ごきげんようチャンネル

科学とは、正確に驚くことである。 Y.M.
           

<マイナスをプラスに>は媒介の設定によって実現する アイガモ農法の知恵 おわり
アイガモ農法では、雑草・害虫はもはや邪魔者ではない。

アイガモのエサが増えるのだから、雑草・害虫はむしろ多いほうが良いくらいである。

この、人間と雑草・害虫のあいだの調和的矛盾を飛躍的に発展させたのが、アゾラ(浮草の一種)という雑草?の導入であった。

水に浮くアゾラは稲の生育をさまたげることなく、空中のチッ素を固定しながら、強い繁殖力で増えるので、アイガモの良いエサとなることがわかったのである。

アゾラが水田に広がる。

アイガモはそれを食べて、空中のチッ素を糞に変えて稲の肥料にする。

そしてアゾラが水田に広がると、そこにアリ、チョウ、ハチなどの生き物が集まって来た。



もともと、生態系の人為的な単純化という「極めて反自然的な行為」(古野テキスト、77頁)である農業は、アイガモとアゾラの導入によって、生態系の単純化を行いながら同時に多様化させるという、より高度な農業へと転化したのである。



敵対的にみえる平板な矛盾を、たくみな媒介によって、調和的に発展する立体的な矛盾へと変質させる。

一般に、学校や会社や議会など、人間の組織は、矛盾を調和的に発展させる媒介的形態である。




相手に直接敵対するのではなく、媒介をたてることで共存共栄していく。

これは人生でも政治でもつかえそうな、偉大な知恵だと思う。









(おわり)












| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ヘーゲル語ノート | 08:17 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
<マイナスをプラスに>は媒介の設定によって実現する アイガモ農法の知恵 その1
アイガモ農法(合鴨水田同時作)の古野隆雄氏のラジオ講演の第六回を聞いた。


今回のテーマは、「雑草も害虫も宝物」。


雑草や害虫をどうするかは、昔から水田づくりの大きな悩みだったが、雑草と害虫を好物にしているアイガモを放つことで、除草剤や農薬をつかわずに問題をほぼ解決できる。

これは、媒介を設定することで矛盾が調和的形態をとると同時に解決している典型的なケースだ。




稲、雑草害虫、アイガモの三者の関係は、それぞれ三角形の三つの頂点にあたると考えればわかりやすい。

底辺をなす二頂点である稲と雑草害虫は互いに異質で、そのままでは共存できないようにみえる。

そこで、両者のあいだに、もうひとつの頂点(媒介)たるアイガモを入れて三角形にする。

すると、アイガモは雑草害虫を食べる(消費する)ことで、自分自身を生産する(生産的消費)。

稲は、このアイガモの力をもらう(消費する)ことで、自分自身を生産する(消費的生産)。


こうして、雑草害虫というマイナスが、アイガモという媒介によって、稲にとってのプラスに変わった。

矛盾の調和的解決の形態ができあがったのである。










(つづく)









| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ヘーゲル語ノート | 08:16 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
思想の魅力について
概念による<思考の型>について論文を書いたが、そこでいくつか気づいたことがある。

思想のもととなる<思考の型>は、英語の場合、九種類ある。

そして、九種類ということからさらに考えるべきことが、ふたつある。



① ひとつは、九種類の<思考の型>のそれぞれがもっている、思想の発展にとっての意味である。

たとえば、<外性>と私が呼んだ実体の様態(通常、「副詞」で表現される)は、実体の中ではなく、実体の外の様相である。

外性は、実体の外を実体以外のものとしてとらえる<思考の型>で、どのような対象(たとえば文)についても外性は認識できる。


<外性>は、人間の認識の発展のひとつの方向である。



② もうひとつは、九種類の<思考の型>を組み合わせ、高度化させることによって、われわれは思考を発展させるということである。

どのように高度化した<思考の型>の組み合わせであろうと、それをひとつの<まとまり>(実体)として対象化すれば、そこに<外性>が生まれ、新たな概念化が可能になる。

外性だけでなく、九種類の<認識の型>はすべて、対象をひとつの<まとまり>(実体)としてとらえ、そこからわれわれが認識を発展させるパターンである。





上記の①と②は、けっきょく同じことである。

われわれの思想が無限に発展していく筋道が、九種類に分かれて見えてきた。

ただ、ここまでで<わかった>ことは、思想発展の形式面にすぎない。

思想がもっとも魅力的なのは、発展の形式面と一体になって展開する内容面のほうである。

むろん、形式じたいを内容として扱う分野も成立するが、それは「影の国」(ヘーゲル)にすぎない。

ようやく、思想の魅力を樹立すべき段階にきたようだ。











| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ヘーゲル語ノート | 09:28 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
思想の力・資本の力 おわり
有用性という平易な観念が、<人間に役立つものこそ正当>とみなす近代社会への道を開いた。

資本主義の現実が、<競争=自由・平等>という新自由主義の観念を支えた。

ヘーゲルの時代、台頭する資本主義の現実が、有用性の観念を正当化したという関連もある。

もちろん、人間に役立つものだけが有用なのではないし、自由・平等は競争によってのみ実現するのでもない。

総じていえることは、人間とは、観念によって報酬を受けながら生きている存在だということである。


「人はパンのみにて生くるにあらず」


とは、至言である。

「みんなに役立つ」であれ、「自由と平等を実現する」であれ、ある観念に報酬をみいだしたとき、人は方向性を与えられ、情熱的に動きだす。

さて、その観念は、理想=思想の力によるものなのか、現実=資本の力によるものなのか。

両者は重なりあっていて、境目はあいまいである。

大事なことは、現実をふまえつつ、そこから一歩先んじた理想を見出していくことなのだろう。







(おわり)









| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ヘーゲル語ノート | 09:04 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
思想の力・資本の力 その5
しかし、市場原理が自由・平等に似た側面をもっていることは事実である。

新自由主義が説得力をもつようにみえたのは、資本主義に<自由な契約、平等な立場>という一面があったからである。

資本主義の現実に根ざした<競争至上主義>は、つねに競争にさらされている政治家たちの頭をとらえた。

そこから、「民営化」のように社会制度が変更され、他の分野にかんするわれわれの観念もしばることになった。



「現在の日本における社会保障や公務員にたいするバッシングは、市場の競争を媒介しない所有にたいする非難であり、自己責任論は、市場の競争を媒介にした無所有の正当化である。」


(佐々木前掲書、151頁より要約)



たしかに、すべての所有が市場における競争によってのみ正当化されるのであれば、競争にさらされないで受けとれる福祉や報酬は不当なものとみなされ、競争の結果の無所有は「当然のこと」と正当化されることになる。









(つづく)










| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ヘーゲル語ノート | 08:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
思想の力・資本の力 その4
逆に、現実社会のあり方が、われわれの観念を強く規定することもある。

そのことがわかりやすい例を、佐々木隆治『私たちはなぜ働くのか』(旬報社、2012年9月)から引いてみる。

資本主義では、「市場において人は商品や貨幣の所持者として自由に振る舞い、自由意思にもとづいて契約を取り結ぶ」という現実がある。(佐々木前掲書、150頁)



「だから、市場での競争こそが自由であり、平等であり、そこで認められた所有こそが正当だという観念が生まれてくる。

逆にいえば、市場の競争を媒介しない所有は不正だという観念が生まれるのである。」


(佐々木前掲書、150−151頁)



もちろん、<競争こそが自由で平等そのもの>であるとは限らない。

たとえば、善人と悪人が<競争>して、それが<自由で平等>を意味するかどうかは保証の限りではない。










(つづく)










| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ヘーゲル語ノート | 08:44 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
思想の力・資本の力 その3
ある「考え」が、いったん社会思想化すると、それじたいが強い力をもちはじめる。

竹田青嗣氏の解説の続きを聞こう。



「ここから、『宗教』でさえ、もはや絶対的な『聖なるもの』ではなく、人間をその苦しみから救うためのもの、つまり、人間にとっての『有用性』を存在理由とするものとみなされる。

すると、『社会』はもはや『神の国』といった目的をもつものではないし、人間も信仰のために存在するのではない。

人間は、互いの有用性のために、したがってつまりは、それ自身を目的として存在するものとみなされるようになるのだ。」


(竹田青嗣・西研前掲書、177頁)



ここには、<神につつまれた人間社会>という中世的観念からの完全な離脱、すなわち近代的な世界観が成立するロジックがある。

国家も社会も教会も、個人にとって「役立つ」がゆえに存在が許されるという観念は、こんにちのわれわれをとらえている。

<有用性>という平易な観念は、平易であるがゆえに、このように近代世界の成立をうながす強い力をもっていた。

それが、ヘーゲルが、より深遠にみえる理神論や唯物論よりも、功利主義に近代性をみてとった理由である。

思想は、人々の観念を通して現実を規定する。









(つづく)









| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ヘーゲル語ノート | 08:06 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
思想の力・資本の力 その2
ヘーゲルの文はわかりにくいので、竹田青嗣氏による、該当部分の解説を引用してみよう。



「ここでとくに重要なのは、『有用性』の考えが、単に存在思想にとどまらず、人間存在や社会にも適用されていくという点だ。

まず、一切の事物、ことがらは、『人間にとって』有用性をもつという側面が強調される。すると、人間自身もまた、『誰かにとって』あるいは『互いにとって』有用な存在だということになる。

こうして、人間存在の意味は、互いにとっての有用性にあるという観念が現れる。

そしてここから、『社会』とは、個々の人間が互いに”役立ちあう”ものとしてその存在理由をもっている、という新しい社会思想が成立してくるのだ。」


(竹田青嗣・西研『超解読!はじめてのヘーゲル「精神現象学」』講談社現代新書、2010年、177頁。ゴチックは三浦)



ここでは、ゴチックにした部分に注目したい。

はじめ、有用性という単純な「考え」であったものが、人間に適用されて、ある「観念」となり、それが概念化されて、ついには「新しい社会思想」にまで熟していく。








(つづく)










| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ヘーゲル語ノート | 07:52 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
思想の力・資本の力 その1
社会の深いところで働くもの。

そのひとつは、われわれの心を掘り起こし、時代に向かって語りかける「思想」である。

「最大多数の最大幸福」という言葉で知られる功利主義(utilitarianism)の思想は、文献をのぞきこんでみると、どうも深みに欠けるような印象をうける。

しかし、ヘーゲルは『精神現象学』のなかで、理神論や唯物論をつつみこんだ思想として、功利主義に高い評価をあたえている。

ヘーゲルの趣意はなにか。








(つづく)










| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ヘーゲル語ノート | 21:18 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
論理は3だから発展する おわり
3つが並ぶとtriptychになり、「簡単に見終えることができない」のは、このようにやや複雑な論理が発生するからであろう。

しかし、見方をかえると、3=△の論理を理解することこそ、発展の論理を身につけることである。

たとえば、私AがBさんと話をして、そこからある認識Cを得たとき、認識CはBさんから産まれた産物であると同時に、私A が得たものである。

このとき、認識Cのなかに、主体Aも対象Bも活かされることになる。

これがものごとの発展の基本論理だというのが、<弁証法>と呼ばれる知恵の本質である。








(おわり)









| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ヘーゲル語ノート | 11:34 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
#誰が書いてるの?
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 
<< June 2017 >>
-->
#新しい記事
#過去の記事
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人
敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人 (JUGEMレビュー »)
ジョン ダワー, John W. Dower, 三浦 陽一, 高杉 忠明
#著書/共著
敗北を抱きしめて 下 増補版―第二次大戦後の日本人
敗北を抱きしめて 下 増補版―第二次大戦後の日本人 (JUGEMレビュー »)
ジョン ダワー, John W. Dower, 三浦 陽一, 田代 泰子, 高杉 忠明
#コメント
#トラックバック