ごきげんようチャンネル


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         大鏡


地球上最後のオス犀が死んだ

TIME 誌の編集者が選んだ、2018年の報道写真100 選  The Top 100 Photos of 2018 が発表された。

 

なかでも印象的な一枚がこれ。

 

犀(さい)の一種の、地球上最後のオスが、今年3月に死ぬ直前のショット。

 

 

 

 

 

Joseph Wachira, 26, comforts Sudan, the last male Northern White Rhino on the planet, moments before he passed away in March.

 

Joseph Wachira, 26, comforts Sudan, the last male Northern White Rhino on the planet, moments before he passed away in March.Ami Vitale—National Geographic Creative

 

http://time.com/2018-photos/?utm_source=time.com&utm_medium=email&utm_campaign

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「生命」は、生物という表現態が人間の認識と等置されて放つ意味

生物は、生物の生命力がみずからの肉体に連関してできる生産物であり、組織体であり、表現態である。

 

人間は、生物を生産物(→商品)として扱うこともできるし、組織体とみなすこともできるし(生物学)、表現態(生命力の表現)とみなすこともできる。

 

「生命」とは、生物を生命力の表現態とみなす人間の認識と等置したときに、人間が得る対象の意味である。

 

主体は、客体を自分と同類のものとみなして連関する。

 

人間が、生物を「生命」あるものと認識するのは、人間自身が生物であり、自分が「生命」をもつと人間が自己認識しているからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
人間だけが対象を意識と物質のペアでとらえる

「私は、おそらく生命科学は、将来が暗いのだと思います。... 遺伝子はただの化学物質で... 複雑な生命活動を可能にしている生物特有の何か... が発見されるということは、おそらく、もうないと思います。」

 

これは、日本科学界の重鎮・吉川弘之氏の発言である。

 

吉川氏は1933年生まれ。東大総長、放送大学長、日本学術会議会長などをつとめた人で、専門は、一般設計学という工学分野。(上の引用は、『吉川弘之対談集 科学と社会の対話 研究最前線で活躍する8人と考える』丸善出版、2017年3月、45頁から。吉川氏の経歴は同書奥書による)

 

吉川氏の発言の主旨は、生命科学の発達によって、生命に特有の「何か」が発見されるかとも思ったが、どうやらたんなる化学反応、あるいは物理現象しか解明できそうにない、ということではないかと思う。

 

吉川氏は、同書で次のようにも述べている。

 

「私の研究している工学について言うと、なぜ人間はこのような [気候変動を引き起こすような] 人工物をつくるのかという疑問があって、それについては手がかりすらなく、何もわかりません。」46頁

 

この問題提起に対して、対談相手の村山斉氏(カリフォルニア大学バークレー校、物理学)は、「ニーズがあるというのが理由では?」と応じている。これに対して吉川氏は、こう答えている。

 

「もちろんそうですが、その『ニーズ』とは何かという問いに対して、科学的に記述できないんです。『役割』というのも、物体でもなければ精神でもない。やはり科学では説明できません。」47頁

 

 

...

 

 

「生命」とか「ニーズ」とか「役割」が「科学的に説明できない」という吉川氏の告白をどうみたらいいか。

 

人間にとって、この世界は意識と物質がペアとなった運動である。物質が物質にとって実在するように、意識は意識にとって実在する。意識なきものにとって、意識は実在しない。

 

物質が意識をもたないことについて、マルクスはこう書いている。

 

 

「これまでのところ、交換価値を真珠やダイヤモンドのなかに発見した化学者はひとりもいない。」(マルクス『資本論』初版、江夏訳、322頁。第二版では岡崎訳154頁)

 

 

遺伝子じたいは、物質どうしが関係しあっているだけである。遺伝子は生命の基盤であるが、遺伝子をいくら化学的・物理的に解明しても、そこに生命や意識が「発見」できるわけではない。

 

「ただの化学物質」(吉川氏)としての遺伝子にとって、「生命」は実在しないのである。

 

人間の認識力が、遺伝子に生命や意識の実在を見てとる。

 

 

...

 

 

「生命」とか「ニーズ」とか「役割」は、人間にとって音声・文字による表象であり、概念であり、その表現態が放つ意味である。これらの表象、概念、表現態、意味は、意識をもつ人間にとって実在する。

 

「生命」とか「ニーズ」とか「役割」は、人間にとって「物体でもなければ精神でもない」(吉川氏)のではない。それは表現態という物体であり、かつ概念、意味という精神である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:00 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
現実世界は関係、観念世界も関係 そして二つの世界が関係しあう 

現実の世界は、物質的・生物的な関係によって成り立っている。たとえば、万有引力や食物連鎖は、現実の世界がもっている客観的な関係である。

 

他方で、観念の世界は観念的な関係でできている。たとえば企業は、その企業の規範にしたがう意志(観念)をもつ人びとの行動によって成り立つ観念的な関係である。

 

現実の世界と観念の世界。人間にとって、二つの世界はともに実在する。

 

そして現実の世界と観念の世界は、互いに独立しながら依存しあい干渉しあっている。

 

学問と宗教は、この二つ世界の独立・依存・干渉を意識的に調整する手法である。

 

学問は、現実の世界の本質(運行規範)を鮮明に反映した観念の世界を構築し、その観念の力を得た人間が、現実の世界を変革することを応援する作業であり、そのための組織である。

 

宗教は、現実の世界を超越する観念の世界であり、その観念の力によって人間が希望をもって現実の世界を生きるための観念であり、そのための組織である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
自己は個人のものではない

自己と、その認識力は、表現態をつくる主体である。

 

個人の肉体が滅びると、その人の自己も消滅するから、その意味で自己は個人的なものではある。

 

労働力も、具体的には個々人がもつ能力である。

 

だが、社会的平均的な能力としての労働力というものも考えられる。「時給850円」といった一律の基準がなりたつのも、社会的平均的な労働力の存在を示唆している。

 

自己も、年齢や地域に相応の、平均的な自己というものを想定することができる。つまり、労働力と同じく、自己は社会的な存在でもある。

 

自己は開放されており、社会的にシェアされてもいる。

 

ならば、子や孫や他人に「託す」ことで、自己を継承してもらうこともできる。

 

そう思うと、少し気が楽になるような感じもする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
学問は日常的意味の奥にある概念の世界の構築

数学では、次のような表現がある。

 

1=0.999…

 

右辺は、無限に9 がつづく。これと " 1 "がイコールだといわれても、日常的な感覚では納得しにくいところがある。

 

だが、これは簡単な証明が可能で、まず

 

1/3=0.333…

 

が納得できるとすれば、両辺に3をかけると

 

1=0.999…

 

となる。

 

この証明のミソは、ひとつのものを三人で平等に分配する場合のように、1/3=0.333… という日常的にありうる体験に訴えてから、両辺に3をかけるという数学的(=概念的)操作を加えていることにある。

 

1=0.999… は概念の世界では正しくても、この表現のままでは納得しにくい。1/3=0.333… という、日常的な意味に近い例なら、少しわかりやすく感じる。

 

われわれは日常、いろいろな表現が伝える意味の世界に生きている。だが、物理でも工学でも医学でも、勉強がすすむと、もはや日常的な言葉では説明されない。人文・社会系の学問では、日常的な言葉もよく使われるが、構築しようとしているのは概念の世界である。

 

学問をするということは、日常的な意味の世界をこえて、概念の世界に入るということである。

 

学者は外界の意味の世界(日常世界)と、研究室の概念の世界をたえず往復している。

 

有名な学説とは、深い意味と高い概念をたくみに(セクシーに)結びつけたもので、相対性理論はその代表例である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:00 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
dia- と trans- 弁証法は自己超越

「弁証法」は、英語で dialectic とか dialectics という。

 

研究社新英和大辞典の dialectic の項には、語源となったギリシャ語の語義として "the art of debate"  とあり、同辞典の dialectics の項には、”対立する考えを並置しつつ、それらの対立を巧みに解決する説明の仕方” といった説明もある。

 

英英辞典をみても、dialectic  とは、"a method of discovering the truth of ideas by discussion and logical argument and by considering ideas that are opposed to each other."  と、同趣旨が書いてある(OALD)。

 

「弁証法」という邦訳は、複数の異なる立場から論をたたかわせることを通して、ある明を共有する技術・方、といった原意を表そうとしたものだろう。

 

注目したいのは、dialectic の元になっている dialect (会話・方言)のギリシャ語原意は、dia- (横切って)+lect(話す)だということである(ジーニアス大英和辞典)。

 

他方、trans- は translate などラテン語系語彙の接頭辞として現在も造語力があり、原意は"on the other side of "(ものの裏側に)(Wiktionary)である。そこから、trans- は、 "across, beyond, into another place or state" といった概念を表す(OALD)。

 

ラテン語系の trans-(超越)は、ギリシャ語系の dia- (横切って)と語義が共通している部分がある。trans- も dia- も、自己超越(それ自身の構造=矛盾によって変化する)という存在のあり方を人間が洞察しようとした、古代以来の痕跡なのだ。

 

直接的同一、直接的統一、媒介的統一、過程的統一という古典的な弁証法 dia- 的関係は、トランス trans という<主体ー客体ー転体>の三項関係に包摂できると私は思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
弁証法的な関係にはどんなものがあるか

従来、弁証法的な関係といわれるものには、次のようなものがあった(例として、マルクス『経済学批判』岩波文庫版、301-302頁に記された一連のロジックがある)。

 

 

 

 

直接的統一(二つのものが媒介なしに先後関係をなす)

 反映(相手が先に存在し、その模造として自分が存在する関係。例:知覚)

 変革(自分が先に存在し、その影響として相手が存在する関係。例:師弟)

 

 

直接的同一(一つのものにふたつの側面がある。例:表と裏)

 

 

媒介的統一(二つのものが互いを媒介として一つの関係をなす)

 相互移行(互いの立場が入れ替わることで発展する関係。例:スポーツ)

 相互浸透(互いが互いの媒介となって発展する関係。例:親友)

 

 

過程的統一(三つ以上のものが順次媒介しあってひとつの関係をなす。例:時計)

 

 

これらの弁証法的関係は、矛盾(違うものが同時に関係しあって存在していること)を含んでいて、この矛盾が原動力となって次の段階へと発展していく。

 

こうした矛盾とその発展は、<主体ー客体ー転体>という自己超越=トランスの関係に含まれている(トランスじたいは三項関係なので、上記のパターンのなかでは過程的統一にあたる)。

 

トランスは、マルクス『資本論』の価値形態論から私が抽出した論理の細胞のようなもの。

 

これらの弁証法的関係は、現代的に「トランス trans」(私の造語)と呼んだらどうかと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
概念は認識が無限に接近する対象

むかし、

 

 

1=0.999....

 

 

という話をどこかで読んで腑に落ちない感じが残った。

 

たしかに 0.999... は 1 にどんどん近づくだろうが、1とイコールだと断定されると、「ほんとか?」と感じたのだ。

 

そこで知り合いの物理学者に聞いたら、両辺を0.999... で割って、

 

 

1÷0.999...=1

 

 

 

と考えたらどうかとアドバイスされた。

 

 

これなら左辺はたしかに1に「無限」に近づくから、それはけっきょく1と同じだと言われれば、ちょっと納得しやすくなる。

 

すべての数字は、それに無限に接近する過程を含んでいる。いや、数とは、それに無限に接近する過程そのものだという思想が、ここにはあるようだ。

 

これは、言語が表現する概念も同じではないか。

 

概念は、現実には人の認識として実在する。概念によって認識する人間がいなければ、概念はないのと同じである。人間の認識は、表現されて社会的に試される。表現が試されることによって、認識の規範たる概念が洗練されていく。

 

人間行動の規範たる道徳に完全に合致する人がいないように、具体的な認識は規範たる概念と完全には一致しない。むしろ認識とは、概念へと無限に近づくプロセスではないだろうか。

 

概念とは、概念に無限に接近する認識の過程そのものかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「矛盾」は対象認識のコツを教える概念

ひとくちに「矛盾」といっても、いくつかの層がある。

 

 

現実の矛盾  例:異なる政治勢力どうしの対決、内部に反乱勢力がいる組織。

 

表現上の矛盾  例:それが「好きだ」と言い、同時に「嫌いだ」という。「砂漠の球」のような突飛な表現。

 

概念上の矛盾  例:同じ人が誰かの父であり、同時に誰かの子である、ひとつのものに上があるということは、下もあるということ。

 

 

どれも、ちがうものが同じ時点で同居していることを指している。(以上は『ヘーゲル用語事典』未来社、1991年、105-106頁を参考にした)

 

 

基本になっているのは、,里茲Δ法現実じたいが矛盾していることだろう。それをそのまま表現すると、△良集従紊量圭發箸覆蝓△修良集修蓮↓のように互いに矛盾する概念による。

 

こうともいえる。L圭發垢覲鞠阿存在するから、表現上の矛盾をつくりだすこともでき、仝充造量圭發鯒Ъ韻垢襪海箸發任る、と。

 

 

こうした矛盾の論理になじむと、認識と表現の作法が一段上がる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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