ごきげんようチャンネル


あきらけき かがみにあへば すぎにしも いまゆくすゑの こともみえけり

         大鏡


真のイノベーションは、はじめ正体不明

「画期的な新技術」というと、一瞬のひらめきからはじまり、すぐに大きなうねりに…といったイメージがある。

ところが、真に画期的な新技術は、実用までに長く曲がったプロセスを経るものだと指摘する本がある。

その原因のひとつは、画期的な技術ほど、その真髄は深く隠されており、解釈や応用が容易でないからである。

 


「新技術の意味の同定の難しさが事業化への結びつきを困難にしている。特定の経営行動に結びつきイノベーションの収益化につながるのは、技術自体というより、技術のもっている意味である。」(榊原清則『イノベーションの収益化―技術経営の課題と分析』有斐閣、2005年、182頁

 


新技術の意味がわからないために、多くの研究開発企業が「死の谷」(中途倒産)に屍(しかばね)をさらしている。(同書、164-165頁

同書に実例がのっている。

 


実例  1963年、キヤノンはキヤノーラ130という卓上電卓を発明した。しかし開発当初、なにが画期的なのか開発者自身にもよくわからず、焦点の定まらない特許申請をしてしまい、模倣を防ぐことができなかった。従来はフルキー方式といって、桁ごとに0から9 のキーが並んでいたのに対して、この計算機は 0 から 9 までの10個のキーが1組だけ並んでいるテンキー方式になっており、これこそ、特許で押さえるべき新技術の意味であった。今から思えば、なぜこれほど明瞭な新規性が理解できなかったのかと、不思議なほどだ。

実例◆ MPUは、はじめは特定企業向けに開発されたデバイスで、市場に導入されたときはニッチ商品にすぎなかった。その後、何年もかかって、MPUは汎用パソコンの中枢的素子に位置づけられ、高収益チップに「大化け」した。「インテル、入ってる」で有名な製品の背景には、こんな歴史があった。
 


発明の瞬間とは、その後の長いプロセスのはじまりにすぎないのだ。

 

これは、歴史の事実は終わったあと何度も咀嚼され、後の人がその意味を深めていく必要があるのと似ている。

 

 

 

 

 

 

 

 





 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 11:10 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
仏教はロジックではなく宇宙観

仏教の性格を、仏教学者が率直に批判した珍しい文がある。



「西洋哲学が仏教にひいでている点は、いうまでもなく『哲学する』という推論の過程である。これはわれわれが思想を理性的にうなずくための唯一の方法である。

しかるに仏教の各学派を眺めてみると、それぞれ一応の体系はそなえていても、推論の過程において見るべきものはほとんどないといってよい。…

仏教のなかで比較的に哲学の精神が現れていると思われるものは、インドの唯識思想とわが国の道元の思想であろう。しかし唯識も道元も推論の過程には深い洞察が秘められているが、そのままの表現では、なかなかわれわれの理性に訴えにくい。」

(玉城康四郎『仏教の根底にあるもの』講談社学術文庫、1986年、284頁)

 


この文を読んだときは、仏教学者が仏教を正面から否定しているように思えて、驚いた。
 

また、親鸞研究の金子大栄氏が、こう書いている。

 

 

「東洋の知恵は随筆的である。大論文がない。

 

カントとかへーゲルとかいう人の書いたような組織系統のあるところの大きな著作というものはないのです。大部の本はありますが、それは多く編集である。

 

系統的なものをたっとんで随筆的なものをたっとばないということになると、結局は西洋の理性にはかなわない、ということになります。

 

それに答えることができるものがあるとすれば、それはただ一つ、道念でしょう。

 

道念というものがありますれば、西洋の理性よりも簡単な随筆がよいということになるのです。これに反して大きな書物を書いてみても、道念が喚起されねば真に人間のためになるものではありません。

 

仏教の長所は、その説く道理ではなく、その説によって起こる道念のほかならないのであります。たとえ西洋哲学のように系統づけても、それで人間道というものがわかるか、真実の体験ができるかはきまっておらない。道念というものを起こすためには、かえって断片的な随筆の方がよい。」

 

 

(菊村紀彦編『永遠の親鸞 金子大栄のことば』雄山閣、1976年、174-176頁)
 

 

 

さて、これをどう考えたらいいか。

 

ひとつ思うのは、西洋哲学の背景にあるキリスト教は、証明や弁論術の文化があるギリシャ方面の産物である。キリスト教神学は概念的論証の性格をもった。これが哲学の論証重視の伝統につながったのかもしれない。

 

他方、仏教はロジックの構築物というより、客観的な宇宙観である。仏教や儒教など、古代に宇宙観が作られ、それがくりかえし学ばれた東洋では、論証・実験による近代科学は生まれにくかった。宇宙の理法としての輪廻や因縁や陰陽思想は、証明がいらないほど実感的だったので、実験的に論証しようとする意欲がわきにくい。いきおい、論証よりも、大宇宙の理法にしたがった道念をもつことのほうが重要になる。

 

西洋では、宇宙観・法則観が欠落していたために、近世以降、リアルな自然法則を発見したいという動機が強くなった。大航海のための科学といった実用的な目的も加わった。

 

そういう事情のちがいなのではないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
西洋音楽は概念に近づく おわり

西洋音楽のポリフォニーは、一種の思想の表現でさえある。

ポリフォニーでは定旋律にたいして対旋律が同時に動く。それは二本のラインのグラフのような楽譜に描かれたが、このグラフには座標軸のような横線と縦線が書いてある。20頁。
横軸・縦軸があって、不動の一点からふたつの旋律がきちんと制御される。
どうしてこういう形式が生まれたのだろう。
グレゴリオ聖歌の単旋律に物足りなくなったのではないかと、著者はいう。20頁。単旋律を繰り返すうちに、人々はもうひとつの旋律を聞きとるようになったのだ。
それはいわば外声部に対する内声部の発見である。
こうした音楽を初期オルガヌムと呼ぶ。オルガヌムとは臓器(の集まり)つまりは人体という意味をもっていることも示唆的である。
勝手な解釈を加えれば、定旋律にたいする対旋律の発見は、人間の外形=表現(現象)にたいする、人間の内面=認識(実体)の発見にあたるのではないか。ポリフォニーとは、そういう意味での「人体」構造の発見だったのかもしれない。
定旋律と対旋律=表現と認識という二重構造は、現世と天国、肉体と魂といったキリスト教の重層的な世界観と親和的でもある。
「これまで一本の横の流れしかなかった音の世界に…垂直の次元が加わった。これは人類の歴史における火の発見にも比すべき、西洋音楽の巨大な一歩であった」20頁。
垂直に対応する複数の旋律を制御するポリフォニー。この西洋音楽の構造は、表層に対する深層すなわち表現を支配する認識という世界観・人体観の表れであった。
人間をたったひとつのポイントから制御するという思想の実践。西洋の音楽、西洋の思想、西洋の言語が世界的な普遍性をもって流布した原因のひとつは、全体を制御する一点、すなわち概念への収斂という思想態度にあるのかもしれない。
(おわり)
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
西洋音楽は概念に近づく その3

西洋音楽は、音を洗浄しただけではない。洗浄された音を組み合わせた。

これはポリフォニー(多声音楽)といわれるもので、複数の音を制御することで音楽をドラマチックに構成する。これも世界の民族音楽に見られない西洋音楽の特徴である。19頁。
西洋音楽はノイズを排除するが、不協和音性(より安定した響きへの進行をうながす不安定な音の組み合わせ)はおおいに利用する。
不協和音性を0〜3の三つのレベルに分けて西洋音楽の流れを表記すると、たとえば
0→2→1→0→1→2→3→2→1→0
のようになる。安定した状態0からはじまり、小さな不協和音性2、大きな不協和音性3を経て、再び0に帰還する。19頁。
これは確かに独特の方法であり、一種の思想性さえもっている。
これが独特だというのは、雅楽や能の囃子方の音楽を思い浮かべれば実感する。
私の体験だが、能の子鼓、大鼓、笛の三人の囃子方が声を出しながら10分くらい合奏したのを聴いたことがある。指揮者はいない。ジャズトリオのように、演奏者だけである。
それは祭りの囃子そっくりに聞こえるのだが、一本調子ではなく、次第に盛り上がったあと鎮静化し、興奮を残して終わった。
西洋音楽に慣れた耳にも満足感があり、邦楽のドラマチックな構成力に感心したのだが、音の構成は明らかに西洋音楽とはちがっている。
いわば、複数のパートの「並走」が邦楽の原理である。それは西洋音楽のようにひとつの不動点(上記の0レベル)からすべての音を制御する論理的な「統合」ではない。18−19頁。
世界の民族音楽を見渡しても、西洋音楽のような統合型は珍しく、邦楽のような並走型(ヘテロフォニー)が主流だという。19頁。
(つづく)
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
西洋音楽は概念に近づく その2

ノイズを排する音楽といえば、グレゴリオ聖歌を思い出す。

グレゴリオ聖歌はフランク王国のカール大帝の時代(紀元800年代)に直接の起源がある。カールは現在のイタリア北部、ドイツ、フランスにあたる地域を政治的に統一し、文化面ではキリスト教化を推進した。この広大な王国で行われる様々なキリスト教の典礼音楽を編纂したのが、後にグレゴリオ聖歌と呼ばれた声楽である。15頁。
宙を漂うようなグレゴリオ聖歌の神秘的な旋律は、当時の非キリスト教徒たちのノイズだらけの音楽を否定することで成立した。16頁。
庶民の世界にはノイズだらけ打楽器だらけの「野卑な」音楽があり、他方ではそれを否定する「高級な」音楽が発展していったのである。
西洋音楽の洗練は、非洗練との交流と対決によって可能になったー。そういうダイナミックな視点で描いた音楽史がもっと欲しいと思う。
(つづく)
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
西洋音楽は概念に近づく その1

クラシックのコンサートでは、咳するな、私語するな、身動きするな、笑うな。

 

こんな格式の高い音楽は世界に珍しい(岡田暁生『CD&DVD51で語る西洋音楽史』新書館、2008年、12頁)。

その原因は太古にさかのぼる。
古代ギリシャでは音楽は数学のように宇宙の秩序を明らかにするものというイメージがあった。耳の楽しみというより抽象的な秩序を感じとるべきもの。このイメージは、肉体を否定し天国での魂の救済をめざす中世キリスト教と結びつくことで強化された。
そのため今日でも
「西洋音楽とは官能という音芸術の下部構造を洗浄し、それを鳴り響く数へと昇華しようとする音楽」(岡田、13頁)
という性格をもっている。
洗浄された音=数の体系をめざすのだから、雑音(ノイズ)など、もってのほか。
知り合いのアルト歌手から聞いた話だが、クラシックの声楽では歌手のブレス(息)の音が聞こえるのは最悪とされ、いかにノイズなしで息をするかが大事なのだという。
いかにも堅苦しいが、このようにノイズをなくそうとする努力が、西洋音楽に高い洗練をもたらしたのだろう。
(つづく)
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人はパン以外のことをしてパンを配る

「人はパンのみにて生くるにあらず。 Man shall not live by bread alone.」(マタイ4:4、ルカ4:4)

 

 

ひもじいなら、おまえが神の子なら、その石をパンに変えてみろ。

 

そう挑発する悪魔に向かって、断食中のイエスが返した名文句だ。

 

考えてみると、一般に人間社会の仕組みは次のようになっている。

 

 

人はパンを必要とするが、みんながパンを得るためには、パン以外のものでパンを表現する局面が必要である。

 

 

たとえば資本主義では、人がつくった生産物をみんなに配分するために、値段という社会的表現を付加して、市場に出す。つまり、みんながパンを得るには、パン以外のものが必要である。

 

言語も、人々が認識を共有するために、いったん音声・文字に変換する。これもパンを得るためにはパン以外のものを必要とするということである。

 

国家機構も、パンを得るためにもパンから離れる仕組みである。

 

 

人間社会のあらゆるものは、パン以外のものでパンを配分しているのではないかと考えてみると、面白い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
明治以前、新元号はどのように決められたか 幕末廷臣の証言

下橋敬長(しもはし・ゆきおさ)述『幕末の宮廷』(平凡社東洋文庫、1979年)

 

下橋氏は、1844 年生まれの中堅廷臣で、本書は孝明天皇在位中(1846-1866)のころの朝廷の実情を、大正年間に入ってから述べた筆記録。

 

80歳近くになってからの口述だが、内容は詳細で、残存する文書も参照しており、天皇の食事や朝廷の儀式など、貴重な証言になっている。

 

そのなかに、幕末の改元がどのように行われたかについての説明がある。

 

当時は、凶事・慶事ごとに、改元がおこなわれた。その手順は、以下のようになる。

 

まず、改元の話がもちあがると、家格最上位の公家たとえば近衛家に公卿クラスが烏帽子狩衣(えぼしかりぎぬ)姿で集まり、「難陳(なんちん)」と呼ぶリハーサルをおこなう。リハーサルなので、笏(しゃく)のかわりに扇をもち、それぞれの席に陣取ってセリフを練習する。

 

新元号の候補は十くらいあり、各家が候補の字をそれぞれに褒めたりけなしたりする。

 

 

「汝申さるるといえども、○の字はこれこれに障(さわ)りあり。よって然(しか)るべからず」

 

「汝申さるるといえども、○の字はこれこれにて宜(よろ)し、誠に然るべし」

 

 

それぞれ一字ずつ吟味を述べると、最後に最上位の家の者が、

 

「汝申さるるといえども、文久然るべきや」

 

などと結論をとってお辞儀をする。

 

こうしてリハーサルしたあと、御所内で本番をむかえる。本番では、上位の家の者がお辞儀したあと奥にすすみ、天皇に結論を伝える。

 

「明治」とか「大正」といったその後の元号は、幕末にすでに候補のなかにあったものだという。

 

じつは、以上の手続きは事前に幕府の裁定があったうえで行われる。

 

まず、朝廷でいくつか新元号の候補を書き、これが伝奏によって所司代、老中、将軍と伝えられ、幕府がひとつを選ぶ。すると今度は逆に、老中から所司代、伝奏を経て、関白に結論が伝えられる。上記のリハーサルと本番の儀式は、こうして新元号が内々に決まったあとで行われたのであった。124ー126頁

 

新元号は幕府が選んでいたのだ。だが、ここで注目したいのは、それでも表向きには、朝廷が新元号を決める形をとったという事実である。

 

元号は多くの文書に記され、この国の時間を概念づける。その元号を宣定する権威が、形式的とはいえ、幕末まで朝廷の手にあったことの意味は小さくない。

 

日本がインドや中国のように西洋列強の餌食にならなかったひとつの理由は、弱体化した幕府にかわって全国をまとめられる朝廷という権威が存在したことであった。一種の二重権威体制が、功を奏したのである。

 

幕府が倒れても、それに替わる朝廷という権威があったから、幕府のあとは朝廷に権力を集中させることで、日本は列強による食い荒らしを免れた。もし朝廷がなかったら、この国は求心力を失い、列強は各地の諸藩と結んだり部分的に略取したりして、中国のように利権を奪いあい、日本列島を蚕食したかもしれない。

 

たかが元号、されど元号である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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カジノ資本主義と『マルクス最後の旅』

ハンス・ユルゲン・クリスマンスキ(猪俣和夫訳)『マルクス最後の旅』(太田出版、2016年)

 

作者はドイツの社会学者で、本書はマルクス最後の一年間(1882〜1883年)を描いている。

 

妻を亡くしたマルクスの前に、架空の若い女性を登場させたりしているが、北アフリカのアルジェでの療養やモンテカルロでのカジノへの参加など、基本的な部分は史料にもとづいた事実。マルクスを悩ませた皮膚病の治療の様子などもリアルで、セミ・ノンフィクションといった筆致。

 

印象に残ったところをひとつだけメモすると...

 

『資本論』第一巻、第二巻でのマルクスの関心は、商品の生産と流通というふたつの領域にあり、とくに第一巻は生産の領域が中心だった。このことを、作者クリスマンスキは、マルクスの次の文章で表す。

 

「労働力の消費[=商品の生産]は、ほかの商品の消費と同様、市場ないし流通領域の外で行われる。そこで、私たちはこの大勢の人たちがたむろし騒々しく人目の多い領域[市場・流通]を離れ、お金を持っている人と労働力を持っている人の後について、入り口に『無用の者、入るべからず』と書いてある秘密の生産の場に行くことにしよう」(『マルクス最後の旅』56頁。太字は三浦。出所は全集第23巻、S.189)

 

だが、「最後の旅」で株式投資を試して大金を得 94頁、モンテカルロで 「カジノ資本主義」の力を目の当たりにしたマルクス92頁 は、生産と市場だけでなく、貨幣的投機が資本主義を引っ張って行くと予感する。14、89頁

 

金融取引は、もはや生産と市場の g-w-g' (貨幣ー商品ー貨幣’)ではなく、g-g' (貨幣ー貨幣’)の世界なのだ。32頁

 

エンゲルスが編集した『資本論』は、第三巻で利子などを扱っている。だがマルクス自身は資本投機の問題を十分解明する前に世を去った。

 

本書は、この資本主義的な投機というものについて、エンゲルスの次の言葉を最後に引用している。

 

 

「誰だって相場師でありながら社会主義者であることはできます... 私は以前、ある工場の共同出資者だったことがありますが、それについて弁明する気などさらさらありません。... 私は、明日証券取引所で大儲けし、それでヨーロッパやアメリカの党に大がかりな資金提供ができるとわかれば、勇んで取引所に行きますよ」(146頁。出所は全集第35巻、S.444.)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
政治家はなぜ公約を実行しないか 支持母体の特殊性と奉仕対象の一般性

The People vs. America (Feb. 2017)  というアルジャジーラの番組を見ていたら、政治家というものについて鋭い指摘があった。

 

 

http://www.aljazeera.com/programmes/the-big-picture/2017/02/big-picture-people-america-170216063801575.html

 

 

 

政治家は、選挙区の一部の住民のほか、特定の企業や政党の援助と資金によって当選する。これらは社会のなかの特殊な勢力である。

 

ところがいったん当選すると立場が変わる。全町、全市、全国といった「全体」が奉仕対象となる。

 

当選後、既存の産業や企業に大きな変革を迫ることは、そこに住む有権者の職を奪いかねない、企業が納める税金が減るかもしれないといった配慮から、なかなか出来ることではない。

 

個人としては軍縮や自然保護が重要だと思っていても、いったんアメリカ大統領になれば、世界経済の中心たるドルの威信を守るために、軍事大国の地位を降りるわけにはいかない。自国の産業に負担を加えるような規制はしにくい。国内のユダヤ勢力をつなぎとめ、石油地帯を抑えるために、イスラエルの暴挙も許容するといった配慮が必要になってくる。

 

そしてなにより、長い選挙戦のあいだに、大統領になってもかまわない人物かどうかを、既存の勢力が慎重に選んでいく。候補者は、自分が「安全パイ」であることを彼らに示さなければ当選できないことを学び、なびいていく。

 

だからもっとも望ましい候補者とは、人々に説得力のある希望の言葉をふりまきながら、既存勢力の利益は守るという二面的な才能をもった人物である。オバマこそ、その人であった。

 

 

以下、番組に登場した三人の識者の発言を抜粋し、私の意訳?をつけておく。

 

 

■Elane Brown: Former Chair, Black Panther Party

 

オバマは、アメリカの富裕層がつくるカルテル(独占利益を守るための、協定による連合)に、有望な人材として目をつけられた。アメリカ大統領は、アメリカの資本への奉仕者である。

 

 

"It didn't occur to anyone that one of the reasons that Obama could even get this far was that he had to be totally,  totally emerged and protected by a very big, I can say, cartel of rich people, who thought, 'Here's what we can do.'"

 

"This distinction between this individual President and that individual President. ...  They are there to protect the interests of the American government as it exists in service to the American corporations."

 

 

 

■Chris Hedges: Author, Death of the Liberals

 

オバマは上院議員時代、次々に企業献金をもらっていた。...この時期に、彼はアメリカ株式会社の”政治部長” として目をつけられたのかもしれない。

 

 

"Obama spent two years, only two years in the Senate.  His voting record which is the only thing which should have been accounted was one corporate giveaway after another."

 

"Our capitalist democracy which had already created systems by which most of the marginalized, in particular people of color had very little say in governance and in their own capacity to serve themselves for their society. They are really seized up. That's what happened. And that's very dangerous because when the state is unable ro respond in a rational way to legitimate grievances, it gives rise to extremism."

 

 

 

■Nomi Wolf: Author, The End of America 

 

 

オバマが大統領になった。しかし彼は、世界化した企業利益が動かす駒のひとつである。誰がホワイトハウスにいようと、世界企業を統制する力は、大統領にはない。

 

 

"Obama got in.  And he is the pawn of, you know, globalized interest, you know, I mean, the problem is not left or right. The problem is whoever is in the White House has very little reign to it."

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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