ごきげんようチャンネル




そらになる心は春の霞にて よにあらじとも 思ひたつかな

西行



仮象にあざむかれる人間

『資本論』第一巻に、「対象的外観によってあざむかれる」という印象的な表現がある。

 

 

 

「一部のエコノミストが商品世界に貼り付いたフェティシズムまたは社会的労働規定の対象的外観によってどれほどあざむかれたかは、なによりも交換価値が形成されるに際しての自然の役割についての長たらしくて、愚かしくも子供じみた争いが証明している。
 

交換価値は、物に費やされた労働を表現するための、ひとつの限定された社会的作法であるのだから、為替相場と同じく自然的素材をまったく含むことはできない。」

 

(マルクス『資本論 第一巻』初版第一章。訳文は、筑摩書房版マルクスコレクションIII、2005年、321頁による。イタリックは引用者。この文は資本論第二版にもある。新日本出版社版なら、第一巻、140頁)

 

 

 

為替相場は、人間が社会的に共有する観念上の実在だが、実在はなんらかの「対象的外観」をもって人間の前に現れる。

 

問題は、外観から直接うけとれるものが仮象であることに気づかないことである。人間は、この仮象に「あざむかれる」。

 

言語学は、音声・文字という対象的外観からくみとれる意味あざむかれて、言語の規範たる概念、言語の実体たる認識、そして認識の実体たる認識力に思い至らない。

 

言語学だけではない。

 

歴史学は、個人や組織や生産物の対象的外観からくる個別性あざむかれて、歴史の規範たる生産諸関係、歴史の実体たる生産、そして歴史の実体たる生産諸力に思い至らない。

 

 

日常活動は、仮象のうえに成り立っている。学問は、その背後にある規範や実体に迫るべきものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
人間は人間のために生きているのではない

菩薩とは、「仏の位の次にあり、悟りを求め、衆生を救うために多くの修行を重ねる者」(大辞林)。

 

できたら菩薩になろう。そう思うことは大事だ。しかし、誤解もしやすい。

 

「悟りを求め、衆生を救うために修行する者」というと、「菩薩になるとは、人のために生きることであり、それは素晴らしいことだ」と思うかもしれない。

 

だが、それは順序がちがう。

 

菩薩は、人間のために修行するのではない。

 

菩薩は人間のためにも行動するが、それは人間が、自分が、「おおいなるもの」の構成部分になっていて、もともと自他の区別も、人と生物の区別もないことを知っているからである。

 

菩薩は、宇宙の構成部分として活動する。

 

だから菩薩には人間の愚かさも見えてくるし、人間のいとおしさも見えてくる。

 

仏教が教えているのは、つねに人間以前のおおいなるものへの尊崇と、あらゆるものの一体性から出発すること、それがもっとも底深いあり方だということなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 05:50 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
希望があれば遠い道も人は歩く

人間の歴史は、易行(いぎょう)の拡大であった。

 

たとえば仏教は、難行 the Difficult Path から易行 the Easy Path へと移行してきた。

 

「怒れる神」から「慈悲の神」へというルターの主張も、難行から易行への転換という性格をもっている。

 

ビジネスでも、「早い・安い」が売りになる。安易さを嘆く人もいるが、「早い・安い」が圧倒的なパワーをもつことは事実である。

 

 

いちばんいいのは、こういうやり方ではないか。

 

もともと道は遠い。遠いからこそ、ひとつひとつの行為を易行にすべきだ。「早い・安い」も方便(真実に至る仮の手段)である。それで人が希望をもてるならば。

 

ただし、ひとつひとつの易行が終点につながっていることを指摘しつづけることも大事だ。

 

希望がつづけば、遠い道も人は歩く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
人間の力を超えることは、観念上で解決するしかない

生老病死(四苦)に、愛別離苦、怨憎会苦など四つを加えて八苦。

 

たしかに、これらは不可避の現実で、人間は避けることができない。

 

だが、ひとつだけ解決方法がある。

 

それは、こうした不可避の現実をうまく解釈する観念をつくることである。

 

ここに、宗教の基盤がある。

 

また、宗教的な解決を放棄したり延期することも観念上の解決の一種であるから、無宗教も、不動の現実を観念の上で解決する方法の一種である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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現実に合致した認識が科学 現実を透過した認識が宗教

現実は、それ独自の法則にしたがって運動する。この運動じたいは科学ではない。

 

人間は、現実の運動の法則をつかむことができる。現実がしたがっている法則を正確に認識すれば、現実をより深く理解できる。現実を操作したり変質させたりすることも可能になる。

 

ここでいう現実とは、目に見える現象、五感で感知できる世界のことである。

 

科学は、現実認識を洗練させた概念の体系であり、人間の現実認識の規範となる。

 

現実と認識の合致。それが科学である(悪用もありうる)。

 

 

他方で宗教は、現実を透過する認識であり、絶対的存在がつくる世界を観念的に構築する。

 

科学を心の糧にしても、人間は生きられないこともある。芸術も虚しいことがある。

 

宗教は、人間に希望を与える観念上の認識である(悪用もありうる)。

 

おそらく宗教は、人間の観念がつくった最大の発明品だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「ご同行(どうぎょう)」の思想

真宗の信者のことを同行(どうぎょう)ということがある。お遍路さんの笠には、同行二人(どうぎょうににん)と書いてある。弘法大師と二人で巡礼しているという意味である。

 

この「同行」という発想は、人類史上、画期的なものだったし、今後も輝きつづける歴史の遺産である。

 

般若経系仏教の発想は、われわれは過去世ですでに如来(覚者)の候補生である菩薩になっており、何度も生まれ変わりながら如来になるための厳しい修行を積むのが仏道だ、ということだった。

 

菩薩であることが自覚できれば、立派だ。如来になれば、もっと立派だ。だが、それは至難のこと。これでは、菩薩にも如来にもなれない凡人は仏道から除外されてしまう。

 

そこで、鎌倉期あたりから、日本列島に新発想が登場した。

 

菩薩になるのは、あの世に行ってからでよい。この世のわれわれは、将来菩薩になり、如来になりたいと願いつつ、いまは「みなさんご同行」、つまり菩薩候補生という平等の立場なのだ、という考え方である。

 

あの世に引率されて菩薩になる手続きは、阿弥陀様がすでにやってくださったので、われわれが心配することはない。

 

絶対慈悲の存在を設定することで、菩薩になるタイミングを一段ずらし、肩の力を抜いた発想である。

 

平等の「ご同行」という考え方から、人間の権利上の平等(人権)という思想も導ける。人間どうしがいたずらに敵対する発想も回避できる。社会運営の基本方針もでてくる。

 

「ご同行」は、人類が長い年月をかけて到達した、すごい思想なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 06:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
武士の風格

先日、久しぶりに会った人に、

 

「あなたはやっぱり武士風ですね」

 

と言われた。前からそう思っていたらしい。

 

ちょっとスジ張っているという意味のようだが、いまさら武士でなくなるわけにもいかない。武士なら武士なりの風格をもてればそれでいいと思う。

 

もともと、その人ごとに風格というものがあるはずだ。

 

風格というのは、そういう開き直りの覚悟が生むものだろうと、このごろ思うようになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
” いっちゃった人” がボス 

以前の新聞に、川久保玲さんへのインタビューが載っていた(朝日新聞、2017年6月22日)。

 

 

 

「うちみたいな裏街道」

 

「新しいことをいつも探していることが使命です。探し続けるだけです」

 

「ファッションデザイナーはアーティストではありません。ファッションはビジネス」

 

「私の仕事は新しいものを作ってビジネスにのせることです」

 

 

裏街道をビジネスにするー これを読みながら思い出したのは、だいぶ前にテレビで、ドン小西さんが言ったセリフ。

 

有名人のファッションを批評するコーナーで、司会者が「ところで、ドンさん、ご自分のファッションを批評するとどうなりますか?」と水を向けた。するとドン小西氏が、

 

 

 

「オレはもういっちゃってるからさ」

 

 

 

思わず笑ったが、これは名言ではないか。

 

世の中には、いっちゃってる人がいる。川久保玲しかり、ドン小西しかり。

 

「普通」などすっかり忘れて、いっちゃってる。

 

先日、起業アドバイザーをしている人が、「スティーブ・ジョブズは、人が理解に苦しむくらい、IT製品づくりが好きだった。だから人がついてきたのだ」と言っていた。ジョブズも、いっちゃった人だった。

 

人生、いっちゃうのが正解なのだ。

 

いっちゃった人に、いまさら「もどってきて」とは誰も言わない。なぜいっちゃったのかもわからないから、ついていくしかない。

 

ついていくしかないとき、その人がボスである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:00 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
ミクロの世界は概念の世界 ハイゼンベルクの着想

量子力学の基礎を築いた物理学者・ハイゼンベルク(1901-1976)に、こういうエピソードがある。

 

彼は、ミクロの世界での物質のふるまいが、力学の法則に反しているようにみえることに悩んでいた。

 

そのとき思い出したのが、少年のころの記憶。

 

 

「プラトンは、正四面体とか正八面体のような、四つの正多面体が物質の最小単位だと考えた。プラトンほどの人が、どうしてそんなことを本気で考えたのだろう」

 

 

そう友人と話しあったことを思い出したハイゼンベルクは、次のように着想した。

 

 

「プラトンが言いたかったのは、形そのもののことではなく、ミクロの世界で物質は、質感のあるものというより、数学的対象のようなものになる、ということだったのではないか」

 

 

運動するミクロの物質は、人間の日常感覚から想像できる物質とはかけはなれた存在。つまり確率的な波動という数学的対象なのだ。

 

これが、量子力学の発想が生まれた瞬間であった。(小島寛之『算数の発想』NHK出版、2006年、21-22頁)

 

 

 

これは物理の世界では有名な話らしいが、人文社会系のわれわれも、知っておく価値のある話だと思う。

 

この発想によってハイゼンベルクは、<現象の奥の奥>にある概念の世界への扉を開いた。

 

学問(真)、宗教(善)、芸術(美)は、観念(感覚・感情・概念)という<現象の奥の奥>へと入っていく三つの門である。

 

人文社会系の学問は、一見もっともらしい体裁をとっているが、その実、目に見える形とか機能、つまり現象を整理しただけのものが多い。

 

人間や社会をあつかうとき、目に見えるものは研究に必要な現象ではあるが、それは本質的な研究対象ではない。本質的な研究対象は、数学的対象のように、目に見えない観念(感覚・感情・概念)である。

 

機能とか分類は、<現象の奥>ではあっても<現象の奥の奥>ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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壁は、窓を見つけさせるためにある

鎌倉新仏教の祖師と呼ばれる人たちには、ある共通点がある。

 

平安後期以来、武士や中下層貴族出身の僧たちが、万人の心の救済という新課題にいどんだ。

 

そうした僧たちは、みな自分の心のなかに壁をかかえ、それを越えようとして苦しみ、ついに小さな穴を発見するというプロセスを経る。

 

自分はわかっているが、それをどう他者に伝えたらいいか苦心する、というのではなく、自分自身、わからないから深く悩む、というところから出発している。

 

自分の心に高く分厚い城壁があって、中に入れない。くまなく探したが、どうしても門は見つからない。

 

門はないのだ...

 

そうはっきりわかったとき、小さな穴が目に入る。

 

のぞきこむと、壁の向こうがはっきり見えた。

 

あいかわらず、壁はそこにある。

 

だが壁は、私を拒否するためではなく、穴を見つけさせるためにそびえていたのだ。

 

壁の意味が変わる瞬間である。

 

のちの祖師たちは、この穴から見える光景を人々に伝えようとする。

 

新しい宗派の誕生である。

 

 

ブッダも、荒行を尽くしたあと、静かな禅定で目覚めたといわれる。

 

 

「ドアがなければ、窓をあければいい」というのは、オノ・ヨーコさんの言葉だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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