ごきげんようチャンネル

 魚、水を行くに、行けども際なし  道元『正法眼蔵』



新装開店に”NEW OPEN” は日本語です

「新装開店」の意味で ”NEW OPEN” と書いてある掲示を、ときどき見かける。

 

 

<新装+開店> → <ニューで+オープン> → <new open>

 

 

としたくなる気持ちはわかる。

 

ただ、英語としてみると、"new open" は「新しい開く」のような言い方をしていることになり、片言っぽい。

 

  "We newly open."  などとするか、宣伝文句なら

 

 

 

NEW SHOP OPENING!

 

 

 

とするとおさまりが良い。

 

open ではなく、opening にすることで、「すでに開店準備がはじまっています」「まさに開業したばかりです」のような臨場感が出るので、おすすめである。

 

 

 

ときどき見かける"Grand Open" というのも、英語として表現するなら、

 

 

Grand Opening!

 

 

にしたほうが良い。

 

 

もっとも、日本語の感覚では、こんな英語っぽい言い方よりも、 NEW OPEN や GRAND OPEN のほうがぴったりくるのも事実である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Rohan Perth

 

スコットランドのアウトドア衣料品チェーンの広告.  "NEW Store Opening" とある.

storeは、shopよりも品揃えが豊富で大きい店というイメージがある.

 

http://rohantime.com/24165/rohan-perth-new-store-opening/

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 08:10 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
英語の世界への三つのドア 発声・冠詞・前置詞

日本人が英語を習得するとき、三つの壁がある。

 

 

一つめは発声である。小学校で習うローマ字が英語のアルファベットと同じ文字であり、ワープロでもローマ字変換を使う。そのため、意識して練習しないと、われわれは英語の綴りをついついローマ字読みしてしまう。 "e" や "o" を「エ」「オ」と読んだり、"r" を日本語の「らりるれろ」で代用したりするのは、英語ではないものを英語だと勘違いする、第一の「壁」である。

 

 

二つめは冠詞である。日本語には、冠詞にあたるものがないため、「英文和訳」では訳す必要がないことが多い。だから、「英文和訳」に頼っていると、いつまでたっても冠詞についての理解が深まらず、苦手となる。

 

 

三つめは前置詞である。冠詞とは逆に、日本語には助詞(てにをは)という前置詞類似のものがある。だから、「英文和訳」に頼っていると、前置詞に日本語の「てにをは」を適宜あてはめて満足してしまう。そのため、英語の前置詞が本来どういう概念による認識なのか、なかなか習得できない。

 

 

 

他に語順感覚の習得や、表現チャンスの不足といった問題があるが、初めに壁になるのは、この三つである。この三つが壁だということは、これを崩せば、それが新しい世界の入り口になるということである。

 

三つの壁を崩すには、冠詞、前置詞を含む英語の概念を理解し(このとき日本語で説明してOK)、その英語の概念で対象を認識して、英語の発声で表現する練習をすればよい。「英文和訳」ではなく、「英語の概念による自分の認識を、英語の発声で表現」すればよいのである。そうすれば、自分が発した英語の意味(英語の概念・認識・発声の三者の関係)を、日本語を介さず直接経験できる。

 

壁が発見できたなら、そここそチャンスととらえて意識的に攻略すれば、壁がそのままドアになり、英語の世界に入れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「冠詞、前置詞、等閑にすべからず」(内村鑑三)

明治初期の有名なキリスト教徒には下級武士の出身者が多いが、これは忠誠をつくす主君や将軍が明治維新でいなくなったため、かわりにキリスト教の「神」へと、忠誠の対象をスイッチしたのですよ...。 故司馬遼太郎氏が、テレビでサラリとそう述べたのを見たことがある。

 

なるほど、明治時代に旧武士階級がキリスト教徒になったのは、そういうつながりだったのかもしれない。

その代表例が内村鑑三(1861-1930. 高崎藩士の長男として生まれる)であるが、次の文を読むと、英語でさえも「敵国」になっている。いかにも武士の発想である。

 

 

 


「曉得(ぎょうとく)せんとする外國語に對(たい)しては、専領せんとする敵國に對する観念を抱かざるべからず、

 

即ち之(これ)を討平せざれば休まずとの覚悟是(こ)れなり。敵地に入て克服を全(まっと)うせざる部分を遺(のこ)すことは患(わずらい)を後日に遺すことなり。

 

冠詞なり、前置詞なり、小は則ち小なりと雖(いえど)も、之を等閑に附して全部の透徹は決して望むべからず。

 

 

(内村鑑三(亀井俊介解説)『外國語之研究 復刻版』南雲堂、1984年(原本1899年)、62頁)

 

 

 

 


内村鑑三の力強い英文の背景には、烈々たるサムライの戦闘精神があったようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
冠詞、前置詞は、同時通訳者でも難しい 國弘正雄氏の告白

日英同時通訳の草分けで、格調ある”クニヒロ・イングリッシュ”の使い手として知られる國弘正雄氏(1930-)。

 

國弘氏の著書の一冊に、『怒濤の入試英作文 基礎20題』(たちばな出版、2003年)というのがある。

 

大学受験者向けの参考書の体裁をとっているが、実際の答案例の添削を通じて、英語とはどういうものかを深く考えさせる好著である。

 

この本の「はじめに」で、國弘氏は次のように正直な気持ちを書いている。

 

<あの達人にして、この心境?>という驚きとともに、静かな共感があったので、メモしておく。

 

 

 

 

「英語教育に携わる人びとにとって、なにが自信を持ちえぬ難題といって、和文英訳にすぎるものはない。

 

 

われわれにとって英語はしょせんは外国語、子守唄を聞いて育った母語ではない、だからどこまでいっても、隔靴掻痒(かっかそうよう)の憾(うら)みは残る。

 

 

不肖、小生も英語を母語とする国に長年を過し、教育テレビやラジオ番組で、斬れば血の出る英語を使うべく努力はしてきたが、和文英訳ないしは英作文となると、本当のところは自信がない。われわれに可能なのは、多くの英文を読み聞き、英借文に邁進するのがせいぜいである。

 

外国人の日本語学習者にとって、てにをは、つまりは助詞の使い方がむずかしく、敬語をキチッと使いこなすことに難渋するように、たとえば冠詞や前置詞、それに名詞が単数形か複数形かなどという点になると、日暮れて道遠しの思いが離れない。一生が修行だと思い知らされては、トボトボと重い足取りを進めるばかりである。」

 

 

(國弘正雄『怒濤の入試英作文 基礎20題』たちばな出版、2003年、3頁)

 

 

 

...

 

 

 

この「道遠し」問題について、私は次のようなことを思う。

 

 

◯ 日本にいるわれわれとしては、なんでも英語で言えるようになる、書けるようになって、ようやく「英語ができる」といえるのだ、というような超人的発想はとらないほうがよい。

 

そもそもネイティブでも、なんでも書ける・わかるわけではない。たとえば私は、日本語でも医学や物理の論文は書けないし、読んでも理解できない。

 

 

「道順のような日常的なことが言えるようになってから、次にいかないと…」

 

 

というような発想をする人がいるが、これも勘違いである。道順のような生活的な事柄ほど、非ネイティブは聞いたり表現したりする経験をもちにくいので、習得は難しい。それに、たとえそういうことが表現できたとしても、文化的に高い内容というわけでもない。

 

たとえば、日本語にも英語にも九九の暗唱法があり、幼いときに学校で習得する。九九はネイティブの証しのようなものである。では、九九を英語で言えることが英語の習得に絶対必要かというと、そういうわけでもない。

 

 

むしろ、自分に必要な分野、関心のある分野を特定する。これが外国語を楽しみながら上達していく実際的なやり方である。もしも、道順が言える、ホテルで苦情が言える、英語で日記が書ける、それが私のめざす分野だ、というなら、それを極めるのも一法である。

 

 

 

◯ それにしても、上記の國弘氏の文にあるように、「たとえば冠詞や前置詞、それに名詞が単数形か複数形かなどという点」について、われわれ非ネイティブが自分なりの自信をもって話したり書けたりできる文法の確立が急務である。英文という表現を成立させるまでのプロセスを正確に追体験できる方法が、実はまだ存在しないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この鳥は、右下からの飛翔の跡を感じさせる。

この鳥が右下にいたら、左上への飛翔を予想させるだろう。

達成と未来では、意識の置き場がちがう。未来を見ながら、

すでに達成した姿を強くイメージするとき、飛翔は確実になる。

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「英語の名詞は冠詞つきで教えよう」 デイビッド・セイン氏の提言

デイビッド・セインほか『ネイティブが教える ほんとうの英語の冠詞の使い方』研究社、2013年)に、面白いことが書いてある。

 

ひとつは、the とは、「あらためて説明しなくてもわかりきっていることをまとめるため」に用いるものだという部分である。「ネイティブにとってtheとは、あのとか例のという感覚のものです」とも説明している。36頁。

 

話者が表現対象としている特定の場において、「以前からすでに存在しているので、特定できる」ことを、英語では the で表現する。the によって、その場に特有の状況を描くことができ、時間的にも奥行きのある表現ができる。

 

すでわかっていることを「まとめる」(theと短く表現して済ませてしまう)とか、日本語の「あの」とか「例の」に似ている、というのは、the の感覚をなかなかうまく指摘している。

 

 

 

もうひとつは、名詞は冠詞付きで教えよう、という提言が書いてあることである。

 

 

 

「英会話学校では、幼児に単語を覚えさせる際、よくフラッシュカードを使います。ほとんどのフラッシュカードが名詞なら名詞のみ(BOOKならBOOKのみ)ですが、”a book” と冠詞も付いていたら、より冠詞の必然性がわかるのに... と思います。」8頁

 

 

 

これには大賛成だ。

 

冠詞こそ、日本人の英語学習の盲点である。英語を日本語に「訳せる」ことが英語が「わかる」ことだという思い込みが根を張っているようだが、この「訳読方式」には欠陥がある。日本語に「訳す」と、英語の冠詞(-sを含む)はたいてい無視できるので、冠詞の感覚が深まりにくいのである。日本語に訳せても、英語がわかっているとは限らない。

 

英語は名詞が中心の言語であり、名詞には冠詞がつきものである。英語学習のはじめから、冠詞には特別の力点をおいて習得するのが賢明である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
お店の ”New Arrival” は、微妙に日本語です

ファッション関係のお店で見かける

 

 

 

"New Arrival"

 

 

 

という掲示。これがときどき気になる。

 

arrival は、動詞 arrive の名詞形で、本来「到着すること」という動作の種類をいう。そこから、到着という動作の結果「到着した人や物」を表すこともできる。

 

だから、"new arrival " は、「新着商品」という意味になり、立派な英語である。しかし、違和感が生まれるのは、そのコーナーに何種類もの商品が置いてある場合。

 

自動車とか宝石のように高価なものが、一種類とか一個だけ「新着商品」として展示してあるなら、単数の "new arrival " でいいが、カジュアルなファッションのように、何種類も新着商品を並べる場合は複数にして、"new arrivals" とすると、ぐっと印象が良くなる。

 

複数の-s は、英語ではたんに複数というだけでなく、同じ名前のものがひしめきあっているという生き生きしたニュアンスもある。だから"new arrivals" は、お店の活気も感じられ、お勧めの表現だ。

 

もしも、単数複数の意識なく、たんに「新着」だから "new arrival " と掲示しているとすれば、それは英語の形を借りた日本語ということになるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

「shop sign "new arrivals"」の画像検索結果

 

 複数の新着商品を表すには、"new arrivals" のほうが生き生きして、お勧め。

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 19:23 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
英語には英語の身体意識がある それはピアノの練習と同じ

英語を流暢に発音するのは、意外にむずかしい。

 

学生の発音を聞いていると、単語と単語のあいだで休みをとるクセがある場合がある。ひとつひとつの音素の発音は悪くないが、単語ごとに区切ってしまうので、音の流れに滑らかさがない。

 

私の場合、次のような説明をする。

 

 

 

言語の語りには、<息、声、音>の三つのレベルがある。

 

基本は、最初の「息」の仕方にある。英語では一定の力で連続して息を出し続ける。鉄道でいえば、電車は止まることがあっても、線路は途切れないのに似ている。

 

単語ごとに区切るクセをなくすには、息を出しつづける練習をするのがいいが、もうひとつ役立つのは、単語をひとつずつ拾うのではなく、意味のまとまりごとに、いくつかの単語をひとつのフレーズとみなして、「一気に旅をする」ような意識をもつことである。ひとつひとつの駅で停車するのではなく、目標の駅まで、いくつもの駅をスーっと通過していく。普通電車より快速電車、といったところか。

 

このフレーズ感覚は、言語を言語として話すコツである。

 

 

 

ピアノの練習方法に、「先取りの身体意識を作れ」というのがある(ジャン・ファシナ(江原・栗原訳)『若いピアニストへの手紙』音楽之友社、2004年、34頁)。

 

この場合、「身体意識」とは、身体じたいが意識をもつことをいう。ピアノでは、身体が無意識に動作するように、意識的に練習するのである。すると、先の時点までの動作を身体が先取りするようになる。

 

こうなると、動作じたいは無意識にできるので、人に思考の余裕が生まれる。

 

英語を日本のわらべ唄のように区切って発音するのも、「発音を身体にまかせる」には違いない。だが、それでは日本語の身体意識にとどまってしまい、英語を練習したことにはならない。

 

ピアノをやるならピアノの身体意識が必要なように、英語をやるなら英語の身体意識を作りあげることだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 00:00 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
英文法はいつまでも屁理屈でいいのか 若林俊輔氏の屁理屈

中高の英語教育問題の専門家として知られた若林俊輔氏(東京外国語大学教授、1931−2002)の本に、こういう部分があった。
 

 



「教師は、いいか英語は理屈ではないぞ、屁理屈こねるひまがあったら素直におぼえろと怒鳴りつけ、生徒の口を封じてしまう。生徒は「ナンダイ、英文法こそ屁理屈ばかりじゃないか」とくる。

たしかに英文法などというものは所詮理屈の羅列である。だから、特に高校などで英文法を教えるとすれば、徹底的に理屈をこねまわすべきである。

 

英語について、いろいろと自由に理屈をこねまわし、その文法体系をできるだけ簡潔に説明する方法がみつかれば、大したものである。生徒にああでもないこうでもないと理屈をこねまわす楽しさを感じさせたら、その授業は大成功であろう。

もし、英語の学習には文法について理屈を楽しむ必要がないと言うのならば、英文法の授業など即刻停止すべきである。」

 

 

(若林俊輔『これからの英語教師―英語授業学的アプローチによる30章』大修館書店、1983年、5-6頁から、一部要約)

 

 

 

 


この文章、なかなかおもしろい。言語の仕組みの論理性を味わうのも英語学習のおもしろさだよ、という主旨のようだ

問題は、現状では英語の表面的な事実を整理した「屁理屈」(これが英文法といわれる)しか普及していないことである。

車にたとえれば、今の英文法は車の構造や部品(=結果)の説明にすぎない。英語の構造や部品について、「ああでもないこうでもないと理屈をこねまわ」すのはおもしろいし、そのうちもっといい説明が見つかるかもしれないが、それだけで英語ができるようにはならない。構造や部品がわかっても車が運転できるようにはならないのと同じである。

必要なのは、英語を理解し、操作するための科学と技術である。車を運転したいなら、構造や部品の知識だけでなく、ドライビングの技術を覚えることだ。

英語を理解する科学と、英語をドライブする技術。それが英語教育からみた真の「英文法」である。それを「こねまわし」、それを「楽しむ」ならば、それは身体技術となる。

文法は、分厚い製品仕様書ではなく、コンパクトな運転教習書にならなければならない。

そのとき英文法は、屁理屈のレベルを脱することになる。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
耳は発声器官である

音声学の古い本を読んでいたら、おもしろい言葉があった。

 



「音声の産出に関与する音声器官 speech organ を広義に解すれば、耳も加わる。しかし、耳の関与についての研究はあまり進んでいない。」(枡矢好弘『英語音声学』こびあん書房、1976年、32頁)

 

 


耳が発声器官!?? その理由は、自分の発話を自分で聞くことで、人はつねに自分の発話をチェックしている。つまり耳は発声に不可欠だから、発声器官のひとつである(53頁)。

なるほど。

普通の音声学の本には書かれていないが、ひょっとすると人間は耳の穴(耳腔)も使って喉頭原音を共鳴拡大させているのかもしれない。もしそうなら、耳はまさに発声器官である。

そもそも耳(聴覚)がなかったら、発話を覚えることができない。ろうあの人たちの大部分は、喉などに異常があるわけではなく、耳が聞こえないために発話ができないたちである。その意味でも、耳は発話に不可欠の「発声器官」のひとつなのだ。

そう考えると、耳だけではなく、肺だって、横隔膜だって、発声に不可欠だ。そして胃も腸も脳も、それがなければ生きることもできない以上、発声に不可欠ともいえる。

 

声を発するのは主に口腔周辺の器官だが、声を受けるのは耳である。口と耳、両方あって言語は可能になる。これは、ヘーゲル流に言えば、人は自己疎外(音声を発出)したあと、外界を媒介にして、自己帰還(音声を受容)しなければならないということの、生理的な一例ということになるのかもしれない。

 


というわけで、「発声器官」をもっぱら喉・口・鼻に限定している音声学の教科書は、おおいに反省すべし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 00:04 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
音声と文字が千年前に溶け合った西洋大陸 ラテン語の吸収が遅れたがゆえに文法書を作ったイングランド

大黒俊一『声と文字 ヨーロッパの中世6』(岩波書店、2010年2月)

  

11世紀後半は、ヨーロッパの主要言語=英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語の転換点であった。この現象を「大分水嶺 the Great Divide」と呼んでよいと著者はいう。104頁。

 

 

 

英語…ノルマンの征服(1066年)以降、イングランドはラテン語・フランス語・英語という三重言語体制となった。それ以前、古英語はヨーロッパ言語のなかでもいち早く文字化され、豊かな文献とともに統一化の様相を見せていたのだが、ノルマンの征服以降、ふたたびいくつもの方言に分裂していった。英語が再び統一されるのは。14世紀であった。78頁。

 

 

 

ドイツ語…ゲルマン語は8世紀前半から文字化したが、しばらく文字化が途絶えた。そして1050年ごろふたたび文字化されるようになった。そのときにはずいぶん違う言葉に変貌していた。これ以降、ドイツ語は中世ドイツ文学の黄金期をむかえる。79頁。

 

 

 

フランス語…ストラスブールの誓約(842年、東西フランク王国の王がそれぞれロマンス語とゲルマン語という相手の言葉で、共通の敵・ロタールに対抗する同盟関係を誓った文書。25−26頁)のあとしばらく文字化されなかったが、1050年ごろに「聖アレクシス伝」や「聖女フォワの歌」といった作品が登場した。それ以降文字化がさかんになり、以後、傑作「ローランの歌」に代表される中世フランス文学の隆盛期をむかえる。79‐80頁。

 

 

 

スペイン語…イベリア半島におけるキリスト教徒によるレコンキスタ( Reconquista 国土回復運動)は8世紀から15世紀までつづくが、1085年にカスティーリャ王国のアルフォンソ六世がトレドを奪回したことは、この王国の言葉がイベリア半島において近代スペイン語に発展していく契機となった。以降、カスティーリャ語による「わがシッドの歌」など、スペイン中世文学がさかんになる。80頁。

 

 

 

こうして、11世紀後半、ドイツ、フランス、スペインではラテン語とは異なる独自の文字化がすすみ、それぞれの現地語による文学作品が花開いた。英語だけが分裂し、非文字化していった。これが「大分水嶺」の内容である。10頁。

 

とりわけ、「大分水嶺」は、声と文字の関係に重要な変化をもたらした。

 

 

 

 

「この時期以降、発話の背後にはテクストが存在し、口頭表現はつねに隠れた参照系としてのテクストにもとづいて行なわれるようになる。人はあたかも書かれたものがあるかのごとく、仮想のテクストにもとづいて語るようになる。こうして人は語るとき、つねに書き言葉に(ほとんど無意識に)規制されながら語るようになるのだ。」(111頁より要約)

 

 

 

 

著者の主張は、「声と文字の弁証法」という言葉にあらわれている。音声と文字は「対立でも反映でもなく、複雑な絡みあいである」と著者はいう。8−9頁。言語のふたつの形式が「大分水嶺」以降、たがいに独立しながら補いあい、溶け合うようになった。

 

音声と文字。言語の二大形式がヨーロッパでは中世に溶け合い、それが各言語のラテン語からの独立を助けた。

 

 

 

 

 

 

他方、同じ西暦1050年ころを境に、英語だけが、音声が文字化されない局面に入った。

 

ブリテン島の歴史で面白いのは、ドーバー海峡を挟み、大陸のラテン語文化から距離があったがゆえに、住民にとってラテン語を咀嚼するのはむずかしく、だからこそ文法書や表記の工夫が進んだことである。

 


イングランド島にラテン語がもちこまれたのは、紀元一世紀、イングランドがローマの属州になってからである。だが、ラテン語が住民に使われることはなかった。ラテン語が本格的にイングランドにやってきたのは、紀元600年ころからのキリスト教布教以降のことであった。アイルランドに、キリスト教とともにラテン語がもちこまれたのは、それから一世紀ほど遅れてのことである。

 

こうして大陸と同様、イングランドも現地語(古期英語・中期英語およびノルマンフレンチ)とラテン語の二重言語体制となったわけだが、大陸との大きな違いは、イングランドではラテン語が遅く導入されたために、ラテン語が「完全な外国語」として受けとめられたことである。この「完全な外国語」を咀嚼しようとして、史上初のラテン語「文法書」がイングランドで作られた。44頁。

 

それまでもラテン語文法的な書物はあったが、それを読むにはラテン語を知っている必要がある類のものであったし、内容も、ラテン語の性格を論じたようなものであった。格変化の一覧表が親切に書いてあるような、初歩者用の文法書は、イングランドで生まれたのである(「島の文法書」)。44頁。

 

もうひとつ、ラテン語が「完全な外国語」であったためにイングランドがなしえた貢献がある。それは、句読点、段落表示、そしてなにより単語ごとの「分かち書き separation」の手法を編み出したことである。これは、ラテン語という外国語を、ブリテン島の人々が読みこなすための工夫であった。これが「読みやすさの文法」として受け入れられ、やがて大陸に逆輸入され広まっていった。「”読みやすさの文法”は、異文化接触の最前線で生まれ」たのだ。49頁。

 

ラテン語のむずかしさを克服するために工夫を重ねたのは、ラテン語をわがものとして運用していた大陸の人々ではなく、「完全な外国語」として格闘したイングランド人たちであった。

 

 

 

 

イングランドにおけるラテン語との格闘の経緯は、日本人が英語を受容した経緯に似たところがある。

 

幕末以来、まったく異質の言語である英語を咀嚼しようとして、日本人は多大の関心と努力を傾けた。イギリス人が作った英語の文法書と漢文訓読の伝統にしたがい、大衆にも理解しやすい形式重視の「文法」と大量の訳語をつくって、教室や受験を通じて普及させた。それは同時に、日本語の近代化のプロセスと重なっていた。近代日本語は、英語を咀嚼する過程で成立したのである。

 

ただ、ラテン語は、近代ではもはや人々が語る言語ではなくなったが、逆に、英語は世界に広がり、ますます多くの人々が語る言語となっていった。ラテン語の咀嚼は、文法と辞書と忍耐があればできたかもしれないが、英語は、語るための訓練もしなければならなくなった。

 

こうして、日本人の英語との格闘は、歴史に先例のない、困難な局面を迎えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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