ごきげんようチャンネル

"Life is too short to wake up with regrets." author unknown
           

やはり低迷している英文法の革新 言語観の貧困が根因

八木克正『世界に通用しない英語 あなたの教室英語、大丈夫?』(開拓社、2007年10月)



学校で教える英語が古くさかったり、間違っていたりする実態を指摘し、今後の方向を提案した本。

いくつか面白かったところをメモしてみる。

 

 

 

近代日本の「英文法」は1900年ごろ確立した。

 


イギリスの規範文法をもとにして日本の学習文法が確立したのは、明治後期(1900年ごろ)であった。

そのシンボルは、斎藤秀三郎『実用英文典』(1898‐1899)。これが日本初の体系的英文法書といわれる。

 

斎藤『実用英文典』の原型は、Henry Sweet, A New English Grammar, 1881-1898 。

 

さらにSweet の本の源流は、1600年ごろに確立した近代英語を集大成した L. Murray, English Grammar,1795である(八木、47、52頁)。

 

 

別の本だが、伊村元道『日本の英語教育200年』(大修館書店、2003年)にも、次のような説明がある。

 

 

「本書 [斎藤秀三郎『実用英文典』] は、その後の学校文法(スクール・グラマー)の枠組みを決めたといわれ、説明の仕方や例文まで本書を踏襲したものが数多く出た。戦後まで読まれた受験参考書のロング・セラー、山崎卓『自修英文典』(1913)なども本書の簡約版を底本にしている。英語学習者なら誰でも知っているあの『五文型』というのも斎藤の動詞分類にすでにその発想がある。…『不定詞』という名称も斎藤に始まる。それまでは『不定法』と呼んでMood(法)のひとつとしていた。」(伊村、25-26頁)

 

 


大正期に入り、規範文法に対して「科学文法」が台頭。

 


そのシンボルは、市河三喜『英文法研究』(1912年)。規範文法はまず規則を定め、それに言語使用を従属させようとするが、科学文法は「言語の実態をあるがままに受け入れて記述し、そのなかにひそむ規則性を見つけ出そうとする」立場である(八木、51頁)。他には、理論や体系を重視する中島文雄のような学風もあった。60頁。


著者の八木氏も、基本的にこの「科学文法」の立場をとっていると思われる。

 

 


1960年代に入り、構造言語学、さらに生成文法へと、日本の英文法研究は、急速に普遍理論志向へと転回した。
 


八木氏は、この時代を次のように回想している。

 

 

「流行に抗することができず生成文法の勉強をしながらも、同時に実証的研究を続けてきた私のような研究者が味わってきた悲哀でもありました。…言語学者はすべて言語の普遍性を追求しなければならないなどと指図される覚えはありません。…私は1960年代から2000年ころに至るまでの約40年間は、日本における英語の実証的研究の停滞期であったと考えています。」62‐63頁。



2000年ごろから、生成文法の勢いが衰退し、多様化の時代へ。

 


この時期、生成文法の盛行の影で営々と続けられてきたクエスチョンボックス型の語法研究が学習辞典や英語事典となって刊行され、集大成されていく。他方でラネカーらの認知文法も台頭してくる。最近では脳科学と結びつけた英語論も台頭している(八木、67頁以下)。
 

 

英語の発音が多様化しているからこそ、文法習得は重要性を増している
 


「書きことばになると、とたんに文法が意識されます。そう、英語の学習を話しことば中心にやっていては本当の英語の力がつくわけがないのです。書いてはじめて文法意識が芽生えます。」(八木、12頁)。

これは、英語の多様性をどう考えるかとも関連している。

世界には多くの種類の英語があるというが、著者によると多様なのは大部分が発音や語彙など話しことばのレベルのことで、書いた場合には
 


「英語と名のつくかぎり、文法上はほとんど違いがない。」(八木、20頁)
 


つまり、英語が様々な発音で多数の人が話しているからこそ、文法を知ることがますます重要だということである。英語を英語にしているのが文法だから、それをきちんと身につけることは絶対条件なのだ。

そのためには、文字を通じて英語を身につけること(読み書き)が有効だと、著者は言う。
 

 

ナショナルプロジェクトとして英語を総点検せよ

 


著者は、教科書、準教科書、学習参考書、問題集、入試問題などを総点検して、古くさい表現や間違った文法解説を日本の英語から排除すべきだという。



「その計画の実行のためには信頼のおける10名程度のいつでも相談できるネイティブ・スピーカーが必要です。5名位の日本語を母語とする英語専門家チームと、サポート役のネイティブ・スピーカー10名があれば数年で大がかりな点検作業ができるでしょう。学会をあげてのプロジェクトとしてやる値打ちがあると思います。」(八木、172頁)。

 


実現性はともかく、これはおもしろいアイディアだ。

ついでに、なぜ英語の習得にこれほど無駄が多いのか。それも研究してもらいたいものだ。規範文法があり科学文法があり生成文法がありながら、なぜ英語の習得はこれほど困難なのか。

これなら学会のプロジェクトどころかナショナルプロジェクトにする価値があると思う。

 

 

 

「科学的な言語研究」について

 


八木氏は、言語研究の方法について、次のように述べている。

 


「数学や理科など自然科学にもとづいた学科と同じように、英語が科学の裏づけをもった学科になるためには、科学的な言語研究の考え方が基本になければなりません。そのような学問としての英語研究の方法を分かりやすく提示することも本書の目的です。」vii頁。

 


そして著者は、「正しい英語とは今の世界に通用する英語」「世界のどこでも通用する英語」だともいう。16、18頁。

「より効果的に自己表現ができる英文法、そういうものを構築していかねばなりません。文法のための文法は専門家に任せて、学習のための英文法を早急に構築していかねばなりません。」171頁。

この主張に異論があるわけではないが、著者の方法には欠けているものがあるとも思う。たとえば、世界に通用する「正しい」用法を確認し、集めつづけても体系はできないであろう。

著者は「ボトムアップの思考法によって理論構築」「個別の現象の記述を積み重ねることによって体系を組み上げ」るのだと言っている。63頁。たしかに個々の事例を検討することは重要だが、それだけで「理論」や「体系」は作れない。

たとえば、18世紀から19世紀に流行したヨーロッパの「博物学 natural history」は当時のヨーロッパの世界進出とともに発見された、珍しい標本の採取と分類に熱中した。当時はそれが最先端の学問であった。

しかしこんにち博物学のように、たんにたくさん集めて分類することを科学とは呼ばない。

著者が鋭く指摘している古くさい表現や奇妙な文法は、たしかに早急に改めなければならない。しかしそれで日本における英語学習の問題が解決するわけではない。間違った個々の表現を改めただけでは「効果的に自己表現ができる英文法」は実現しない。

 

著者は多くの事例を集めて、それが示唆する規則性を見出すことを「科学的」な態度と考えているようだが、その作業から対象の本質がわかる保障もない。

 



じっさい、20世紀初頭に日本で確立した斎藤秀三郎流の文法体系に代わる英文法は、「科学文法」の台頭から100年近くたった今も実現していない。

 






 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 12:41 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
トランスグラマーは構造主義と現象学を含んでいる おわり

「企投」は、私の言葉でいえば<越境 TRANS>である。

 

<越境 TRANS>とは、ルールを足場にしながら、そこからの跳躍を試みることであり、どこかの瞬間で、あるものから他のものへの変質が敢行される。

 

現象学がおそらく見落としているのは、言語の「構造」じたいに企投の親概念ともいうべき<越境 TRANS>が埋め込まれているという事実である。

 

すなわち<越境 TRANS> には二種あり、 

 

 

 言語の一般的TRANS 誰であれ言語で語るときは概念を語彙にし、語彙を品詞にし文を生成する。そこでは多重の変質を敢行せざるをえない。こちらは構造主義的な視点からの<越境>である。

 

 企投という個人的TRANS ,鯤面未らいうと、つねになんらかの「個人」が発するものである言語表現は、他者とのゲームのルール変更あるいは目的変更の可能性をはらむ冒険とならざるをえない。現象学が強調する「企投」とは、こちらの意味の<越境>である。

 

 

どちらの意味においても、言語は<越境 TRANS>を媒介として成立する。

 

ここから、言語に関する私の理論を<トランスグラマー TransGrammar>と名づけている。

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

追記:上記の記事は、数年前に私が書いたものですが、今読んでも面白いと思ったので再掲しました。今思えば、現象学は構造主義的な発想を、構造主義は現象学的な発想を、とりいれれば良かったのでしょうが、それぞれ関心の対象が違うために、そうはいかなかったようです。私の観点からすれば、現象学は個人の認識・表現のレベルを探求し、構造主義は社会の概念のレベルを探求したと考えられます。じっさい、人の観念連関は、認識・表現のレベルと概念のレベルがカップリングされているのですが、現象学と構造主義は互いに「越境 TRANS」しあうことができませんでした。現象学と構造主義に限らず、哲学や心理学は、人がおこなう観念連関のなかの一部を探求してきました。私としては、英語を素材にした「トランスグラマーTransGrammar」を記述することで、言語を代表とする人の観念連関の規範を具体的に記述してみたいと思っています。TransGrammarは、英語人の思考の形式・規範の記述にすぎませんが、「哲学の哲学」とでもいうべき大枠を示唆することはできると思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 07:17 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
トランスグラマーは構造主義と現象学を含んでいる その4

言語の理解についての現象学の貢献のひとつは、「企投(きとう)」という実存主義由来の理解を言語活動に読み込んだことだろう。

 

 

「実存的な関係企投が言語の『意味』の基底的本質であり、記号としての言語の『意味』はそれ[実存的な関係企投]を根拠として成立している」(竹田前掲書、173頁)

 

 

同旨だが、構造主義的な理解とペアになっているところを引用すると、

 

 

「言語の一般規範(ラング)が個々のパロール(現実言語)を可能にしていますが、根拠関係としては、パロール(企投的意味)の積み重ねが絶えずラング(一般ルール)を作りあげている」(同上書、172頁)

 

 

この「企投」は人間の身体と言語がもつ「ゲーム」的な性質に根ざしている。

 

 

「ゲームの本質というものは、単にそのルールの体系を正確に記述することではけっして把握できないものであり、…主体のゲーム経験だけがゲームの本質をつかむことができる」(同上書、130頁)

 

 

 

ただ、言語という「集合関係的ゲーム」は、普通のゲームとちがって「目的」が限定されないため、身体と同様に、

 

 

「つねに自分のルールを刷新しつづけるような構造になっており、…プレーヤーの多様な自己設定に委ねられている要素が大きい」(同上書、132-133頁)

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 06:33 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
トランスグラマーは構造主義と現象学を含んでいる その3

現象学がいう「本質観取」とは、意識生成のプロセスの自覚的な再体験のことであろう。

 

エポケーとか本質観取とか、現象学の用語は事態をむずかしそうに見せてしまうが、要は生成の順に事柄を追うという、昔からある歴史学のアプローチを意識に適用したにすぎないともいえる。

 

ただ、現象学は意識が対象であるだけに、構造主義的な構築性に欠けるところがある。それは唯物史観以前の歴史学が事態の叙述に終始して、社会構造の認識に欠けていたのと似ている。

 

ただ、現象学的視点は言語の分析にはなかなか有用だと思われる。

 

前掲の竹田青嗣本は、言語とは「ルール関係を経験する」ことだと表現しているが(竹田前掲書、174頁)、これは客観的な構造(ルール)を主体的に体験するプロセスを一言で述べており、個人によるルールの体験としての言語という視点を提供している。

 

言語の習得は、構造主義的な<上からの解明体験>と現象学的な<下からの編成体験>がペアになったとき十全になるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 06:32 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
トランスグラマーは構造主義と現象学を含んでいる その2

現象学は、このような言語の構造主義的性格が加担して成立している「自然的態度」をいったん「逆転」させるべきだと主張する。

 

 

 

「しかし、確信成立の条件を問うためには、この考え方の方向を変更する必要があります。…

 

『いま私に赤くて、丸くて、つやつやした様子が見えている。だから私の目の前にリンゴが実在しているという確信をもつのだ』

 

という考え方へと変更するのです。」(同上書、74-75頁)

 

 

 

これがいわゆる「エポケー」で、そこから現象学の議論がはじまる。

 

ところで、それなら自然言語は現象学的な発想をただ妨害する存在なのだろうか。

 

上記のように、一般にはそういう傾向をもつだろう。しかし、言語が「自然的態度」を助長するような構造をもつことが十分に認識されれば、話はちがってくる可能性がある。

 

たとえば、上記の

 

 

The photon carries energy. 

 

 

という認識は、なにかが「エネルギーを帯びている」という動態が観察でき、そうである以上、そこに実体があるはずだと考えて、それを「光子」と名づけたことから成立している。

 

そしていったん「光子」という名称が成立すれば、「光子がエネルギーを帯びている」のように、実体から出発してその動態や状態を述べる構造的表現が可能になる。一般の言語表現はこちらである。

 

以上の次第がわかっていれば、言語表現の背後にエポケーの思考を読み込むことは不可能ではない。

 

 

 

 

言語は実体の存在を前提にして、その動態・状態を述べるという表現構造をとる(言語表現の構造主義的性格)。しかし、逆に状態・動態からさかのぼって実体の存在を想定し、それに名称をつけるという認識成立の順序も、言語の構造を観察することによって意識することができる(言語成立の現象学的性格)。

 

現象学的視点は、このように「なぜそのような信念が成立したのか」と問うこと、すなわち「信念成立の条件をさかのぼって問う」という方法であり、それは構造主義的な視点とペアになるべきものだといえる。(同上書、76頁)

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 06:31 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
トランスグラマーは構造主義と現象学を含んでいる その1

 

現象学の解説書に、こういう部分がある。

 

 

「いまここにリンゴがあります。…ふつうはこう考えます。

 

『いま目の前にリンゴが存在している。だから、いま私にその赤くて丸くて、つやつやした様子が見えている』

 

と。これが当たり前の、すなわち自然的態度としての考え方です。」

 

(竹田青嗣『現象学は<思考の原理>である』ちくま新書、2004年、74頁)

 

 

たしかに、言語は上記のような構造をとっている。すなわち、

 

 

「ある実体が、ある動態をとっている。その実体は種々の状態も担っている。」

 

 

という順序で認識するのである。

 

たとえば、

 

 

The photon carries energy.  (光子がエネルギーを帯びている)

 

 

という文は、「光子 photon」という実体が存在していて、それが「エネルギーを帯びる carry energy」という動態をとっているという認識を表している。

 

こうした言語の表現構造は、構造主義的だといえるかもしれない。

 

構造主義とは、

 

 

「人文現象を全体的・有機的な構造との関連でとらえ、かつ模型(モデル)を援用してこの構造の解明を目指し、歴史的、時間的な経過を記述するよりも、それらの生起を可能ならしめる構造もしくはシステムの分析を重んじた」(ブリタニカ)

 

 

と解説される思潮で、1960年代に流行した。

 

現象を「存続させるために働く潜在的な相互依存の機能的連関を構造としてとらえ、その構造を明らかにしようとする」とも解説される。(精選版・日本国語大辞典)

 

私がいう言語の構造主義的性格とは、対象を<実体→動態→状態(→様態)>の四態モデルでとらえ、「全体的・有機的な構造」として表現する言語の性格を指す。

 

言語は、そのような表現が成立した「歴史的、時間的な経過を記述するよりも、それらの生起を可能ならしめる構造もしくはシステム」を記述するかたちをとる。

 

<文法>とは、このような言語の「潜在的な相互依存の機能的連関を構造としてとらえ、その構造を明らかにし」て、これを記述することである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 06:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
言語は実物の影ではなく、心の影である おわり

言語を理解するには、

 

 

 

 

       影(音声・文字)

 

                   / ↓  ↖︎↘︎

 

現実世界の物事      ⇄       人の心

 

 

 

 

という三角形を視野に入れる必要がある。

 

言語の音声や文字は、現実世界の物事を起源とし、人の心を源泉として、この図でいえば反時計回りの運動で生まれた「影」である。そして、いったん生まれた「影」は、時計回りに作用する。影は人の心にはたらきかけることで、影が現実世界の物を表しているように思わせるのである。じっさいには、その物事が現実世界に必ず存在しているとは限らない。こうして、言語という「影」は、空想や錯誤を人の心に起こすことができる。

 

「影」の姿は、現実世界の物事の形象や、人が心に抱く心象に似ている必要はない。どんなに外見が違っていようと、その影が現実や心の中のなにを映しているかという対応関係がわかれば、それで用は足りるのである。

 

だから、影は現実世界の物事そのものではない。それなのに、影があれば現実世界の物事もあるように思わせることができるのは、言語が体現している概念が、現実世界の物事と人の心を対応させる規範(社会的約束)として作動するからである(図の ↓)。

 

反時計回りと時計回り。どちらに回っても、言語という「影」は、必ず人の心を媒介にして成立している。

 

万葉集の時代に、鏡に映った顔は、じつは人の心が映っているのだという観念があったという話を始めに書いた。言語にかんしては、このような古代人の観念は正しかったといえる。言語は実物の影ではなく、直接には心の影なのである。

 

 

言い換えると、言語の世界は、現実世界の物事と関係はあるが、それとはいったん切り離された世界である。

 

だからこそ、人間は言語によって自由になれるし、騙されることもある。

 

 

...

 

 

わかりきったことを長々と書いたような気もするが、たとえば外国語を習得しようとするとき、このことを心得ておくと役に立つ。

 

たしかに、言語には現実を映す機能もあるが、言語に映せる現実とは、われわれが心にとりいれた現実だけである。言語は、心の影なのである。

 

外国語の教科書に出てくる文のすべてが、その言語を用いている人々の心の影である。「地下鉄に乗りました」と書いてあっても、現実の地下鉄の話を直接しているのではない。”地下鉄に乗った”という心が、「地下鉄に乗りました」という影になって現われているのである。

 

外国語を覚えるときは、その「心」にフォーカスして覚えるのだ。これを心得ておくだけで、根本的な効果が生まれる。

 

 

 

 

 

 

 


 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 17:46 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
言語は実物の影ではなく、心の影である その3

「かげ」が見えたとき、われわれは、その元があるはずだと思う。

 

ある「かげ」の元は、目に見える「物」かもしれないが、目に見えない「神」であるかもしれない。

 

ドイツ文学の池内紀氏が、こういう思い出を書いている。子どものころ、みんなと影踏みごっこをしていた。動く影を見ているうちに、影のほうが主人公で、自分はその従属物のような気がしてきた。
 

 


「自分が黒い小鬼の指図のままに身ぶり手ぶりをしているような気がして、おもわず足をすくませた。」

 

(シャミッソー(池内紀訳)『影をなくした男』岩波文庫、原作1814年、巻末の訳者解説、137頁)

 

 

もちろん、「かげ」は自分の身体を映しているのだが、子どもだった池内氏は、自分を支配している異次元の存在を「かげ」に感じたらしい。

 

さて、言語の音声や文字が、なにかの「かげ」だとすれば、それはなにを映しているのだろう。

 

この世に実在する物事の「かげ」なのか、それとも目に見えないものの「かげ」だろうか。

 

答えは、音声や文字の歴史的起源は実在する物であろうが、われわれが日々つくっている言語は、目に見えないわれわれの心を直接の源泉にしている。言語は、直接には、目に見えないものの「かげ」なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 17:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
言語は実物の影ではなく、心の影である その2

<自然を動かしているものは、目に見えない。そういえば、ゆらめく物影は、見えては消えていく。影は、見えないはずの神が一瞬、姿を現したものではないか。>

 

このように、神(かげ)こそが実体で、この世(かたち)は神の意向にもとづく現象であるという観念は、宗教の原型である。

 

ところで、日本語で「かげ」というとき、陰った部分のかたちというだけでなく、ものの気配や一瞬の姿だったり(人影)、心に浮かんだ像のことだったりもする(面影)。

つまり、日本語の「かげ」は、「陰り shadow」だけでなく、「像 image」の意味をふくんでいる。

像としての「かげ」は、見えるもののかたちが変形したり、見えないものが仮のかたちをとったものである。だから、もとのものと違うかたちであってもよい。「かげ」は、もとのものの代理でありながら、もとのもののかたちから自由である。

言語は、この「かげ」の原理の産物である。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 17:44 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
言語は実物の影ではなく、心の影である その1

加藤健司ほか『神道の美術』(平凡社、2012年)の巻頭解説によると、古い時代の神観念は「影」と関係があったという。

たとえば万葉集に、鏡に映った影は人の真心を映しているのだとか、カミは影となって顕現するものだという古代人の感覚がうかがえる歌がある。8頁。

仁和寺には、八幡神の姿を、壁に映った人型の影で表した絵が伝わっている(八幡神影向(えいごう)図。同書、12, 40頁)

おもしろいのは竹取物語の例で、美女のかぐや姫を帝が強引に連れ去ろうとすると、「きと影になりぬ」(ふっと突然、影になってしまった)。同書8頁。

かぐや姫がこの世の人間ではなく、ほんとうは異世界の存在=影であることが示された瞬間である。

帝は、「げにただ人にはあらざりけり」と驚き、何もしないから元にもどってくれと頼む。すると、「かぐや姫もとのかたちになりぬ」。

ここでは、「かげ」こそが真の姿であって、かぐや姫の身体は仮の姿にすぎなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 


 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 17:42 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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