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         大鏡


権力とは、成員を選定・配置し、その行動規範を決定して組織を統合する指導力

権力とは何か。政治学の滝村隆一氏は、

 

「規範にもとづく支配力」(『国家論大綱』第一巻上、302頁)

 

だと規定している。機能や制度や人格のレベルで権力を理解せず、観念的な規範のレベルでとらえたところが優れている。

 

だが、もともと規範とは、支配力として作動する観念である。権力とは規範にもとづいた観念的な支配力だというだけでは、権力の特性を十分とらえていないという印象が残る。

 

権力の定義は、

 

「組織成員を選定・配置し、成員の意志を服従させる全体意志を決定し、全体意志実現のための行動規範を設定して、組織を統合する指導力」 

 

としたらどうだろう。

 

権力は、成員の離脱・加入の条件を決定し、成員を配置する権限を握っている。国家権力とほかの権力とのちがいは、その組織である国家からの離脱や他の国家への加入が、個人の自由意志ではそうとうに困難であり、ときに個人の意志をまったく認めないところにある。

 

また、権力は個々の成員が抱く意志(個人の規範)よりも上位の規範である。すなわち、一人一人がどんな意志(規範)をもっていようが、否応なしに行動させる<規範の規範>(社則、法律、方針、目標など)を決定し、それによって成員の行動を指導し組織できる力である。指導力を裏づける手段として、権力は賞罰権ももっている。

 

権力が作動する組織では、直接には行動が問題にされる。私的な会話などは、個人の精神レベルの事象(意識形態)である。むろん、こうした私的な意識形態を、組織の指導力にかかわる危険な行動の一種と権力がとらえることはありうる。

 

成員の行動規範の決定に、なるだけ多くの成員を形式的にせよ参加させて「手続き的正義」を確保し、権力の指導力を増す。これが会議や選挙などの民主主義的手段の意味である。

 

 

 

歴史は権力現象に満ちているから、権力の概念はトランス・ヒストリーにとっても根幹的である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 08:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
史的唯物論は歴史認識のための規範(概念体系)である

史的唯物論とは、どういうレベルの、どういう存在か。

 

観念のトランスでは、主体たる認識力が、概念を規範としながら自分の意識に投射し、意識を認識へと転態させ、この認識の概念表象を規範として表現態をつくる。

 

歴史も観念のトランスのひとつであり、主体たる認識力が、概念を規範としながら自分の意識に投射し、意識を歴史認識へと転態させ、この歴史認識の概念表象を規範として、歴史にかんする表現をつくる。

 

史的唯物論は、歴史認識をつくるさいの規範(概念体系)の提案である。史的唯物論は観念上の規範であって、物質的な現実そのものではない。

 

史的唯物論の概念体系は、ひとつのトランスとして叙述できる。史的唯物論のトランスでは、個人・社会の認識力を基盤とする生産諸力(生産力・組織力)が主体となり、社会(土台・上部構造・意識諸形態)を客体として投射し、社会が転態して、社会構成体という転体(土台・上部構造・意識諸形態の編成)となる。

 

史的唯物論に依拠してつくった具体的な歴史表現は、自他の検証にさらされる。

 

このようにして、史的唯物論は活用され修正され洗練される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:51 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
<社会全体の認識力>というものがある

自己とは、認識力のことである。

 

自己の集まりである社会にも、認識力がある。たとえば、中国には中国国家と中国人の認識力、韓国には韓国国家と韓国人の認識力があって、彼らはそれぞれの立場から鋭くものごとを認識する力をもっている。そして同時に、彼らには認識できない側面、つまり盲点もかかえている。日本も同様である。

 

こうした<社会の認識力>は、社会的に継承される体験、つまり日々つくられる歴史によって育まれる。

 

古代において戦争は、国家という全社会支配の力を生む原動力であった。近代国家が内戦・外戦ともにみずから否定するとすれば、それは国家の歴史的変質を意味する。日本の場合、本土での内戦は西南戦争をもって終結し、近代日本国家はもっぱら外戦を仕掛けて、ついに敗北した。

 

自分で仕掛けた国外戦争によって国家も住民も追い詰められた経験をもつ社会は、そのことから独自の認識力を身につけることになる。日本国憲法はそのような独自の経験の表現である。それは理念の言葉で書かれており、この理念を鏡として、戦後日本の住民は自分の認識力をつくっていった。日本は世界にさきがけて、戦力不保持・交戦権否定の歴史的段階に入ろうとしたのである。

 

他方、自分からしかけた大戦争で完全に敗北したことのない社会、そうした歴史の認識がない個人にとっては、自国の戦力をみずから否定するなど、馬鹿げたことに見える。戦力不保持・交戦権否定の意味を認識できる歴史的体験がないからである。

 

浄土教には「共業(ぐうごう)」という言葉がある。個人がつくる業のほかに、みんなが共通に出し合う業があって、それが世界のあり方に影響を及ぼしていることを指す。

 

業は、人間が不可避的につくる認識と行為の集積で、良い業も悪い業もある。

 

共業によって、社会の生産諸力が養成される。社会の認識力は、そうした生産諸力のひとつ、すなわち共業の一種である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
なぜ人類史は自然過程か 歴史法則が長期的に貫徹する

自然過程としての歴史。それは長期的に貫徹する。

 

ならば、人間の「自由意志」は、この自然過程にどう含みこまれるか?

 

ここで、高校の物理の「力の合成」の説明を引用させてもらおう。

 

 

 

「力はベクトルであり、どれもが同じ方向を向いているとは限りません。違う方向を向く力同士の合成はどう考えればよいでしょう。

 

 

たとえば

 

 

  

 

 

このような2つの力があった場合、数学のベクトルの加法にならいます。すなわち平行四辺形の対角線が合力となります。

 

 

 

 

 

もし  2つの力の角度が120°であるなら  この青い三角形は正三角形であり、平行四辺形の対角線の長さは各辺の長さと同じになるので、

 

 

 

 

合力は 2N となります。2N + 2N が 2N となるのです。4N とはなりません。

 

 

 縦方向の成分は打ち消し合ってしまい、 横方向の成分だけ残るからです。」

 

 

 

http://wakariyasui.sakura.ne.jp/p/mech/tikara/gousei.html#ittann

 

 

 

「力の合成」の原理は、歴史の理解にも役立つ。

 

自由意志による人間の行動をひとつのベクトルだとすれば、人間が二人いてベクトルが二つ集まれば、ひとつの平行四辺形になる。その結果は、上記の「力の合成」が示すように、個々のベクトルの方向とは異なるし、量も単純な和にはならない。

 

このように合成された力が無数に集まって、社会全体の方向が決まる。個々の人間の行動は自由意志によるが、全体の方向は、個々の人間からみれば「無意識、無意志」に決まっているようにみえる。つまり社会全体の方向は、個々人の自由意志を超えた「自然過程」のように貫徹していく。

 

この自然過程は、多くの逸脱、逆行、中断をともないながら、長期的にはある一定の方向へと進む。人間は、それがどの方向であるかを洞察することもできる。その長いプロセスにおいて働く諸法則を洞察することもできる。

 

こうして方向と法則が洞察できたら、それらを加速したり遅延させたりすることもできる。知恵と努力次第では、歴史の方向と法則を修正することさえ不可能ではない。

 

 

 

 

資料:エンゲルスによる「歴史(力)の平行四辺形」の説明

 

 

「歴史のつくられ方というのは、多くの個別意志の葛藤のなかから最終結果が いつでも生れてくるものであり、しかもそれらの個別意志はそれぞれまた多く の特殊な生活条件によってそのような個別意志になっているのです。

 

つまり無数の、たがいに阻害し合う力、すなわち力の平行四辺形の無限の集まりがあり、 そのなかからひとつの合成力――歴史的結果――が生まれるのであり、それ自身はまた全体として無意識に、また無意志にはたらく力の産物とみなすことができるのです。

 

なぜならば、個々の一人ひとりの者がもとめるものは、他のそれぞれの者によってはばまれ、そして出て来るものはだれもがもとめなかったものということになるのです。

 

こうしてこれまでの歴史はひとつの自然過程のように経過していますし、また本質的には同じ運動法則にしたがっています。

 

しかし、個々の意志が―そのそれぞれが体質や外的な、最終的には経済的 な事情(それ自身の個人的な事情または一般的-社会的事情)にせまられて、そ のもとめるところがきまってきます―

 

―そのもとめることを得られず、溶け合って全体の平均、すなわち共通の合成力が生れるからといって、個々の意志イコール・ゼロとみなすべしなどと考えてはなりません。

 

それどころか、個々の 意志はそれぞれ合成力に寄与するのであり、そのかぎりでそのなかに含まれているのです」

 

 

(エンゲルスからヨーゼフ・ブロッホへの手紙、1890年9月21日、全集第 37 巻。太字は引用者)

 

 

http://benkaku.typepad.jp/files/tokuchou.pdf

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
人間の労働力は「自然力」である

物質(身体としての人間をふくむ)を客体とする投射を、労働という。観念としての人間を客体とする投射が行動であり、自分の観念を客体とする投射が認識である。

 

労働という投射の実体は労働力である。労働は、客観的には生産であり、生産をおこなう実体が生産力である。行動という投射の実体は行動力であり、行動は客観的には組織づくりである。組織づくりをおこなう実体が組織力である。認識という投射の実体は認識力である。認識は客観的には表現づくりであり、表現をおこなう実体が表現力である。

 

『資本論』は、物質を客体とする投射である生産力を、「自然的生産力」と「社会的生産力」に分けている。

 

自然的生産力は、人間自身にそなわる労働力(筋力、集中力、認識力、協調力など)と、それ以外の「外的自然」からなる。人口(人間の多さ)は、社会がもつ人間自身の自然的生産力の可能量の、ひとつの指標である。外的自然には、土地の豊穣、天産物など生活手段における自然的富と、落流・可航水流・金属・石炭など労働手段における自然的富がある。歴史の初期には生活手段における自然的富が重要であるが、歴史が発展してくると、労働手段における自然的富が決定的に重要となる。

 

自然的生産力がある程度まで大きいことは、生活手段生産以外の生産的労働が可能になるための歴史的前提であるが、自然的生産力だけで生産的労働が増大するわけではない。自然的生産力が大きい(自然条件に恵まれている)ことが人間に直接与えるものは、多くのひまな時間である。人間がこのひまな時間を自分の生産力向上に利用するには、一連の歴史的事情が必要である。また、このひまな時間を他人のための剰余労働に消費するためには、なんらかの外的強制が必要となる。

 

社会的生産力は、人間自身をふくむ自然力の社会的統御や積極的利用にもとづく生産力のことであり、それは具体的には、社会的分業、協業、工場内分業、機械の利用といった歴史的発展から生まれる。

 

 

(以上の記述は、『資本論辞典』青木書店、1966年、457-458頁の「労働の自然的生産力」「労働の社会的生産力」の項(執筆・岡崎次郎)を下敷きにした。)

 

 

ここで注目すべきは、人間がもつ自然的能力たる労働力(筋力、集中力、認識力、協調力など)が、「自然力」としてとらえられていることである。


そう理解するなら、社会的生産力の歴史的発展によって人間の能力が開発され、人間の「自然力」が上昇すると、そのぶん自然的生産力も増大することになる。

 

むろん人間の世界では、道路水道電線などのインフラや道具機械のような、いわば「準外的自然」が、生産力を飛躍的に高めている。だが、これら準外的自然も人間の「自然力」=労働力の発揮たる労働が生んだものである。

 

つまり、外的自然および準外的自然による自然的生産力と、労働の編成による社会的生産力は、けっきょく人間の労働力という「自然力」に依存する。

 

史的唯論というときの「物 material」とは、人間の労働力を「自然力」とみる観点のことである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
本質は三種類ある 物性・習性・規範

本質はトランスを規定する。

 

物質のトランスの本質は物性と呼ばれ、生物のトランスの本質は習性と呼ばれる。人間のトランスの本質は規範と呼ぶ。

 

人間は、あらゆるトランスの本質を認識の対象にできる。本質認識は、人間の実践にとって規範となる。人間の本質認識には深浅がある。

 

規範は人間にとって超感性的な実在であり、社会慣習、道徳、言語規範、科学、神仏、個人の記憶、所属感覚(アイデンティティ)、予測といった概念が、感覚・感情をともなって生成・貯蔵・修正され、人間のトランスを規定している。

 

社会の由来の認識すなわち歴史認識も規範である。

 

歴史認識は、個人を超えて共有される普遍的な認識であり、学校や読書や語りによって散布され、人々の心に植え付けられる。

 

神話伝説も歴史認識を支えるイメージであり、あなどれない力をもつ。

 

歴史認識は、ストーリー仕立ての集団的規範として、社会のトランスの深部で作動する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
史的唯物論への補論 『諸結果』から

1863年ごろ、45才のマルクスが書いた草稿に、「新しい社会構成体」が生まれるプロセスを書いた部分がある(森田茂也訳『資本論第一部草稿 直接的生産過程の諸結果』光文社古典新訳文庫、2016年)。

 

『経済学批判』の史的唯物論の「定式」を補う記述なので、以下、注意すべき箇所を太字にしながら引用する。

 

 

「資本関係一般が生じるにあたっては、社会的再生産の一定の歴史的段階と形態とが前提されている。以前の生産様式の内部ですでに、交通・生産手段と種々の欲求が、古い生産諸関係を乗り越えて資本関係への転化を迫るほどに発達していなければならない。

 

しかしそれは、資本のもとへの労働の形式的包摂が起こるのを可能にする程度に発達していればよい。だが、まさにこの変化した[生産]諸関係を土台にして、独自に変化した生産様式が発展してくる。

 

この変化した生産様式は、一方では新しい物質的生産力をつくり出し、他方ではその[物質的]生産力を基礎にしてはじめて自らも発達するのであり、それによって実際に自分のための新しい現実的な諸条件をつくりだすのである。こうして全面的な経済革命が開始される。

 

一方ではそれ[経済革命]は、労働に対する資本の支配のための現実的諸条件をはじめてつくり出し、完成させ、それにしかるべき形態を与える。

 

他方では、この変革によって労働者に対立的な形で発展させられた労働の生産力、生産諸条件と交通諸条件は、資本主義的生産様式の対立的形態を止揚する新しい生産様式のための現実の諸条件をつくり出し、こうして、新たに形成される社会的生活過程のための、それとともに新しい社会構成体のための、物質的土台をつくり出すのである。」(306ー307頁。太字は引用者)

 

 

以上の文から、次の点に気づく。

 

新しい生産諸関係への転化の前提として、「交通・生産手段と種々の欲求」があげられていること。とくに、「欲求」という観念的要因が明記されていること。

 

ここに登場するキーワードの多くは、常識的な意味で使われていないこと。ここで「生産様式」とは、経済面つまり物質を対象にした労働/生産の編成方式のこととも読めるが、社会が自己を生産し超越するトランス全体(Leben)のこととも読める。「生産諸関係」とは、社会の物質面の生産だけでなく、その交通や消費まで包摂し、かつ物品や身体だけでなく人間の組織や観念的産物を含む、社会的生活全般の再生産のための、規範を指している。

 

後半にある「労働の生産力、生産諸条件と交通諸条件は...現実の諸条件をつくり出」すという表現は、社会を変革する主体が「生産力」であることを述べている(残りのふたつは「条件」)。

 

ここでは「労働の生産力」となっているが、より広くみて「生産諸力」とは、物質的財貨や人間身体や社会組織や意識諸形態を生産するだけでなく、財貨・身体・組織・表現を交通させ消費する力を含んでいるとみるべきだろう。つまり、土台・上部構造・意識諸形態(マルクス『経済学批判』序文「定式」)がもつ生産力・組織力・表現力を総合した力が、「生産諸力」である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
史的唯物論の暫定的総括 社会の生産諸力が社会の成員に投射して社会構成体をつくる 

社会のトランス(社会の自己超越のあり方)は、次のように描ける。

 

 

 

 

    社会構成体      社会成員    

 (土台・上部構造・意識諸形態)    (生産物・組織体・表現態)

 

  ▽

           

           生産諸力

  (ヒトと社会構成体がもつ労働/生産力・行動/組織力・認識/表現力)

 

 

 

 

「生産諸力」とは、社会の成員がもつ労働/生産力・行動/組織力・認識/表現力の総合である。生産諸力は、客体たる社会成員から、その能力を分離して主体とみなした概念である。

 

生産諸力がヒトの肉体・立場・意識に投射することで、生産物(身体)・組織体(個人・集団の社会的立場をもつ存在)・表現態(個人的・集合的意識の現実化)たる社会成員となり、その社会成員が多様な生産物・組織体・表現態を生み、生産物・組織体・表現態は統合されて土台・上部構造・意識諸形態となり、土台・上部構造・意識諸形態の編成様式たる「社会構成体」が生まれる。

 

社会構成体は、土台・上部構造・意識諸形態の生産/交通/消費・組織/交流/変革・表現/移動/享受によって生成・発展・消滅する。以上のプロセスのありようは、生産諸力に反射される。

 

ところで生産諸力は、社会の土台・上部構造・意識諸形態がもつ力でもあるから、生産諸力とは、上図の転体たる社会構成体から分離したものでもある。

 

この▽のまんなかで作動し、たえず修正される規範が「生産諸関係」である。

 

こうした社会のトランスのありようは、広義の「生産様式」または「生」「生活」( Leben」と呼べる。両者をあわせて、「生(活)の生産様式」と言えばいいかもしれない。

 

✳マルクスの社会観を統括するキーワードとしての Leben は、20代末に執筆した『ドイツ・イデオロギー』にみられる。

 

 

 

以上の理解をもって、『経済学批判』序言(1859年)の、いわゆる史的唯物論の定式を読み直してみよう。

 

 

「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意志から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。」(マルクス(武田隆夫他訳)『経済学批判』序言、岩波文庫版、13頁。太字は引用者)

 

 

ここで「生活の社会的生産」とは、物質の生産だけでなく、人間の組織(家族、企業、国家...)や認識の表現(言語、芸術、デザイン...)を含む「生活」全般の維持・発展のことであり、「物質的生産諸力」とは、じっさいに「生活の社会的生産」を行える(現実に存在する)、土台・上部構造・意識諸形態の労働/生産力・行動/組織力・認識/表現力の総合である。「生産諸関係を、とりむすぶ」とあるのは、いいかえれば、生産諸力が依拠する規範が「生産諸関係」だということである。

 

定式はいう。

 

 

「社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれ[生産諸力]がそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの[生産]諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。」(マルクス『経済学批判』序言、同上、13頁。太字は引用者)

 

 

ここで、「それ[生産諸力]がそのなかで動いてきた既存の生産諸関係」という表現は、生産諸関係が上記の ▽ をとりしきり、生産諸力の規範となっていることを指している。社会構成体の移行とは、生産諸力の運動による生産諸関係すなわち社会規範の取り替えであり、生産様式の交替である。

 

国家は社会構成体の中核である。国家権力となる組織的行動力が人間を客体にして行動し、人間は法的規範を通して国家へと編成される。

 

上記の▽とその変動が、基本的な歴史観(いわゆる史的唯物論)となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
土台・上部構造・意識諸形態 ヒトは三種類のトランスをおこなう

ヒトは、身体として活動し、社会的関係を結び、意識を抱く。そういうヒトにとって、宇宙は物質・人間・観念の複合として実在している。ヒトは、物質・人間・観念に投射する主体である。

 

ヒトによる投射には、主観面たる労働・行動・認識と、客観面たる生産・組織・表現がある。

 

対象がヒトによる投射(労働/生産・行動/組織・認識/表現)を受けて転態し、現実化したもの(転体)が、生産物・組織体・表現態である。

 

生産物・組織体・表現態を生む実体(主体)は、労働/生産力・行動/組織力・認識/表現力である。

 

労働/生産力・行動/組織力・認識/表現力がしたがう規範は、労働/生産規範・行動/組織規範・認識/表現規範と呼べる。

 

物質にとって物性(原子)が、生物にとって習性(DNA)が本質であるように、ヒトにとって労働/生産規範・行動/組織規範・認識/表現規範が本質である(本質とは、主体の活動がしたがう法則、規範)。

 

こうして、ヒトは三種類のトランスをもつ。

 

土台(物質)は、ヒトの労働/生産力が生産物を生産/交通/消費する過程・結果・規範。

 

上部構造(人間)は、ヒトの行動/組織力が組織体を組織/移動/変革する過程・結果・規範。

 

意識諸形態(観念)は、ヒトの認識/表現力が表現態を表現/伝達/享受する過程・結果・規範。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
存在は自己超越する トランス原論の暫定的総括

身体・立場・意識をもつヒトにとって、宇宙は物質・人間・観念からなる。

 

物質・人間・観念は、次の▽の関係=トランスをつくる。

 

 

 

 

            転体      客体

 

   ▽

  

                主体

 

 

 

この図は、下の頂点にある主体にはじまって、反時計回りに運動する。すなわち主体は客体に投射し、客体を転態させて転体を生み、主体は転体から反射をうける。このプロセスによって、主体と客体と転体はみずから(自己)を超越する(投射前の自己とは異なるものになる)。なお、客体も転体も、別のトランスの主体となりうる。

 

▽の中央部には、トランスを支える本質がある。主体は実体、転体は現象、本質は規範とも呼ばれる。

 

✴ トランスを上記のような▽に整理したのは私であるが、この存在論を”sich verhalten” "sich beziehen"といった表現で述べたのはマルクスであり、このマルクスの表現の特異性と重要性を指摘したのは、大谷禎之介氏である(大谷禎之介『マルクスのアソシエーション論』桜井書店、2011年、236ー274頁)。

 

トランスの理解にあたって、注意すべき点。

 

ひとつは、主体の投射をうけた客体は、転体に向けた転態を主体的におこなうこともあるし、主体の意図した転態を変質させたり拒否することもある。

 

また、スマホをとりだせばスマホが自分を撮影してくれるように、主体を客体や転体から分離させてつくることもできる。たとえばヒトは、自分の観念(即自)から認識力を分離させ、この認識力をして自分の観念に対自させて、自分の観念(客体)を認識するという観念のトランスをつくる(即自かつ対自)。

 

さらに、トランスは二つ以上が複合・連鎖する。同一(ひとつの客体から、ふたつ以上の矛盾した転体が生まれる。例:有難迷惑)、相互浸透(主体と客体が互いに投射しあって、互いに超越しあう。例:親友関係)、過程的統一(転体に別の主体が投射して、もうひとつの転体をつくることで矛盾を解決する。例:乗り継ぎ)といった「弁証法」は、二つ以上のトランスが複合・連鎖するパターンの洞察であった。

 

また、観念のトランス(対象から認識を転態させるトランス)をつくることで、ヒトにとって対象が実在することになること。ヒトの認識対象は、つねに別のトランスでつくられた転体である。つまり、認識対象を生んだトランスは、観念のトランスとは別のトランスであることに注意しなければならない。『資本論』の価値形態論の等式は、この観念のトランスを論じている。観念のトランスにおいては、客体(相対的価値形態)に対応する転体(等価形態)を等置するだけで、ひとつのトランスが完成する。言語も、観念上の等置というトランスを利用している(認識に表現を等置)。

 

 

「ある」(存在)とは、上記のトランスの関係に「ある」ということである。

 

 

✳仏教では、存在=トランスを空(くう)とか仮有(けう)と呼ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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