になる。

 

 

✳︎「嫌われ者で狂人の馬鹿者イエス」を、聖書を使って堂々と主張した大作とは、

ジャン・メリエ『ジャン・メリエ遺言書−すべての神々と宗教は虚妄なることの証明』(法政大学出版局)

小さな村の教会で黙々と神父の仕事をこなしながら、イエスを痛罵した長大な遺書を残し、死後に地下出版されてフランス革命にも影響を与えた本だ。

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | イエスの虚像 | 07:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
キリスト教は茶道である おわり
本書の頂点は、「侘び」とは命の愛惜(あいせき)であるという主旨の、次の文にある。


「花は人の一生を表している。…文句も言わずにありのままの形で精一杯美しく咲いているのである。

私たち人間も、やがては死んで灰になってしまう、はかないものである。

その、刻々と変化していくいのちの貴さ、生への執着。

捨てなければならないほどの執着。

それを利休は『侘び』という言葉で表した。」111-112頁。



宗教とは、無償で与えられた生命への感謝と愛惜の、美的な表現である。

そう思えば、


「茶の湯とは、火をおこし、湯を沸かし、ただ茶を点てることである」(利休)65頁


という言葉もわかってくる気がする。











(おわり)









| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | イエスの虚像 | 13:06 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
キリスト教は茶道である その6
なぜ、これほどまでに茶道とキリスト教には共通点があるのか。

日本にキリスト教がやってきたころ、宣教師たちが堺を拠点に全国を行き来した。彼らの立派な立ち居振る舞い、人格と教養に、信長も感心したという。41頁。

その宣教師たちは、教会堂に茶室を設けて要人を接待した。34頁。

そして利休の七人の高弟のうち、五人がキリシタンであった。「彼はキリシタンに囲まれ、おおいなる影響をうけて侘び茶の研鑽を積み、完成に至ったことになる」28、42頁

茶道とキリスト教の関係をこのように洞察してくると、

「茶の湯の精神は禅宗にのみある」

という通念は、「400年間の迷信」であると著者はいう。42頁。

そのような 「迷信」が広まった原因は、迫害によって、キリスト教の日本文化への影響を示す資料が徹底的に隠され、多くが消されたからである。

「人々は、キリシタンとの関わりの痕跡を跡形もなく消し去った」27頁

のであった。








(つづく)










| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | イエスの虚像 | 13:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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