ごきげんようチャンネル

"Life is too short to wake up with regrets." author unknown
           

トランスグラマーは構造主義と現象学を含んでいる おわり

「企投」は、私の言葉でいえば<越境 TRANS>である。

 

<越境 TRANS>とは、ルールを足場にしながら、そこからの跳躍を試みることであり、どこかの瞬間で、あるものから他のものへの変質が敢行される。

 

現象学がおそらく見落としているのは、言語の「構造」じたいに企投の親概念ともいうべき<越境 TRANS>が埋め込まれているという事実である。

 

すなわち<越境 TRANS> には二種あり、 

 

 

 言語の一般的TRANS 誰であれ言語で語るときは概念を語彙にし、語彙を品詞にし文を生成する。そこでは多重の変質を敢行せざるをえない。こちらは構造主義的な視点からの<越境>である。

 

 企投という個人的TRANS ,鯤面未らいうと、つねになんらかの「個人」が発するものである言語表現は、他者とのゲームのルール変更あるいは目的変更の可能性をはらむ冒険とならざるをえない。現象学が強調する「企投」とは、こちらの意味の<越境>である。

 

 

どちらの意味においても、言語は<越境 TRANS>を媒介として成立する。

 

ここから、言語に関する私の理論を<トランスグラマー TransGrammar>と名づけている。

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

追記:上記の記事は、数年前に私が書いたものですが、今読んでも面白いと思ったので再掲しました。今思えば、現象学は構造主義的な発想を、構造主義は現象学的な発想を、とりいれれば良かったのでしょうが、それぞれ関心の対象が違うために、そうはいかなかったようです。私の観点からすれば、現象学は個人の認識・表現のレベルを探求し、構造主義は社会の概念のレベルを探求したと考えられます。じっさい、人の観念連関は、認識・表現のレベルと概念のレベルがカップリングされているのですが、現象学と構造主義は互いに「越境 TRANS」しあうことができませんでした。現象学と構造主義に限らず、哲学や心理学は、人がおこなう観念連関のなかの一部を探求してきました。私としては、英語を素材にした「トランスグラマーTransGrammar」を記述することで、言語を代表とする人の観念連関の規範を具体的に記述してみたいと思っています。TransGrammarは、英語人の思考の形式・規範の記述にすぎませんが、「哲学の哲学」とでもいうべき大枠を示唆することはできると思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 07:17 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
トランスグラマーは構造主義と現象学を含んでいる その4

言語の理解についての現象学の貢献のひとつは、「企投(きとう)」という実存主義由来の理解を言語活動に読み込んだことだろう。

 

 

「実存的な関係企投が言語の『意味』の基底的本質であり、記号としての言語の『意味』はそれ[実存的な関係企投]を根拠として成立している」(竹田前掲書、173頁)

 

 

同旨だが、構造主義的な理解とペアになっているところを引用すると、

 

 

「言語の一般規範(ラング)が個々のパロール(現実言語)を可能にしていますが、根拠関係としては、パロール(企投的意味)の積み重ねが絶えずラング(一般ルール)を作りあげている」(同上書、172頁)

 

 

この「企投」は人間の身体と言語がもつ「ゲーム」的な性質に根ざしている。

 

 

「ゲームの本質というものは、単にそのルールの体系を正確に記述することではけっして把握できないものであり、…主体のゲーム経験だけがゲームの本質をつかむことができる」(同上書、130頁)

 

 

 

ただ、言語という「集合関係的ゲーム」は、普通のゲームとちがって「目的」が限定されないため、身体と同様に、

 

 

「つねに自分のルールを刷新しつづけるような構造になっており、…プレーヤーの多様な自己設定に委ねられている要素が大きい」(同上書、132-133頁)

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 06:33 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
トランスグラマーは構造主義と現象学を含んでいる その3

現象学がいう「本質観取」とは、意識生成のプロセスの自覚的な再体験のことであろう。

 

エポケーとか本質観取とか、現象学の用語は事態をむずかしそうに見せてしまうが、要は生成の順に事柄を追うという、昔からある歴史学のアプローチを意識に適用したにすぎないともいえる。

 

ただ、現象学は意識が対象であるだけに、構造主義的な構築性に欠けるところがある。それは唯物史観以前の歴史学が事態の叙述に終始して、社会構造の認識に欠けていたのと似ている。

 

ただ、現象学的視点は言語の分析にはなかなか有用だと思われる。

 

前掲の竹田青嗣本は、言語とは「ルール関係を経験する」ことだと表現しているが(竹田前掲書、174頁)、これは客観的な構造(ルール)を主体的に体験するプロセスを一言で述べており、個人によるルールの体験としての言語という視点を提供している。

 

言語の習得は、構造主義的な<上からの解明体験>と現象学的な<下からの編成体験>がペアになったとき十全になるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 06:32 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
トランスグラマーは構造主義と現象学を含んでいる その2

現象学は、このような言語の構造主義的性格が加担して成立している「自然的態度」をいったん「逆転」させるべきだと主張する。

 

 

 

「しかし、確信成立の条件を問うためには、この考え方の方向を変更する必要があります。…

 

『いま私に赤くて、丸くて、つやつやした様子が見えている。だから私の目の前にリンゴが実在しているという確信をもつのだ』

 

という考え方へと変更するのです。」(同上書、74-75頁)

 

 

 

これがいわゆる「エポケー」で、そこから現象学の議論がはじまる。

 

ところで、それなら自然言語は現象学的な発想をただ妨害する存在なのだろうか。

 

上記のように、一般にはそういう傾向をもつだろう。しかし、言語が「自然的態度」を助長するような構造をもつことが十分に認識されれば、話はちがってくる可能性がある。

 

たとえば、上記の

 

 

The photon carries energy. 

 

 

という認識は、なにかが「エネルギーを帯びている」という動態が観察でき、そうである以上、そこに実体があるはずだと考えて、それを「光子」と名づけたことから成立している。

 

そしていったん「光子」という名称が成立すれば、「光子がエネルギーを帯びている」のように、実体から出発してその動態や状態を述べる構造的表現が可能になる。一般の言語表現はこちらである。

 

以上の次第がわかっていれば、言語表現の背後にエポケーの思考を読み込むことは不可能ではない。

 

 

 

 

言語は実体の存在を前提にして、その動態・状態を述べるという表現構造をとる(言語表現の構造主義的性格)。しかし、逆に状態・動態からさかのぼって実体の存在を想定し、それに名称をつけるという認識成立の順序も、言語の構造を観察することによって意識することができる(言語成立の現象学的性格)。

 

現象学的視点は、このように「なぜそのような信念が成立したのか」と問うこと、すなわち「信念成立の条件をさかのぼって問う」という方法であり、それは構造主義的な視点とペアになるべきものだといえる。(同上書、76頁)

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 06:31 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
トランスグラマーは構造主義と現象学を含んでいる その1

 

現象学の解説書に、こういう部分がある。

 

 

「いまここにリンゴがあります。…ふつうはこう考えます。

 

『いま目の前にリンゴが存在している。だから、いま私にその赤くて丸くて、つやつやした様子が見えている』

 

と。これが当たり前の、すなわち自然的態度としての考え方です。」

 

(竹田青嗣『現象学は<思考の原理>である』ちくま新書、2004年、74頁)

 

 

たしかに、言語は上記のような構造をとっている。すなわち、

 

 

「ある実体が、ある動態をとっている。その実体は種々の状態も担っている。」

 

 

という順序で認識するのである。

 

たとえば、

 

 

The photon carries energy.  (光子がエネルギーを帯びている)

 

 

という文は、「光子 photon」という実体が存在していて、それが「エネルギーを帯びる carry energy」という動態をとっているという認識を表している。

 

こうした言語の表現構造は、構造主義的だといえるかもしれない。

 

構造主義とは、

 

 

「人文現象を全体的・有機的な構造との関連でとらえ、かつ模型(モデル)を援用してこの構造の解明を目指し、歴史的、時間的な経過を記述するよりも、それらの生起を可能ならしめる構造もしくはシステムの分析を重んじた」(ブリタニカ)

 

 

と解説される思潮で、1960年代に流行した。

 

現象を「存続させるために働く潜在的な相互依存の機能的連関を構造としてとらえ、その構造を明らかにしようとする」とも解説される。(精選版・日本国語大辞典)

 

私がいう言語の構造主義的性格とは、対象を<実体→動態→状態(→様態)>の四態モデルでとらえ、「全体的・有機的な構造」として表現する言語の性格を指す。

 

言語は、そのような表現が成立した「歴史的、時間的な経過を記述するよりも、それらの生起を可能ならしめる構造もしくはシステム」を記述するかたちをとる。

 

<文法>とは、このような言語の「潜在的な相互依存の機能的連関を構造としてとらえ、その構造を明らかにし」て、これを記述することである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 06:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
言語は実物の影ではなく、心の影である おわり

言語を理解するには、

 

 

 

 

       影(音声・文字)

 

                   / ↓  ↖︎↘︎

 

現実世界の物事      ⇄       人の心

 

 

 

 

という三角形を視野に入れる必要がある。

 

言語の音声や文字は、現実世界の物事を起源とし、人の心を源泉として、この図でいえば反時計回りの運動で生まれた「影」である。そして、いったん生まれた「影」は、時計回りに作用する。影は人の心にはたらきかけることで、影が現実世界の物を表しているように思わせるのである。じっさいには、その物事が現実世界に必ず存在しているとは限らない。こうして、言語という「影」は、空想や錯誤を人の心に起こすことができる。

 

「影」の姿は、現実世界の物事の形象や、人が心に抱く心象に似ている必要はない。どんなに外見が違っていようと、その影が現実や心の中のなにを映しているかという対応関係がわかれば、それで用は足りるのである。

 

だから、影は現実世界の物事そのものではない。それなのに、影があれば現実世界の物事もあるように思わせることができるのは、言語が体現している概念が、現実世界の物事と人の心を対応させる規範(社会的約束)として作動するからである(図の ↓)。

 

反時計回りと時計回り。どちらに回っても、言語という「影」は、必ず人の心を媒介にして成立している。

 

万葉集の時代に、鏡に映った顔は、じつは人の心が映っているのだという観念があったという話を始めに書いた。言語にかんしては、このような古代人の観念は正しかったといえる。言語は実物の影ではなく、直接には心の影なのである。

 

 

言い換えると、言語の世界は、現実世界の物事と関係はあるが、それとはいったん切り離された世界である。

 

だからこそ、人間は言語によって自由になれるし、騙されることもある。

 

 

...

 

 

わかりきったことを長々と書いたような気もするが、たとえば外国語を習得しようとするとき、このことを心得ておくと役に立つ。

 

たしかに、言語には現実を映す機能もあるが、言語に映せる現実とは、われわれが心にとりいれた現実だけである。言語は、心の影なのである。

 

外国語の教科書に出てくる文のすべてが、その言語を用いている人々の心の影である。「地下鉄に乗りました」と書いてあっても、現実の地下鉄の話を直接しているのではない。”地下鉄に乗った”という心が、「地下鉄に乗りました」という影になって現われているのである。

 

外国語を覚えるときは、その「心」にフォーカスして覚えるのだ。これを心得ておくだけで、根本的な効果が生まれる。

 

 

 

 

 

 

 


 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 17:46 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
言語は実物の影ではなく、心の影である その3

「かげ」が見えたとき、われわれは、その元があるはずだと思う。

 

ある「かげ」の元は、目に見える「物」かもしれないが、目に見えない「神」であるかもしれない。

 

ドイツ文学の池内紀氏が、こういう思い出を書いている。子どものころ、みんなと影踏みごっこをしていた。動く影を見ているうちに、影のほうが主人公で、自分はその従属物のような気がしてきた。
 

 


「自分が黒い小鬼の指図のままに身ぶり手ぶりをしているような気がして、おもわず足をすくませた。」

 

(シャミッソー(池内紀訳)『影をなくした男』岩波文庫、原作1814年、巻末の訳者解説、137頁)

 

 

もちろん、「かげ」は自分の身体を映しているのだが、子どもだった池内氏は、自分を支配している異次元の存在を「かげ」に感じたらしい。

 

さて、言語の音声や文字が、なにかの「かげ」だとすれば、それはなにを映しているのだろう。

 

この世に実在する物事の「かげ」なのか、それとも目に見えないものの「かげ」だろうか。

 

答えは、音声や文字の歴史的起源は実在する物であろうが、われわれが日々つくっている言語は、目に見えないわれわれの心を直接の源泉にしている。言語は、直接には、目に見えないものの「かげ」なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 17:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
言語は実物の影ではなく、心の影である その2

<自然を動かしているものは、目に見えない。そういえば、ゆらめく物影は、見えては消えていく。影は、見えないはずの神が一瞬、姿を現したものではないか。>

 

このように、神(かげ)こそが実体で、この世(かたち)は神の意向にもとづく現象であるという観念は、宗教の原型である。

 

ところで、日本語で「かげ」というとき、陰った部分のかたちというだけでなく、ものの気配や一瞬の姿だったり(人影)、心に浮かんだ像のことだったりもする(面影)。

つまり、日本語の「かげ」は、「陰り shadow」だけでなく、「像 image」の意味をふくんでいる。

像としての「かげ」は、見えるもののかたちが変形したり、見えないものが仮のかたちをとったものである。だから、もとのものと違うかたちであってもよい。「かげ」は、もとのものの代理でありながら、もとのもののかたちから自由である。

言語は、この「かげ」の原理の産物である。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 17:44 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
言語は実物の影ではなく、心の影である その1

加藤健司ほか『神道の美術』(平凡社、2012年)の巻頭解説によると、古い時代の神観念は「影」と関係があったという。

たとえば万葉集に、鏡に映った影は人の真心を映しているのだとか、カミは影となって顕現するものだという古代人の感覚がうかがえる歌がある。8頁。

仁和寺には、八幡神の姿を、壁に映った人型の影で表した絵が伝わっている(八幡神影向(えいごう)図。同書、12, 40頁)

おもしろいのは竹取物語の例で、美女のかぐや姫を帝が強引に連れ去ろうとすると、「きと影になりぬ」(ふっと突然、影になってしまった)。同書8頁。

かぐや姫がこの世の人間ではなく、ほんとうは異世界の存在=影であることが示された瞬間である。

帝は、「げにただ人にはあらざりけり」と驚き、何もしないから元にもどってくれと頼む。すると、「かぐや姫もとのかたちになりぬ」。

ここでは、「かげ」こそが真の姿であって、かぐや姫の身体は仮の姿にすぎなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 


 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 17:42 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
人の認識にとっては、実体より属性が本質である おわり

私は、言語をあつかうときは、実体認識を「体(からだ)」と呼び、属性認識を「態(なり)」と呼んでいる。

 

なんらかの態をとっていない体は、認識上、存在しない。態は、人の認識にとって、そのときどきに体がとる属性であり、固定せず、流動的である。だから、態に依拠する体の認識内容も、流動的ということになる。

 

「花のつぼみ」という「体」は、「赤い」という静的な「態」として認識されることもあれば、「赤らむ」という動的な「態」として認識されることもある。「花のつぼみ」という体の形式は同じでも、その態という内容の認識は、流動しうる。

 

ならば、人の対象認識の本質は、むしろ態(英文法でいえば動詞・形容詞)のほうにあり、体(英文法でいえば名詞)は、本質をいれる入れ物、あるいは、本質をおおう包み紙のようなものではないだろうか。

 

前に引用した文を再掲しよう。

 

 

 

「性質をもつその当のものと、そのものに所属する性質自身とが区別され、この区別が基準に据えられると、前者は独立して存在しうる<実体>であり、後者は実体に所属し実体に依存してはじめて存在しうる<属性>であるという考えが、そこから生まれてきます。」(藤沢令夫『ギリシア哲学と現代』岩波新書、1980年、36頁。太字は引用者)
 

 

 

属性が実体に依存するというのは、認識上、属性と実体を区別したために「生まれてきた」観念である。たしかに、属性は実体から離れて存在しない。しかし、実体が人によって認識されるのは、その属性によってである。

 

実体は、属性を容れる箱のようなものである。箱という形式に入れておかないと、属性という内容は扱いにくい。しかし、箱は形式であって、入っている内容は、認識上、その属性にほかならない。

 

 

こうした実体と属性の、認識における不可分の関係を認めることから、なぜ言語では体(名詞)だけでなく、その態(動詞・形容詞など)を表現するのかが理解されてくる。

 

近代言語学は、実体と属性という基本的カテゴリーを、もういちど考えなおしたほうがいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 08:10 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
#誰が書いてるの?
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  
<< August 2017 >>
-->
#新しい記事
#過去の記事
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人
敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人 (JUGEMレビュー »)
ジョン ダワー, John W. Dower, 三浦 陽一, 高杉 忠明
#著書/共著
敗北を抱きしめて 下 増補版―第二次大戦後の日本人
敗北を抱きしめて 下 増補版―第二次大戦後の日本人 (JUGEMレビュー »)
ジョン ダワー, John W. Dower, 三浦 陽一, 田代 泰子, 高杉 忠明
#コメント
#トラックバック