ごきげんようチャンネル



Smile, what's the use of crying?

You'll find that life is still worthwhile

If you just smile


死を超えるジャパンメソッド・武士道(7/7 おわり)

■もはや武士道に代わる日本独自の倫理は生まれない。

今や世界を覆う価値は、人権、平和、民主主義、自然との共存である。日本社会の独自性は、これらの世界共通価値を実現し、反発し、洗練させる仕方において表現されるであろう。

しかし、個人の倫理として武士道を思うのは、自由である。

現代の私たちにとって、武士道が発見した生と死の対立を超える方法、すなわち<死へのいでたちとしての戦闘と日常生活>というメソッドは、個人の倫理として価値があるのではないだろうか。

 


もしいま私が死んだら、清廉な姿であろうか。自分の理想のために死んだ姿といえるだろうか。

 


この問いを常に自分に問い、部屋もファッションも家族も仕事も身ぎれいに維持する。それなら、かなりの人にとって実行可能である。

死は誰にも来る。そこに焦点をあて、死にふさわしい瞬間を続けることで誰もが自分の生に満足できる。

武士道は、死というマイナスを生の充実というプラスに変えるメソッドである。

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

         美濃 白山山系に初雪  2017年11月22日

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
死を超えるジャパンメソッド・武士道(6/7)

■明治維新から明治へ

 


「明治維新の変革をなしとげたものは何であったか。封建社会の矛盾を最も鋭く感じとったのは、武士的な純粋さであったと言ってもよいのではないだろうか。」132頁。

 


たしかに、維新の志士たちの情熱が「武士的な純粋さ」と無縁であったとは考えにくい。

奈良本氏は、明治の世になってからも、内村鑑三のような旧武士階級出身者だけでなく、自由民権派や幸徳秋水のような社会主義者でさえ、偽善を憎み清廉を尊ぶ武士道の戦闘精神を背景にしていただろうという。134ー136頁。

では、近代日本において、武士道に代わる新しい倫理は形成されなかったのか。


 

 

■近代から現代へ

明治に入り、武士道に代わる新しい倫理として登場したのは、西洋流の影響を受けた人権思想や「独立自尊」といった価値であった。

こうした新価値を主唱したチャンピオンは、福沢諭吉であった。

 



「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」(学問のすすめ)
 

 


当時『学問のすすめ』は、文字の読める人ならほとんどが読んだといわれ、62万部の大ベストセラーなった。君臣の序を強調する儒教的な武士道からみれば、これは対極的な議論である。

しかし奈良本氏は、こうした新価値は「ある程度の共感を得ながらも、広く国民のなかに定着するほどの力をもたない」という。134頁。

その原因は、人権や独立自尊といっても、それは文字のかたちで輸入された価値であり、武士道のように長く苦しい体験のなかから日本列島で自生したものではなかったからである。134頁。

氏は、近代以降、今日までの日本は、ついに自生の新思想を生まなかったと考える。

 

 


「平和とか民主主義とかいう理想の下にすべてが硬直化してしまっているのである。

[現代とは]地から湧いたのではなくて天上から降りてきた道徳が人々をその網におさめてしまったような時代であった。


戦国のきびしい武士の生き方を思う者にとってはそれは耐え難い時代であった。そこには教えられて受身に生きる生活はあるが、主体的に生きる人間の情熱がないのだ。」151ー152頁。
 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
死を超えるジャパンメソッド・武士道(5/7)

■戦国から全国統一にいたる時代の日本をみたヨーロッパ人は、
 

 


「アジアにきてはじめてヨーロッパ人に比肩しうる民族を発見した。彼らは異教(仏教)を信じており、これと対抗してキリスト教を広めるには、これまでの宣教師ではとても太刀打ちできない。本国でも優れた宣教師を、こちらに送れ。」59頁。
 

 


と書き送っている。

世界史をみると、このころヨーロッパ勢力の進出によって一体的世界が成立した。

しかし、アメリカ大陸やアフリカ大陸に代表される西や南の世界と、アジアという東の世界では、根本的な違いがあった。

アメリカやアフリカには広大な帝国が存在したが、ヨーロッパ勢力がいったん王権を破壊すれば、あとは殺戮と略奪をほしいままにできた。

ところがアジアでは、各地に強力な王朝と高度な文化(仏教はそのひとつ)が存在し、ヨーロッパ勢力との力の差はそれほど大きくなかった。たとえばオスマン・トルコ、ムガル帝国、明、ベトナム、朝鮮、日本である。

当時の日本で、全国統一政権を作る力をもっていたのは武士階級のみであったが、もしも日本に戦国時代すなわち武家による統一政権への激しい陣痛がなかったら、ヨーロッパ勢力は小さな地方政権が分立する日本列島を訪れただろう。そのとき、双方はどういう行動に出ただろうか。

戦国期における武士の存在は、明治維新と同様、日本列島におけるヨーロッパ勢力との出会いにおいて、決定的な役割を果たしたのかもしれない。
 

 

 

 

■江戸時代

全国支配を確立した徳川政権は、「馬上天下を取るも、馬上天下を治むるべからず」の不文律にしたがい、武士道に「文」の背骨を埋め込もうとした。

それが儒教であり、とりわけ朱子学であった。朱子学は、合理的観念論による森羅万象の説明という性格をもっていた。これにあきたりない心情から、陽明学や古学のような対抗理論も登場した。

しかし総じて江戸時代には、「儒教道徳によって衣装をつけられた武士道に代わる新しい理念が生まれなかった」131頁。

武士道に代わる理念を、近世の日本はついに生むことはなかった。心学も国学も、儒教を根本的に否定するには到らなかった。
 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
死を超えるジャパンメソッド・武士道(4/7)

■太平記の時代

いったん確立した規範は、やがて形式化する。

鎌倉以降、武士道もお題目やうわべだけのものとなり、実際の行動が卑しい者も増えていった。

といっても室町時代の武士は、堕落のままにまかせたのではない。堕落を克服するひとつの方法が、放恣なまでの華美をあえて実行する「ばさら」であった。56頁。

「ばさら」とは、異様な「狂」の風体をいう。そこには、そのまま死んでも本望だという「死のいでたち」の覚悟がみえる。それゆえ、「ばさら」は武士道のひとつのあり方なのだ。

美しくあること、覚悟をかたちで見せること。それが生と死という対立を超える(いつ死んでも悔いはないほど今を充実させる)方法たりうることを、武士たちは知っていたのだ。

 

 

 

■戦国時代

めったに聞かないが、ありうる素朴な疑問は、

「なぜ大名たちは戦ったのか?」

である。

甲斐だ三河だ美濃だと、それぞれの領国があってそれぞれに治めていた。ならばわざわざ戦争しなくてもいいではないか。なぜ共存できなかったのか?

人間の支配欲といった超歴史的な回答もあるが、ここでは答えをふたつばかり例示しよう。

 


ひとつは、一向一揆に代表される新しい民衆的勢力が台頭していた。それを押さえつけ、武士階級の支配を守るのは誰か。それを決めるために武士たちは互いに戦った、という回答である。

もうひとつは、経済圏の拡大が統一政権を要求したからだという回答である。朱印船貿易以来、白糸、鹿皮、鉛が輸入され、金銀が輸出され、国内生産力も上昇して、全国市場が形成されていった。自由な流通を要求する経済の力が、関所の通過代とか貨幣・度量衡の不統一といった障害を廃止できる強力な統一政権を要求したのだと。59頁。

 


いずれであったにせよ、ひとつ注意しておきたいのは、日本における全国統一の世界史的なタイミングである。

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
死を超えるジャパンメソッド・武士道(3/7)

■武士道には、もうひとつ特徴がある。

それは、美との親近性である。
 


「…私が驚いたのは、武士たちの戦さの庭に向かうときの服装の美しさである。私達はこれまで戦記物を読む場合、その服装の美しさについてあまりにも無頓着であったように思う。… 源平の合戦絵巻をひろげてみたらよいであろう。彼らは、どれも誠に美しい扮装をしている。」33ー34頁。
 


この本で奈良本氏は、武将たちのいでたちの美しさをくりかえし指摘している。

私にも似た経験がある。

尾張清洲城に登ると、信長たちの等身大の人形が展示してある。そこでまず目を引くのは、大将たる信長の衣装をはじめ、周囲の女性や家臣たちの華麗なファッションである。

それぞれの身分役柄にふさわしい素材と意匠が見事であり、現代をしのぐといってよいほどの、豪華で立派な出で立ちなのである。これは人形の展示にすぎないが、参考にはなると思う。

もうひとつ、私の体験は、70歳を過ぎた老人が、「何があってもいいように、毎朝部屋をきれいにしてから出かけます」と語っていたことである。

信長も、私が出会った老人も、「死のいでたち」35頁 を念頭においていたと考えれば得心がいく。

ましてや源平・太平記の時代の戦場の武将たちのファッションが美しいのは、それが「死のいでたち」であったからに違いない。

 

 

 

 

■生でも死でもない「絶対の境地」とか、「無私の境地」56頁 とかいう。

そんなものは不可能だー

そう思う人は多いだろうし、かつて私もそう思っていた。しかしこの本を読んで考えが変わった。


「死のいでたち」とは何か。

戦場では、精悍な馬と華麗な武具に身をつつむこと。日常においては、優しさと倹約ぶりをしめす身ぎれいな生活態度をたもつこと。

大将であろうが家臣であろうが、早死にしようが長生きしようが、死の瞬間は誰にもやってくる。その瞬間を美しくすることは、誰もが平等に行えることかもしれない。

死における絶対平等の実現。美による生と死の対立の克服。

これは武士道が人類に残した、おおいなる発見だったのではないか。

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
死を超えるジャパンメソッド・武士道(2/7)

■武士が公家をしのぐ知恵と美徳をそなえたのは、「どん底」の体験ゆえであった。
 

 


「たとえば源義朝を引き入れて平治の乱を起こした[公家の]藤原信頼は、計画がすべて破れたとき、「日本一の不覚人」とののしられる。

さらに信頼は、東国さして落ちて行こうとする義朝に追いすがって連行を頼んだが、義朝の答えは馬の鞭であった。信頼はこれまで散々に利用した武士から恥しめの鞭を頬にうけても、なんとも応じられない。

つまり敗戦のどん底から、武家の棟梁は公家というものの無力を十分に思い知ったのであった。それが結局においては武家の政権の成立につらなっていくのである。」42頁。
 

 


武家どうし競いあい、公家たちの狡知に翻弄され、公家の唾棄すべき実態を知ることを通して、武士たちは政権を担う実力を蓄えていった。

武士道が学問から発生したのではないのと同様、武士の成長も学問のゆえでなく、実地の体験のゆえであった。
 

 


「馬上天下を取るも、馬上天下を治むるべからず」
 

 


武士の成長は、武力というものの限界に気づくところから始まった。
 

 

 

■鎌倉幕府の成立は、古典的な武士道の確立をもたらした。

いまや政権を担うことになった武士たちは、「御家人」になる法的手続きによって公式に所領を安堵され、御成敗式目(1232年)のような武家特有の法によって律せられた。ここに武士は、公家から独立した政治空間を所有するにいたったのだ。

武士たちは、戦場での「血気の勇者」であるだけでなく、支配者として生活を立派に律する「仁義の勇者」たることが求められた。「馬上天下を治むるべからず」である。
 

 


「仁義の勇者」たるに必要な徳目は、主人への忠義であり、倹約であり、いつも身ぎれいにすることであり、神仏への崇敬であり、暴力沙汰を控え、私闘を誘う悪口を言わないことであった。43ー44頁。
 

 


「彼らは、その多くが文字を知らないような人物であった。しかし文字以上に、経験的にそれ[必要な道徳]をつかんでいたと言える。[御成敗式目の規定は]京都あたりの物知り顔の連中が嘲笑するかもしれないが、逆にそれを笑い飛ばしてしまうだけのものをもっているという自信も現している。

それは、この式目の条項が文字からではなく具体的な経験のなかから打ち出されてきたものだからであった。」49ー50頁。

 

 


つねに忠義を念頭におきつつ、日常における「仁義」と、戦場における「血気」を両立させた「勇者」たるべし。

素朴とはいえ、武士道の基本がここに成立した。

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
死を超えるジャパンメソッド・武士道(1/7)

奈良本辰也『武士道の系譜』中公文庫、1975年。

平治、保元、平家、朱子学、陽明学、葉隠 … 武士道に関連する代表的文献を通して「武士道」の変遷を概観した本。今では武士道研究の古典といえるだろう。

著者が立命館大を辞職してから間もないころの執筆。個人の心情にまで迫るミクロの目と、社会の変化をすくいとるマクロの目。複眼で事実を追求している。

「死をみつめて生きる」武士道は、日本が生んだ代表的な思想であったことがわかる。

 

 

 

以下、いくつかポイントをメモしてみる。
 

 

 

■武士という階級が日本列島の歴史の主流にはっきりした姿で登場したのは、西暦1000年ごろ以降、つまり1000年ほど前の「前九年・後三年の役」(1051ー62、1083ー87。源氏による東北侵略戦)のころからである。紫式部が源氏物語を書いてから、数十年後のことになる。

もちろん、源氏の東北侵略戦の前から武力専門集団の伝統はある。大伴・物部の軍事系氏族、軍団、健児のような律令下の軍事組織、坂上田村麻呂のような武人の登場、そして白村江のような海外戦や各地に発生した多くの武力事件を考えれば、武力集団は古代から無数に編成された。しかしこれらはいずれもそれほど長続きしていない。

武士登場の前ぶれのように、940年ころに平将門(たいらのまさかど)の乱が起こり、関東に「政府」を宣言したこともある。

西暦1000年ころからくっきりと姿を現した武士階級は、鎌倉幕府の成立によって自立的政治勢力となり、室町戦国安土桃山の戦乱を経て江戸幕府によって事実上の王となり、約300年後の明治維新まで政治支配の中核を担った。

武士たちは、血縁と主従関係と所領支配による強固な集団を形成し、互いに競争しつつ特有の倫理観によっても「武装」した。これにより武士は、日本史を担う代表的な階級となった。

約千年の武士の歴史には、いくつかの段階があり、「武士道」の内容も変化した。

奈良本辰也『武士道の系譜』は、そうした武士の「心のつながり」138頁 を跡付けた本だ。
 

 

 

■武士道、つまり武士が生みだした独特の倫理観の最初は、「血気の勇者」(平家物語)といわれる単純な血気の風であった。
 

 

 


「それは敵に向かってただ真正面からぶっつかることであり、それに背を向けないことであった。彼らはそのように訓練され、教え込まれてきたのである。

主君を討たれた金王丸(こんのうまる)が屋敷から逃れ出るときに、馬を逆しまに乗って、

『おれは敵に後ろをみせて逃げるのではないぞ』

と言って走り出したというが、その金王丸にどれだけの知識があっただろうか。

知識とか道徳とかいうものがさきにあって武士道が出てきたのではないのである。だからこそ、学問や知識のある公家達は、彼らを東夷(あずまえびす)とさげすみ、政治の渦中で手玉にとって翻弄したのである。」41頁。

 

 



平安のころ、武士は狡知において公家にかなわなかった。

たとえば源平の戦いは、「まさしく彼らが学問や知識のある公家達から翻弄されて骨肉が相別れて戦うという悲劇をかもし出した」ものだと奈良本氏はいう。41ー42頁。

武力が強ければ、当然高い地位を手に入れられるー

そういうイメージで考えると、歴史はわからない。社会で地位を得るには武力だけでは十分ではない。

では、武士はいかにして公家をしのぐ地位を獲得していったのか。


 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
漱石と徴兵 『こころ』のこころについて

夏目漱石(1867-1916)は、江戸の口調と漢文の素養と英文の分析力をミックスして、近代的な人間の意識を表現できる日本語を開発した人である。

 

『こころ』はその代表例だが、これについて、故・丸谷才一氏が詳しい批評を書いている。

 

 

丸谷才一「徴兵忌避者としての夏目漱石」(『コロンブスの卵』ちくま文庫、1988年所収)

 

 

『こころ』は、乃木大将の殉死の報道をみて主人公も自殺するという結末になるが、この部分のすわりの悪さを丸谷氏は問題にしている。

 

この結末は、漱石が26歳のとき、日清戦争にともなう徴兵を逃れるため、当時人口希薄により徴兵を免除されていた北海道に自分の戸籍を移したことへの自責の念が関連しているのではないかという。

 

このあと、漱石は東京を避けて四国に、九州に、そしてイギリスにと移り住むが、この事実をとりあげた次の部分は、丸谷説の白眉であろう。

 

 

 

「ぼくには漱石が、自分の徴兵忌避の現場(それは犯行現場として意識されていたかもしれない)である東京と北海道を逃れて、その反対の方角へ去ったのだと思はれてならない。

 

北海道といふ島は彼の無意識をどこかで暗く縛っていたから、それゆえ漱石は四国といふもう一つの島に惹かれたのではないか。…

 

事実これからしばらくのあいだ漱石は、九州という島(熊本の五高)へゆき、イギリスという島へゆきして、東京と地つづきの土地を避けつづけるのだ。」(31頁)

 

 

 

<自分が徴兵を逃れることで、同世代の者を身代わりとして戦地に送り、犠牲にしてしまった>という自責の念が漱石の繊細な神経をかき乱しつづけ、それが『こころ』の結末にも影を落としている−。

 

丸谷氏のこの推測が当っているかどうか。それが確定することはないだろう。

 

ただ、戦争の発生は運命共同体としての国家意識を高めるので、そのなかの個人は、<忠義な者>になるか<裏切り者>になるか、という二者択一を迫られ、その選択は長く個人を縛りつづける。

 

世に漱石ファンは多いが、丸谷氏のように歴史的・心理的角度から漱石の作品を考えてみるのも、なかなか味のある方法だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ヨーロッパ中世にみるトランス・ヒストリー

西暦1000年頃から1200年頃、ヨーロッパで変革が静かに進行した。それは、農業・商業・金融の発達という土台の変革=生産力の増大が、新しい意識をもつ社会層を作り出し、彼らが各地の都市という上部構造を確立したプロセスであった。

 

 

 


農業革命から都市の繁栄のシンボルとしてのゴシック建築

 


壁を少なくして高いガラス窓をもうける壮大なゴシック建築は、フランスにはじまり、ヨーロッパを席捲した。このゴシック建築は、建設機器や資材運搬法の革新によって可能になった。

そうした建築技術の革新の背景には、11世紀から13世紀にかけておこった農業革命があった。

製鉄技術が進歩して、鉄犂(すき)、蹄鉄、鉄斧が普及し、深耕や開墾が容易になって、収穫量と耕作面積が数倍になった。水車、三圃制農法の導入もはじまった。この時期の農業革命は、のちの産業革命にも匹敵するという(山田圭一『ゴシックのある大聖堂』クレオ、2006年、41ー43頁)。

農業の発展は、商業・手工業を活発にした。栄える都市のシンボルとしてゴシック大聖堂が計画されると、多くの市民がよろこんで献金した。

 

農地が豊かになった結果、都市にゴシック建築という花が咲いたわけである。

 

 

 

 

都市民・商人のための「ページの革命」

 


農業革命の始まりの頃、紀元1130年から1200年ころにかけて、ヨーロッパで製本法の革新(「ページの革命」)が進行し、黙読可能なテクストが出現した。(イバン・イリイチ「テクストと大学」『環』藤原書店、14(2003年夏)号、100頁)

「ページの革命」とは、次のような特徴をもつ書籍の普及を指す。
 


単語の分かち書き
大文字・小文字の書き分け
見やすい字体の開発
句読記号、かっこ、ハイフンの使用
段落分け
章にタイトルをつける
ページや章の番号づけ
巻頭に目次
脚注
索引
より小さく、扱いやすい製本
 


発展する都市の多忙な市民・商人が文化の担い手になり、読書の高速化と黙読の必要が増したことから、持ち運びが容易で読みやすい、廉価な本が普及した。すなわちテキストの個人化がすすんでいたのである。そして15世紀の活字印刷が、この傾向をさらに推し進めた。

都市民にとって、本のページは、カソリック教会から独立した思考の場を提供した。のちのプロテスタントの出現は、12世紀頃からの「ページの革命」を前提にしていたのだ。




文字によるヨーロッパ地方語のラテン語からの独立

 

  

11世紀後半は、ドイツ、フランス、スペインで、ラテン語とは異なる独自の文字化がすすみ、それぞれの現地語による文学作品が花開いた。逆に、英語だけは非文字化していった。この現象は「大分水嶺 the Great Divide」と呼ぶにふさわしいという(大黒俊一『声と文字 ヨーロッパの中世 6』(岩波書店、2010年、10、104頁)。

 

この時期以降、口頭表現はつねに隠れた参照系としてのテクストにもとづいて行なわれるようになる。人はつねに書き言葉に(ほとんど無意識に)規制されながら語るようになる。(同前書、111頁)

 

こうして、ヨーロッパでは11世紀後半以降、各地方語は、音声を文字で補強しつつ、ラテン語から独立していった。8−9頁。

 

 

 

 

 

 

農業革命による収穫量の増大→都市の商業・金融業の繁栄→ 都市民にも読みやすい書籍の普及と、声の文字化による地方言語のラテン語からの独立→ ゴシック建築の登場。

つまり、農業・商業の発展という「土台」の変革が、都市民・商人の意識形態を変化させ(たとえば文字・書籍を通した地方語の確立)、この意識諸形態の発展が、独立都市という上部構造(そのシンボルがゴシック建築)の形成をうながした。

 

こうした12世紀ころの変革が、その後のルネサンスと宗教改革を準備した。

 

 

 

 

人は、暮らしの中で日々意識諸形態を作り、その蓄積が土台と上部構造を作る。土台に起こった変革は、人々の意識諸形態を通して上部構造の再編をうながす。土台と上部構造は、意識諸形態を媒介として相互に連関しあう。

 

人々の意識を先導するものは、時代の希望・憧れ、つまり社会の意志である。

 

こうした人間社会の連関の形式は、国境を越え、時代を越える。私は、こうした歴史観を「トランス・ヒストリー」と呼んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二期咲桜。今咲いている。

 

       二期咲桜。11月のいま、咲いている。

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「社会的作法」が人間を支配する その過程を解明することが学問の目標だ

「作法」というものが存在することは、誰もが知っている。

 

作法は、物質のあり方(身のこなし、姿勢、衣装、道具など)によって表現される。だが作法が表すものは、人間が観念的に理解する何かであって、物質ではない。

 

 

 

「交換価値は、物に費やされた労働を表現するための、ひとつの限定された社会的作法であるのだから、為替相場と同じく、自然的素材をまったく含むことはできない。


(マルクス『資本論 第一巻』初版第一章。訳文は、筑摩書房版マルクスコレクションIII、2005年、321頁。資本論第二版では、新日本出版社版、第一巻、140頁。太字は引用者)

 

 

 

そして、ひとつの社会構成体を編成するほどのパワーをもつ「社会的作法」が存在する。資本はその例である。資本とは生産諸手段が「自立的な支配的諸力に転化」したものであり、人類の歴史に現れる「生産関係」のひとつであると、マルクスは述べている。

 

 

 

「資本は、物ではなく、一定の、社会的な、一定の歴史的な社会構成体に属する生産関係であり、この生産関係が、一つの物 [たとえば、それぞれの社会構成体] にみずからを表し、特殊的な社会的一性格を、この物に与えるのである。」(マルクス『資本論』新日本出版社版、第13巻、1425頁。太字は引用者)

 

 

 

近代の社会構成体は、資本という生産関係が「みずからを表し」たものである。資本は物質(人間を含む生産諸手段)に支えられて運動するが、物質そのものではない。資本は、人間の思考と行動を制約し、社会全体を規定する強力な概念的(規範的)実在である。

 

ふだんあまり意識しないが、私たちは多様で広大な概念の世界に生きており、概念に照らすことで現実を理解している。われわれの社会において、株式市場が成立したり会社が倒産するのは、「資本」という概念が「社会的作法」として実在するからである。

 

言語も宗教も法律も慣習も音楽も演劇も家族も学校も会社も物づくりも、つねに「社会的作法」という概念的実在(人間の思考と行動を現実に規定する力)を参照しながら行われる。

 

考えてみれば、これは常識でもある。

 

問題は、こうした「社会的作法」の創造と展開と変質の具体的なプロセスを解明することであり、人文・社会系の学問の目標のひとつも、そこにあるべきである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
#誰が書いてるの?
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< December 2017 >>
-->
#新しい記事
#過去の記事
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人
敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人 (JUGEMレビュー »)
ジョン ダワー, John W. Dower, 三浦 陽一, 高杉 忠明
#著書/共著
敗北を抱きしめて 下 増補版―第二次大戦後の日本人
敗北を抱きしめて 下 増補版―第二次大戦後の日本人 (JUGEMレビュー »)
ジョン ダワー, John W. Dower, 三浦 陽一, 田代 泰子, 高杉 忠明
#コメント
#トラックバック