ごきげんようチャンネル

科学とは、正確に驚くことである。 Y.M.
           

英語の「時制」とは? 永遠の誤解から自由になるために おわり

溝越氏の本は、言語には、その使用目的を反映して、「三つの機能的側面」があるというハリディ Halliday の文法論を紹介している。185-186頁。

 

 

 

ヽ鞠暗機能 .. .話し手が把握した事態を表す。

対人関係的機能 ... ,報告なのか疑問なのか命令なのかといった発話態度を表す。

テキスト形成的機能 ... 文のなかのどれがテーマで、どれが重要な情報かなどを表す。

 

 

 

時制も、こうした三つの機能を担う「一人三役」であろうと、溝越氏は述べている。187頁。

 

こうした目的・機能論は、近代から現代にかけての「理論」にしばしば現れ、ある意味で講壇的学問の主流になっているようにさえ思える。たしかに、こういう「理論」は、多様な現象を簡略に整理してくれるという良さがある。現在、日本の学校で教えている英文法も、おおむねこの類である。

 

ただ、ハリディの「三つの機能的側面」をみても、言語の本質がなんであるかは不透明のままである。時制の「機能」は説明しているかもしれないが、けっきょく時制とはなんであるかは、よくわからない。まして、外国語の時制をどう習得すればいいかも、直接にはわからない。

 

言語は、一見すると自明の対象のようにみえるが、人間の生活全般をおおうような広さをもっている。だから、言語を研究するためには、<人間世界のどこに言語が位置づけられるか>といった全体観から、周到に議論していく必要がある。

 

言語の研究は、もっと深みをもつ必要がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 07:48 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
英語の「時制」とは? 永遠の誤解から自由になるために その4

多くの個人による表現の交換を通じて、ひとつの社会は共通の概念の体系をもつ。こうした概念による表現が言語であるが、この概念の体系は、個々の人が具体的な場面で抱く認識よりも高い次元にある。

 

概念のレベルで、多くの言語に「時制」の体系が存在する理由は、概念どうしが互いの関係を整序するのに役立つからである。どのような時制を、どの程度まで表現するかは、その社会における必要性や慣習に依存する。

 

では、先に引用した文にあったように、聞き手が言語内容の「真偽判定」をするために、時制表現が有用あるいは必要だという側面については、どうだろうか。

 

これは、概念どうしの相互関係がつくる次元と関係はあるが、原則的に別のことと考えられる。

 

言語は、現実の社会で現実の他人を相手に使われることが多い。そのさい、言語内容の「真偽判定」は、社会的行為を適切におこなうために有用または必要である。また、われわれは人ではなく物を相手にして作業をする場合もあるが、このときも自分の抱く観念が不適切であれば不適切な作業をしてしまうから、観念についての「真偽判定」は現実の生活において重要なことである。

 

このように、絶え間なく「真偽判定」を必要とする現実世界のあり方が、言語のあり方を規定することは当然である。

 

とはいえ、言語が現実世界で使われるときは、他人や物質を直接の対象にしているから、自分の「心の世界」(観念)を対象にし、自立した概念の体系を駆使して表現する言語の出自とは、ちがう性格を含むことになる。

 

言語の構造は、現実の使用方法とは次元が異なる。言語は必ずしも現実に拘束されない。だから小説、シナリオ、詩のようなフィクションや、詐欺でさえ成立するのである。

 

言語の研究は、概念を運用するための規範(文法と語彙)を解明することにはじまる。時制は、この抽象的な規範の一部であり、概念どうしがつくる関係そのものであって、個々の人間が認識する「現在」や「過去」よりも高次の体系を構成している。

 

もちろん、他人や物質を相手に生活している人間にとって、言語が「真偽判定」に使われ、そのために時制が機能するという現実は存在する。この現実こそ、概念どうしの抽象的な体系が出現する母体でもあるのだが、言語研究としては、「真偽判定」の問題は応用レベルに属する。

 

一般に、意味論や形式論理学が不毛に終わる原因は、個々の認識を超えた概念の自律的体系として、意味や論理を探求するという研究態度が不足しているからだと思う。自律的対象の自律性を確信しない研究は、研究態度の自律性も失う。そして、いつのまにか「真偽判定」という別次元の問題に入り込んで、みずから迷路に陥る。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 07:47 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
英語の「時制」とは? 永遠の誤解から自由になるために その3

ここから、ひとつの飛躍をしてみよう。

 

言語という概念の世界における「時制」とは、過去や現在といった話し手の具体的な認識とは違うレベルのことなのではないか、と考えてみるのである。

 

言語は、人が抱いた観念(感覚・感情・認識を含む)を、概念のレベルで述べる表現である。概念とは、ものごとの本質についての抽象的な認識であり、個人で作ったものもあるが、多くは社会的に共有され、それを表現する規範(その概念はどんな音声・文字で物質化すれば他者に伝わるかについての概念)も社会的に決まっている。

 

そして、概念のレベルにおける観念の体系の一部である「時制」は、話し手が具体的な場面で「現在」とか「過去」とか思っているのとは違う、もっと社会的で抽象的な、独立した世界をつくっているのではないか、と考えてみるのである。

 

「明日は土曜日だった」という表現は、やや不自然に聞こえる。この不自然さは、「明日」という概念と、「だった」という概念とが、概念どうしで整合性に欠けるからであって、現実に明日が土曜日であるかどうかとは無関係である。現実の世界や個人の認識とはちがうレベルで、概念どうしは独自の自立した体系をつくり、規範として社会的に実在しているのである。

 

また、「明日は金曜だと思っていたが、じつは土曜日だった」という意味で、「明日は土曜日だった」というのなら、不自然な表現ではなくなる。同じ概念による表現でも、とりようによって自然だったり不自然だったりするのは、話し手の認識と聞き手の認識のあいだ、そして具体的な認識と抽象的な概念のあいだにズレがありうることを示唆する。

 

いずれにせよ「明日は土曜日だった」も、誰がそう表現したかとか、現実に明日が土曜日かどうかといったこととは無関係に成立できる表現である。言語は、個々の人の認識やこの世の現実を超越した、概念の次元を含んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 06:10 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
英語の「時制」とは? 永遠の誤解から自由になるために その2

問題は、こうした時制理解は、いくつかの異なる次元を一緒にしてしまっていることである。

 

「時制」の第一の次元は、観念の世界である。言語による表現の直接の対象は、自分の抱いた観念であって、現実の世界そのものではない。「明日は土曜日だ」というとき、「土曜日」は自分の抱いた観念にすぎず、現在の現実ではないが、立派に言語による表現になっている。

 

さらにいえば、「明日」が現実に「土曜日」であるかどうかも、言語の表現であるかどうかには関係がない。現実に明日が土曜日であろうがなかろうが、「明日は土曜日だ」は、完全な言語表現である。

 

先に引用した文に、過去時制は「心の世界に基づいて述べる」とあったが、「心の世界に基づいて述べる」のは、過去だけではなく、現在時制でも同じである。じっさい、なんであれ、話し手の「心の世界」にないものは、言語で表現されることはない。

 

別の角度からいうと、「心の世界」とは、つねに「現在の状況」のことであるともいえる。過去時制とは、「それは過去のことだ」といえるような「現在の状況」のことだともいえるからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 05:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
英語の「時制」とは? 永遠の誤解から自由になるために その1

溝越彰『時間と言語を考える』(開拓社、2016年6月)は、話題豊富で、著者長年の時制研究の成果と、学界の現状もうかがえる好著。

 

ひとつ気になったことをメモしておきたい。たとえば、次の箇所はどうだろうか。

 

 

 

「[能動態と受動態など、他の「文法的な仕組み」と同様に]時制も、発言内容を相手にどのように受け止めてほしいかということを示す重要な標識であり、聞き手は、真偽判定にあたって、それに基づいてどのように対処すべきかを決める。

 

たとえば、「現在時制」というのは、真偽が現在の状況に関わっていることを示す標識であるし、一方、過去の出来事は、基本的に、発話者が自分の記憶という心の世界に基づいて述べるわけであり、「過去時制」とは、そのことを明示する標識である。」(26頁。太字は三浦)

 

 

 

多くの人は、これを読んで違和感がないかもしれない。じっさい、この文は、「時制」というものについて、誰もが認める前提的なことを述べているようにみえる。

 

文意のポイントは、太字にしてみたように、現在時制は「現在の状況」、過去時制は話者の記憶という「心の世界」を述べるもので、それを聞き手に伝える標識だ、という主旨のようだ。

 

現在時制は現在存在する現実について述べていることを示し、過去時制はすでに過ぎ去ったことで、もはや現在の現実ではないが、「心の世界」に存在することについて述べていることを示す、という対比的な説明のようにみえる。

 

そして、現在とか過去といった時制は、聞き手の「真偽判定」の必要と関係がある、あるいは、時制とは聞き手が「真偽判定」するための仕組みだ、という主旨のようである。

 

この文の、どこが問題含みなのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 21:12 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「メイク・ア・チャンス」は英語か 

『人生でチャンスをつかむ女性の10の法則』(プレジデント社、2016年10月)という本をのぞきこんでみた。

 

著者は、「プルデンシャル生命保険  チーム『Make a Chance』」となっている。生命保険会社と、キャリア支援の仕事をしている人たちが集まって、現代の日本社会で「どうすれば女性たちがチャンスを手に入れ、輝けるのか」を話し合い、調査した結果をまとめた本。2頁 

 

中身以外で、ちょっと興味をもったのは、このチーム名。"make a chance "という表現が、英語としては奇妙に感じたからだ。

 

ネットで調べてみると、単独の英語表現としては、やはり不自然のようだ。

 

 

I assume you are asking the meaning of "make a chance" in that article. I can sympathize with your feelings of puzzlement. What the author of the article is doing there is basically inventing a new expression "make a chance" so that he has the clever rhyme "take a chance, make a chance", which he hopes will arouse the reader's curiosity to find out what this unusual group of words might mean. Within the article he is using "make a chance" to mean "create opportunities for yourself", "arrange your life so that you create conditions for success". Outside the article, however, "make a chance" is not a normal expression.

 

https://www.englishforums.com/English/TakeChanceChanceChance/bmqxq/post.htm

 

 

しかし、だからといって「こういうチーム名はおかしい」ということではない。

 

英語めいたカタカナ語は、もはや日本語の一部になっている。「サンキュー」「オーケー」などはすでに日本語といっていいし、「エキュート」のような日英融合語も増えている。

 

「メイク・ア・チャンス」の場合、普通の日本語では表現しにくい内容を簡潔に表現している。ただ、現状では、<日本語の体に、英語めいたカタカナの衣装を着せた日本語>である。

 

しかし、「女性が主体的にチャンスをつくっていく」という社会的雰囲気があるとき、make a chance が、英語として将来受け入れられる可能性もある。

 

いまは英語の一部になっている save face(面子を保つ)というイディオムがもとは中国語の表現だったように、日本発の表現である make a chance が、いつか英語の一部になる日がくるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 08:21 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
日本語に訳しても、英語は永遠にわからない。 おわり

上掲の英文に登場する冠詞と-s に注目してみよう。最初の、

 

The pope has sent a strong message

 

という部分。

 

「ローマ法王」は、伝統的にthe Pope と、theつきの大文字で書く。ところがなぜかここでは小文字になっている。この文の筆者は、大文字で書くような権威を法王に認めていないのかもしれない。いずれにせよ、これを「法王は…」と訳した瞬間に、小文字になっていることの意味は素通りすることになるだろうし、theがあることの意味も考えなくなる可能性がある。このtheは、「現職の」とか、「この記事の対象になっている特定の」といった意味を表すために、英語では必要なtheである。

 

次に、strong message には、a がある。もともとmessage には、始まりと終わりがあるのが普通だから、一回、二回と数えられる性質をもっている。それに、ここでは strong という種別を表す表現もついている。これは「一回かつ、強い種類のメッセージ」という意味を表すa である。この場合、「強いメッセージを発した」という日本語に訳しても、a のニュアンスはけっこう伝わるが、そう訳した瞬間に、なぜa がここで必須であるかといったことは忘れてしまう可能性がある。

 

後半の、

 

against Islamophobia and for religious and individual freedoms.

 

はどうか。

 

まず、Islamophobia を「イスラム教徒への恐怖・反発」といった英和辞書の説明で置き換えて、わかったつもりになっていると、なぜこの語に冠詞がないかという問題はすっかり素通りするだろう。ここは、社会的な恐怖や反発がもつ、形容詞や動詞にも似た無定形な性質を表現するために、無冠詞になっている。

 

そして、最後のfreedoms である。freedom に、なぜ複数の-sがあるのか。読んだとき、気になった人もいるだろうが、そういう人も、「信教の自由」とか「個人の自由」という「訳」ができれば満足し、-sがあることの意味はそれ以上考えない可能性がある。ちなみに、この-sは、「信教の自由」にしても「個人の自由」にしても、礼拝の自由、布教活動の自由、言論の自由、移動の自由といった、多種複数の自由があることを表す-sである。

 

 

 

 

日本語に訳せば、たしかに英語がわかった気がする。だがそれは、「英語が直接わかった」のではなく、「英語から作った日本語がわかった」にすぎない可能性がある。

 

その証拠に、上記の英文報道の例で、日本語訳から英語が復元できるかやってみればよい。英語がわかっていない人は、日本語訳はつくれても、英語はつくれないだろう。

 

「英語を何年もやったのに話せないのは、文法などにこだわるからだ」と思っている人がいるようだが、それは逆である。冠詞や-sのような、英語特有の文法をきちんと理解して練習しないから、話せないのだ。そのうえ、「日本語に訳せることが英語がわかることだ」という勘違いが加われば、英語の肝心のところは、いくら努力しても身につかないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 22:13 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
日本語に訳しても、英語は永遠にわからない。 その1

「英語がわかるとは、日本語に訳せることだ」という考えの、どこが間違っているか。

 

これは意外と難問なので、いくつかの角度から説明してみよう。

 

 崙本語に訳せたら、英語がわかったことになる」というのは、直接には、「日本語にしたから、わかった」ということ、つまり、「日本語がわかった」ということである。とはいえ、元は英語だから、英語が間接的に「わかった」ことにはなりそうである。

 

△箸海蹐、そこに落とし穴がある。間接的にせよ、日本語に訳せれば英語がわかったことになると思い込んでいると、知らず知らずのうちに、英語のもつ意味のなかから、日本語にするのに必要な部分だけを拾い上げれば良い、という態度を身につけてしまう。これだと、英語がもつ意味のうち、日本語にするのに必要のない部分は無視したり、あいまいに理解してすませてしまう。これを続けていると、いつまでたっても「英語そのものがわかった」とはいえない結果になる。

 

△領磴箸靴董△錣りやすいのは冠詞や複数の-sである。

 

日本語では、「ひとつの」とか「例の」とか「いくつかの」といった、冠詞や-s の意味に近いことを言わないこともないが、言わなくてもすむ場合も多い。そこで、「日本語に訳す」ことで満足していると、英語の冠詞や-s がもつニュアンスを無視して平気になっていく。

 

最近の英文報道をとりあげよう。先日、エジプトを訪問したフランシス法王が、イスラム教徒排斥の感情が強まることの危険性を訴えたという記事があった。そのリード文は、次の通りである(ロイター、2017年4月29日付)

 

 

 

The pope has sent a strong message against Islamophobia and for religious and individual freedoms.

 

 

 

この英文を、例えば

 

 

 

「法王は、イスラム教徒排斥感情に反対し、信教の自由と個人の自由を擁護する、強いメッセージを発した」

 

 

 

などと訳せば、「英語の意味がわかった」という気になれるかもしれない。しかし、これで本当に「英語がわかった」のだろうか。

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 21:42 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
<わかるとは、訳せることだ>という学生の思い込みについて 

非常勤で、週一回、英語の文法を教えている。大学2、3年生数十人。

 

先日、質問はないかと学生に聞くと、「ここの文の訳し方がわからない」という。私の授業では、英文を「訳す」作業はとくにしない。意味が説明できれば、それで良しとしている。とりわけ、これは文法の時間なので、「訳し方」の練習は趣旨が違うと思い、私は「なるほどね…」と言っただけだった。

 

そして、授業のあとで気がついた。

 

学生が「訳し方がわからない」と言ったのは、「文の意味がわからない」という意味ではなかったか?

 

<日本語に訳せる=英語がわかる>という等式が、かなりの日本人の感覚にあるらしい。そのことを思い出して、合点がいったのだ。私のクラスの学生は、「意味がわからない」というかわりに、「訳し方がわからない」と言ったのだ。

 

私もかつて、これに似た事情をかかえていた。学会などで英語を聞いているとき、聞いた英語を字幕のように文字に変換して、それを「読む」という感覚が消えず、その面倒さに閉口していた。

 

私の場合、<訳す=わかる>という感覚はなくなっていたが、<聞く=読む>という感覚が残っていたわけだ。

 

<訳す=わかる>は、幼児段階を終えて母語を確立した人が他言語を習得しはじめるとき、便利なやリ方である。ところが、この方法をつづけてしまうと、これがのちに大きな障害へと転化する。英語を聞くときも話すときも読むときも書くときも、すべて日本語を経由しなければならないからだ。

 

こういう人も、"Thank you." のような簡単な言葉をいちいち日本語に「訳す」ことはしていないだろう。<わかるとは、訳すことだ>というのは一種の錯覚であることが、この事実に暗示されている。

 

<英語がわかる>とは、<日本語に訳せる>こととイコールではない。日本語に訳せてもいいが、べつに訳せなくても、英語が聞けたり話せたり読めたり書けること。それが<英語ができる>ということである。げんに、英語で暮らしている人たちの多くは、日本語など他言語を知らないが、<英語ができる>人たちである。

 

英語は英語の規範(ルール)によって作られており、それは日本語の規範とは別物である。これは誰でもわかる。むしろ興味を呼ぶのは、<訳せばわかる>にはじまって、<わかるとは、訳すことだ>という思い込みにまでエスカレートさせる、社会的な仕組みがあるらしいことである。

 

さて、<わかる=訳す>の世界にいるらしい学生に、今度の授業で私はなんと言えばいいのか…

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 06:10 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
日本に中国語はなかった。そして今も日本に英語はない 丸山真男と加藤周一の遺言
丸山真男・加藤周一『翻訳と日本の近代』(岩波新書、1998年)


物故した二人の知識人の対談。

全体の主旨は、次のようなことである。



「徳川時代の文化の大きな部分は、翻訳文化であった。

いわゆる『読み下し漢文』は、徂徠も指摘したように中国語文献の翻訳であり、その語彙や表現法を採り入れて消化した日本語を媒介とする文化ー すなわち徳川時代の儒者の文化の全体が、その意味での翻訳文化である。

その経験が明治の西洋語文献からの大がかりな翻訳を助けたのであり、近代日本を作りだした、ということができる。」(加藤周一「あとがき」186頁)




私がいう、「日本には今も英語はない」という状況を産んだ歴史的起源は、少なくとも江戸時代までさかのぼることになる。







ここでは、本書のなかで次の部分だけをメモしておきたい。




「徂徠の時代は、江戸時代を通して最高の知識人たちが異文化の存在を意識した時代で、…翻訳問題に関していちばん鋭い表現が徂徠ということかな。

明治の初めについても同じくいえることは、…異文化の異質性を自覚し、それを完璧に認識しようという欲求が出てきたときに、比較的にオリジナルな思想が出るのね。

ちょっと逆説的だけれど、そういう傾向がある。福沢しかり、徂徠しかりです。

『朋あり、遠方より来る…』のまま読みつづけていたんじゃ、同文同種論みたいなもので、同じ文明という意識になってしまう。徂徠はそこを越えた。だから徂徠がなければ宣長は出てこなかった。」(丸山真男、34-35頁)




ここでいう「逆説」のロジックは、じつに興味深い。

野球でいえば、日本の選手が野球というものの異文化性を自覚して、それを完璧に理解し体得したとき、アメリカにはいないタイプの、ユニークな選手として自立できる。


<模倣を通して独自性へ>という対立物への転化は、対象に対する明確な異質性の自覚から産まれる。




じっさい、たとえば明治以降の英語教育は、英語というものを徹底的に異文化として客観視し、これをとことん研究するという態度を失ったとき、堕落を余儀なくされた。

今でもときに奨励される「直訳」法は、上記の「朋あり、遠方より来る…」、すなわち「読み下し漢文」方式であり、まるで英語が日本語が「同文同種」であるかのような、安易な認識を人々にうながす。

そういう安易な態度があると、<英語>と称して、じつは珍妙な日本語の練習に堕していることに気づかない。





最近の「コミュニケーション重視の英語」なるものも、堕落の例である。

それは、英語という異文化に対する客観視=敬意と研究心を欠き、「まあいいじゃないか」「とにかく話してみよう」といった安易な態度を奨励し、けっきょく人間としての品位を落とす結果さえ産んでいる。
















| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 22:23 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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