ごきげんようチャンネル

鳥倦飛而知還 鳥 飛ぶに倦みて 還るを知る


陶淵明・歸去來兮辭


価値形態論をトランスで解く

下図のように、労働主体(労働力)は労働対象を商品すなわち相対的価値形態へと転体させる。

 

 

 

 

 

         相対的価値形態      労働対象

   ▽

              労働主体(労働力)

 

 

上記の右辺は労働力の生産的消費(労働)。上辺は消費的生産(生産)。左辺に価値が発現する。

 

では、等価形態はどこにあるのか。それは、トランスの中心、規範の位置にある。価値形態論に必要な部分だけを描くと、次のようなトランスになる。

 

 

               

 

              相対的価値形態

   ▷ 等価形態

              労働主体(労働力)

 

 

 

 

このトランスでは、上の頂点の相対的価値形態が主体となって、右の頂点の等価形態に投射することによって、相対的価値形態の価値が労働主体(労働力)に反射される。

 

マルクス『資本論』の価値形態論の I ~ IV の諸段階は、特定の商品が一般的等価形態すなわち全社会一律の規範となるプロセスの叙述である(これは特定の表象をもつ概念が、社会的規範として成熟するプロセスとパラレルである)。

 

資本主義段階では、国家の経済圏内のあらゆる商品が、規範たる法定貨幣によってみずからの価値を一元的に表示する。

 

それ以前の時代では、地方によっていろいろな物品が貨幣の役割を果たした。また、権力からみた貨幣的物品と、庶民からみた貨幣的物品が異なることもあった。たとえば、日本では米が古代から貨幣的地位にあったと考えるのは空想である。それでは日本史はいきなり資本主義になってしまう。江戸時代には金属貨幣がかなり流通したが、おそらく権力からみれば米も貨幣的な富の等価形態であり、庶民は、貨幣や米以外の物品もしばしば貨幣的に用いたのではないか。江戸末期から明治初期まで、日本では価値形態 II あるいは III の時代がつづいたのだ。

 

その意味で、価値形態論の行論は、歴史そのものの象徴的叙述でもある。

 

商品の価値が一元的に一般的等価形態すなわち貨幣によって表示される価値形態 IV の段階。人間までもが労働対象になり商品になり、「価値」を測られる段階。それは、一般的等価形態すなわちあらゆるものの価値を測る規範たる統一貨幣が確立する時代である。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
観念化しないと規範にならない

感覚・感情・概念。これが観念だが、観念になったものは表現・行動・労働の規範になれる。観念化しないと、規範にはならない。

 

路上に石があるとき、これを認識し観念化すれば、「よけて歩け」という規範になる。

 

石に気づかずつまづくのは、歩行という観念世界にある人間に、石という物質が横入りしてきた事件であって、この場合の石は規範ではなく、別次元からの強制である。

 

情報が重要であるゆえんは、ここにある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
小説も絵画も多重自己の世界

人間が生きているということ。それは「自己分裂」(三浦つとむ)つまり自分から自己が分離するということとほぼ同義である。

 

いったん<自分から自己が分離する>と、<自己から自己’ が分離する>ことも可能になる。さらに、<自己’ から自己’’ が分離する>ことも可能である。どれも観念上同じ運動すなわち「自己分裂」だからである。

 

小説家の自己は、自分の意識のなかに主人公自己’ を見出す。この自己’ が " I'II kill him." とつぶやいたとき、この”I”は、主人公自己’から分離した自己’’ である。

 

この自己’ は、人間でなくてもよい。絵画のなかのリンゴでもよい。リンゴが自己’ となり、テーブルや皿を自己’’ として、画面を構成する。

 

言語では、この自己’ が「主語」あるいは主題である。上記の文でいえば、" I'II kill him." は、自己’ たる”I” を中心に構成された概念である。もちろん、自己’ の背後には自己がいるが、小説の場合、この自己(主人公)は、小説家が生んだ自己’ なのであった。

 

何重もの自己分裂。すなわち、次々に自己を分離し作動させる能力。これが「私」であり、人間を人間たらしめているものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:00 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
たんなる「個人」に誰も興味はない

表現の主体が「自分」だとか「個人」だとかいう意識は昔からあるが、近代になってとくに強くなったものだろう。

 

「個人」が表現の主体だという発想には、あやういところがある。個人は社会のなかにあるから個人であり、完全に独立した個人というものは存在しない。また、ただの個人に、誰も興味はもたない。親は、それが自分の子という社会的立場にあるから、その子に興味をもつのだ。

 

表現の主体は、個人ではなく自己である。自己は、個人が社会の概念を身内にとりいれてつくった、社会的存在である。表現は、社会的立場があってはじめて意味が出てくる。

 

『精神現象学』だったか、ボヘミアン的生活というのは青年の幻想であって、人間は社会的立場を確立することが重要だというようなことをヘーゲルが言っている。

 

ここで言いたいことは、表現の主体は抽象的な「個人」ではなく、自己という観念的実在であって、自己は社会的に形成され、他者に認められて表現力を発揮するものだということだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
自己は個人のものではない

自己は、意識諸形態をつくる主体である。

 

自己というと、個人的なものというニュアンスもある。じっさい、個人の肉体が滅びると、その人の自己も消滅するから、その意味で自己は個人的なものではある。

 

だが、自己とは概念を参照しながら自分の意識を認識し表現する主体である。それは、労働力が労働規範にしたがいながら労働対象を商品に仕立てることと同じである。

 

労働力は、具体的には個々人がもつ能力であるが、社会的平均的な能力としての労働力というものも考えられる。「時給850円」といった一律の基準がなりたつのも、社会的平均的な労働力の存在を示唆している。

 

自己も、年齢や地域に相応の、平均的な自己というものを想定することができる。つまり、労働力と同じく、自己は社会的な存在でもある。

 

だとすれば、死とともに個人の肉体は滅び、私の自己も滅びるが、自己は概念運用の主体という普遍的な概念だから、社会には自分の自己に似た自己が存在する可能性がある。

 

だから、たとえば自分の子や孫に「託す」ことで、自己を継承してもらうこともできる。

 

自己は完全に個人のものではない。自己は開放され、社会的にシェアされるものである。そう思うと、少し気が楽になるような感じもする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「われありと、われ思うがゆえに、われあり」 デカルトは観念のトランスに気づいた

デカルトの有名な言葉は「われ思う、ゆえにわれあり」だが、この言葉には、

 

「われありと、われ思う」

 

という意味が含まれている。英語なら、こうなるだろうか。

 

I think that I am.

 

この文には”I”が二個ある。最初の”I”は、自己が話し手の意識のなかに見出した自己であり、二つめの”I”は、この自己が存在を認めた自己、いわば自己’ である。

 

二つ目の”I”にとっての存在根拠は、最初の”I”が think していることにある。もし"I think" が存在しないなら、"I am" もないことになる。

 

もとより、 "I think" といい、"I am" というのは、物質性を離れた観念の世界のことである。つまり、”I”をめぐる観念のトランス(自己超越)は、生身の身体から自立した世界でおこなわれており、その範囲では「われ」の存在を疑うことはできない。

 

この関係を表現すると、

 

I think, therefore I am.

 

となり、「われ思う、ゆえにわれあり cogito, ergo sum」に近づく。


 

観念のトランスの主体は自己である。自己はデカルトの身体で起った観念であるが、自己は誰もがもっているから、自己はデカルト個人のものではないはずである。

 

デカルトは、この自己に、神の創造の手、神の出張所としての人間の本質をみたのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
死は概念である

死の定義は「不帰」(ふき)。もう生き返らないことだという話を聞いて、ハタとひざを打った。

 

不帰とは「もう生きない」こと。「生」の逆を言っただけなのだが、これほど正確な「死」の定義もなさそうだ。

 

呼吸、脈拍、瞳孔の三点セットとか脳死とかが話題になるが、それは死の定義ではなく、「不帰」の判定方法にすぎない。

 

もちろん、肉体なき人間が概念をもつことはない。生も死も、肉体なしには存在しない。肉体的現実としては、呼吸や心臓が止まってからも、しばらく髪や爪は伸びるという。物質としての肉体は、焼いても腐敗しても物質でありつづける。とはいえ、物質的構造としての肉体は「不帰」となる。

 

そのとき、概念としての自分が「不帰」であるかいなか。そうなのだ。肉体の死のほかに、概念としての死があるのだ。

 

ならば、死の恐怖を克服するには、人は永遠に生きつづけるのだという概念をつくればよいことになる。

 

死んだらすべて終わりで、あとはなにもないという人がいるが、これも概念の持ち方で決着をつけているという意味で、永遠の生を信じる人と同種のやり方である。

 

肉体の生と死は、個人にとって運命である。われわれの肉体は望まずして生まれ、名残惜しく死ぬ。

 

だが、概念としての生と死は、概念で解決できる。じっさい、生と死の問題を解決するための概念がいくつも提案されてきた。それが宗教である。

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 08:20 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
年をとると自信を失う

60歳を超えてから、それまで思わなかったことを思うようになった。

 

それは、年をとるほど自信がなくなるということである。

 

若い人からみると、年配の人は体験が多いから、自信をもっているように見えるかもしれない。

 

そういうことも確かにあるのだが、まあ、それも50代くらいまでである。

 

60歳を過ぎると、自分がたいした存在ではないことを実感するようになる。あいかわらず失敗はするし、罵倒されるし、陰口はたたかれる。過去を振り返っても、たいしたことはしていない。口にはしなくても、内心、自分にがっかりしている。

 

政治家とか俳優とか歌手とか、派手な職業なら、さぞ人生が充実していそうだが、じつはそうとも限らないこともわかってくる。亡くなった新藤兼人監督が講演で、「80歳を過ぎて思い出してみると、充実していたことよりも、できなかったこと、情けなかったこと、いまでも恨みを感じることのほうが多い」と述べていた。

 

偉大な人、偉いといわれた人ほど、自分をあきらめていたのではないかという気さえする。

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 07:25 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
若い人ほど発想に柔軟性がない

大学で教えている作家だったと思うが、発想が柔軟なのは小学生くらいまでで、大学生になるともう半分死んでいる、と言った人がいる。

 

同感するところがある。

 

20歳前後の若い人は、社会で通用している大人の概念を急速に習得する段階にある。だから自分がつかんだ大人の概念を吸収することにエネルギーを浪費しているところがある。

 

若者の発想は、じつは硬い。思い込みが強く、エネルギーの使い方に無駄が多い。

 

年をとると、もうエネルギーを無駄にしたくないし、常識にしばられてばかりでは困ることもあることがわかるから、かえって発想が柔軟になるところがある。

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 07:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「悟り」とは、高い概念で生きること

概念とは、感性を超えた「わかり方」のことである。

 

生活のなかで目にし耳にするものは、さしあたり感性的である。喜怒哀楽は感性である。

 

概念は、そうした感性を超えた「わかり方」である。

 

非常に高い概念がひとつでもあれば、どんな感性的出来事でも、その概念によって受けいれることができるだろう。

 

そうなった状態を「悟り」という。

 

悟りは、法華経のような経典(概念的ストーリー)によってもたらされることもある。厳しい修行や苦い経験を通して、個人が到達することもあるだろう。書物や芸術によって悟りがもたらされることもあるかもしれない。

 

さて、では私の悟りはなんだろう。

 

すべての感性的出来事を受け入れられる非常に高い概念。それはなんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
#誰が書いてるの?
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930     
<< April 2018 >>
-->
#新しい記事
#過去の記事
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人
敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人 (JUGEMレビュー »)
ジョン ダワー, John W. Dower, 三浦 陽一, 高杉 忠明
#著書/共著
敗北を抱きしめて 下 増補版―第二次大戦後の日本人
敗北を抱きしめて 下 増補版―第二次大戦後の日本人 (JUGEMレビュー »)
ジョン ダワー, John W. Dower, 三浦 陽一, 田代 泰子, 高杉 忠明
#コメント
#トラックバック