ごきげんようチャンネル


みにつもる ことばのつみも あらはれて こころすみぬる 三重(みかさね)のたき

   『山家集』1118

遊女言葉と兵隊言葉 一石二鳥の発明品

兵隊をやらせて下手な男優はおらず、遊女をやらせて下手な女優はいないという。

 

これと呼応するかのような話が、言葉にもある。

 

軍隊では、命令や伝達が口頭で行われることも多く、聞いただけで誰もが一律に理解できる必要があった。ふだんの地方語を超える画一性と、軍隊らしい厳格さが求められたわけで、そのためにも堅苦しい漢語が日本軍では大量に作られた(安田敏朗『「国語」の近代史』中公新書、41-42頁)。「〜であります!」のように語尾を硬い表現で統一することも、近代日本で軍隊言葉を普及させるのに効果的だっただろう。

 

遊女の言葉も、つくられた言葉であったという指摘がある。

 

 

「遊女は『オザンス』『ナンス』等の特徴的な遊女語を用いるが、これは、遊女が地方や下層階級の出であることも多く、本来の言葉遣いを簡便に隠すための人工的な言語であった。そこには、上品さ、優雅さを演出するための上方語的な要素も加味されていよう」(木田章義編著『国語学を学ぶ人のために』世界思想社、2013年、24頁)

 

 

どこの言葉でもない語尾表現をつくりだすことで、遊女の出自を消去し、同時に艶っぽい新価値を創出したのだろう。いわば一石二鳥である。

 

舞妓の言葉についても、似た話を聞いたことがある。いかにも京言葉に聞こえる舞妓の語りは、入門者の地方なまりを消し、客に特別感を与えるために教えこむ独特の言語であり、京の人々の日常語とはちがっているという。

 

 

兵隊、遊女、舞妓。

 

 

それだけではない。近代国民国家という観念世界をつくるため、明治の言文一致体や標準体による「国語」が創出されたが、その背後にあったのは、<新表現による普遍性の創造と個別性の消去>という一石二鳥のロジック(弁証法でいう直接的統一)であった。近代国家では、全ての国民が<標準>を身につけることで、<特殊>を喪失していく。日本では、そのときのポイントは、新漢語の普及と語尾表現の統一であった。

 

NHKで見事な標準語?を話すアナウンサーがいた。てっきり東京出身だと思っていたら、じつは京都出身だと聞いて、ほんとうに驚いたことがある。そういう「隠れ地方者」のアナウンサーは、けっこういるらしい。入局後にアナウンサー志望者におこなわれる「NHK語」の訓練も、全国標準を身につけさせることで出身地の形跡を消去する。一石二鳥である。

 

英語のような有力言語の簡易版(たとえばグロービッシュ)や中立版(たとえば「国際英語論」)が、それぞれの母語の違いを物質的・観念的に消去しつつ、国際的な意志疎通を容易にするものとして正当化されるのも、<標準をつくって学ばせることが特殊性を消し去ることになる>という一石二鳥である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
われわれは ”I” の一例にすぎない

人間の認識力は、はじめに「話し手」という概念をたちあげる。

 

意識のなかの話し手を ”I” と呼び, その他の認識対象を O と呼ぶと、

 

 

”I”   →   O

 

 

という関係になる。この関係を認識している認識力を P と呼ぶと、

 

 

”I”   →   O

    ↑

    P

 

 

のようになり、この関係を規律する概念=規範を n (norm) と書くと、

 

 

”I”     O

   ↑ ← n

   P

 

 

のようになる。

 

認識力 P からみると、P は ”I” と同一とみなせることが多いので、”I” とは、もっぱらこの私=P のことだと思いがちだ。

 

じつは、P は ”I” でありうるもののうちのひとつにすぎない。

 

このことは、視点を換えて、 ”I” のほうから見ればわかる。

 

たとえば、He said, "I am tired." という文で、 ”I” は he であって、話し手 P ではない。

 

現実の世界に住まう P よりも、言語の世界の ”I”  のほうが広い。

 

われわれは、”I” とは「話し手」を指す一般概念であることに、なかなか気づかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
言語表象(音声・文字)は、感性的側面と超感性的側面の相互浸透である

音声・文字は、概念の表象(「直感的に浮かぶ感覚的な心像」日本国語大辞典)である。表象は、次の二つの側面をもつ。



音声・文字は、人間の身体運動が生む感性的形式である。

 

音声・文字は、概念と結びついた超感性的形式である。

 


構造言語学が音声の要素である音素をもっぱら感性的特徴によって分類しようとしたり、音声学が音素の物理的特徴を解明しようとしても、困難が立ちふさがる。

その原因は、音素は人間身体の感性的形式=動素のひとつだから、たんに物理的音響としてではなく、身体運動の規範として見なければならないし、同時に、音素は概念と結びついた超感性的な存在でもあるから、感性的特徴だけでは全体が解明できないからである。

 

そして音声と文字は、互いの性質を受け取ることでつながりを深め、かつ互いの独立性を失わない。こうしたウィン・ウィンの関係を、相互浸透と呼ぶ。

 

音声・文字の感性的側面が整備されると、音声・文字が表す超感性的な側面(概念)も洗練されやすい(相互浸透)。

 

言語学は、こうした複合的な相互浸透の発展の様相を研究しなければならない。


 

 

 

 

 

 

 





 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
言語世界が独立するロジック 認識から概念へ、概念から表象へ

リンゴの色や形などの感性的側面は、個体ごとに異なる。すなわち特殊性をもっているが、赤いとか丸いとか酸っぱいなど、すべてのリンゴに共通する属性も存在する。

その種類に属するすべての物事に共通する属性を、「普遍性」という。人間は、こうした普遍性を認識する力をもっている。

<対象の普遍性=種類としての側面をとらえた認識>という特殊な認識を、「概念」と呼ぶ。概念は抽象的な人間の心のあり方なので、それじたいには音も形もない。

この抽象的な概念を、それに対応する日本語の音声や文字で表現すると、「リンゴ」という語になる。

 

いったん「リンゴ」という語を覚えた人は、丸くて赤いものを認知したとき、個々の感性的な特殊性を止揚しつつ認識をつくり、心内に保存していた普遍的規範=概念にあてはめて、「リンゴ」と語る。このとき、リンゴという語の音声や文字は、もはやもとのリンゴとはかけ離れている。

もとのものとは似ても似つかない音声や文字、つまり身体の運動によっていつでも表現できる要素(動素)の集まりに変換できるからこそ、私たちは対象が目の前になくても、語を操作することで概念を操作し、自由に思考したり表現したりできる。

 

こうして言語の世界が現実の世界から独立する。

 

人間の普遍性認識力は概念(内容)をつくるが、概念には感性的形式が欠けており、操作・表現がしにくい。この限界(矛盾)を突破するために、概念はみずからの形式たる表象(音声・文字)をつくる。概念と表象が言語規範となり、それにのっとってわれわれは肉体をうごかし、言語という表現をつくる。こうして、言語の世界が現実の世界から独立する。

 

 

 

 

 

...

 

 

【資料】

 


「音韻とは音声の、言語規範によって規定された種類としての側面である」(鈴木覚「関係詞論」横須賀とし子『胸中にあり火の柱 三浦つとむが遺したもの』明石書店、2002年、179頁)

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
言語は動素からなる アメリカ手話から抽出されたケリーム chereme について

アメリカ手話研究の先駆者ストーキー(William C. Stokoe, Jr, 1919-2000)は、「動素」という概念を作ったことで知られる。

 

「動素」の原語は chereme(ケリーム)。ギリシャ語で手を表すcheir ーカイロプラクティクchiropractic の chiro- と同源 ー と、単位を表す接尾辞- emenの合成語である。音声言語の音素を phoneme と呼ぶのを真似たのだろう。

1950年代、アメリカ手話がまだ独立した言語として認められていなかったころ、ろう者のための大学として知られる Gallaudet University の英語教師だったストーキーは、アメリカ手話に音素にあたるものがあり、それは55個の動素 chereme であることをつきとめた。

この発見により、個々の動素に記号を与えることで、アメリカ手話を紙上に表記することもできるようになった。(以上は、原大介「手話」、今井邦彦編『言語学の領域II』朝倉書店、2009年4月所収、77‐79頁より)

 

 

音声と文字も、手話と同様、人間の身体運動が元になっている。

 

言語の表現手段は、元をただせば人間の身体の秩序だった運動。

 

音声・文字・手話の概念形式上の要素を、ストーキーの用語を借りて、「動素」と総称できそうだ。

 



 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
言語は物理現象ではない

音響音声学 acoustics of speech には、「音響的不変性の欠如」といわれる問題(ナゾ)が存在するという。

たとえば、di, de, da, du のように、dにいろいろな母音をつけて発音しても、人間はdの音をすべてdとして聞き取る。ところが、これらの音をスペクトログラフ(音響の物理的特性の形態的表示)でみると、dの部分のかたちに共通点が見出せないのである。

いったい、どこにdの音の手がかり(acoustic cue)が隠れているのか?

この問題は、「音響的不変性の欠如の問題」と呼ばれ、いくつか有力説があるが、いまだ決着がついていないという(ジャック・ライアルズ(今富摂子ほか訳)『音声知覚の基礎』海文堂、2003年10月、32-34頁)。

 

これは、物理の世界と観念の世界を混同することから生まれる、偽(にせ)の問題(問いじたいに錯誤があること)だと私は思う。

 

マルクスがくりかえし注意したように、商品の「交換価値」のような、人間の社会的ふるまいから人間がつくる観念内容は、物理的に検出できない。

 

 

「交換価値は、物に費やされた労働を表現するための、ひとつの限定された社会的作法であるのだから、為替相場と同じく自然的素材をまったく含むことはできない。」(マルクス『資本論』第一巻初版、筑摩書房版マルクスコレクションIII、2005年、321頁。太字は引用者)

 

「これまでのところ、交換価値を真珠やダイヤモンドのなかに発見した化学者はひとりもいない。」(マルクス『資本論』第一巻初版、江夏訳、322頁。第二版では大月文庫版(岡崎訳)154頁)

 

 

よく知られているように、どの音響が言語の音素とみなされて意味の区別に貢献するかは、言語によってちがう。多くの言語では、m, n, ng の三つは異なる音素だが、日本語の「ん」は、 m, n, ng のどの調音で言っても語の区別に関係がなく、同じ音素とみなされる。これは、文字の形態がかなりの変異を許すことに似ている(たとえば楷書と草書)。

 

面白い例は、日本で使われていた変体仮名である。変体仮名では、「阿」と「悪」のように、視覚上はまるでちがう文字が、同じ読み「あ」となる。

 

また、「調音結合」と呼ばれる人間の音声知覚の特徴も発見されている。

「人の聴覚には、スペクトルの動きの情報からその動きの目標値(ターゲット)を自動的にとらえる能力があり、目標値に実際に到達せずに次の音の目標値に向かって動いていても目標値としての音が聞こえる」というのである(古井卓熙『人と対話するコンピュータを創っています 音声認識の最前線』角川学芸出版、2009年2月、62頁)。
 

こうしたことから類推すると、物理的には共通性がない音響でも、周囲の音環境によって、言語上は同じ音素とみなされうる。

 

「音響的不変性の欠如」は、物理的には謎でも、言語という観念現象としては謎ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
聞く/読む・話す/書く 言語の四つのトランスは相互浸透する

四つのトランス▽の関係は、次のように描ける。

 

 

 

 

   聞く  ⇆   話す

                       

    ↖      ↗

   ⇅     概念・表象     ⇅

    ↙     ↘

 

   読む  ⇆   書く

                       

 

 

 

 

四つのトランスは、真ん中の言語規範(その内容が概念、形式が表象)を媒介にして、相互浸透の関係(たがいに高めあう関係)にある。

 

ここでは、ふたつの点に注目したい。

 

ひとつは、 <聞く・読む>のトランス(上図左側の二つの▽)と、<話す・書く>のトランス(上図右側の二つの▽)では、性格がちがうことである。

 

<聞く・読む>のトランスの主体は認知力・対応力であり、転態の仕方は対応(等置の一種)である。<話す・書く>のトランスの主体は認識力・表現力であり、転態の仕方は表現(変換の一種)である。

 

既存の言語学は、おもに<読む>トランスが生む言語の意味という現象を解説してきた。言語学は、論文や書物という表現態に頼って発達したために、文字で書いた語や文を分析対象にすることが多く、いきおい、<読む>トランスが主題になったからである。

 

<読む>トランスが生む意味(現象)の解説は、<聞く>トランス、<話す>トランス、<書く>トランスと関係があるが、これらの直接の解明ではない。日本の英語が<読む>段階を超えて、<聞く><話す><書く>能力まで要求されるようになったとき、学校英文法のような<読む>ための規範の限界が見えてきた。

 

もうひとつは、 四つのトランスを媒介する要(かなめ)は、言語規範すなわち概念と表象だということである。

 

表象は、有限の要素(概念がとる形式の要素)に分解できる。文字・音声の要素を字素・音素と呼ぶと、字素・音素は人の身体運動の軌跡であるから、これを動素(私の造語)と呼ぶことができる。

 

言語では、字素・音素という動素を相互浸透させる力が充実すると、<読む>と<聞く>がいっそう相互浸透する。<読む>と<話す>、<読む>と<書く>も同様に、相互浸透する。これらの表象の相互浸透が、概念の習得を助ける。

 

ここに、つづりと発音の結合的習得が重要となる、深い理由がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
なぜ描線が言語になるか <書く>トランス

書き手は自分の意識を認識する能力=認識力をもっており、その認識を、表現のための規範(概念・表象)にもとづく表現力によって、描線として表現する。

 

 

 

 

 

 

 

              【 <書く>トランス 】

 

 

 

        文字(描線)    ←  表現  ←   意識

 

            ↘          ↗

                                       意味      規範  認識 

              ↘    ↗

 

               認識力・表現力

 

 

 

 

 

 

 

<書く>トランスは、<話す>トランスと同じく、変換の転態を用いる。書き手は、自分の意識を筆記具をもった手の動きによって、ものの表面に描線を残す。

 

 

しかし、描線をつくっただけでは、それが伝えたいものが他人に伝わるか不明である。この矛盾(限界)を突破するには、書き手の認識と同様のものが読み手に喚起できるか、実践してみる(読んでもらう)ことになる。このとき、描線は文字として放出される。文字を認知した読み手が生成するトランスが<読む>トランスであり、書き手は、読み手の反応ー読み手がつくる表現態ーを認知し、その認識によって規範を洗練させる。

 

<書く>と<話す>が規範上対応していると、文字を音声に、音声を文字に直接変換できる。これは便利でもあり、文字と音声の力をともに高めることになる(相互浸透)。この場合、言語力には音声と文字を対応させる能力が含まれることになる。

 

なお、絵画によって感覚・感情・概念や深い思想まで伝えることができるのは、絵画的規範にのっとって放出された描線色彩は、同じ規範を共有する鑑賞者にとっては作品として認知の対象になり、画家の認識が鑑賞者に伝達されるからである。その絵画がどのように評価されるかは、画家の画力と鑑賞者の認識力に依存する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
なぜ音響が言語になるか <話す>トランス

話し手は自分の意識を認識する能力=認識力をもっており、この認識を、表現のための規範(概念・表象)にもとづいて音響として表現する。

 

 

 

 

 

 

              【 <話す>トランス 】

 

 

 

        音声(音響)   ←  表現  ←   意識

 

            ↘          ↗

                                       意味       規範  認識

              ↘    ↗

 

               認識力・表現力

 

 

 

 

 

 

<話す>トランスでは、主体が話し手の認識力・表現力であり、転態の方式が「表現」(変換の一種)である。

 

自分の身体で音響をつくっただけでは、自分の意識についての認識が他人に伝わるかどうか不明である。この矛盾(限界)を突破するには、話し手の認識と同様のものが聞き手に喚起できるか実践してみることになる。このとき音響は言語音声として放出される。これにより、聞き手に生成されるトランスが、先述した<聞く>トランスであり、話し手は聞き手の反応ー聞き手がつくる表現態ーを認知し、それに対応する認識によって規範を洗練させる。

 

なお、音楽によって喜怒哀楽や深い思想まで伝えることができるのは、音楽的規範にのっとって放出された音響は、同じ規範を共有する聞き手にとっては楽音として認知の対象になり、音楽家の認識が聞き手に伝達されるからである。その音楽がどのように評価されるかは、音楽家の認識力・表現力と、聞き手の認識力に依存する。

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
なぜ音声を聞いて意味がわかるか <聞く>トランス

なぜ人間は、言語の音声を聞くと、その意味がわかるのだろう。

 

その仕組みは、<読む>トランスと基本的に同じである。

 

 

 

 

 

 

              【 <聞く>トランス 】

 

 

 

          認識       ←  対応   ←   音声

 

            ↘          ↗

                                       意味      規範  認知

              ↘    ↗

 

              認知力・対応力

 

 

 

 

 

 

<読む>トランスで「文字」となっていた部分(トランスの客体)が、<聞く>トランスでは「音声」に置き換わる。

 

認知力が音声と認識を対応させることで、音声を意味として受けとめる。(音声とは、空気の振動ー音響ーとしての人の声を、意味を伝える言語たらしめる要素ー音素ーという角度からみたもの。音韻ともいう)

 

それができる理由は、聞き手の認知力が話し手と同じ規範を共有しているからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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