ごきげんようチャンネル



春ごとの花に心をなぐさめて 六十(むそぢ)あまりの年を経にける


西行

三浦つとむに欠けていたもの 道半ばだった『資本論』の言語への適用

言語学の三浦つとむ(1911-1989)の功績のひとつは、「自己分裂」という人の心の根本機構を、ずばり指摘したことにあった(三浦つとむ『日本語とはどういう言語か』講談社学術文庫)。

 

三浦つとむの影響を受けて「言語過程説」を名乗った人たちもいた。しかし「自己分裂」の論理を受け継いだ人は、ほとんどいないようである。言語過程説の鋭い論客であった英語学の宮下慎二(1947-1982)でさえ、自己分裂の論理を活用しなかった。

 

その原因はなにか。

 

「自己分裂」は、日常的な心的事実として誰もが思い当たるものの、この一見奇矯なロジックを、三浦つとむが言語学の基礎として、きちんと根拠づけなかったからであろう。

 

三浦つとむが気づいていたかどうかはわからないが、じつは自己分裂の論理は、「社会的平均的労働力」の発揮が抽象的人間労働であるというマルクスの論理を、言語に応用したものである。

 

労働力の発揮たる労働が人間社会の基礎であるのと同様に、観念的労働力の発揮たる自己分裂は、人間の思考の基礎である。労働と自己分裂=認識が同じロジックを共有していることを指摘すれば、自己分裂はきちんと根拠づけることができたのである。

 

自己分裂とは、

 

<自己(観念的労働力)が、物理的現実を超えて自由に作動(労働)して心内の対象を認識し、その認識を物質的に表現する(生産物を作る)から、人間は社会をつくれる>

 

ということである。

 

 

もうひとつ、三浦つとむの言語学に欠けていたことがある。

 

それは、なぜ認識から言語という表現体が生まれるか、表現体がなぜ意味となるかについて、まとまった説明をしなかったことである。<認識→表現→意味>についての三浦つとむの説明は、当時の論壇への対応に忙しかったせいか、舌足らずで終わったように思われる。

 

これも、労働の生産物が他の商品や貨幣と交換されるプロセスによって価値に変換されるというマルクス『資本論』の価値形態論を応用すれば、表現体が聞き手の労働力と交換されるプロセスによって意味に変換されるというロジックが見えてくる。

 

 

 

三浦つとむは、『資本論』をはじめとするマルクスの論理を言語学に応用できた、唯一の言語学者であったと思われる。

 

言語過程説は衰退したが、それは三浦つとむがマルクスの論理をとりいれようとしたからではない。逆に、マルクスの論理を正面から活用せず、言語のロジックをきちんと根拠づけなかったことが、言語過程説の衰退を招いたのである。

 

言語のような心的現象をあつかうには、堅固な論理を基礎にしなければならない。三浦つとむが始めた試みは、終わったのではなく、これから本格化すべきものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
概念は感覚ではない 人間は芯のところでは概念を生きている

意味論の専門家の話を聞いたら、人間の日常的な身体経験が英語の前置詞の元にあるということを力説していた。

 

これは近年流行の見方で、そういうことを図解した本もある。

 

この見方は言語の大事な面を言っていると思うが、言語観が浅いような気がする。

 

身体経験という感性的なものに関心がとどまりがちで、感性を超えて成立する概念に十分気づいていない。

 

 

...

 

 

マルクス『資本論』第一巻の価値論を読むと、似た展開になっている記述が何箇所かある。どれも、マルクスがあることをなんとかして説明しようとした部分である。

 

「あること」とは、人間が現実の対象を観察するときの感性と、人間にとっての商品の価値という、感性を超えて成立する概念の区別である。人はこの区別がなかなかできない。このことをマルクスは知っていたから、彼は『資本論』のなかで、くりかえし同じことを指摘したのである。

 

そうした記述の例をあげよう。

 

 

「たとえば、物が視神経に与える光の印象は、視神経それじたいの主観的刺激としてでなく、[人間にとっては] 目の外部にある物の対象的な形をとってたちあらわれる。」(マルクス『資本論』第一巻、ちくまコレクション版、111頁)

 

 

つまり、人間が受けとる光の印象は、身体の内部にあるというより、身体の外部にある「物と物との関係」として映る。これに似て、価値は人間の頭脳の産物、つまり概念であるのに、あたかも商品と商品のあいだに存在するかのように映る。人間の内で生じたものが、身体の外にあるように見えるということである。これをマルクスは「位置の取り替え quid pro quo 」と呼んだ(同上書、111頁)。

 

そして、ここからが肝心。

 

視覚の場合は、「光線が現実に [人間に] 投げかけられる物理的な関係」つまり感覚である。ところが価値という概念は、「生産物の物理的性質とも、物理的性質から生まれる物的関連とも、まったく関係がない」(同上書、111頁。太字は引用者)。

 

視覚は人間と、人間の外部との物理的・感性的な関係だが、価値は人間が内にもっている、感性から自立した規範、すなわち概念である。

 

同じく超感性的な「人間の頭脳の産物」の例として、「神」のような宗教的概念がある(同上書、111-112頁)。いったん「神」という概念を内にもった人間は、日々の感性的な出来事から自立した規範として、「神」を生きていく。

 

 

...

 

 

心理学の認知研究の影響をうけた現代の意味論は、人間の感性的な体験にうったえて言語を説明しようとする。これは魅力的な近道のようにみえるし、じっさい、たとえば英語の前置詞を直感的に習得するには、ある程度有用であろう。

 

ただ、言語の直接の規範は、感性ではなく概念である。「上」とか「空っぽ」とか「熱さ」のように、感性的な体験がベースになっている概念もある。「火曜日」とか「進化」とか「ビット」のように、感性的体験から離れた概念もある。

 

いずれにせよ、概念となれば、それはもはや感覚ではない。概念は五感とつながってはいるが、「人間の頭脳の産物」(マルクス)であり、超感性的な規範である。感覚ではないからこそ、概念なのである。言語は、感性を超越した概念によって成立する。

 

言語表現がもつさまざまな意味の背後には、概念がある。概念は、そのときどきの感性的現実から自立している。だからこそ、小さな部屋にこもって、壮大な小説が書ける。

 

現在流行の認知論的意味論については、このあたりを留保しておくといいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
英語のDNA:トランス・グラマーの体系図

「名詞」とか「動詞」のように、文法の説明でつかう概念(文法用語)は、普通の言語表現でつかう語彙を分類した概念、いわば<概念の概念>である。

 

トランス・グラマーは、この<概念の概念>の相互関係を探求して、ひとつの立体に組み上げた概念体系で、いわば<概念の概念の概念>である。

 

ただ、この立体的な概念体系を組み上げるには、従来の学校文法の概念では不可能であった。そこで、私は新たに<概念の概念>つまり文法概念(新しい文法用語)をつくり、相互に関係づけた。

 

トランス・グラマー(英語の概念体系)を図にしたものを下に掲げる。この図で内容がわかるわけではないが、<立体的な概念体系>とはどういうことか、イメージしやすくなると思う。


 

 

 

 

 

 

 

トランス・グラマー 全体編

 

https://note.mu/ymiura/m/m692d6f6108f1

 

 

 

こうした立体図で表せるトランス・グラマーは、英語という言語の最奥で作動する概念体系である。英語を話す人なら誰もが心内にもちながら、誰も意識しなかった仕組みである。英語のDNAのようなものといえばいいかもしれない。

 

言語学の専門家でもない私が、なぜトランス・グラマーを追求したかというと、歴史とは観念なので、観念の基盤たる言語の仕組みを探求すれば、学としての歴史学の基礎が固まるのではないかと思ったからである。史的唯物論を超える歴史理論をつくるには、人間の観念のあり方を、言語を素材にして探求するという遠回りが必要であった。幸い、言語論の基礎は、マルクス『資本論』に見出せた。

 

もともと私は英語に関心があったので、言語の一例として英語をとりあげることにした。いま思えば、英語を対象にしたのは正解であった。英語は、西洋哲学の<実体と属性>といった基礎カテゴリーを比較的忠実に表現する言語である。英語のDNAの解明は、西洋人だけでなく、人間が対象を認識する際の基本マナーを知る、良い素材となる。

 

さて、トランス・グラマーができたなら、次は歴史認識のDNA、トランス・ヒストリーを追求する順序である。

 

トランス・ヒストリーがどこまでできるか。それはまだわからない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 15:19 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
英語は名詞にはじまる

<実体と属性>は、アリストテレス以来の哲学用語である。

ギリシャ哲学の藤沢令夫(ふじさわ・のりお 元京都大学教授)氏によると、<実体・属性>の区別はアリストテレス(前384‐前322。日本の縄文時代末期の人)の『カテーゴリアイ(範疇論)』という書物にはじまる。

たとえば「この花は赤い」という表現において、「花」はさまざまの知覚的な属性(この場合「赤い」という性質)をもつ。その属性を支えまたは担う何ものか(基体)が「花」と呼ばれており、これが実体である。

「性質をもつその当のものと、そのものに所属する性質自身とが区別され、この区別が基準に据えられると、前者は独立して存在しうる<実体>であり、後者は実体に所属し実体に依存してはじめて存在しうる<属性>であるという考えが、そこから生まれてきます。」(藤沢令夫『ギリシア哲学と現代』岩波新書、1980年、36頁)

アリストテレスの「実体と属性のカテゴリー分け」(アリストテレスは10個のカテゴリーをあげている)は、じつはギリシャ語の品詞に対応しており、「実体」は名詞に、性質などの「属性」は形容詞や副詞・動詞に対応しているといわれる(村上恭一『論理学講義』成文堂、1998年、75頁)。

 

もしそうなら、<実体と属性>という哲学の認識は、言語の仕組みが起源である。このことは、人間が言語で思考する限り、対象は名詞(実体)としてとらえられ、それが動詞、形容詞(属性)をもつという理解をせざるをえないことを意味する。この結合がそのまま表現される言語もあれば、そうでもない言語もあるが、どの場合も対象は、人間にとって<実体と属性>の結合として理解されるのである。

 

だが、実体とその属性という概念が今日の文法で積極的に活用されているとはいえない。

たとえば比較的新しい一般向け英文法書によると、「名詞」とは「人、もの、事柄などを表す語」で、「形容詞」とは「人・もの・物事の状態や性質を述べる語」と説明されており、名詞とは「実体」を指すもので形容詞は実体の「属性」を指すことは、よほど注意して読まないとわかりにくい。(宮川幸久ほか編著『アルファ英文法』研究社、2010年、68、223頁)。他の文法書でもこうした説明が多い。

一般向けに「実体」「属性」などと説明するのは堅苦しいということもあるだろうが、近代の言語学が学としての独立をめざす過程で伝統的な哲学の概念を回避したことも原因のひとつであろう。これによって近代の文法は平明さを獲得したと同時に、理論的な基盤を喪失した面がある。

 

 

英語は、<実体と、その属性>という人間の普遍的な対象理解のマナーがストレートに表現される言語である。ゆえに、名詞すなわち実体を英語がどう認識し分類しているかは、英文法の最初の課題となるはずである。

 

トランス・グラマーが英語の名詞(実体)を重視し、詳しく分類しているのは、言語の普遍的な仕組みと、英語の特性からきている。

 

 

 

トランス・グラマー全体編

 

https://note.mu/ymiura/m/m692d6f6108f1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 08:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
シェイクスピアの顔と啄木の蟹

人の身体が他の生物の身体と異なるのは、みずからの観念を対象にした「自意識」すなわち「自分」を立ち上げることができる点である。どうして人は、「自分」という意識をもつことができるのか。その秘密は、「自己」の発生にある。

 

 

シェイクスピアが、うまいセリフを書いている。

 

 

 

「ブルータス、君は自分の顔が見えるか。」

「いや、それは無理だ。目は自分自身を見ることはないからね。反射によって、他のものに映すことで、自分の顔は見えるのだ。」

 

(ウィリアム・シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』)

 

 

 

人が自分を「反射」させる、鏡のような「他のもの」とはなにか。

 

それは、人の身体が自分を分裂させた自己である。この自己が自分の「鏡」になる。

 

 

自己と自分の関係を表現した例が、啄木にある。

 

 

 

東海の

小島の磯の白砂に

われ泣きぬれて蟹とたわむる

 

 

 

ここに登場する「蟹」は、啄木の「われ」(自己)からみた自分である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ドライブする自分は、自己をトンネルに差し向け、トンネルから自分の位置を知る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「自己分裂」(三浦つとむ)とは、正確には何なのか

<人間は自己分裂して言語をつくっている>と三浦つとむが指摘したことは、人間というものの理解にとって画期的なことだった(三浦つとむ『日本語とはどういう言語か』講談社学術文庫)。

 

「自己分裂」は、欧米の言語学には登場しない。「自己分裂」という概念をもたないために、欧米系言語学は言語の形式に目を奪われ、あいかわらず低迷しているといえる。

 

私のトランス・グラマーは、三浦つとむの「自己分裂」の概念なしには作れなかったのだが、この概念はいまひとつ明確性に欠けるところもある。ここでは、トランス・グラマーの立場から「自己分裂」をあらためて規定しておく。

 

重要なポイントは、「自己分裂」は多重だということである。

 

言語のトランスの主体は、自己である。自己は人が体内に抱く意識(自分)を表現するために、人間が自分から分離させるものである。自己は、経済学でいう「労働力」にあたる。言語の主体たる自己(労働力)は、自分の意識を客体として認識(労働)し、この認識を概念にしたがって表現する。このように、自分から自己が分離することによって言語は可能になる。これが第一の自己分裂である。

 

さらに、自己は文中の概念のなかに主体を設ける。これは自己が生んだ自己であるから、これを<自己’>と呼ぶと、文の主語は<自己’>を内包し、文をみずから組織化していく。むろん、これは元の自己の監督下においてであり、<自己’>は語彙上明示されないことも多い。だが、文によって観念世界が現実から自立するには、自己から<自己’>が分離し、<自己’>の活動によって概念が組織されていく必要がある。<自己’>は、文の終了とともに自己に帰還する。この<自己’>の活動が、第二の自己分裂である。

 

第一の自己分裂は、人間が目覚めているあいだ、常時作動している(いわゆる「自覚」)。第二の自己分裂は、人間が言語で表現するときに起こるものである(いわゆる「自己表現」)。

 

言語以外でも、人間はどちらの自己分裂も活用している。自己は、目覚めた人間において常時自分から分離して作動している(第一の自己分裂)。あるとき自己は、自分が抱いた風景の感性的認識を認識対象とし、スマホをとりだして撮影=表現する。このとき、スマホの画面内の主たる対象は、自己から分裂した<自己’>とみなされる(第二の自己分裂)。自己’は、他の対象に自己’’を見出し、関係を結ぶ。写された画像は、<自己’>が<自己’’ >とのあいだで組織したもののようにみえる。じつは、撮影者たる自己の存在は写真の対象や構図じたいに保存されている。

 

三浦つとむによる「自己分裂」の説明がわかりにくいのは、このような自己分裂の多重性がきちんと叙述されていないからだと思われる。

 

私のトランス・グラマーでは、「自己分裂」という用語は使っていないが、人間は自分から分離した自己が自分を表現するのであり、自己が意識のなかに<自己’>を設定することで観念世界を自立させる。この根本原理は、三浦つとむの「自己分裂」の概念を発展させたものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
感覚から概念へ 概念から感覚へ

たとえば英語の前置詞 over を理解するために、人間の身体感覚に訴えようとし、それを図解した本や辞書がある。

 

これは表向きには、視覚からover へ、つまり<感覚から概念へ>と上昇しようという戦略である。

 

だが、この上昇には裏側がある。じつは読者は、 over という概念が身体感覚でいえば何に似ているかを知ろうとして図解を見ている。つまり<概念から感覚へ>と下降しているのである。

 

実際の言語では、<感覚から概念へ>の上昇は、社会的におこなわれるプロセスである。感覚的体験を多くの人が音声・文字で表現しあうなかで、いちばんふさわしい表現が選択され、概念とその表現が社会的に確立する。

 

他方で社会のなかの個人は、人々が使う概念を自分の体験を通して次第に理解していく。個人は、<概念から感覚へ>と下降するのである。

 

社会の上昇と個人の下降が一体となって、言語は発達し、変化していく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
概念でつかめば共時態(ソシュール)の世界に入れる

ある言語の世界にすっぽり入る経験のことを、ソシュールは「共時態」と呼び、こう説明している。

 

 


「言語事象を研究してまず驚くことは、話し手にとって言語の歴史性 [通時態] は無関係だということである。それゆえ、この状態を理解しようと思う言語学者は、通時態を無視しなければならない。共時態は一つの視点、すなわち話し手の視点しか知らない。」(ソシュール『一般言語学講義』。ただし森田伸子『文字の経験』243ー244頁より要約して引用)

 

 


さすがソシュール先生、表現が非凡である。言語を体験するには、「話す主体の意識の中に入る」ことが必要だと(同上書243頁)。

だがそれは、多くの人にとってなかなかむずかしい。どうしてソシュール先生にはそれができたのか。

 

私の答え。そのコツのひとつは、表現体のむこうの概念をつかむこと。そのことに集中することである。それを母語でいえばどうなるかといったことは、概念をつかむのに役立つが、あくまで副次的なことである。概念そのものには音も形もない。概念に没入することだ。

 

たしか荻生徂徠は、中国の漢文をそのまま眺めて、古人の心に直入する読みが理想だというようなことを述べた。漢字が喚起する音も形も超えて、純粋な概念として古代人の文意をつかみたいということだろう。徂徠先生は、日本のソシュールであったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
主語とは、観念世界の自己である

概念が自己をもつ。

 

Jim thought, "I was wrong."

 

この文で、概念 Jim は、自己”I” をもっている。


 

人だけでなく、観念世界では物事も自己をもつ。

 

Oil flows on water.

 

ここではoil という物質概念が自己をもち、flows on water と展開している様が描かれている。

 

What he said was right.

 

what he said という「こと」が、この文の主体となって、was right と展開している。

 

さらに、

 

Jim thought, "She was wrong."

 

ここでは概念Jim が、she に自己があるとみなして、she が was wrong という展開をしていると thought している。

 

観念世界での自己が、話し手自身であることもある。その表現も”I” となる。

 

つまり主語とは、話し手の観念世界で自己をもつとみなされ、みずから展開していく主体である。主語になった概念はどれも自己をもち、自己を呼ぶときはみずからを”I” と呼んで、自分の意識内容を展開する。

 

The rabbit said, "I'm from Tokyo."

 

こうしてはじまる物語もある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
自己は”I” という衣装を着た女性のようだ

言語世界では、概念が自己をもてる。

 

She said, "I'm ready."

 

ここでは、概念(she)が自己(I)をもってトランスしている(自己超越して、みずからを""I'm ready." と表現している)。

 

だが、she の自己は、「私が自己です」とは名乗っておらず、 ”I”として登場する。

 

”I” といえば、この文の話し手の自己と同じ名前である。

 

つまり、自己が姿を表すときは、いつも”I” という衣装を着ている。

 

このシャイな女性のような自己が、たくさんの概念(たとえば登場人物)をつくり、それぞれの概念の自己がそれぞれに活動し、互いにからみあって、大長編小説を生み出すこともある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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