ごきげんようチャンネル


あきらけき かがみにあへば すぎにしも いまゆくすゑの こともみえけり

         大鏡


ロミオとジュリエットを殺した詩型という思想

シェイクスピアは、チョーサー以来の古い詩型を利用してロミオとジュリエットの一部を書きあげている。このことについて、次のような解説があった。

 


「シェイクスピアは... 詩の表現を余裕をもって楽しんでいる。その楽しみの余裕、自信満々の余裕は、対象に十分な距離を置いた異化の態度に通じるだろう。…

ロミオとジュリエットではセリフ以上に詩法そのものが戯曲のアクションを推し進め、主題を批評する思想となる。それがシェイクスピアの詩法のおそろしさだ。」

(大場健治編訳『対訳・注解研究社シェイクスピア選集5 ロミオとジュリエット』研究社、2007年1月、xvii頁)

 

 

この文が言わんとしていることは、私の注意を引いた。

若いロミオとジュリエットは、すれちがいの末に、二人とも自殺してしまう。シェイクスピアはこの悲劇の物語から「十分な距離を置」き、韻の美しさを駆使した詩法によって若者の愛という「主題を批評」しえた。

いわばシェイクスピアは、詩型という形式=思想によって、「余裕」をもってロミオとジュリエットを殺したのである。まことにシェイクスピアは、詩型を「思想」としえた天才であった。

この洞察は、次のマルクスの言葉を思い出させる。

商品の発展は、矛盾を止揚しはしないが、矛盾がそれにおいて運動しうるところの形態を創造する。かくのごときは、総じて現実の諸矛盾がみずからを解決する方法である。」(マルクス『資本論』第一巻第一篇第三章第二節a商品の変態)

たとえば社会の矛盾は、国会の議席数という「運動しうる形態」によっていったん「みずからを解決する」。

英語の文型もまた、認識が表現によって実現し解決される「形態」である。

 

五・七・五の俳句も、認識が形式を得ることによって現実を超えている。

 

形式が内容を止揚する。形式こそ内容を超える力をもつ思想である。

 

 

 

 

※追記:ヘーゲルは、「ロミオとジュリエット」を「形式と内容とが完全に浸透しあっていない」例としてあげている(ヘーゲル『小論理学(下)』岩波文庫版、62頁)。「その内容は、かれらの家族間の不和によってひき起こされた二人の恋人の破滅であるが、これはまだシェイクスピアの不滅の悲劇ではない」と。(同書、62頁)

 

たしかに、「ロミオとジュリエット」はシェイクスピアの劇作として最高峰というわけではないだろうが、本文に書いたように、この作品のなかの詩の形式が物語の内容をしのぐ思想の域にあったとすれば、これはこれで「形式と内容が完全に浸透しあった」例なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
絵画・象徴・記号・動痕・音楽 この序列は覚えておくといいかも

人間はみずからの認識を、象徴・記号・動痕で表す。

 

象徴は、それ自体意味をもちながら、抽象的認識に対応する感性的素材。天皇の形姿で「日本国」を表すなど。

 

記号は、それ自体意味をもつわけではないが、認識に対応するものとして人間が指定した感性的素材。「オーケー」という認識を、指を丸めて表すなど。

 

言語の表現態は、人間の身体運動の痕跡(動痕。音声・文字・身ぶりなど)をもちいており、それらはなんら固有の意味をもたない究極の記号である。動痕は、いったん社会に定着すれば全成員が使用でき、認識内容も全員に伝達できる(言語の普遍的表現力)。

 

象徴 ー 記号 ー 動痕

 

これが表現態の序列である。この序列では、左のものほど具象的で表現に手間がかかり、概念的に正確に理解できる人も限られてくる。象徴から左に外れると画像、デザインとなり、さらに絵画へとつながる。逆に、この序列を右に拡張していっそう抽象化すると、音楽となる。

 

これらを組み合わせて、人間は高度な表現態をつくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
言語は現実世界を反映しつつ、現実世界から人間を独立させる

名詞に男性・女性・中性といった性別がある言語がある。

 

現実の存在に性別はないことも多いから、文法上の性別は、言語世界の独立性の表れといえる。

 

音素や字素のような動素も、言語世界の独立性を表す(動素とは、音素や字素は身体運動の軌跡であるところから、私が名付けた語)。

 

動素は人体器官のあり方を反映しているが、いったん確立した動素は独自の規範となって、その社会に住む人々の身体運動を規定する。現実世界とは似ても似つかぬ動素の組み合わせによって、人間は現実世界を認識し観念を伝達する。

 

現実世界の実態は言語に反映するが、言語世界は独自の独立性をもっている。言語が独立性をもつことによって、人間たちは現実世界から相対的に独立することができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
英語の名詞はなぜ三種類?

<英語の心>の仕組みを述べたトランス・グラマー。

 

 

https://note.mu/ymiura/m/m692d6f6108f1

 

 

そこでは、英語の心の中核をなす統体(いわゆる名詞)は、複数の要素の統合の仕方によって、三種類に分けられる。

 

 

 

 構造体 対象の構造の種類すなわち構造性と、その機能を体(たい)概念化したもの。構造性は、体の内部の空間的な関係。例: ball, dictionary

 

 反復体 対象の反復(始→中→終)の種類すなわち反復性と、その特性を体概念化したもの。反復性は、体が自分自身ともつ時間的な関係。例: song, trip

 

 分類体 対象の分類上の種類すなわち分類性と、その相対的特徴を体概念化したもの。分類性は、体と他の体との超時空的(時空超越的)な関係。例: red(種), color(類)

 

 

 

体がこの三種類になる根拠は、空間的・時間的・超時空的という、実体世界のあり方である。

 

これら三種類は、互いに重なりうる。構造は反復し(何度も現れ)、分類もできる。反復は構造(始→中→終)をなし、分類もできる。分類されたものは反復でき、構造をなすこともある。

 

構造体・反復体・分類体という切り口によって、集体(集合名詞)・独体(固有名詞)・物体(物質名詞)という特殊化した統体(特体)が派生する根拠も明らかになる。英語の統体は定形性(対象の「まとまり」という属性)が元になっていること、ゆえに a(n), -s, the という冠詞類と容易に親和性をもてることもわかってくる。

 

上記の三種類は英語についていえることではあっても、他の言語については不適切かもしれない。

 

ただ、上記の J類体 は、すべての言語にあてはまる。一般に、概念は対象の種類による分類であり、体(名詞)以外の概念もすべて種類のちがいを元にして成立するからだ。

 

だから日本語の統体は、J類体から出発して、そこから英語とは別に細分しなおすのが適切かもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
自己はどこにいるか

主語らしきものがなくても平気、冠詞にあたるものもない。そういう言語を母語とするわれわれが、そうでない言語を習得するには、それなりの構えが必要になるだろう。

 

英語を数年やった学生が、

 

egg is white.

 

などということがある。教室で冠詞を軽視しているからだが、冠詞が身につかない原因の根は深い。

 

そもそも言語は、自分の心を表現するために自己というものを分離させ、自己に自分の心を表現させるという自撮りの仕組みで成り立っている。

 

いわば、自己がスマホになって自分を撮影するのだが、このスマホは居場所を瞬時に変えられる。自分の外にもいられるし、自分の心の中の対象の位置にいることもできる。

 

日本語では、自分の心の中の対象(主語にあたるもの)の位置にスマホをおき、そこからみた心の光景を直接表現することが多い。「好きやねん」と。ところが英語では、自分の外にある自己の位置から、自分の心を客観的に描く目線が基本になる。客観的な様子を外から表現するので、英語では主語があるのが普通になる。"I love you."

 

日本語が、動くカメラから見た光景を直接描きがちだとすれば、英語のほうは、じっとしている画家の位置から観察した絵画のような性格をもっている。

 

冠詞も、英語が画家的な目線をとることの産物だといえる。

 

egg is white.

 

これだと絵としての客観性に欠ける。

 

An egg is white.

The egg is white.

 

のようにすると、独立した一枚の絵らしくなる。

 

冠詞を忘れない感覚は、自分の外に自己を維持し、画家が絵を描くような構えをとることで身につく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
<主語の謎>は心のスマホで解決

英語ネイティブに、「日本語では主語を言わないことも多い」といったら、はじめは驚くかもしれない。

 

だが、日本語だけでなく、主語らしいものをとくに言わない言語は少なくない。

 

主語がある言語と、主語らしきものがない言語。<主語の謎>は、言語学の基本問題のひとつだ。

 

そしていまや誰もがスマホを持ち歩き、動画まで撮れるようになって、ようやく<主語の謎>が誰にも合点できる時がきた。

 

 

話し手の心には、いろいろなものが浮かぶ。だが話し手は、身体をもったまま自分の心のなかには入れない。

 

そこで、こうする。

 

話し手は、心のスマホを用意する。そして、それを自分の心のなかにある誰かに渡す。もちろん、これは観念上の想定だ。

 

するとその「誰か」は、話し手の心のなかのものを撮ってくれるだろう。

 

たとえば英語なら、心のなかの ”I” に心のスマホを渡す。”I”は、"love" といいながら"you" を撮影する。この様子は、

 

 

"I love you."

 

 

という画像になる。これを you に送信すれば言葉になる。

 

日本語なら、心のなかの自分に心のスマホを渡し、こうつぶやいているところを自撮りして、送信する。

 

 

「ほれてんねん」

 

 

 

"I love you." のように、誰が(主語)、何をどう撮っているかをいちいち言う言語もある。「ほれてんねん」と、動作や心情を中心に表現する言語もある。

 

話し手が誰に心のスマホを渡し、何を撮影させているか。その様子を客観的に表現する言語と、誰が撮影しているか(主語)よりもむしろ、撮影した画像の内容を中心に表現する言語のちがい。

 

どちらにせよ、心のスマホのおかげで、われわれは自分の心のなかを撮影できるし、撮れたらそれを人に送ることもできる。

 

心のスマホの原理は、どの言語でも同じだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
心をつくる秋のはつ風

少し秋めいてきた。

 

 

おしなべて ものを思はぬ人にさへ 心をつくる 秋のはつ風   

 

西行法師   新古今和歌集 巻四 秋歌上 299

 

 

自己が風を対象にして「秋のはつ風」という認識をつくり、その過程で自分の心がつくられていくことを実感した歌。

 

 

さて、「秋のはつ風」が来ると、心はもの思いに乱れ、心がなくなってしまうかのような「心づくし」に至る。

 

 

木の間より もりくる月の影見れば 心づくしの秋は来にけり   

 

よみ人知らず    古今和歌集 巻四 秋歌上 184

 

 

風に心をつくり、月に心をつくす秋。

 

こういう歌を読んでいると少し心が深くなるように思うのは、自分が日本の風土のなかにいるからか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 06:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
心のサランラップ

「サランラップ」は、誰でも知っている台所商品。旭化成のロングセラー(1960年発売)。

 

この製品のマーケティング担当者が、サランラップがかかえる「最大の課題」を、こう書いている。

 

 

「カテゴリー的に関与度が低く、ラップとして一般名称化してしまい、ブランドとして認知されないこともある中で、いかにしてサランラップに興味を持ってもらうきっかけをつくるか」(『宣伝会議』2018年9月号、15頁)

 

 

微妙な内容をうまく表現していて、感心した。

 

「カテゴリー的に関与度が低い」というのは、台所にラップがあるのは当たり前になっており、ラップというカテゴリーじたい、「なくてはならない」という積極的な感覚に欠ける、という意味なのだろう。そういえば、あれは透明で味も匂いもなく、存在感が薄いところがある。

 

だがラップは、雑多な食材をなんでも「ひとまとまり」にできる優れもの。

 

我田引水だけれど、英語の概念を「まとまり」ごとに仕分けしたトランス・グラマーは、いわば英語のサランラップ。私がいま取り組んでいるトランス・ヒストリーは、人間社会の「まとまり」を仕分けした歴史のサランラップ。

 

 

https://note.mu/ymiura/m/m692d6f6108f1

 

 

一般に、ものごとをまとめている基礎的規範は、存在に気づきにくい。サランラップのように、「カテゴリー的に関与度が低」いのだ。

 

この文の最後に、いかにしてサランラップに興味を持ってもらう「きっかけをつくるか」が課題だと表現しているところも、マーケティングのプロらしさが現れている。

 

サランラップに興味をもってもらうというより、興味をもってもらう「きっかけ」をつくること。マーケティング担当者がやるべきことはそれなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 09:12 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
あっけらかんと無理論の「学問」たち

大学にいると、人間の精神活動をあつかう人文系の学問の発表を聞く機会がある。

 

そういうとき、しばしば感じるのは、理論の不在である。

 

私の若いころ、「あれはクソ実証だね」という批評の言葉があったことを思い出す。まだあまり調べられていない部分を見つけ、その事例を調べて列挙し、結果を整理すれば論文になる、という研究態度のことである。

 

このごろは、ほかになにがある? と言わんばかりに、堂々と「クソ実証」に走る研究者が増えたように思う。

 

こうなったのは、かつて面倒な理論をふりまわした時期があり、もううんざりだということもあるのだろう。学界が学芸会化して、きちんと批判しあう雰囲気がなくなっていることもあろう。あるいは、外国(白人国家)の研究がそういう風潮だというので、真似しているのかもしれない。

 

たしかに、実証をしない研究者、実証の方法を知らない研究者では困る。だが、データを集めて整理するだけなら、ただの調査員ではないだろうか。好きなことを安易な方法でやっているだけなら、ただのオタクではないだろうか。

 

これはおそらく、人文系の学問に、めぼしい理論も、強い存在理由もなくなったことを示しているのだろう。

 

徹底した実証を裏づける、烈々たる目的意識が欲しいと思うが、現状では、ないものねだりらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
概念は人間にとって実在する

概念とはどういうものか。

 

それをイメージするひとつの方法は、数学である。

 

2x - 1= x + 3

 

という式があったとして、この x や数字や等号が表しているものは色も形もないが、思考の対象にできるし、移動もできる。

 

y= x - 1

 

という関数なら、x も y も変化しながら相互に関係しあっている様子が思考できる。 

 

移動でき、変化し、関係しあうもの。それは人間の思考にとって実在するものである。

 

ハイゼンベルクは、

 

「ミクロの世界では、物質は数学的対象のようなものになる」

 

と着想して、量子力学を切り開いた。

 

彼は、運動するミクロの物質を、確率的な波動、つまり数学的対象としてとらえたのであった(小島寛之『算数の発想』NHK出版、2006年、21-22頁)。

 

記号やミクロの物質を、人間は数学的概念としてとりあつかうことができる。

 

同様に、生物イヌを、人間は概念「イヌ」としてとりあつかうことができる。概念「イヌ」は、数のように移動でき、変化し、他と関係しあう。

 

概念は、人間の思考にとって実在する。

 

このことを若いうちから理解しておけば、人間を理解することに役立たないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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