ごきげんようチャンネル

"People like a Jewish boss, a lesbian supervisor, and black and Latino co-workers modelled what it means to be a human being, when I least deserved, but most needed such a lesson." an ex- white supremacist

なぜ "It's me." というのか ”It's I.” と言わない理由

英語には、

 

 

It's me. Shinzo! (僕だよ、晋三だよ。ドアの外から名のるときなど)

 

 

His wife is taller than him. (彼より奥さんのほうが背が高い)

 

 

 

のように、主格(I, he)になりそうなところを目的格(me, him)にする表現がある。

 

フランス語の強調形の影響だとか(C'est moi. 私だよ)、動詞や前置詞の後ろなので、類推で目的格にするようになったといった説があるが(江川泰一郎『代名詞』1955年、13頁)、これらは由来の推測であって、文法的解明ではない。

 

 

実は、これらは「一語文」と呼ばれる表現の一種である。

 

一語しかないのに、立派に独立した文になっているものを一語文といい、「はい」「いいえ」のように認識した内容じたいは表現されず話し手の判断だけが示される場合と、「やった!」「火事!」のように認識内容の一部が表現される場合がある。

 

英語の目的格表現は、認識内容の一部が表現される場合にあたる。

 

上記の文だと、 "I am here. " とか"he is (tall)." のような認識を、"me"  や "him" の一語で表しているのである。文相当の一語であって、単なる主格ではないことを示すために、目的格で表現する慣習ができたと考えられる。

 

 

 

 

 

Most people my age are ready to retire, but not me and my band. (Mick Jagger)

 

 

 

(私の年令になるとたいていの人が引退を考えますが、私と私のバンドは違います。ミック・ジャガー。not me and my band = I am not ready to retire. And my band are not, either.)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
will の概念は「話者の確信」 田中茂範『表現英文法』から考える

英語教育論、英語文法論で知られる田中茂範氏(慶應大学教授)の本を見ていたら、will について、氏の説明が進化していることに気がついた。

 

 

2008年の本では、

 

 

「willは現在の意志・推量を表す」

 

 

となっていた(田中茂範『文法がわかれば英語はわかる!』NHK出版、2008年、34頁)。この説明だと、「意志・推量」が誰によるものなのかがはっきりしない。

 

 

ところが、2013年の本では、

 

 

「will は発話時における話者の『意志』か『推量』を表す」

 

 

となっている(田中茂範『表現英文法』コスモピア、2013年、280頁。太字は引用者)。will は主語の意志や推量ではなく、話者の意志や推量を表す、と明記されたわけである。

 

 

しかし、will について、その他の説明部分には大きな変化がないように見えるし、そこに問題が残っていると思う。

 

 

 

どちらの本も、will が表すのは「意志か推量」であるといい、意志の他になぜ推量の意味もあるかが、かなり丁寧に説明してある。だが、氏の説明を読んでも、意志と推量の違いがピンとこない。

 

 

If it rains tomorrow, I'll stay at home. のように、条件のif 節ではwill を使わないが、その理由についての氏の説明は、どちらの本でもよく理解できない。

 

 

「時・条件などを表す節の中には、推量の余地のない確定的な内容が含まれるため、推量の意味合いがあるwill は使えない」(『文法がわかれば...』2008年、前掲、35頁)

 

「条件のif 節では推量を含まない内容(条件)を語るため、『推量』のwill は使わない」(『表現英文法』2013年、前掲、282頁)

 

 

氏が言いたいことは、if が表す条件は客観的で、will が表す推量は主観的だから、両者は同居できないということなのかもしれないが、そういう理解でいいのか、この説明ではよくわからない。

 

 

 

 

上記の ↓△箸癲∪睫世曖昧な感じがする原因は、共通していると思う。

 

 

その原因とは、文の中で、 will が表す認識上の機能、意味を分類しようとする発想が先立ってしまい、will が本来どのような概念であるかを解明しようという意識が薄いからである。

  

概念は、話者の具体的な認識とは別次元の、対象の抽象的な本質についての観念であり、認識にとっての規範である。概念は、それぞれ単一の実体として概念の世界にあり、他の概念と関係を結びながら存在している。will の場合なら、may, can, must などと共に、ひとつの群れを作っている。

 

物質的な現実のなかにいる個々の話者は、自分の具体的な認識を、概念を使って表現する。その結果として、ひとつの概念から複数の「意味」が発生するのである。

 

このことは、以下のような三層でイメージすると良いかもしれない。

 

 

 

 

物質的現実  ー  個人が作る認識  ー  社会が共有している概念

 

 

 

 

話者の直接の表現対象は、話者体内の個人的認識であって、体外の物質的現実ではない。このことは、認知文法の浸透などでかなり理解されるようになった。問題は、個人的認識と社会的概念の区別と関係が、まだあまり理解されていないことである。

 

個々の例文は、社会的概念をもとにした個人的認識の表現である。こうした個々の例文がもつ「意味」を分類することが、そのまま社会的概念の解明になるのではない。will の概念は、個々の例文(認識例)や他の関連概念を参照しながら、研究者が言語によって独自に言い表す必要がある。

 

will の概念は、「話者の確信」である。この概念は、will の例文や、may, can, must など、話者の判断の揺れを表す同類の概念との対比において定めることができる。この単一の概念から、個々の認識においては、意志とか推量といったいくつもの「意味」が派生してくる。

 

 

氏の『表現英文法』(2013年)の will の項には、「will が表す4つの意味」という相関図が掲載されている。図の中心にある will から、「意味の表明」「推量」...といった四つの「意味」が 放射状に派生している様子が描いてある。281頁。

 

ところが、四つの「意味」の中心にある "will" のところには、何も書かれていない。このことが、本書の弱点を象徴している。そこにwillの概念として、「話者の確信」と書きこめばよかったのである。この本にあげてある、いくつもの will の例文は、「話者の確信」という概念をもとにした話者の認識の表れとして、どれも説明できる。

 

 


 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
自己紹介に "I am Taro. " は、なぜおかしいか

太郎さんが自己紹介して、

 

 

 "I am Taro."

 

 

といったらおかしいだろうかと、在米20年の人に質問してみた。すると、「不自然な感じがする」とのこと。

 

 

 

" I'm Taro."

 

 

 

なら自然な感じだという。理由はわからないとのことだが、これは面白い現象だ。"I am... " というのは、「我こそは...」みたいに、気張って聞こえるのだろう。

 

 

 

そのこともあわせて、自己紹介しながら相手の名前を聞くための黄金パターンは、こうなる。

 

 

 

 

"I'm Taro, Taro Yamada.  And you are....?"

 

 

 

 

"I am" ではなく、手早く "I'm"。 相手に呼んでほしい自分の名前で、”I'm Taro"  そしてもう一度、自分のフルネーム。こうして、自分の呼び名を二回言って、覚えやすくしてあげる。

 

つづけて、"and you are...?"  と言うと、相手は自分の名前を、"Hanako, Hanako Itoh."  のように返してくる。このとき、”You're” ではなく、”You are...?” と、丁寧に尋ねる。

 

相手の名前が覚えにくい、聞き取りにくいときは、"How do you spell it? " などと聞いて、確認する。

 

 

この要領を覚えておけば、自己紹介はたいてい大丈夫だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

           朝の月

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
コロンは「すなわち」、セミコロンは「ところが」 使い分け方のメモ

コロン:とセミコロン;をどう使い分けるか。

これはわかりにくいし、説明もあまり見かけないのでメモしておく。



■colon(コロン)[:]は、「すなわち」(that is, namely)という感じで、同じ対象について違う言い方をしたいときに使う。

 

同じことを短くいいかえるだけなので、コロンはピリオドで代用することはできない。

 

たとえば、



He lived for only one thing: money.

 

これを

 

He lived for only one thing. Money.

 

では意味をなさない。



同様の原則で、次のような用例も理解できる。



Mary: I failed in the exam.
Bob: Sorry to hear that.   (セリフの前)
 


Ladies and gentlemen: (あいさつの冒頭)
 


Dear Sirs:  (手紙の冒頭)
 


他に



The clock showed 8:15 AM.  (時間と分。「八時なのだが、詳しくいうとその15分」)
 

 

 

 



■semicolon(セミコロン)[;]は、あることを言ったあと、別のことについて、「それに対してこちらは…」という意味で対称させるときにつかう。

 

We are never deceived; we deceive ourselves. (Goethe)  「われわれはけっして騙されるのではない。みずからをあざむくだけだ」(ゲーテ)… 強く前後を対称させながらつなげている。

 

 

セミコロンは、互いに独立した内容をつなげるものなので、ピリオドにして、別の文にすることもできる。

 

 

She liked him; he was kind to her; he was rich. (ピリオドにするとニュアンスは変わるが、意味は通じる)

 

 

セミコロンの重要な用法は、consequently,  furthemore, nevertheless, however, also, besides, moreover, otherwise, hence, then, thus のような「接続副詞」の前に置いて、前後を切断しつつ接続する書き方である。

 


He graduated; however, he was unable to get any job. 
 

 

 

 

 

 


簡単には、: (コロン)は「すなわち」(=)、;(セミコロン)は「ところが」(⇔)と覚えておくといい。また、コロンのほうが使用頻度が高く、セミコロンはそうしょっちゅう使われるわけではないことも、覚えておくと役立つだろう。
 

なお、タイピングでは、コロンもセミコロンも、その後を 1スペースあける決まりになっている。

 

 

 


(以上、原田敬一『英語句読法の知識と使い方』南雲堂、1985年、41-48頁を参考にした)

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 



 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 16:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
概念から認識への新ルート それがトランス・グラマーだ

概念と認識。この二つが、私には長いこと区別しにくかった。概念と認識の区別はむずかしい。むずかしいからこそ、キモなのだ。

 

認識は、個々の人が創造する個人的な観念である。概念は、人々が表現を交換するうちに凝固した、社会的な、既定の観念である。個々人は、概念をそれぞれの仕方で分有している。たいていの概念は、辞書に載っている。

 

概念の例をあげてみよう。次の表は、小学校で教える日本語の「こそあど」の概念体系である。

 

 

 

 

 

品詞

近称(こ)

中称(そ)

遠称(あ)

不定称(ど)

名詞

(代名詞)

事物

これ

それ

あれ

どれ

場所

ここ

そこ

あそこ

どこ

方角

こちら

こっち

そちら

そっち

あちら

あっち

どちら

どっち

連体詞

この

その

あの

どの

副詞

こう

そう

ああ

どう

形容動詞

こんなだ

そんなだ

あんなだ

どんなだ

 

 

 

 

この表は、概念どうしの関係、すなわち個々の話し手とは無関係に、概念どうしが自立的につくった秩序を表している。もちろん、個々の具体的な認識においては、日本語を話す人がこうした概念の体系をいちいち意識しているわけではない。

 

認識は個人的で、概念は社会的だというのは、このようなことを指している。概念は、個々の認識よりも抽象的な、社会的な観念であって、個々の話者のばらばらな認識とは次元が異なり、概念どうしで関連しあっている。

  

個人の認識は、社会的な概念にのっとって行われる。社会的な概念は、個人の認識とその表現の集積によって創造され、発展する。談話、定義、詩、小説といった具体的な言語表現は、個々の認識が概念の体系にのっとって表現体に転換されたものである。

 

 

 

 

概念と認識の違いを理解することは、外国語の習得のような場面で決定的に重要となる。

  

外国語の学習のとき、人は母語の概念による認識と、母語風の表現体(発音)に頼りがちである。しかし、これをすると、大変な遠回りを強いられることになる。

 

母語への依存による遠回りをなくすために、二つのルートが考えられる。

 

一つは、<認識から概念へ>というルートである。たとえば、具体的場面を写真や漫画や例文でたくさん見せて、英語の前置詞の概念を理解させようとする場合がそれである。 この方法は、直感的にわかる画像イメージを利用して、母語による認識を回避しているところが優れており、一定の効果があるが、単調で、飽きてしまうし、正確な概念に到達できる保障もない。現在行われている言語教育は、こちらのルートがメインであろう。

 

もうひとつルートは、<概念から認識へ>という逆方向からのアプローチである。まず外国語の概念をつかむ。それには、概念がわかる図表や動画を用いてもよいし、堂々と日本語を使ってもよい。

 

簡単な概念なら、図表や動画でもわかることがある。しかし、複雑な概念を理解するには、言語に頼るしかない。この時、無理に外国語を外国語で教える必要はない。母語もまた言語である以上、概念の直接的表現であるから、母語は外国語の概念を説明の対象にすることができるのである。わかるために使った言語は母語でも、わかった内容は外国語の概念である、ということが可能なのだ。これは、サッカーのルールや技術を教えるには、何語で指導しても良いことに似ている。

 

日本で流布している学校英文法は、「主語」「動詞」など、英文の中で語が働く機能による説明が中心になっている。しかも、練習方法が母語依存の「英文和訳」なので、本来の英語の概念に入りこみにくい。

 

図表、動画、母語によってつかんだ外国語の概念によって、具体的な場面で自分の認識を作り、この認識を外国語の表現体(音声と文字)によって表現する練習をする。こうすれば、母語への依存は回避できる。<概念から認識へ>のルートは開拓できるのである。

 

このような、<概念から認識へ>のルートは、これまで本格的に探求されなかった、ほぼ未踏のルートだと言える。英語への未踏のルートを日本語で表現したものが、私のトランス・グラマーである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
概念は<心内の対象を認識する・語彙を組み合わせる>ための規範として現象する

概念は、社会に共有された認識であるから、個人の認識は、概念にもとづいて表現すれば他者に通じる。

 

サッカーの選手は、ルールがあってはじめて他者とプレーができるように、言語の話者は、概念という社会共通の基準があってはじめて、自分の認識を他者にわかってもらえる。

 

 

心内の規範としての概念は、

 

 

心の対象を認識するための規範として現象する。語彙段階。

 

概念を組み合わせて複雑な認識を整序するための規範として現象する。いわば、概念のための概念である。句、節、文、あるいは文を集めた文章段階。

 

 

概念というと、上記の,鮖悗垢海箸多いが、概念の整序のための概念である△砲眞輒椶垢戮である。

 

 

 

 

言語には、認識を音声・文字によって物質的に表現するための規範(表現規範)もある。この物質化のための規範も、

 

 

個々の語を表現するための規範。つづり、発声。

 

文、文章(文が集まった思考のまとまり)を、まとまりとして整序して表現するための規範。声の高さ、イントネーションなど。

 

 

の二段階がある。表現規範といえば ,鮖悗垢海箸多いが、表現を整序するための規範である △砲眞輒椶垢戮である。

 

 

 

 

表現規範は、心内で規範として現象する上記の概念とは異なり、概念を体外へと表現するための規範である。そして、心内規範と表現規範が共同して、言語を可能にしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「心の対象を概念によって認識し、規範にてらして表現する」 それが言語だ

人が心を向けた対象を、概念によって認識し、規範にてらして表現する。これが言語である。

 

 

「対象」とは、個々人が抱く心の中の実在のことで、それが語彙や語順のような規範にもとづいて概念化される。

 

「概念」とは、対象の本質の社会的認識である。概念じたいは無色透明、無音無形だが、実際には、言語ごとに形成された音声・文字と結びついて運用される。

 

「認識」とは、個々人が抱く、自分の心の中の対象についての観念化作用、もしくはその結果たる観念的内容である。認識は、そのまま言語化されるとは限らず、虚言や無言によって表現されたり、動作、表情、絵画、音楽など、言語以外の表現体によって表現されることも多い。

 

言語の「表現」とは、物質的形象化のための社会的規範にもとづいて概念の連なりを物質化した音声・文字のことで、これが客観的な意味での「言語」である。

 

言語は、語彙、語順、物質的表現のための規範に準拠し、場面に応じた特殊性をもって表現される。言語の文法書(規範の記述)はあっても、絵画の文法書はとくにない。これは、言語は人間の表現のなかでもっとも抽象的かつ正確な概念的表現であるから、そのぶん、規範が精密になっているからである。

 

 

 

 

自分の母語の仕組みを意識化することは、誰にとっても難しい。だから言語の仕組みは、外国語の仕組みを記述したり習得しようとする中で意識化されることが多かった。

 

外国語の習得とは、その外国語の<概念+表現体>を規範にして、自分の認識を表現したり、他人の表現を理解できる身体をつくることなのだ、ということを意識すると良い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
統計学は数による数の言語化

統計学では、数字がもつ意味に四種類あるそうだ。
 

 


仝澆い魘菠未垢襪燭瓩砲弔う数字(いわゆる番号)。例・男は1、女は2。従業員番号125。  (名義尺度)

⊃瑤示す順序(大小)に意味がある場合。例・嫌いは0、好きは1、大好きは2。売上成績3位。  (順序尺度)

数の間隔に意味がある場合。例・体温36度と体温39度。 (間隔尺度)

じ澆い亡慙△気擦瞳彁擦垢襪醗嫐が出てくる場合。例・身長175センチで体重90キロ。そこから肥満度が計算できる。 (比例尺度)
 

 


,鉢△麓租データと呼ばれ、単純にかけ合わせるといった計算をしても、人間にとっては意味がない。そこで、統計学では特殊な解析方法が開発されている。

とい藁姪データと呼ばれ、互いに通常の計算をすれば、人間にとって意味ある結果がえられる。



(涌井善幸『統計解析がわかった』日本実業出版社、2008年、156−157頁)

 

 

 

統計学では、数字の意味は数字じたいが決めるのではないらしい。数字の世界だけで完結する数学とちがって、統計学は、人間にとっての数字の「意味」を解析するための学問なのだ。

 

数学は、数という概念の世界の探求。統計学は、数という概念の世界が表す、人間にとっての認識上の意味の探求。

 

数字が表す概念は、個々の人間の認識とは別次元のもので、それ自体で独立した世界を作る。この数の概念の世界の探求が、数学である。人間にとっては、数学が表す数字の組み合わせ(概念)がどんな意味を持つのかは、わかりにくい。

 

統計学は、現実世界をいったん数という概念に変換したあと、それが人間にとってもつ意味へと再転換する学問、ということだろう。

 

もしそうなら、数学と統計学の関係は、言語の仕組みに似ているところがある。話者は、自分の心に実在する対象を、概念による認識へと変換するが、この概念による認識を無音無形のままにしておいたのでは、他の人に意味(対象・概念・認識の間の関係)がわからない。そこで、この概念による認識を音声・文字という表現体へと再転換することで、意味あらしめる。

 

言語は、数学と統計学が合体したようなものなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
認識と概念の無限往復を保証する形式としての意識諸形態 

「無限小」とは、「ゼロに向かって消滅する前にそうであったものを保持する量」(ライプニッツ。今野紀雄『図解雑学 わかる微分・積分』ナツメ社、1998年、14頁)。

 

常人には思いつかない、奇想天外な表現だ。

 

そもそも「無限」という概念は、人間にはわかりにくく、数学者のあいだでさえ、その正当性について、長いあいだ疑問があったらしい。だが、

 

 

 

1=0.999…

 

 

ということには、数学的操作を使った簡単な証明が可能で、たとえば、

 

 

 

1/3=0.333…

 

 

 

が納得できるとすれば、両辺に3をかけると

 

 

 

1=0.999…

 

 

 

となる。数学内部での辻褄は合っているようである。

 

 

 

この話、このごろ概念と認識の関係について私が思っていることの一例かもしれない。

 

 

もう一度、先の等式を見る。

 

 

 

1=0.999....

 

 

 

ここで左辺の1は、人間の認識(実数)であり、0.999… は、認識を超越した概念(無限)とみたらどうだろう。なにげない認識が、超越的な概念によって意味づけられているように見える。

 

逆に、

 

 

 

0.999.... =1

 

 

 

と書けば、左辺の0.999.... のような人間の無限についての認識があり、それは実数概念に照らせば1に等しいという理解もできるのかもしれない。

 

 

数学者による数についての認識の積み重ねが、新しい概念(無限)をつくった。こうして確立した無限という概念は、数についてのわれわれの認識を深めてくれることになった。人間の創造行為は、<概念⇄認識>という往復の形式をとる。

 

概念の組み合わせが普遍的な構造を作っているとき、それに照らすことで、個別の認識の具体的な構造が見えてくる。

 

概念は、個々の認識の構造を照らし出す。これはちょうど、月からやってきた美女(概念)が人間世界の愚かさ(認識)を照らしだす「かぐや姫」の物語に似ている。小説も、詩歌も、絵画も、音楽も、演劇も、日常の発言でさえ、この<概念⇄認識>という往復を保証する形式である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

車上からの認識では、道は無限に小さくなっていくが、ゼロにはならない。

それが、一本の道があるということである。

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
a(n)は「今現れた」、theは「以前からそこにある」、無冠詞は「その場限りの」

言語の話者は、概念を参照しつつ、自分の認識を組み立てて、それを音声化・文字化する。

 

英語を立体的に組み立てているのは、冠詞や前置詞や代名詞のような小さな語(機能語)、そして表現しないことによる表現(透明な表現)である「文型」である。これらはいずれも、英語話者が、対象を認識するために参照する概念である。

 

 

以下、冠詞の概念が、どのように話者の認識を立ち上げていくか、スケッチしてみよう。

 

単なる概念としての体(たい。概念上、まとまりとなって自立している対象。「実体」ともいう)の認識は、無冠詞 φで表す。英語の辞書の見出し語はすべて無冠詞であるが、これは単なる概念としての語を並べているからである。

 

次に、認識の対象の存在する場に、個・回・種という態(なり。その場での属性。態も概念である)をもつ体が「今出現した」という認識は、a(n) で表す。

 

a(n) の複数概念が -s であるが、-s はたんに複数ということのほかに、強調、複雑などのニュアンスを持ちうる概念であり、この概念によって認識した体は、-s で表す。

 

the は、概念的にいえば、その体が構造・反復・分類という既存の場の中にすでにあること、認識的にいえば、すでに生成のプロセスを経過して既存・特定の存在になっていること、簡単にいえば、「以前からそこにある」という、その体の態をいう。

 

なお、話者が認識の対象としている場には、a(n) でも -s でも the でもなく、どの場にもありうる一般的な体として表現するのが適切な体もある。どの場にもありうる普遍的な概念が、その場限りのユニーク(個別的)な認識として表現されるとき、その表現は具体性・特殊性を帯びる。この普遍的/個別的/特殊的認識は、単なる概念と同じ無冠詞 φで表す。「代名詞」は、無冠詞で表す体概念の例である。

 

 

以上の関係を図にしてみると、たとえば、次のようになる。

 

 

 

 

 

a(n)   ー   the

              φ 

         \  /

    -s

 

 

 

 

 

英語の話者は、その体が、その場でとっている冠詞以外の態(なり)、すなわち動態(→表現して動詞)、状態(→表現して形容詞)も認識する。こうした体と態を、英語の語順の規範(文型・接続詞)と、認識を立体化する概念(前置詞)に基づいて組み合わせ、英語の物質的形態化の規範(音声・文字)に則って表現すると、具体的な英語表現となる。

 

なお、言語表現の直接の対象は、外界ではなく、話者の内心の観念(感覚・感情を含む)をとらえかえした「認識」であることに注意すべきである。言語は、目前にある現実世界を直接述べるのではない。言語の直接の対象は、自分が心内で作った認識であり、その中には、目前の現実世界からつくった認識もあれば、記憶や空想のような非現実の認識もある。この個人的認識を、社会的概念(言語規範)に準拠して表現するのが、言語である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この掲示を作った人は、「お店 this restaurant」という構造を認識の場にしている。

「今言っているゴミ箱は、われわれが認識する以前からお店にあるものだ」ということを、

theをつかって "the trash containers" と表現している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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