ごきげんようチャンネル

科学とは、正確に驚くことである。 Y.M.
           

人は観念で報復する 米連続殺人犯に「七生」の刑

久しぶりにドラマっぽいものが見たくなって、米CBSの番組"48 Hours" から、 "Serial Confessions" という犯罪の実録を見た(2017年6月放送)。

 

 

 

http://www.cbsnews.com/news/todd-kolhkepp-case-confessions-of-the-s-c-serial-killer-kala-brown-rescue/

 

 

 

ノースカロライナで成功した不動産業者の男(白人)が、じつは七人を殺害した serial killer だったという実話。何度も人を殺しながらつかまらず、自分が管理し、他人が入れない広い土地に小屋をつくり、そこに女性を二ヶ月監禁していたのが発覚して逮捕された。

 

つかまったあとはあっけらかんとして罪を認め、「外で、俺の後頭部を撃って殺してくれ  Take me out back, shoot me in the back of the head.」とうそぶく始末。

 

しかし、犯行をすべて認めるのとひきかえに死刑は免除され、この男にくだった刑は、「七生プラス60年」であった。"He was given seven consecutive life sentences plus 60 years."

 

「七生(しちしょう)」というと、仏教ではこの世に七回生まれかわるほどの長い時間をいい、「七生報国」などと使う。

 

この男の場合、七人殺したから「七生」なのだろうが、この判決には、人間の観念性がよく表れていると思う。

 

七回生まれなおしても、すべて刑務所、プラス60年。たんなる表現、観念の問題のようにもみえるが、それにも意味がある。

 

事件の処理は、民事なら賠償金など、刑事では刑罰ということになるが、いずれも観念の世界での報復が目的である。

 

人間は、社会は、観念の世界をもっている。ある意味でそこが、人間の究極の住処である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 06:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
概念は「幽霊」(マルクス)である

商品生産社会では、労働は具体的有用労働として使用価値を生み出すと同時に、抽象的人間労働として価値を生み出すという話が資本論に出てくる。

 

具体的有用労働のほうはイメージがわきやすいが、抽象的人間労働は、どの労働でも同質であり、量(時間)によって測るしかないような抽象的なものだというのだから、少々わかりにくい。

 

この点について、資本論はかなり懇切に説明している。

 

たとえば、裁縫と織布は異なる二種の具体的有用労働だが、一人の労働者がかわるがわる、両方行っている状態を考えることもできる。ある季節には農民で、ある季節には建設労働者になる人もいるかもしれない。

 

裁縫と織布、農作業と建設労働は、具体的有用労働としては質が異なるが、一人の人間が両方こなしうることを考えると、両者に「同じ実体」すなわち単一の抽象的な人間労働が含まれていることがイメージしやすい。

 

どれも同一の人間が行う労働である以上、共通した「実体」が含まれているはずである。

 

ここまでくれば、それが労働者Aであるか労働者B であるか、労働Cであるか労働Dであるかとは無関係に、人類がおこなう商品生産活動すなわち「労働」という抽象的な質そのものの存在が見えてくる。

 

こうして、

 

 

「労働の有用的性格を度外視すれば、労働に残るのは、それが人間的労働力の支出であるということである。それら[裁縫労働と織布労働]は、人間的労働力を支出する二つの異なった形態にすぎない。」

(マルクス『資本論』第一巻第一編第一章「商品」、資本論翻訳委員会版、新日本出版社、75頁)

 

 

このように、マルクスがいう「抽象的人間労働」とは、動物ではなく「人間」であれば通常可能な労働行為のことで、「人間の脳髄、筋肉、神経、手などの生産的支出」すなわち「平均的に、普通の人間ならだれでも、特殊な発達なしに、その肉体のうちにもっている単純な労働力の支出」のことである。(前掲書、75頁)

 

動物でも植物でもない、類としての人間がおこなう商品生産活動ならば、それは抽象的人間労働である。

 

労働について言えることは、同じく人間ならではの活動である言語についても、あてはまる。

 

「人間にしかない、労働といえるもの」が抽象的人間労働であるならば、「人間にしかない、言語といえるもの」が「言語」である。このレベルでは、どこの言語であるか、方言か標準語か、どんな発音体系・文字体系か、といった「具体的有用言語」のレベルの要因はすべて消失して、いわば透明で均質な「言語」があるばかりである。ここに、「抽象的人間言語」とでもいうべきものが浮かび上がってくる。

 

マルクスは、抽象的人間労働においてはあらゆる具体性が消失し、「幽霊じみた対象性 gespenstige Gegenstaendlichkeit しか残っていない」と描写した。(マルクス『資本論』第一巻、筑摩書房版、60頁)。

 

同じように、抽象的人間言語においては、あらゆる形態や具体性は消失し、「幽霊」のような実体だけが見出せる。この実体が、概念である。

 

言語の理論は、この抽象的人間言語=概念を最奥の実体性として構築されねばならない。

 

 

 

追伸:言語という概念の世界では、人間は幽霊の世界にいる。言語では、人間は幽霊になるのだから、完全に幽霊としてふるまえばよい。この原理がわかっている人が、いっちゃってる人である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 05:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
自分の知られざる能力を信じて微調整せよ 「声の力」はその例だ おわり

ところで、発音のような人間のベーシックな活動を考えるとき、大事なのは、はじめに述べたように、身体の活動の大部分は無意識のうちに、自律的にコントロールされているものだということを利用する姿勢ではないだろうか。

 

自分の声を録音して...という先の方法にしても、聴こえてくる声のうち、自分が左右できる部分はごく一部なのだ。骨格、声帯の長さなどは自分では変更できない。吐いたら、自然に吸うものだという呼吸の原理も変更できない。声帯の震えを身体の共鳴を利用して拡大するという声の原理も変更できない。

 

われわれが意識的に行えるのは、身体の機構の微調整にすぎない。だから人間は、微調整の仕方を工夫すればよいし、それで十分なのだ。

 

あとは身体が自律的にやってくれる。身体の力にまかせればいいのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 06:42 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
自分の知られざる能力を信じて微調整せよ 「声の力」はその例だ その4

外国語を習得するときの難関のひとつが、発音である。日本では「発音は適当でもいい」といった意識がかなりあるようだが、これは大人が外国語の発音を習得できる方法が、まだ発見されていないことの反映である。方法がわからないから、「発音は適当でもいい」と思うしかなかったのだ。

 

そこで、まず上記の△量未任△襦自分の声を録音し、研究するという山さんの方法を、外国語に応用してみたらどうなるだろうか。すでに録音した自分の声を聴き、客観的に観察し、ベストの部分を自分で発見する。スポーツでいえば、ルールや定石が頭で「わかる」段階である。

 

山さんによれば、次に、録音して発見した自分のベストの部分を意識しながら、何度も自分の声を録音しては聴くという作業をする。外国語の場合なら、「我ながらいい発音だ」と思える部分を拡大し、くりかえすのである。スポーツなら、これは素振りや筋トレやセットプレーをやって「きたえる」段階である。

 

以上の「わかる」「きたえる」は、じっさいに「つかう」ための準備である。

 

そこで、いよいよ「つかう」のだが、これは上記の △弔泙蝓崑召里海箸傍い鬚箸蕕譴董⊆分の声のチェックは無意識化している」ようにするのがコツである。

 

「つかう」ときには、自分の声に気をとられるのではなく、話の内容に集中しているのが良い。たとえば、会話や演技や歌やゲームのような活動をして、表現する内容のほうに注意がいくように工夫するのである。

 

言語の意味の世界は、声そのものではなく、抽象的で非物理的な概念の組み合わせで成り立っている。言語の本丸は、音声ではなく自分が表現している意味のほうにある。とくに外国語では、意味の表現じたいに夢中になる体験をつくることが大事である。無意識につくる自分の音声を通して意味に没頭することが、「外国語体験」の真髄だからである。

 

これはスポーツの試合で、自分のフォームや動きをチェックしようとするのではなく、ボールに集中するほうがのびのびとプレーできるのと似ている。もちろんこれは、上記の△弔泙蝓屬錣る」「きたえる」の準備作業とペアになっての話である。

 

声は、自分でモニターしようとすればそれも可能であることを利用して、「わかる」「きたえる」をおこなう。そして、モニターしないで無意識化することも可能であることを利用して、「つかう」をおこなう。

 

このように声のメカニズムを利用し、自分の外国語を上達させるという方法が考えられる。

 

たとえば、小学校の英語の時間に、「わかる」「きたえる」を抜きにして、「つかう」ことばかりをやらせているケースがあるようだが、これは片手落ちである。

 

小学校でも自分の声を録音して、みずから「わかる」「きたえる」のプロセスを強化し、そのうえで、「つかう」活動に入ってみたらどうだろうか。こうして、じっさいに「つかう」うちに、もっと「わかる」「きたえる」をやってみたいという意欲も湧いてこないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 05:04 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
自分の知られざる能力を信じて微調整せよ 「声の力」はその例だ その3

話したいことを決めたとき、脳に浮かぶ「うっすらとしたテンプレート」とは、言語論でいえば自我が対象からつくった認識にあたる。認識は心のなかでつくられ、多少の形象性があったりもするが、多くは形のない、透明の雛形のようなものである。

 

この認識を、表現規範(こういう概念はこの音声で言うというルール)にもとづいて、言語の表現つまり声に変換する。これが「話す」ということである。

 

ここまでは常識である。重要なのは、こうして自分が発した声が、聴覚を介して自分に帰ってくるということである。自分の声を自分が聴くのだから、これは必然的に、じっさいの声と、はじめのテンプレート=認識とがうまく対応しているかチェックする機会となる。

 

ここで、二つの可能性がでてくる。

 

ひとつは、他のことに気をとられている場合である。このときは、自分の発した声は認識のテンプレートどおりになっていると、人は自動的にみなしてしまう。つまり声とテンプレートの相互チェックは無意識に行われるので、自分の発話が邪魔されることはない。

 

もうひとつは、自分の声に聴き入り、はじめのテンプレートにふさわしい声になっているか、意識的にチェックする場合である。このときは自分の声が気になって、とたんに話しにくくなる。

 

山さんの本は、△虜邏箸蓮⊆分の声をレコーダーに録音し、それを聴いてチェックすることで代用すべきだという。言いながら聴くのではなく、言ったあとで聴くという手段をとり、自分の声をもっぱら聴いて、そのなかのベストの部分を発見するのだという。

 

さてそこで、このような声の仕組みは、外国語の習得にも役立つと思うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 22:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
自分の知られざる能力を信じて微調整せよ 「声の力」はその例だ その2

人間の精神の大半が自律的だというのはどういうことか。それは声とどういう関係にあるか。

 

この本に、次のような説明がある。

 

 

 

「自分が話したいことを決めた時点で、人の脳にはうっすらとしたテンプレートが浮かび上がります。意識してもしなくても、です。それをそのまま伝えるべく声にするわけですが、自分の耳と聴覚を通して聴くと、脳に浮かび上がっていたテンプレートと重なって、大きなズレがあれば修正します。それが聴覚フィードバックでもあるのですが、聴覚フィードバックの働きは、他のことに身体や脳が使われていると、脳内のテンプレートが聴覚を補完し、あたかもテンプレートのとおりに話したと思わせるのです。」103頁

 

 

 

この説明はちょっと複雑で、わかりにくいかもしれないが、言語という精神活動の秘密に、生理的な角度から迫った優れた例と思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 07:16 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
自分の知られざる能力を信じて微調整せよ 「声の力」はその例だ その1

山広子『人生を変える「声」の力』(NHK出版、2017年4月)。

 

NHKの「こころをよむ」シリーズの一冊。この6月まで、第二放送で著者みずから解説もしている。

 

誰もが、声を発しながら人生を送る。人生とは声のことだ、といってもいいくらいなのだが、声は空気に似て、あまり注目されない。そういう「声」の重要さを解説した本。

 

私があらためて注目したのは、人間の身体は、大半が「自律的」だということ。このテキストに、こうある。

 

 

 

「脳や脊髄といった身体の司令塔はもちろん、胃や腸といった内臓も、身体の機能を調整する自律神経も意志では動かせません。代謝の速度を調整することも、体温を上げたり下げたりも、自分ではできません。自分の身体なのに、主導権は別のなにかが握っているみたいですね。しかしそれらが自律的に、緻密に動いてくれるから私たちは生きていられるわけです。」145-146頁

 

 

 

その通り。こういうことは、年令が高くなるにつれて、いっそう強く感じるようだ。

 

この事実から、「なんだ、自分で左右できるのはわずかなのか。それならがっかりだ」と思うのは、早とちりである。

 

身体の大半が自律的だということは、いいかえると、自分の調整次第で、身体という自律的な機構の働きが大きく変わるということである。

 

たとえば、車を運転する人は、自分が運転していると思っているが、車じたいは、社会的に製造された複雑な機械で、あらかじめ作られたものである。ドライバーは、この機械のルールにしたがって、その動きを調整しているにすぎない。だが、ドライバーによる調整は、車の動きを決定する。

 

この本は、声が、聴覚をはじめ身体のさまざまな機能を動員していることに着目し、「自分」が声を微調整するだけで、人生が変わるほどの変化が身体に自律的に起こるといい、その仕組みと方法を説明している。

 

このことから私が考えたのは、身体だけでなく、精神も大半が「自律的」なのではないかということである。私たちは、「自分」が考えたり話していると思っているが、じつはその作業の大半は、あらかじめセットされたものの調整で十分なのではないかと。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 07:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
英語の日付はどう読む? これで全部わかる。

英語の日付の読み方。わかっているようで、自信のない人も多いのではないだろうか。

 

まず、覚えておくといいのは、日付は歴史のなかで一回しかない、その日の個性を表す固有名詞だということである。だから英語で日付を書くとき、月や曜日のように大文字で書けるところは大文字にして、固有名詞として表現する。

 

ところで、英語の日付のおもしろいところは、「序数(◯番目)で書かない場合も、序数で読む」「theを書かないが、theをつけて読むことがある」ということである。

 

なぜそうなるのか。

 

日付は、人名と同じく、全体としてtheのない典型的な固有名詞である。ところが同時に、日付には「その月の◯番目の日」という認識もふくまれている。だからthe ◯th と序数で言いたくもなる。

 

そこで、日付は序数で書かず、theも書かないが、読むときは必ず序数として読み、はじめに曜日をつけたときは、日付にtheもつけて読んでいる。書き方と読み方でちがいをもうけて、うまく妥協しているわけである。

 

具体例を、私のトランス・グラマーの原稿から引用してみよう。文中に「原独体」とあるのは、無冠詞・大文字で表現する、典型的な固有名詞のことを言っている。φという記号は、無冠詞であることを表す。

 

 

 

 

 

日付は「ひと」が暮らしを営む人間的な時間概念であり、歴史のなかで一回しか現れない、その日の個性なので、無冠詞の原独体です。

 

なお、日は、「その月の◯番目の日」という意味なので、つねに序数として読むことに注意してください。

 

アメリカ式とイギリス式(UK のほかオーストラリアなど)とでは月と日の語順がちがいます。また、イギリス式では、声に出して読むとき、月の前に of をつけます。

 

アメリカ式でもイギリス式でも、年の前にコンマがあるのは、「同じ名前の月日は毎年あるが、どの年かというと…」というように、認識に揺れ(選択感)があることの表現です。

 

アメリカ式:

書き方: φMarch 30, 2018 または φMarch 30th, 2018

読み方:  φMarch thirtieth twenty eighteen

 

イギリス式:

書き方: φ30 March, 2018 または φ30th March, 2018

読み方:  φthirtieth of March twenty eighteen

 

 

 

これに曜日をつけると、アメリカ式でもイギリス式でも、日の読み方にtheが加わります。同じ曜日の日(例えばMonday)がいくつかあるなかで、「3月の30日目」という、特定の個性を選択したことを表すtheです。

 

曜日の後ろにコンマがあるのは、「同じ曜日のうち、どの日かというと…」という認識の揺れ(選択感)の表れです。

 

アメリカ式:

書き方: φMonday, March 30 2018 または φMonday, March 30th 2018

読み方:  φMonday, March the thirtieth twenty eighteen

 

イギリス式:

書き方: φMonday, 30 March 2018 または φMonday, 30th March 2018

読み方: φSunday, the thirtieth of March twenty eighteen

 

 

 

以上、イギリス式では表記にofがなくても月名にofをつけて読むこと、アメリカ式でもイギリス式でも、日は序数で書いていない場合も序数で読むこと、曜日が先だてば日にtheをつけて読むことに注意してください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 03:12 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
英語の大文字は個性の表現 日付はその日の個性だから、theがない

英語の文法をまとめた原稿を書き溜めている(「トランス・グラマー」という名前です)。これは私のライフワークのひとつ。

 

原稿を書いていると、ちょっとした英語の真実に気づくことがよくある。そのひとつは、

 

「なぜ英語の日付にはtheがないか?」

 

というもの。

 

日付は特定の日だから、the がついても良さそうである。しかし、実際には  "April 16, 2017"  のように、the なしで書く。それはなぜか。

 

これは案外と大事な英語の感覚の表れである。

 

答えは、こうである。

 

英語には、「個性は大文字で表す」という原則がある。いわゆる「固有名詞」である。

 

固有名詞が表す個性とは、「一回しか現れないもの」のことである。

 

例えば、人名は、一回しか現れない個性そのものを指すから、大文字で書く。駅の名前 Tokyo Station や、通りの名前 Fifith Avenue, 曜日 Monday なども大文字になるのは、それぞれに個性的で、「それがなくなったら、二度と同じものは現れない」という認識の表れである。

 

同様に、歴史の中でその日は一回しかない。すべての日付は、「固有名詞」なのだ。住所も、英語では大文字で書き、theをつけないが、それは居住地の個性を表しているからである。

 

ただ、日付のなかの数字は、大文字で書かない。だから、日付がその日の個性を表す「固有名詞」であることに気づきにくいのだ。

 

ちなみに、英語では文のはじめを大文字で書きはじめるが、これも「この文は、この文章のなかで、一回だけ現れる個性的なものだ」という感覚の表れである。

 

個性、つまり「一回だけ。二度と現れない」という認識は、大文字で表す。これが英語の感覚である。the FBI のように、theのつくタイプの固有名詞や、日付のように固有名詞と気づきにくいものもあるが、「一回だけ存在するもの=個性は、大文字で表記する」という英語の原則は一貫している。

 

これを覚えておくだけで、英語という言語の考え方が少しわかってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 20:57 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
『資本論』はあちこちに欠陥がある だから面白い

マルクスの『資本論』は、やはり魅力のある本だ。しかし、あまり

神聖視?しないほうがいいと思うこともある。

 

読み込んでいくと、重複があったり、構成がわかりにくかったりする。

欠陥もかなり目につくのだ。

 

たしかマルクスは、自分は『資本論』を後半のほうから書き始めたのだ、と

誰かへの手紙で述べている。ということは、誰もが読み始める第一巻は、

マルクスが後で書き足したものだということになる。

 

第一巻の内容は、彼がすでに経済学批判などで詳しく考察したことの要約だったり、

マルクスにとっては解決済みの初歩の概念の説明だったりする。

 

第一巻、とくに前半部分の執筆は、マルクスにとってはあまり気が進まない

作業だった。構成上必要だから書いておくけれど、あまり楽しい仕事ではない…

 

そういう淀んだ気分が、第一巻前半のスピード感のない叙述の雰囲気に

出ていると思う。

 

考えてみれば、ワープロもない当時の環境のなかで、あれだけ膨大な原稿を

秩序だてるのは大変な作業であり、叙述の重複や構成の欠陥は避けられ

なかったと思われる。

 

しかし、そういう欠陥があるからこそ、『資本論』は人間的な魅力を

放っているともいえる。読み手としては、そういう欠陥を心得ることで、

この名著からより深い知恵を汲み出すことができる。

 

そういう本でもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 19:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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