ごきげんようチャンネル


あきらけき かがみにあへば すぎにしも いまゆくすゑの こともみえけり

         大鏡


仏像はトランスを表現している

仏像は、宇宙のトランスを古代的に表現したものではないだろうか。

 

私がいうトランスとは、存在(宇宙)というものが、

 

 

 

       転体      客体

 

  ▽

 

           主体

 

 

 

こうした三角関係にあるという認識のこと(この図は、主体から出発して反時計回りに回転する)。

 

西村公朝師の大著『仏像の再発見 鑑定への道』(吉川弘文館、1976年)は、如来、菩薩、明王、天部という四種の仏像の相互関係を説明しているが、それはトランスの古代的表現だといえる。

 


如来=主体・客体・転体  この宇宙の森羅万象は、どこからか来て、仮の姿をとったものである。人間も花も鳥も山も川も、いま「そうであるかの如き」姿をしている。この世にあるすべてのものは、本質のわからない「如」(にょ)の世界から「来た」のだ。ゆえに、この世のすべてのものを「如来」という。26頁 上のトランスの図でいうと、如来とは、主体・客体・転体という契機(必然的通過点)にあたる。如来といい、主体・客体・転体というのは、すべてトランスのなかで現れる仮の姿(現象)である。

 

 

菩薩=主体・客体・転体どうしの客観的な関係  「われわれの周囲にいる各如来は、おたがいに助け合っているのです。その助けられたAと、助けてくれたBの関係は、BがAに対して菩薩になっているのです」「菩は香草(こうそう)、薩は救うという意味です」 たとえば「人と米の関係は、米は人に対しては菩薩になります」26頁 こうして、ある如来は他の如来の菩薩となり、世界が助け合っている。ならば菩薩とは、トランスの主体・客体・転体が互いに結ぶ投射・転態・反射という客観的な関係のことである。

 

 

明王=主体・客体・転体どうしを結びつける力   米は、「太陽と水、すなわち地・水・火・風・空の働きが加わって成長します。この偉大なエネルギーを明王といいます」26頁  明王は、如来・菩薩を生む宇宙エネルギーの擬人化である。ならば明王とは、トランスの主体・客体・転体を互いに結びつける力のことである。この力こそトランスをつくる当のもの、すなわちトランスの実体だといえる。実体は局面(上図の三つの辺=関係)ごとに性質が異なり、トランスではそれぞれを投射力・転態力・反射力と呼んでいる。

 

 

天部=本質あるいは規範   「こうした宇宙のバランスを護っているのが天部と解釈できるでしょう」26頁。 天部とは、トランスの真ん中にあって、トランスの運行をつかさどっている宇宙の本質、あるいは行動する人間にとっての規範のことである。

 

 

こうしてみると、如来という主役にみえるものが、じつは仮の姿であり、明王という脇役にみえるものが宇宙の実体であり、天部というガードマン的なものが宇宙の本質を象徴していることになる。このように自足した宇宙のトランス全体を、大乗仏教は「空」と呼んだ。

 

これら四種の仏像をすべて用いるのは真言天台の密教系寺院であり、禅宗や浄土系の寺院では仏像の種類がより限定されている。だがこうした「空」の宇宙観はすべての仏教のベースになっており、トランスの真ん中の本質に全身で直入しようとすれば禅宗、世俗にある人間の苦悩にフォーカスして、菩薩の力を一種類の如来に集約すれば、浄土系の思想になると考えられる。

 

仏像群は、古代インド発祥の宇宙観である。宇宙のあり方を一見無機質なトランス(上図)と見る現代の私からみると、仏像の姿は豊かに擬人化され、古代的で異国的だ。

 

いずれにせよ、古代の仏像群は、宇宙のトランスを洞察したものだと私は解釈したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
数字には四つの意味がある

統計学では、数字がもつ尺度(意味)に四種類あるそうだ。

〔承措榲…互いを区別するだけにつかう数字(いわゆる番号)。例・男は1、女は2。従業員番号125。

⊇臀尺度…数が示す順序(大小)に意味がある。例・嫌いは0、好きは1、大好きは2。売上成績3位。

 

,鉢△麓租データと呼ばれ、互いにかけ合わせるといった通常の計算ができない(計算しても意味がない)。そこで統計学は特殊な解析方法を開発している。

 

残りの二つは、


4岾崋榲…数の間隔に意味がある。例・体温36度。

と耄禺榲…互いに関連させて計算できる。例・身長175センチで体重90キロ。そこから肥満度が計算できる。

とい藁姪データといい、互いに通常の計算をして意味ある結果がえられる。

(涌井善幸『統計解析がわかった』日本実業出版社、2008年、156−157頁)
 

 

 

言われてみれば、なるほど、という感じである。

おもしろいのは、これをみると数字の意味は数字じたいが決めるのではないことだ。

数字の世界だけで完結する数学とちがって、統計学というのは人間にとっての数字の「意味」を解釈するための学問らしい。

 

これから数字をみたら「これは間隔尺度か、それとも…」などと考えてみよう。

 

 






 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:00 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
「われありと、われ思うがゆえに、われあり」 デカルトの明証について

デカルトの有名な言葉は「われ思う、ゆえにわれあり」だが、この言葉には、

 

「われありと、われ思う」

 

という意味が含まれている。英語なら、こうなるだろうか。

 

I think that I am.

 

この文には”I”が二個ある。最初の”I”は、自己が話し手の意識のなかに見出した自己つまり自己’であり、二つめの”I”は、この自己’が存在を認めた自己つまり自己’’である。

 

”I”をめぐる観念のトランス(自己から自己’へ、さらに自己’から自己’’への二重の超越)は、生身の身体から自立した観念の世界でおこなわれている。観念上、とくに明瞭なのは、”I am” という意識の存在根拠が、”I think"  していることにあるということである。もし "I think" が存在しないなら、"I am" もないだろう。

 

これらふたつの ”I” の関係を表現すると、

 

I think, therefore I am.

 

となり、「われ思う、ゆえにわれあり cogito, ergo sum」となる。


この 自己’と自己’’ の関係は、どの個人にとってもつねに成り立つから、観念の世界が肉体とは別に存在することの証明になる。

 

そうデカルトは考えたのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:01 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
弁証法からトランスへ

「弁証法」というのは、存在がもつ<主体ー客体ー転体>という自己超越の原理のことである。これは現代的に「トランス trans」(私の造語)と呼んだらどうかと思う。

 

従来、弁証法的な関係といわれるものには、次のようなものがあった(例として、マルクス『経済学批判』岩波文庫版、301-302頁に記されたロジックがある)。

 

 

反映(相手が先に存在し、その模造として自分が存在する関係。例:概念)

変革(自分が先に存在し、その影響として相手が存在する関係。例:師弟)

 

 

直接的同一(対向する二つが力を及ぼしあってひとつの関係をなす。例:売買)

媒介的統一(二つのものの中間に媒介をはさんでひとつの関係をなす。例:てんびん)

過程的統一(三つ以上のものが順次媒介しあってひとつの関係をなす。例:時計)

 

 

相互浸透(互いが互いの媒介となって発展する関係。例:親友)

相互移行(互いの立場が入れ替わることで発展する関係。例:スポーツ)

 

 

 

これらは、<主体ー客体ー転体>という自己超越=トランスの組み合わせ方の例である。ひとつのものがふたつ以上の関係を兼ねることもある。局面が変わると関係も変わる。

 

トランスは、マルクス『資本論』から私が抽出した論理の細胞のようなもの。

 

だが、こういうものには、時代の関心が薄いようにみえる。それはヘーゲルの時代でも同じだったらしく、彼は論理学を自嘲ぎみに「影の王国」と呼んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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妖怪としての世界

卵がどうして魚になるのか。種から実がなるのはなぜか。どうして人間が地球にいるのか。

 

思想家で、妖怪学の祖としても知られる井上円了(1858-1919)は、宇宙の万物はことごとく不思議つまり妖怪であって、小石も水も妖怪だと言った。

 

存在とはトランス(自己超越)だといっても、ではなぜトランスなのかと問われれば、不思議だけれどそうなのですと答えるしかない。

 

角度はちがうが、この世のものは本性にしたがって存在するだけだという、スピノザ(1632-1677)の言葉がある。

 


「善いとか悪いとかはただ相対的に言われるのであり、同一事物でも異なった関係によって善いとも悪いとも呼ばれる。完全だとか不完全だとかいうのも、これと同様である。どんなものも、その本性においてみれば、完全だとも不完全だとも言えないであろう。生起するいっさいのものは永遠の秩序にしたがい、一定の自然法則によって生起する。」(スピノザ(畠中訳)『知性改善論(1677年)』岩波文庫版、17頁)

 

 

個々の人間も本性にしたがい、それぞれ妖怪として存在している。この出発点において、人間はみな平等だ。

 

万物不思議とは、素朴だが正確な事実認識だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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われわれは人のために生きているのではない

「人間性とはいかなるものであるか。

 

われわれは人のために生きているのではない。社会のためにでも世界のためにでも、世界人類のために生きているわけでもない。

 

それを世界人類のために生きているような考え方を持たねばならぬように訓練されてきているわけです。

 

しかしこういうものに、われわれは左右されてはいけないのです。いつでも一人のときに、一人の生活の中に、道というものが厳然となければならないのです。」

 

(橋本凝胤(薬師寺管主)「人間の生きがいとは何か」より)

 

 

この文には、どこか真実の力がある。

 

<他人の人生を生きるな  Don't waste your time living someone else's life.  >というスティーブ・ジョブズの言葉があるが、他人の人生どころか、世界人類のためにも生きない。

 

人間のスケールを超える。

 

この気概、買うべし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
聴衆も音楽を演奏している

コンサートの聴衆は楽器をもっていない。受け身の存在のように見える。

 

だが、ほんとうに聴衆は演奏していないのだろうか。

 

聴衆が演奏から自分の意識をつくる過程は、聴衆が主体的におこなうプロセス。それは一種の演奏といえるかもしれない。

 

演奏ならば、規範が存在するはずだ。たしかに、聴衆はスコアという規範を見ていない。しかし聴衆にとって、聴こえてくる音響のほかに、会場の雰囲気、椅子の座り心地、天候、時間、価格、演者、音響状態、作曲家についての知識など、意識をつくるさいに参照する規範は多数存在する。

 

そしてなにより、聴衆がいなければコンサートは成り立たない。

 

やはり聴衆も演奏している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:00 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
「古池や...」は禅問答だった!

岡本聡「芭蕉の死生観」(『国文学 解釈と鑑賞』2008年3月号)によると、多くの傑作を生んだ晩年十年間の芭蕉(1644-1694)の精進は、禅の境地を表現するところに眼目があった。

 

岡本論文によれば、芭蕉は1680年、36歳のとき臨済僧・佛頂(ぶっちょう)和尚(1643-1715)に出会い、初めての旅に出て、『野ざらし紀行』を著した。それ以来、50歳で死去するまで、芭蕉は佛頂和尚の弟子であった。145頁。

 

「野ざらし」とは、野外に死体が捨てられ白骨化することをいう。『野ざらし紀行』というタイトルは、彼が「本来無一物」という禅の境地に深く共感していたことを示唆している。142頁。

 

 

岡本論文に紹介された逸話がある。

 

 

ある日、佛頂和尚が芭蕉庵を訪ねて、庭を見ながら、

 

「近日何か有り」

 

と和尚が尋ねると芭蕉は、

 

「雨過ぎて青苔(せいたい)を洗ふ」

 

と答えた。

 

芭蕉の気合いを感じたのか、佛頂和尚はここで公案に転じ、

 

「青苔いまだ生ぜざる前の春雨、春雨いまだ来たらざる前の佛」

 

と質した。

 

すると芭蕉は、「池辺の蛙一躍して水底に入る音」がしたのをとらえて、

 

 

「古池や蛙飛び込む水の音」

 

 

と答えたのであった。

 

佛頂和尚は、

 

「珍重(ちんちょう)珍重」(大変結構だ)

 

と唱え、携えていた如意(先端が曲った棒)を芭蕉に授けた。

 

 

 

 

この逸話を読むかぎり、名句「古池や…」は、居士(在家の禅修行者)としての芭蕉の応答にほかならなかった。

 

 

 

 

 

 

佛頂和尚と芭蕉の子弟関係は以前から知られているし、芭蕉の晩年の旅が禅の境地と深い関係があることも広く認められている。

 

しかし、芭蕉晩年の句作が禅の実践そのものだったという突き詰めた認識は、あまり一般的ではないのではないか。

 

たとえば、復本一郎『芭蕉古池伝説』(大修館書店、1988年)は、「古池や…」の一句だけを追求した研究書で、そこには前に引用した佛頂和尚と芭蕉の問答も紹介されている。

 

しかし復本氏は、芭蕉がこの句をもって禅の境地に了悟したという見方は「純然たるフィクション」だと結論づけている。91頁

 

その根拠は、このエピソードを伝える文献が1762年以降のもので、芭蕉当時からだいぶ時間がたっていること、同様のエピソードを記した文献が何種かあり、それぞれに脚色され、統一性に乏しいことから、どれも信頼できないと考えるべきだからである。

 

しかし、前出の岡本論文は、だからといって「古池…」の禅問答起源説を「切り捨ててしまうのは実に惜しい」という。(岡本前掲論文、144頁)

 

じっさい、佛頂和尚が芭蕉に授けた如意は現存しており、そこには「桃青」(芭蕉の別名)「佛頂書」などの文字が記されている。佛頂和尚と芭蕉が禅問答をしたことは事実である。(岡本前掲論文、147頁)

 

なお、このとき、佛頂和尚への芭蕉の応答は「蛙飛び込む水の音」だけであって、「古池や」はあとで弟子たちと検討した結果、「寂しさや」「山吹や」などの候補をしりぞけて付加されたものだと述べる江戸期の文献もある。(復本前掲書、87頁)

 

そうだとすれば、「古池や…」の句は禅問答における芭蕉の即興的応答に、句作上の工夫も加えて成立したもので、いわば宗教と文芸の混合物だったことになる。

 

 

 

 

 

 

「古池や…」の本質が禅の境地であったとすれば、その境地とは、次のようなものであった。(以下、岡本論文146-147頁をヒントに私がまとめたもの)

 

 

蛙の飛び込んだ音が聞こえた。すでに蛙の姿は見えない。いまは池に波紋が残るのみである。

 

蛙は「四大」(地水火風)が仮合(かごう)した仮の姿=「空」であり、空たるものの存在は、一瞬の音によって知られる程度のものである。

 

そして空が消失した今、池の波紋が仮合以前の真実=「無」を示している。

 

 

 

以上の解釈には、いくつか注釈が必要であろう。

 

◯ この句では、蛙が池端で身構えていたり空中に飛ぶ様子ではなく、水底に見えなくなったあとをイメージすべきこと。

 

芭蕉自筆とされるこの句の自画賛がいくつか伝わっており、その多くに蛙の姿が描かれている。復本前掲書は、そのうち少なくとも二例を芭蕉の真筆と認めているようだが、今栄蔵氏によれば、蛙が描かれているものはすべて贋作である。(岡本前掲論文、146頁)

 

たとえば、井本農一『芭蕉入門』(講談社学術文庫、1977年)に紹介された自画賛では、蛙の姿はなく、池のなかに波紋だけが描かれている。

 

じっさい、「水の音」がするのは蛙が飛び込んだ後であるから、池の波紋だけを描く境地を芭蕉の真意とすべきである。(岡本前掲論文、146頁)

 

 

◯ 上記の「空」と「無」の把握は、佛頂和尚が説いた内容と合致すること。

 

雲厳寺蔵『佛頂和尚法語』に、次の語がある。

 

「即空トハ万形悉ク即空ナリト観ジテ、万般ノ迷ヒノツキ去ルヲ云フナリ。万形トハ四大ノ仮和合ナリ、本分無相ノ道体ノ仮リニ変作スルヲ云フ。…

 

然ルニ古今愚妹ノ衆生ハ、天理自然ノ定理ニタガイ、仮相ヲ執シテ実相ナリトアヤマリ来ル、故ニ生ヲ愛シ死ヲ憎ムナリ。」(岡本前掲論文、146頁)

 

 

 

 

「古池や…」は、蛙の姿や水音のユーモラスなイメージも手伝って、口コミで世間に広がり、江戸期にすでに有名な句になっていた。(復本前掲書、65頁)

 

そして「名句」との評価が高まる反面で、「空」に縁遠い庶民の現世感覚がはたらき、「古池へその後飛びこむ沙汰もなし」など多数の戯作や自画賛の贋作が流布した。

 

芭蕉の境地は、直弟子たちでさえ十分に理解しなかった(理解しようとしなかった)形跡がある。弟子たちは、芸事としての句作が、難しい禅の修行へと変質してしまうことを、無意識のうちに危惧したのかもしれない。

 

むろん、芭蕉は僧侶ではなく誹諧師だったから、彼の表現は常に俳句として昇華していった。そして俳句へと昇華したからこそ、どんな名僧の言葉よりも「古池や…」が人口に膾炙したのであった。

 

 

 

古池に蛙が飛び込むように、晩年の芭蕉の旅は「空」たる自己が「無」へと帰るプロセスを体験するための、本気の没入でもあったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
永遠のプロセスに入れ 薬師寺再建の真実

客観的な結果は目に見える。だが、目に見える結果は一時的なものだ。

 

本質は、目に見えないプロセス。目に見えないから永遠へとつながることができる。

 

奈良薬師寺が金堂を再建しようとしたとき、大手企業から巨額寄付の申し出があったが、管主・高田好胤さんはこれを断った。庶民に写経を呼びかけ、それを薬師寺に永久保存しながら資金を集める道を選んだのだ。時間はかかったが、10億円の費用は無事に集まった。

 

庶民に写経を呼びかけるという地道なプロセスに意味がある。あえて遠い道を選ぶほうがいい。高田好胤さんは、そう確信していたという。

 

永遠の解決に入っていること。それが解決である。

 

完成への永遠のプロセスのなかにいること。それが完成なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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事実は信じることで真実になる

 嵬斉3時から会議だ」

 

という観念と、

 

◆岷生したら極楽浄土に生まれる」

 

という観念とは、どこがちがうか。

 

,聾充太こΔ膿慎兇解決するが、△牢冉粟こΔ膿深造反じることができるだけで、現実世界で真偽が解決できない。

 

ならば、

 

「ねがはくば 花のもとにて 春死なむ その如月の望月のころ」(西行)

 

という観念と、△痢岷生したら極楽浄土に生まれる」という観念とは、どこがちがうか。

 

「春死なむ」とか「その如月の望月のころ」は、現実世界にありうることについての観念だが、△六犖紊里海箸砲弔い討隆冉阿任△襪箸海蹐ちがう。

 

だが、´↓のどれも、現実に存在した人間が、観念のなかを写して送った文字群(写メ)であることは共通している。

 

極楽浄土は、現実に存在した人間による、空想・瞑想のなかでの写メで、そういう空想・瞑想をした人間がいた事実は否定できない。

 

してみれば、観念の真実性は、それをどれほど強く信じた人だったかという、実在の人間のあり方に基礎がある。

 

事実が真実になるには、信じた度合いが関連している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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