ごきげんようチャンネル


たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう.

               嘆異抄

史的唯物論の基本発想は、フォイアーバハに関するテーゼ(四)にある
史的唯物論といえば、マルクス『経済学批判』序言の「公式」が有名だが、次のマルクスの記述は、史的唯物論の基本を述べた部分として、もっと注目されるべきものと考える。




「フォイアーバハの業績は、宗教的世界をその世俗的な基盤のうちに解消するところにある。

しかし、世俗的な基盤がそれ自身から分離して浮かびあがり、雲上に自立した国が固定されるという事態は、もっぱらこの世俗的な基盤の自己分裂と自己矛盾からのみ説明されることができる。

したがって、この世俗的基盤そのものがそれ自身において、その矛盾のうちで理解されなければならず、また実践的に変革されなければならない。」



(マルクス「フォイアーバハに関するテーゼ(四)」『ドイツ・イデオロギー』邦訳筑摩書房マルクス・コレクションII、158-159頁。ゴチックは三浦)





対象を「解消」しただけでは不十分であり、「説明」され「理解」されることを通じて、「変革」されねばならない。


上記のなかでもっとも注目すべきは、「世俗的な基盤の自己分裂と自己矛盾」という史的唯物論の基本視角が明記されていることである。

この言葉は、説明され理解され変革される客体(たとえば社会・自然)が自己分裂し自己矛盾していくだけでなく、客体を説明し理解し変革する主体(人間)もまた、自己分裂し自己矛盾しながら発展することを含む。





社会だけでなく、言語においても、客体(表現対象)が自己分裂し自己矛盾することで概念になっていくのだが、それは主体(表現主体)が個と公、我と自我へと自己分裂し、それゆえ自己矛盾をかかえることによって実現する。

表現対象と表現主体を自己分裂させ、自己矛盾を創造すると同時に解消していく、すなわち自他が自己発展する構造が、言語である。












 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 19:34 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
”頭の上より、頭の中” カナダのマルチ・カルチャリズムはなぜ成功しているか
パキスタン生まれのカナダ人ライターが、ヨーロッパの移民問題が奇妙にみえて仕方がない、というおもしろい記事を書いている。



http://www.aljazeera.com/indepth/opinion/2013/09/2013915111722311111.html




五人に一人が外国生まれというカナダでは、移民に求められるものは法の遵守、社交性、公共機関の事業に協力すること、といった常識的な行動だけであって、特定の文化的アイデンティティに同化することは求められていない。



All that is asked of immigrants is what is asked of any members of society: respect for the laws and institutions of the country, social amiability, and contribution to the maintenance and improvement of public works.




文化的に同一かどうかで人を判断せず、常識的な行動をするかどうかだけで判断する。そうすれば、昔からの住民も移民も、同等の<カナダ人>として認めあえる。

そして、この平等の原理の承認こそ、すべてのカナダ人に求められていることである。

私のいう<下げて平等>であり、カナダでは、見事なロジックによって社会的緊張の発生を回避していることになる。






記事のなかに、「試合が始まってからゴールを動かす move the goalposts」というおもしろい表現が出てくる。

そもそも文化は流動していて、たとえば「ヨーロッパらしさ」の内容は絶えず変化している。

<地元の文化に溶け込め>と命じるのは、移民にむかって、「ここまでおいで」といいながら、ゴールを動かしているようなものだ、というのである。




"European identity" itself is something of an arbitrary construct. Demanding strict adherence to it is simply an exercise in moving the goalposts on otherwise law-abiding new immigrants.

 



文化ではなく、法律のような中立的・行動的な基準だけでお互いに認めあう。そのとき、文化は誰かが「守る」ものではなく、みんなで「つくる」ものへと変化するのだ。




Further, polls have repeatedly shown that immigrants are in fact among the proudest of Canadians. All this is compelling evidence that "integration" tends to work on its own when it is not being forcibly compelled, and when it is not a zero-sum game where newcomers are expected to conform but not create.

 






最後に、最近カナダで生まれた反イスラム政党に対抗するため、地元の新聞に載ったという見事なコピーを紹介しておこう。

 


"We don’t care what’s on your head, we care what’s in it".

 


 「頭の上より、頭の中」








 

 


 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 22:40 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
自然と社会、人間と人間の矛盾が二重性を生み、その解決・更新は意識の世界を通しておこなわれる

つねに二重性=矛盾がある。考察が深みにとどいたとき、いつでも矛盾こそ真実=ものごとの本質であることに気づく。

 

二重性は、たんにふたつのものが並行して存在するということではない。二重性は、自然と社会の矛盾、そして人間どうしの社会的交換を土台として発生している。

 

土台じたいに矛盾がある。その矛盾の(当面の)解決として、上部構造が生まれる(矛盾の解決としての二重性の発生)。

 

必要性から、人間は社会的交換をおこなう。自覚しないうちに、人間は社会的交換のあり方を反映した社会的価値を抱くようになる。交換じたいは土台だが、交換のあり方は上部構造である。

 

やがて土台=社会的交換の様式とスケールが発展して新しいステージが見えたとき、その上部構造は先進的勢力によって、自覚的・無自覚的に放棄される(矛盾の解決としての二重性の更新)

 

交換の前提は、これまでの社会では個人的・私的な生産(体内・工場内)であった。この意味で、資本主義が登場するはるか以前から、言語は資本主義を先取りしていた。

 

この生産が、個人的・私的でなくなったとき、無意識的交換からくる社会の無政府性は克服される。

 

さて、物品サービスの生産ではなく、精神の生産たる言語は、永久に個人的・私的な生産でありつづけるのか。言語生産の社会化は可能か。

 

生産が社会化し、交換が計画化すれば、それを反映して言語生産も社会化するのか。時間はかかっても、徐々に言語生産も社会化するのか。

 

 




 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 04:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
<素人の時代>がやってきた
先日、CBSの"60Minutes"が、 学習サイトのカーンアカデミー Kahn Academy を再取材した。


http://www.cbsnews.com/video/watch/?id=50154136n



そのなかで、グーグルの幹部が、「なぜ教育の専門家ではない、素人のカーンの試みを高く評価するのですか?」という質問に、



"Innovation never comes from the established institutions."



と答えていた。



<真の革新は、いつも素人がはじめる。>



これは本当である。

カーンをはじめ、実例が多いからだけではない。そうなる普遍的な原因があるのだ。


ある世界(たとえば学校)で暮らしている人は、その世界の<文法>で考えるようになる。その<文法>からはずれた人は、その世界にいつづけることはできない。

ところが、真の革新とは、その世界の<文法>からはずれることにほかならない。

したがって、真の革新は外から、素人がやることになる。



<素人による革新の法則>は普遍的だが、いまの時代の特徴は、IT技術によって素人が<横入り>できる可能性が高まったことである。

国家も民主主義も、これほど行き詰まった時代にあって、<素人の横入り>はますます重要になっている。









(おわり)












| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 22:10 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
人格は<偏見からの自由>から生まれる キング牧師演説から50年
キング牧師が"I have a dream speech" をおこなってから、8月28日でちょうど半世紀になる。

ワシントンDCでの記念式典の映像を見たが、三人の大統領経験者が参加したのには感心した。そのうち、現役の大統領は黒人である。

アメリカの偉いところは、世界の資源と矛盾の集まりのような土地にあって、つねに前進をつづけてきたことだ。




式典ではたくさんの人が演壇に立ったが、そのなかに、<偏見からの自由>という表現をした人がいた(どの人だったか忘れた)。

これはいい言葉だと思う。

われわれは、偏見から自由になったとき自分を自由にでき、人格をのびのびと育てることができる。

黒人だから、ゲイだから、◯◯人だから… といった偏見から自由になること。それは自分が自由になることなのだ。




労働の生産物が交換価値をもつのは、人間が社会的必要に迫られて生産物の交換をくりかえすうちに、価値が生産物に内在しているかのように思うようになり、それを前提にして行動するようになるからだ、とマルクスは言った。

偏見も、交換価値と同じく社会的産物である。

人間が社会のなかで関係をつくる(たとえば奴隷制度をつづける)うちに、ある外見の人間にはある特定の性質が内在していると思うようになり、人はそれを前提に行動するようになる。これが偏見である。

奴隷→黒人という現実から、黒人→劣者という思考回路(黒人についての概念)が生まれて社会に定着する。いったんそうなると、人々は言葉を覚えるのと同じように、この思考回路を知らず知らずのうちに身につけていく。

偏見は、いちど形成されると人々の心に根強く残る。




キング牧師の"I have a dream "演説では、末尾で"Free at last!" というセリフがくり返されている。

偏見と不平等から自由になって、みんなが自由に互いの人格を成長させている。その光景を先取りした言葉であろう。

敗戦直後、三好達治がおそらく戦死者の霊をイメージして書いた「鴎(かもめ)」という詩に、「ついに自由は彼らのものだ」というリフレインがある。


「ついに自由は我らのものだ」


"Free at last! " は、人種差別の犠牲になった人たちを背景にした、そういう意味の言葉だ。






偏見を打破するひとつのダイナミックな方法は、1963年、25万人のワシントン大行進のように、多数の人々が集まって抗議する姿を見せることである。

そしてもうひとつの方法は、偏見が生まれる人間社会の仕組みを理解することである。

偏見の原因を根底から理解したとき、差別される側だけでなく、差別する側も自由になれる。

科学とは、ほんらいそういうプロセスに貢献するものであるはずだ。









(おわり)









資料:キング牧師の"I have a dream speech" (Aug. 28, 1963)から、末尾部分



… From every mountainside, let freedom ring.


And when this happens, when we allow freedom ring, when we let it ring from every village and every hamlet, from every state and every city, we will be able to speed up that day when all of God's children, black men and white men, Jews and Gentiles, Protestants and Catholics, will be able to join hands and sing in the words of the old Negro spiritual:



"Free at last! Free at last!


Thank God Almighty, we are free at last!"






http://aboutusa.japan.usembassy.gov/e/jusa-majordocs-king.html












| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 05:43 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「マルクスこわい!」と叫ぼう アメリカにおけるマルクス おわり
落語に、「饅頭こわい」という話がある。

若者たちが集まって、何が怖いか議論しているところへ、ある男がやってきて、俺は何も怖くない、とうそぶく。

ほんとうに何も怖くないのかと詰問すると、「じつは饅頭が怖い。饅頭と聞いただけで気分が悪くなった」と白状して、隣の部屋で寝込んでしまう。

もっといじめてやろうと思った若者たちは、饅頭を買ってきて差し出す。



「ああ、怖い。怖いからなくしてしまおう」



そう言いながら、男は全部ぱくぱく食べてしまう。

様子がおかしいと気がついた若者たちは、「おい、おまえが本当に怖いものは何だ!」とあらためて聞くと、



「このへんで、濃いお茶がこわい」



これがオチになる。






ほんとうは、饅頭は怖くない。うまい。みんなそれを知っているから、落語になる。

ほんとうは、マルクスはすごい。心の底ではそれをうすうす知っているから、忌避の対象になる。

程度の差こそあれ、資本主義のどの国でもそういうところがある。



ならばいっそのこと、われわれは、<マルクス怖い!>と叫んだらどうか。

<そんなに怖いなら、これもどうだ?>と、どんどんマルクスを勉強させてもらえるかもしれない。








(おわり)







追記:現在のアメリカの学界におけるマルクス忌避は、1950年代、マッカーシズムが大学教員にまで及んだことのトラウマと思われる。その時代の代表的な記録として、ジョン・サマヴィル『試練の現代文明』(みすず書房、1958年)がある。















| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 05:37 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
「マルクスこわい!」と叫ぼう アメリカにおけるマルクス その3
◯ デヴィッド・ハーヴェイ(ニューヨーク市立大学教授)は、『新自由主義』、『<資本論>入門』などで知られるマルクス派の経済地理学者だが、こういう経験をしたという。

あるとき、ハーヴェイ教授は韓国の都市計画案を選定する審査委員会のメンバーになった。この審査委員会がどこで、いつ開かれ、他のメンバーが誰だったかは不明だが、どうやら何年か前の、アメリカでの話らしい。

議論が進んだころ、ハーヴェイ教授は、その都市と自然環境との関係など、新しい論点を指摘して、審査委員たちの関心を集めた。



「このような興味深い思考方法についてより詳しく知るには何を見ればいいかと私は尋ねられた。

私はうっかり、それは『資本論』第15章の脚注4で見つかると言ってしまった。

こういうことを言うと、典型的には二つの反応が起こる。

一つは、神経質になり恐怖心さえ抱くことである。というもの、マルクスがこのような力強く興味深いことを言ったかもしれないと認めることは、マルクス主義にシンパシーを持つことと同義だとされ、それはその人の職業的将来を、さらにには個人的将来さえ危うくしかねないからである。

もう一つの反応は、私のことを馬鹿扱いし、マルクスの口まねをする以外能のない人物だとみなすことであり、もっと悪いことには、この場合がそうだったのだが、単なる脚注を引用するほど低レベルだとみなすことである!

こうして会話は途絶えた。」



(デヴィッド・ハーヴェイ(森田成也・中村好孝訳)『<資本論>入門』作品社、2011年、293−294頁)




アメリカにおけるマルクスのイメージの一端が、よくわかるエピソードである。










(つづく)











| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 20:39 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「マルクスこわい!」と叫ぼう アメリカにおけるマルクス その2
◯ 1970年代のアメリカの国家論を代表するフラナリー(ミシガン大学教授)の論文(Kent V. Flannery, "Cultural Evolution of Civilizations," 1972)は、国家の属性についての説明(血縁紐帯から地縁へ、公権力の確立、租税、官吏)を、明らかにエンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』から借りている。

ところが、フラナリーはエンゲルスの名を注に記していない。



「それは、引用することが憚られたからにほかならない。」(佐々木前掲、48頁)



マルクス主義を取り入れたとみらるだけで立場が悪くなる。それもあって、アメリカでは古代国家に関するマルクス主義的な研究のレベルは今も低い。

その意味で、アメリカ考古学では



「政治が学問を妨げてしまった」(佐々木前掲、48頁)



のである。








(つづく)












| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 05:34 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「マルクスこわい!」と叫ぼう アメリカにおけるマルクス その1
200年前に生まれた一人の男・マルクス(1818-1883)が、アメリカではどういうイメージで扱われているか。

それがわかるエピソードを、偶然、いくつか読んだ。



◯ 1983年のこと。アメリカのミシガン大学図書館では、貸し出し業務をコンピュータ化することにした。

それまでのカード方式とちがって、誰が何を借り出したかがコンピュータにすべて記録されることになる。

そのため、学内で議論が起こった。



「その記録を政府が入手したら、隠れてマルクス主義的な勉強をしていた研究者は誰か、すぐにばれてしまい、その研究者は地位を追われるかもしれない」



幸い、その後ミシガン大学では、貸し出し業務のコンピュータ化がきっかけで地位を追われた研究者は、一人も出なかった。




(以上は、佐々木憲一「古墳時代考古学とマルクス主義」『書斎の窓』2012年9月号、47頁より)










(つづく)














| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 08:33 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「階級」はなくなったか? おわり
出版社は、社名が象徴するブランド価値や販路やオフィスなどの生産手段を所有し、従業員の労働力と作家に書かせた原稿を買い取って、書籍という知的商品を生産し所有する「資本」である。

作家・三島由紀夫は、作品づくりの労働力しか売るものがない存在であって、労働者の一種である。

孤独な労働者・三島が生産した作品は出版社に買い取られ、出版社の所有する商品として販売されるのであって、三島が作家であるかぎり、労働者と資本という立場が逆転することはない。

彼は原稿料のほかに印税も得て裕福だったらしいが、それはたまたま彼の労働の対価が大きかったということであって、三島由紀夫が一種の労働者であることには変わりがない。

三島が一種の労働者であったことは、ある日突然、彼の原稿が売れなくなったと仮定してみればよくわかる。

彼が作家であろうとするかぎり、彼は自分がもつ唯一の商品たる<作品づくりの労働力>を、ふたたび出版社に売るために努力するほかない。

そのとき三島は、「階級」が厳然として存在することを知るだろう。








(おわり)








| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 21:56 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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