ごきげんようチャンネル

Life is for those who have a hope.

Action is of those who embrace a yearning.

History is made by life and action, hope and yearning.


「社会的作法」が人間を支配する その過程を解明することが学問の目標だ

「作法」というものが存在することは、誰もが知っている。

 

作法は、物質のあり方(身のこなし、姿勢、衣装、道具など)によって表現される。だが作法が表すものは、人間が観念的に理解する何かであって、物質ではない。

 

 

 

「交換価値は、物に費やされた労働を表現するための、ひとつの限定された社会的作法であるのだから、為替相場と同じく、自然的素材をまったく含むことはできない。


(マルクス『資本論 第一巻』初版第一章。訳文は、筑摩書房版マルクスコレクションIII、2005年、321頁。資本論第二版では、新日本出版社版、第一巻、140頁。太字は引用者)

 

 

 

そして、ひとつの社会構成体を編成するほどのパワーをもつ「社会的作法」が存在する。資本はその例である。資本とは生産諸手段が「自立的な支配的諸力に転化」したものであり、人類の歴史に現れる「生産関係」のひとつであると、マルクスは述べている。

 

 

 

「資本は、物ではなく、一定の、社会的な、一定の歴史的な社会構成体に属する生産関係であり、この生産関係が、一つの物 [たとえば、それぞれの社会構成体] にみずからを表し、特殊的な社会的一性格を、この物に与えるのである。」(マルクス『資本論』新日本出版社版、第13巻、1425頁。太字は引用者)

 

 

 

近代の社会構成体は、資本という生産関係が「みずからを表し」たものである。資本は物質(人間を含む生産諸手段)に支えられて運動するが、物質そのものではない。資本は、人間の思考と行動を制約し、社会全体を規定する強力な概念的(規範的)実在である。

 

ふだんあまり意識しないが、私たちは多様で広大な概念の世界に生きており、概念に照らすことで現実を理解している。われわれの社会において、株式市場が成立したり会社が倒産するのは、「資本」という概念が「社会的作法」として実在するからである。

 

言語も宗教も法律も慣習も音楽も演劇も家族も学校も会社も物づくりも、つねに「社会的作法」という概念的実在(人間の思考と行動を現実に規定する力)を参照しながら行われる。

 

考えてみれば、これは常識でもある。

 

問題は、こうした「社会的作法」の創造と展開と変質の具体的なプロセスを解明することであり、人文・社会系の学問の目標のひとつも、そこにあるべきである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
土台は社会の生存条件、上部構造は社会の活動条件。それらは意識諸形態=生活という実体から生まれる 

生活 life とは、意識諸形態を作ることである。歩くこと、話すこと、食べること、ものを作ること、しぐさ、ファッション。人間の行為のすべてが意識諸形態である。芸能や信仰は、高度な意識諸形態である。

 

大人の生活すなわち意識諸形態の大きな部分を占めるのが、職業である。多くの職業によって、自分と社会の生存条件つまり土台が維持・変革される。

 

人々の生活すなわち意識諸形態は、社会を規律する上部構造の維持と変革にも寄与している。公務員や政治家のように、社会の観念的な活動条件すなわち上部構造を維持したり変革することを職業とする人もいる。

 

土台は生存条件、上部構造は活動条件。土台も上部構造も、人々の生活すなわち意識諸形態の産物である。人々の生活すなわち意識諸形態がもつ、物質的な面が土台として総括され、観念的な面が上部構造として集約される。

 

そして意識諸形態は、土台(社会の物質的生存条件)と上部構造(社会の観念的活動条件)に規定される。

 

土台と上部構造は、人々の意識諸形態=生活を媒介として、互いを支えあい、変革しあう関係にある。

 

土台の編成と上部構造の編成は、生活すなわち個々の人間の意識とその形態を超えた、全社会的に運用される高度な概念によっている。ルソーやマルクスのような社会思想家は、個人の意識を超え、全社会を動かしている概念体系の生成と崩壊のプロセスを解明しようとした。

 

全社会を総括し集約する、この高度な概念の変遷が、<社会構成体の歴史>の内容をなす。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
希望と憧れが歴史の本体である

 

希望をもつ者は、生きていける。

 

 

憧れを抱いた者は、行動する。

 

 

歴史は、希望と憧れからできている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 04:19 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ルソー、マルクスから AI へ  数へと収斂する現代社会

ルソーのすごみは、つきつめた思考にある。有名な「社会契約」について、ルソーはこう説明している。

 

 

 

 

「自然状態ではもはや存続できず、生存様式を変えないと、人類が滅亡するしかないところまで達したとする。

 

そのとき、人類は力の総和をつくって障害を克服するしかない。

 

しかし、各構成員は全体に結合するが、自分自身にしか服従することなく、結合前と同様に自由である、という結合は可能だろうか。

 

それは可能である。

 

各構成員が、自己と自己の権利のいっさいを、共同体に譲り渡せばよいのである。

 

これなら、みなが同じことをするのだから万人にとって条件は平等であるし、特定の誰かに自己を譲り渡すわけではない。そのうえ、結合は完全である。

 

各人は失ったものと同じ価値のものを得るし、自分のもつものを保存するために、いっそう多くの力を獲得する。」

 

 

(ルソー『社会契約論』井上幸治訳、中公文庫版、24-26頁より要約)

 

 

 

 

マルクスの価値形態論は、このようなルソーの社会契約の論法に似ている。

 

貨幣のように、あらゆる商品の価値を表現できる「一般的価値形態」がどのように成立したかについて、マルクスはこう述べている。

 

 

 

 

「一般的な価値形態は、商品世界の共同の労働としてのみ成立する。あらゆる商品の価値が表現できるのは、あらゆる商品の全面的な社会的関係によってのみである。」(マルクス『資本論』第一巻、第三節、中山元訳、100頁より要約)

 

 

 

 

すべての商品が、貨幣のような特別の商品によって自分の価値を表現することで、はじめて商品世界が成立する。この論理は、すべての構成員が「自己を共同体全体に譲り渡す」ことで、「各個人はいわば自分自身と契約している」状態となり、「この結合行為からその統一性、その共同の<自我>、その生命とその意志[一般意志]を受けとる」(井上訳、前掲、25、27頁)というルソーの議論に似ている。

 

 

貨幣のような一般的価値形態は、「すべての人間労働が分かりやすい形で受肉したものであり、人間労働が一般的で社会的な<さなぎ>のようなものに化身したものである」(マルクス同上訳書、101頁)とマルクスは述べている。

 

これはルソーが、都市国家、共和国、政治体、国家、主権者、国、市民、人民といった言葉で呼ばれるものは、いずれも個人の身体と権利の共同の譲与によって、「個人に代わって一つの精神的・集合的団体を成立せしめ」たものだ、と述べているのに似ている。(井上訳、前掲、26頁)

 

 

...

 

 

 

貨幣は、個々の商品とちがって、すべての商品の価値尺度となるという、特別の地位を獲得している。

 

国家は、個々の組織とちがって、地域のすべての構成員に一定の社会的属性(国籍、権利、納税、軍役など)を与えるという、特別の権能をもっている。

 

支配が一部分ではなく、「すべて」に及んだとき、質的な転化が起こる。その支配は、いわば不動のブランドになり、誰もがその権威をうけいれ、支配を承認するようになる。

 

逆に、こうもいえる。支配が「すべて」に及ぶのは、支配される側のあいだで、それが支配力として承認されているときである、と。

 

この支配力の社会的承認の過程に、人間社会の秘密があると考えたのが、ルソーとマルクスであった。全社会的支配力の積極面に人類の希望を見たのがルソーであり、全社会化した支配力といえども、人間の盲点をついた一種の転倒にすぎないことを重視したのがマルクスであった。

 

 

...

 

 

 

貨幣(マルクス)、国語、そして政府(ルソー)という近代社会の産物は、どれもその力の源泉たる<価値・意味・意志>が人間にとって無意識化しているため、その支配が当然のように受け入れられる。

 

<価値・意味・意志>は社会の本質であり、支配力である。だがそれ自体は、<力>であるから目にはみえない。それは<交換財・表現体・行為態>という、目にみえるものとして現象する。

 

<交換財・表現体・行為態>の実体は、人がおこなう<労働・表現・行為>である。だが、それをおこなう当人たちは、目に見える<交換財・表現体・行為態>を追いかける。だから、この「追いかけ」から自動的に発生する<価値・意味・意志>の支配力に、当人たちはなかなか気づかない。

 

<貨幣・国語・政府>という<交換財・表現体・行為態>が、<価値・意味・意志>という全社会的支配力を無意識化し、<労働・表現・行為>という実体を隠蔽した。これが近代社会の段階である。

 

現代では、<貨幣・国語・政府>を包括していた国境が取り払われ、すべてが<数>へと収斂する傾向がある。現代ではコンピュータが、これらの支配力を<数>へと一元化しつつある。

 

このごろのAIの隆盛は、このことを示している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
献納の思想 正倉院御物はなぜ今日まで保存されたか

今年も奈良で正倉院展が開かれている。

 

光明皇后は、聖武天皇の遺品を東大寺の盧舎那仏にすべて「献納」した。その結果、聖武天皇の遺品は正倉院の北倉にまとめて保管され、扉の鍵は勅封された。こうして、奈良時代の優品が今日まで大量に残された。

 

正倉院を管理した東大寺は、各地に荘園をもっていた。荘園は、それぞれ元のオーナーが東大寺に「寄進」したものである。土地を動かして集めることはできないので、土地からあがる収穫の一部を差し出す。これが寄進である。

 

注目したいのは、「献納」も「寄進」も、物品の提供が、<上級の権威による保護>という観念的な見返りを目的としていたことである。

 

東大寺の僧は、たとえ皇室の要望があっても、<いったん盧舎那仏に献納したものは、もはや人間が使うことは許されない>という理由で、正倉院御物の持ち出しを拒否したという。聖武天皇の遺品は、盧舎那仏に「献納」したから、今日まで守られたのである。

 

各地の荘園が盛んに中央の権威に「寄進」された理由のひとつは、<上層の権威の所有物は、簡単に犯すことができない>という観念に訴えることで、自分たちの土地からあがる収穫を守ろうとしたからである。

 

献納や寄進は、一見、価値あるものを失うことのように見える。しかし長い目で見れば、むしろ物質的価値(遺品や土地からあがる収穫)を保護する行為であった。

 

 

 

現代の会社にも、こうした献納・寄進に似た、<無くすことで残す>という側面がある。起業とは、創業者が労力と資金を会社に「贈る」ことで、自分が大事にしている価値を持続的組織のかたちで残すことだからである。

 

古代・中世の献納・寄進は、物品を媒介にした上層権威との関係づくりであった。現代の起業は、資金と労働力を媒介にした、持続的組織づくりである。いずれも、価値の永続を目的とする人間の意志的行為である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「イデオロギー」とは、希望を調達する希望である

「イデオロギー」を辞書で引くと、「政治・道徳・宗教・哲学・芸術などにおける、歴史的・社会的立場に制約された考え方」とか、「思想傾向」全般を指す、と説明している例がある(デジタル大辞泉。太字は引用者)。

 

これはレーニンの用法に影響された、政治的な色彩を帯びた定義である。より客観的には、個人から「自立した精神的な存在」、個人の意志を制約する社会的な意志の体系を「イデオロギー」という(津田道夫編『三浦つとむ意志論集』績文堂、2017年、36頁)。

 

たとえば憲法は、組織や個人から自立し、実行を強制する力を持った国家意志の体系であるから、「イデオロギー」にあたる。

 

上記の辞書にある「歴史的・社会的立場に制約された考え方」という説明は、国家や法律や道徳や宗教などは、もともと何らかの立場にある人間によって作られた観念にすぎず、どんな社会にも妥当する普遍的なものでもなければ、どんな時代でも変化しない絶対的なものでもない、という側面を強調したものである。

 

だが本来、「イデオロギー」という言葉は、社会的意志の体系が、個人の意志を内面から支配する側面をいう概念である。

 

そして意志を調達するためには、意志が希望とつながっている必要がある。

 

希望は、人間が生きるために不可欠であり、意志が希望とつながっていれば、それが特殊な立場から提示されたイデオロギーであっても、人間は喜んで服従する。

 

希望を導きとして、人々の意志が調達できる観念体系。希望を調達する希望。それがイデオロギーである。

 

現代の行き詰まりは、希望を調達できるイデオロギーの不足からきている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
生産力が実体になり、生産関係が属性になるとき、社会革命がはじまる

生産関係と生産力。よくペアにされる概念だが、ノーマルには、生産関係が実体で、生産力がその属性という関係にあるといえるだろう。いわば、モーターという仕組み(生産関係)が実体で、モーターの出力(生産力)が属性である。

 

生産関係のあり方は、人間の意識諸形態すなわち行動に反映する。この反映がある限界を越えると、それまでおとなしく属性にとどまっていた生産力が実体となって、生産関係の改革を模索するようになる。

 

いわば、モーターの出力がある限界以上に向上してくると、モーターの仕組み自体を改善しようとする動機がはたらく。生産関係による制約を止揚するために、生産力が新しい生産関係への変身を模索するのである。

 

 

 

 

 

「社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。」(マルクス・経済学批判序説より。太字は引用者)

 

 

 

 

 

社会の「生産諸力」の中核には、人間の能力がある。人間の能力が発展しているのに、生産関係がそれに対応していないと感じられる時期がやってくる。

 

たとえば、教育やインフラの充実によって女性の能力が増し、女性の労働力の発揮が求められてもいるが、それに対応する生産関係(雇用形態や保育環境など)が貧困である。この矛盾は、不満と危機を訴える意識諸形態(行動)の増大をうながし、やがてそれが法の改訂といった上部構造の変革へと結実する。こうして制定された法は、土台(能力ある人間を含む、物質的富を産む仕組み)を変革していく。

 

人の生活条件たる土台の生産力が、生産関係による制約を止揚するために、人の意識諸形態を通して上部構造に投射し、新しい上部構造を作り、それを通じて新しい社会構成体をつくる。これが社会革命である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
社会の富とは、<物象・表現・組織>によって<価値・意味・意志>を生産・交通・消費する人の生活のあり方である

社会を「物」の生成加工消費の編成のあり方および「人」の生老病死の編成のあり方と見るのが、土台の思想である。

 

人の労働力が加わった物が物象であり、人の労働力が加わった人が人間である(土台の思想から見れば、物象は広義の人間であり、人間は広義の物象であるともいえる)。あらゆる社会は、物象と人間を媒介とする物質的富の生産・交通・消費の上に存立している。土台とは、社会を、物質的富の生産・交通・消費の客観的な仕組みとみなす思想である。主体たる人からみれば、土台とは、物質連関からみた社会である。

 

史的唯物論では、奴隷制・農奴制・賃金制といった労働力編成のあり方を、「生産関係」と呼んできた。たしかに、労働力編成の方式は物質的富の生産・交通・消費の要をなす制度であり規範である。直接の労働力編成のあり方たる「生産関係」を含む土台の質的構造的な面の全体は、「生産様式」と呼べる。土台の量的機能的な面が「生産力」である。

 

 

意識諸形態とは、社会を、意味的富たる表現の生産・交通・消費の客観的な仕組みとみなす思想である。意識諸形態のあり方は、土台のあり方を根源としている。主体たる人からみれば、社会とは、観念連関による意識諸形態(表現)の運動である。

 

 

上部構造とは、社会を、意志的富たる組織の生産・交通・消費の客観的な仕組みとみなす思想である。個人の意志の表現としての意識諸形態は、組織の端緒であり内容となるが、社会全体からみれば、組織の意志が社会の意志的富とみなせる。組織の代表は、全社会を覆う組織たる国家機構である。主体たる人からみれば、上部構造とは、組織連関からみた社会である。

 

 

 

人の生活とは、物象・表現・組織の生産・交通・消費の過程である。

 

物質連関・観念連関・組織連関は、この生活の主体的内容に着目した概念である。

 

連関の実体=連関力は、<価値・意味・意志>である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
奴隷と年季奉公人の違いは、希望の違い 

ルシオ・デ・ソウザ、岡美穂子『大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨーロッパ』(中公叢書、2017年4月)

 

本書は、奴隷の売買という形をとった、船による労働力の国際移動が400年以上前に存在したことを証明している。

 

人間の場所的移動は、労働力そのものの移動であり、人間社会の土台の変動の一部として、古来存在した。各地を回る商人・芸人、出稼ぎ、旅行、遊学、嫁入り、戦争による軍隊の移動、人の捕獲、移民、植民。

 

国際奴隷もまた、そうした労働力移動の一種である。イスラエル人のバビロン捕囚(紀元前600年ごろ)のように、推計1万人を超える人々が遠方に移送され、約半世紀の間、労働に従事させられた国際奴隷の例もある。

 

本書にあげられた奴隷は、ひとつのエスニックグループにつき、多くて数百人である。これらの奴隷は、貿易都市や船上で、貿易商人の家内労働者として個人的に奉仕する点的な存在で、農場や軍隊で集団的に使役されたのではなかった。子孫をつくる存在でもなかったようだ。

 

のちにアメリカに連れて行かれた黒人奴隷は、農場で集団労働したり、家族をもつこともあったから、同じ「奴隷」といっても、労働形態に相当な違いがある。本書が実証した国際奴隷の存在は、経済的にはそれほど重要であったわけではないようだが、人類史の埋もれた事実として、記憶する価値がある。

 

 

いくつかメモしておきたい。

 

 

○ 奴隷は、遠方へと転売を重ねるほど値段が上がった。自ら志願して奴隷になり、海外に渡った例もあるという。

 

 

○ 幼少の奴隷をもつことは、キリスト教徒とっては、憐れみの行為とみなされた。

 

 

○ キリスト教に改宗したユダヤ人に対する猜疑心と、厳しい追及ぶりが描かれている。彼らは実際には改宗していないのではないかと疑われており、監視され、怪しい行動が密告されると宗教裁判にかけられ、財産を没収された。これはけっきょく、ユダヤ人の財産がねらわれていたということではないか。

 

 

○ 本書には、奴隷が逃亡した例が紹介されていない。老齢、病気...。奴隷は、解放された後のほうが悲惨ということもあった。人は共同体を離れて生きられないということの証明か。

 

 

○ 本書を読みながら、ハタと気づかされたのは、奉公と奴隷の違いが、案外と微妙なことである。奴隷に年季が設けられることもあったらしい。購買者は奴隷として買ったつもりが、本人は年季奉公人になったつもりであったという皮肉な例もあるらしい。

 

年季奉公と奴隷の違いは、報酬の有無ということもあるが、意識の差つまり希望の有無も大きい。技術を習得し、ゆくゆくは独立した生計を立てられるという目的と希望があれば、労働の内容も自ずから高度になる。たとえ単純労働でも、いずれ年季が明けると思えば、労働の質が違ってくるだろう。

 

外見上は同じ労役でも、使役する方、使役される方が、それぞれどう思っているか。人間の歴史では、そこが重要になる。

 

希望とは、内面の問題であることに注意したい。希望があるかないか。その違いは、人間の歴史において、客観的にも大きな違いを生んできたはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

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土台は生存条件、上部構造は活動条件 マルクス「ブリュメール18日」より

マルクスの「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」に、土台と上部構造の関係についての思考例がある。いわゆる史的唯物論の「公式」(経済学批判序説)とあわせて参考にすべき部分である。

 

 

 

 

 

「正統王朝派とオルレアン派... これら二分派を分けていたのは、いわゆる原理ではなく、両者の物質的な生存条件、つまり二つの異なる所有様式だった。古くからの都市と田舎の対立、資本と土地所有との対抗関係だったのである。

 

同時にまた、古い思い出、個人的な反目、不安や期待、偏見や思い違い、共感や反感、信念や信条や原理などが、彼らをどちらかの王家に結びつけたことも否定できまい。

 

所有の、社会的生存条件の、さまざまな形態の上に、さまざまな、独特に形成された感情や、思い違いや、考え方や、人生観から成る一大上部構造がそびえている。

 

一階級全体が、これら [上部構造の構成要素] を、自らの物質的な基盤と、この基盤に対応する社会的境遇からつくりだし、形成するのだ。

 

これら [上部構造の構成要素] は伝統や教育を通じて個々人に流れこんでいくので、個々人は、これら [上部構造の構成要素] が自分の行動を決める本当の動機であり、その起点であると思い込むのである。...

 

私生活では、ある人が自分のことをどう考えどう言うかと、その人が実際どのような人で何をするのかが区別されるのだから、歴史的な闘争ではなおさらのこと、政党のうたい文句や思い込みを。それの実際の体質や実際の利害と区別し、それのイメージを、実態と区別しなくてはならない。...

 

イギリスのトーリー党が長いこと、王制や、教会や、古いイギリスの制度の美点に心酔していると思いこんでいたところ、いざ危なくなると、自分たちが心酔していたのは地代にすぎなかったことを白状せざるをえなかったのと同じである。」

 

 

 

(マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」、筑摩書房マルクスコレクションIII、38-39頁。太字は引用者)

 

 

 

 

 

ここでマルクスは、土台を「社会的生存条件」「物質的な生存条件」「自らの物質的な基盤」と呼んでいる。土台に根を持つ個々人の感情、意識を、ここでは「上部構造」とも呼んでいるが、以下ではむしろ経済学批判序説の用語にならって、政治的法律的に規定された全社会的な編成の具体的形態(国家や憲法など)を、「上部構造」と呼ぶことにしよう(すると、個々人の感情、意識の表れは、上部構造というより「意識諸形態」と呼ぶべきであろう)。

 

土台は人間の物質的生存条件であり、上部構造は人間の非物質的活動条件、すなわち両者は個人の生活の前提である。生存条件が確保できないと活動条件が満たされないし、活動条件があってはじめて生存条件が確保できる。

 

個人は、単独でこれらの条件を無視したり破壊したり修正することはできない。人は組織によって、新しい土台や上部構造、すなわち新しい生存条件や活動条件を作る。

 

土台と上部構造は、個人・組織・階級にとって投射の対象であり、投射の主体でもある。土台と上部構造は、人間社会が所有する属性(条件)である。だからこそ、土台と上部構造は、人間社会を制約する実体ともなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

        湯島聖堂  東京

 

 

 

 

 

 

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