ごきげんようチャンネル

"Life is too short to wake up with regrets." author unknown
           

土台とは、人の生活のことである 史的唯物論の概説本を読み直す

金子ハルオ『経済学 上 資本主義の基本的理論』(新日本新書、初版1968年)

 

ずいぶん前に出た本だが、マルクス経済学や史的唯物論の一般向け概説書として、かつてはよく読まれた(手持ちの1986年4月版で、50刷)。

 

この本には、今日見てもなかなか柔軟な説明をほどこした部分があって、おもしろい。

 

たとえば、「労働力の価値」については、次のように説明している。

 

資本主義の社会では、労働力の価値は「労働者とその家族(その社会の標準的な労働者一家)が生活するのに必要な生活手段の価値に等しい」。そして、その「生活手段」の費用には三種ある。74-75頁。

 

費用の三種とは、

 

]働者自身の維持費...日々の労働による生命エネルギーの消耗を回復するために必要な費用

家族の生活費...次世代の労働者を補充するために必要な費用

O働者の育成費...労働者の技能育成と熟練のための費用

 

である。そして、この費用には、物質的要素だけでなく精神的要素が含まれていることを、次のように説明している。

 

 

 

労働力という商品も、価値と使用価値をもっています。...労働者の生活は、社会的にみると、洋服を着たり食事をしたりする物質的・肉体的生活であるだけではなく、本を読んだりテレビを見たりする精神的・文化的生活でもあるのですから、労働力の価値は、他面からみれば、ほかの商品の価値のばあいとはちがって、物質的要素のほかに精神的要素を含んでいます。」(74-75頁。太字は引用者)

 

 

 

別の箇所では、この本は「生産関係の総体」を「土台」と呼んでおり、「生産力」は「土台」と対立的に統一されるもので、この土台(生産関係)と生産力の矛盾が、「人間社会の発展の原動力」だと述べている。27, 29頁

 

これだと、生産力すなわち技術や機械の力を含む人間の労働力は、「土台」ではないことになる。労働力じたいは上部構造でも意識諸形態でもないから、もし労働力ひいては生産力が「土台」に含まれないとすれば、労働力は社会のどこにも居場所がないことになる。

 

ところが、上記の引用部分では、労働力は「商品」すなわち生産関係の産物であると明記している。そして、「労働力の価値は...精神的要素を含んで」もいるのだから、けっきょく、労働力を売る人とその家族の全生活が、「土台」であるはずである。

 

この本にみられるように、土台とは「歴史的な...社会の経済構造」27頁 である、といった説明が、過去にはよくあった。「経済構造」というと、工場やオフィスのような労働現場や、商品の売り場、ビジネスモデル、家計、雇用関係、産業構造、地域経済の結合状態、経済指標の変動のようなものがイメージされがちで、家族関係や娯楽などの精神的活動を含む、人の生活全体というニュアンスを感じにくいところがある。

 

社会は、意志的(組織的)富や意味的(意識的)富のあり方としてもみることができる。なかでも土台とは、社会全体を物質的富(人を含む)の生産・交通・消費のあり方からみる思想のことである。

 

土台すなわち物質的富(人を含む)の循環としての社会という見方は、社会をみるひとつの角度にすぎない。しかしそれは、<意識をもち組織をつくる物質・生物としての人>という面から見ているだけに、もっともベーシックな社会観であるといえる。

 

本書のような、1960年代末に出た概説本にも、「土台」とは社会全体を見渡すひとつの思想なのだということが垣間見えると思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 06:28 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
土台の思想 物質連関として社会をみよ

物質連関とは、広義には、文字通り原子・分子レベルの物質どうしの連関のことであり、宇宙はこの連関によって運行している。太陽系も地球も人間も生物も、物質連関の一部である。

 

しかし狭義には、物質的富の生産・交通・消費という角度からみた人の社会のあり方を、物質連関と呼ぶこともできる。これが、マルクスのいう「土台」である。

 

物質的富というと、商品や貨幣のような、人の労働が加わった物象 Sache をイメージする人が多いかもしれない。しかし、物質的富の中核は、観念的物質としての人である。労働主体たる人が、人を生産し、交通し、消費する。これが土台の中核的プロセスである。物象は、人が人を生産・交通・消費するための媒介である。

 

人が労働対象とする自然(地形、位置、地下資源、気候、植生など)は、土台が成立するための対象的条件である。

 

自然を対象的条件とし、物象を媒介として、人が人を生産し、交通させ、消費する。その様式を、人と人との「生産関係」、あるいは土台の「生産様式」と呼ぶのだと、私は考える。

 

この観点からみると、人の組織である上部構造は、土台そのものではないが、ことごとく土台の存立に寄与するためのものととらえることができる。子どもの生誕・養育・教育を担う家族・学校は、土台の主人公たる人づくりのための上部構造である。警察・軍隊・病院は、人や社会の安全を維持するための、いわば土台を枠づける上部構造である。企業や国家も、物質的富の潤滑な生産・交通・消費に寄与する上部構造である。確かな上部構造は、豊かな土台を生む。上部構造は人の集まりであり、それじたい物質的富とみなすこともできるから、上部構造は、土台のなかの上部構造だともいえる。土台なくして上部構造はなく、上部構造なくして土台もない。

 

そして、観念的物質としての人は、自分の意識を対象にして思考し、それを意識諸形態として表現する。会話、ニュース、スピーチ、文書、作品などを通して、人は意味を交換しあいながら、上部構造と土台を維持・発展・修正していく。多彩な意識諸形態は、柔軟な上部構造と土台を生む。意識諸形態もまた、広義の物象であり、それじたい物質的富とみなすこともできるから、意識諸形態は、土台のなかの意識諸形態だともいえる。土台なくして意識諸形態はなく、意識諸形態なくして土台もない。

 

こうしてみると、土台とは、現実の人々の人生(マルクス『ドイツ・イデオロギー』がいう Leben) を、物質的富の生産・交通・消費とみなす観点から、リアルに認識する一個の社会観、ひとつの思想である。

 

人を見たら、「この人も物質的富を生む物質的富だ」と思え。みずからをかえりみて、「自分は物質的富を生む物質的富として、本来の能力を発揮できているか」と反省しろ。建物、道路、コンピュータ、商品、お金をみたら、「これは人が生命を生産・交通・消費するための物質的媒介だ」と思え。政治家は、物質的富の源泉たる人々の労働が適切に編成されている社会かどうかを、つねに検討しろ。

 

人が人を生産・交通・消費する仕組みとしての社会。

 

土台の思想を身につけたとき、それがトータルに見えてくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 20:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
マルクス永遠の誤読 『経済学批判要綱』序説の場合 おわり

こうした誤読は、マルクスの文脈が複雑で、たどりにくいことも一因である。

 

しかし、原因はそれだけでなく、のちにつくりあげられていった「史的唯物論」において、主として物質的生産の様式が注目され、それがマルクスの社会観の基礎だという歪んだ理解が流布したことが関連していると、私は思う。

 

そして、のちの史的唯物論では、商品などの物象だけでなく、人の観念もまた社会的に規定されながら"生産 Produktion " されるという観点が弱かったことも関連しているだろう。

 

 

 

ところで、同じマルクスの「序説」には、上記の部分のあと、冒頭と同趣旨の文が再びくりかえされている。

 

 

「だから生産が話題になるとき、つねに話題になっているのは、ある一定の社会的な発展段階にある生産ー 社会的な諸個人による生産である。」(筑摩版、145頁。太字は引用者)

 

 

「諸個人による生産」という訳も、私の見方からすれば、誤訳である可能性がある。そこで、この箇所の原文をネット版で参照してみると、ややこしいことに、今度は別の意味での戸惑いを感じる。

 

 

 

Wenn also von Produktion die Rede ist, ist immer die Rede von Produktion auf einer bestimmten gesellschaftlichen Entwicklungsstufe - von der Produktion gesellschaftlicher Individuen.

 

(http://www.mlwerke.de/me/me13/me13_615.htm#Kap_1 太字は引用者)

 

 

 

最後の太字にした部分は、"Produktion der gesellschaftlicher Individuen" となるほうが自然に思えるが、どうだろうか。

 

 

 

...

 

 

 

こうしてみると、マルクスは、まだまだ正確に読まれていない。

 

このことは、字句の解釈や誤植の有無といった問題にとどまらない。マルクスは、本気で正確に読み直す必要がある。

 

正確に読めば読むほど、マルクスの思想は、現代のわれわれに正確な示唆を与えてくれるからである。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 17:20 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
マルクス永遠の誤読 『経済学批判要綱』序説の場合 その2

もちろん、この部分の正確な意味を把握するためには、後続する文との関係も考慮する必要がある。

 

だが、マルクスがつけた小題「(1)生産」の部分だけでも、訳本で九頁くらいある。しかもマルクスが生前公刊しなかった、比較的自由なメモであるから、その文脈をたどることは容易ではない。

 

こうした事情が、この文の正確な読解をむずかしくしている。

 

そこで、私の個人的な読解であることをお断りしたうえで、結論から述べてみたい。

 

先のマルクスの文にあった "produktion der Individuen" とは、「諸個人生産すること」であり、「諸個人生産すること」ではない。

 

この文のあとにつづく内容をみると、スミス、リカードが議論の出発点においた「ばらばらの個々の猟師や漁夫」(この訳文は、前掲の筑摩版142頁による。以下同じ)や、ロビンソン物語の歴史的起源である。つまり、ここでマルクスが問題にしているのは、なぜ過去の経済学は、こうした「生まれながらに独立した主体たち」142頁という観念から出発したのか、ということである。

 

この問いに対するマルクスの答えは、その直後に書かれている。

 

 

 

「18世紀のこの個人は、一方では封建的な社会形態の解体の産物 das Produkt であり、他方では16世紀以来、新たに発展した生産力の産物 das Produkt であった。」(筑摩版、143頁)

 

 

 

ここにいう「個人」とは、スミス、リカードが議論の出発点においた「ばらばらの個々の猟師や漁夫」のことである。

 

こうした「ばらばらの」諸個人、「生まれながらに独立した主体たち」というのは、当時の経済学が社会的に規定されて観念的に生産したもの、すなわち "gesellschaftlich bestimmte Produktion der Individuen" だと、マルクスはいうのである。

 

ここにいう”諸個人の生産 Production der Individuen" とは、諸個人による物質的生産のことではなく、いまみれば「ばかばかしい」144頁 ような”ばらばらの諸個人”という観念を、過去の経済学が生産したことを指している。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 17:12 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
マルクス永遠の誤読 『経済学批判要綱』序説の場合 その1

マルクスが残したメモである『経済学批判要綱』の「序説」(執筆1857年。マルクス39歳)を、筑摩書房版の訳で読みはじめたところ、冒頭の部分にちょっとした違和感があった。

 

その訳文は、こうなっている。

 

 

 

 

「(1)生産

 

(a)当面の対象は、まず物質的生産(である)。

 

社会のなかで生産する諸個人 ー したがって諸個人の手でなされる社会的に規定された生産こそが、当然ながら出発点である。」

 

(筑摩書房マルクスコレクションIII、2005年刊、142頁より。太字は引用者。以下、「筑摩版」と呼ぶ)

 

 

 

 

違和感があったのは、私が太字にした部分である。

 

 

マルクスの原文は、次のようになっている。

 

 

 

 

 

1. Produktion

 

a) Der vorliegende Gegenstand zunächst die materielle Produktion.

 

 

In Gesellschaft produzierende Individuen - daher gesellschaftlich bestimmte Produktion der Individuen ist natürlich der Ausgangspunkt.

 

 

(http://www.mlwerke.de/me/me13/me13_615.htm#Kap_1 太字は引用者)

 

 

 

 

 

この部分の岩波文庫版(初版1956年)の訳は、

 

 

 

「一 生産

 

a) ここでとりあつかう対象は、まず物質的生産である。

 

社会で生産をおこなっている個々人、したがって個々人の社会的に規定されている生産が、いうまでもなく出発点である。」(287頁。太字は引用者)

 

 

 

となっている

 

 

逐語的に訳すと、岩波文庫版のように「個々人...生産」のようになるのが通常で、大月書店版や新日本出版社版でも、そのような訳になっている。

 

いずれにせよ、原文の "Produktion der Individuen" は、<個々人生産すること>なのか、<個々人生産すること>なのか、これだけではあいまいである。

 

 

そこで参考のため、この部分の英訳を探してみると、次のような例がある。

 

 

 

 

 

 

1. PRODUCTION 

   

 

 

a) To begin with, the object before us is material production. 
   

 

Individuals producing in society -- and hence socially determined production by individuals -- is of course the point of departure. 

 

 

(http://www.marx2mao.com/M&E/PI.html#intro  太字は引用者)

 

 

 

 

 

ここでは明確に、「個々人による生産 production by individuals」となっている。筑摩版は、英訳を参照したのかもしれない。

 

 

いずれにしても、 "Produktion der Individuen" を、筑摩版が「個々人の手による生産」と訳したのは、<個々人生産する>という意味であることを明確にしようとしたからであろう。

 

私は、これは一種の誤訳であると思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 17:10 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
史的唯物論の出発点は、個々人の「生活」の生産にあった おわり

マルクス『経済学批判』の「序論」から、その一部の訳文と原文を文言的に検討すれば、以上のようになる。

 

原文はいくつかの読み方を許す表現になっており、それに対応して、日本語訳もあいまいな表現を採用してきたということである。

 

私自身は、ここでマルクスがいう「個々人の生産」とは、衣食住などの生活=「個々人を生産すること」という意味を濃厚にふくんでいると思う。これを「個々人による物質生産」ととるのは、やや不自然であろう。ふつう経済学は、個々人がおこなう物質生産を、主たる問題にすることはないからである。

 

なぜ私が、このわずかな文言にこだわるか。

 

それは私が、史的唯物論で「土台」といわれる社会の基盤は、商品のような物質生産だけでなく、商品生産を媒介にした、人々の「生活」の生産を本質とするのではないか、と考えているからである。一見、「生活」という語が登場しない『経済学批判』序言で、マルクスが "gesellschaftlich bestimmte Produktion der Individuen" と書いたのは、諸個人を生産するそれぞれの社会の様式こそ社会の基盤であること、つまり「生活」という言葉の言い換えであったと考えるべきではないだろうか。

 

「個々人の生産 Produktion der Individuen」という表現を、「個々人による物質生産」といった意味に解釈しがちであったところに、史的唯物論の矮小化が象徴されているように思う。

 

 

 

 

...

 

 

 

 

今日、史的唯物論を考え直すとき、マルクスが若いころ使った「生活」という生な言葉を復活させるべきかどうかは、検討の余地があるだろう。

 

しかし、個々人の「生活」すなわち個々人を生産する様式こそが社会の土台をなす、という根本思想が、マルクスの社会観を支えていた。

 

そう認識すべきではないかと、私は考える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 05:10 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
史的唯物論の出発点は、個々人の「生活」の生産にあった その7

それでは、マルクスのドイツ語原文は、正確にはどう書いてあるのか。

 

ドイツ語圏文化を研究しているある碩学にこの文をみてもらったところ、次のようなアドバイスをもらった。

 

 

 

 

 a. 基本的には、

 

 

「社会のなかで何かを生産している諸個人ーということは、諸個人の自由意志ではなく社会的に規定されたやり方で何かを生産しているにすぎない諸個人が、当然の出発点である。」

 

 

といった風に読める。

 

ただし、原文が Produktion der Individuen となっているところはやや問題がある。上記のように「諸個人による生産」の意味であれば、ここは der ではなく von または durch になるほうが自然であろうと思われるからである。

 

 

b. そこで、Produktion der Individuen について、Produktion が他動詞由来の名詞であることを考えると、「諸個人生産すること」という意味に読む余地も十分にある。そのことを考え、bestimmt (規定された)も重視して全体を理解しなおすと、

 

 

「社会のなかで何かを生産している諸個人ーということは、社会に規定されている、つまり社会によって生産されている諸個人、これが当然の出発点である。」

 

 

 

といった意味に解釈することも可能である。

 

 

 

 

 

つまり、Produktion der Individuen の部分は、普通には「諸個人による生産」と読めるが、事実上、「諸個人生産すること」という意味に読むことも可能で、どちらであるかはこの文言だけでは決め手がない、ということである。(マルクスが両方の意味を述べようとした可能性もある)

 

既述のように、日本で流布している三種の訳本は、いずれもこの部分を「諸個人生産」または「個々人生産」と、どちらともとれる訳をしている。

 

これは、あいまいな原文をあいまいな日本語に訳したもので、ある意味では、これが適訳であることなる。

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 05:07 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
史的唯物論の出発点は、個々人の「生活」にあった その6

参考のため、この部分の英訳例をあげてみよう。

 

 

 

 

 

1. PRODUCTION 

   

 

a) To begin with, the object before us is material production. 
   

 

Individuals producing in society -- and hence socially determined production by individuals -- is of course the point of departure. 

 

 

http://www.marx2mao.com/M&E/PI.html#intro

 

 

 

 

 

 

 

ここでは明確に、「個々人による生産 production by individuals」となっている。先に挙げた何通りかの日本語訳も、この英訳と同様、「個々人による [財貨の] 生産」のつもりで、「個々人生産」と訳したのかもしれない。

 

これは、<物質的生産>といえば財貨の生産のことであるという理解が、マルクス以降に通説となったことが影響していると思われる。

 

だが、既述のように「個々人生産 Produktion der Individuen」という原文は、「個々人生産すること」という意味にもとれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 05:06 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
史的唯物論の出発点は、個々人の「生活」の生産にあった その5

ここで、やや煩瑣かもしれないが、マルクス『経済学批判』の序説冒頭のドイツ語原文と、その日本語訳について検討してみたい。

 

マルクスの原文は、次のようになっている。

 

 

 

 

 

1. Produktion

 

a) Der vorliegende Gegenstand zunächst die materielle Produktion.

 

 

In Gesellschaft produzierende Individuen - daher gesellschaftlich bestimmte Produktion der Individuen ist natürlich der Ausgangspunkt.

 

 

http://www.mlwerke.de/me/me13/me13_615.htm#Kap_1

 

 

 

 

 

 

この部分について、岩波文庫版(初版1956年)は、

 

 

 

「一 生産

 

a) ここでとりあつかう対象は、まず物質的生産である。

 

社会で生産をおこなっている個々人、したがって個々人の社会的に規定されている生産が、いうまでもなく出発点である。」

 

 

 

と訳している(287頁。ゴチックは三浦による。以下同様)。

 

 

大月書店発行の国民文庫版(初版1953年)も、

 

 

 

「一 生産

 

a) ここでの対象はまず第一に物質的生産である。

 

社会のなかで生産をおこなう諸個人 ー したがって諸個人の社会的に規定された生産、いうまでもなくこれが出発点である。」

 

 

 

となっていて、ほぼ同様の訳文となっている(268頁)。

 

 

さらに、比較的最近の新日本出版社版(初版2001年)も、

 

 

 

「一 生産

 

a) ここでの考察対象はまず第一に物質的生産。

 

社会のなかで生産している諸個人が、ー それゆえ社会的に規定された諸個人の生産が、言うまでもなく出発点である。」

 

 

 

となっていて、やはり似ている(23頁)。

 

これらの訳文における「の」は、どれも意味が二様にとれる。

 

もともと、「の」にはいくつかの意味があり、たとえば「トヨタ生産」といえば、「トヨタによる生産」の意味であるが、「鉄鋼生産」というときの「の」は、「鉄鋼生産すること」といった意味である。

 

上記の三つの訳文の場合、「個々人…生産」とは、「個々人による生産」という意味にもとれるし、「個々人生産すること」ともとれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 05:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
史的唯物論の出発点は、個々人の「生活」の生産にあった その4

ここでは、私がゴチックにした「個々人の社会的に規定されている生産」という語句に注目したい。

 

普通に読むと、<個々人社会的に規定されながらおこなう生産>という意味のようでもある。

 

だが、その直前には、「社会で生産をおこなっている個々人」とある。これは<生産する個人>をさしている。マルクスは表現を逆転させて言い直すことがよくあることを考えると、ここは<生産する個人>を逆にして、<個人を生産すること>、つまり

 

 

<個々人、社会的に規定されながら生産すること>

 

 

という意味に読める。

 

 

『経済学批判』に収録された唯物史観の「公式」の冒頭は、既述のように、「人間は、その生活の社会的的生産において…」(岩波文庫版、13頁)となっていた。これは明らかに、<人間は自己の生活を社会的に生産する>ということである。

 

ならば、「序説」の上記の冒頭も、

 

 

<個々人を生産すること=個々人の生あるいは生活を生産すること>

 

 

ということを述べているのであり、すると「序説」冒頭部分の全体の意味は、

 

 

<社会で生産をおこなっている個々人、逆転させていうと、社会的に規定されながら個々人生産すること[=個人の生活]が、当然の出発点である。>

 

 

といったことになろう。

 

「序説」の後続部分をみても、この推測は正しいと思われる。「社会的に規定されながら個々人を生産すること」という表現のあと、マルクスは、もっぱら「漁師」や「漁夫」や「ロビンソン物語」といった人間をとりあげ、そうした人間類型が、「自然によって定められた」のではなく、「歴史のなかで生じてきた」と述べている。まさしく、歴史は「社会的に規定されながら個々人を生産」してきたと述べているのである。

 

20代後半の『ドイツ・イデオロギー』と同様、30代後半の『経済学批判』においても、マルクスは「生活の生産」という観点から歴史観を組み立てていると考えられるのである。

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 05:04 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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