ごきげんようチャンネル


あきらけき かがみにあへば すぎにしも いまゆくすゑの こともみえけり

         大鏡


認識の二重性ー個人的認識と社会的認識ー そして生育時間で測られる概念性の深まり

マルクス『資本論』第一章第二節のタイトルは、「商品に表される労働の二重性」となっている。

 

労働の二重性とは、具体的労働と抽象的労働のことで、具体的労働は質のちがいからみた分業の側面であり、抽象的労働は量(労働時間)からみた労働の社会一律の側面である(大谷禎之介『社会経済学』桜井書店、16ー17頁)。

 

物質を対象とする人間力の発揮が労働である。

 

意識を対象とする人間力の発揮たる認識にも、二つの側面がある。

 

 

社会的認識。言語が依拠する社会共通の規範=概念にもとづく認識。概念には、社会的に割り当てられた表象ー音声・文字・手話なら上半身の運動、その他の記号やシンボルーがあり、肉体をもつ話し手は、この表象を物質化する。概念とその表象に依拠して物質化された意識の表現態が、言語である。

 

個人的認識。その話し手の個人的な認識。個人的認識は、非言語的な表現態ータイミング、年齢、性別、声調、声量、表情、姿勢、回数、字体、描線、色彩、音響、筆勢などーによって表現される。これらの表現態は言語に付随するが、それじたいは言語ではない。

 

 

ー匆馘認識は、個人的認識を通じて表現され、個人的認識はー匆馘認識を通じて表現される。たとえば書道は、社会的認識を喚起する文字の筆蝕に、個人的認識をこめる。音楽や絵画や映画もこの二側面をもっている。

 

労働では、個々の労働の価値は、社会的平均的な労働力の発揮時間たる労働時間によって測られる。ひとつの社会においては、年齢にふさわしい社会的平均的認識力が想定できるから、個々の表現態がもつ概念性の深さ(社会的説得力)は、個々人が蓄積したトータルな認識時間すなわち個々人の生育時間(年齢)によって測られる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
自己分裂論 自己は自分から分裂することで対象を認識・表現・等置・享受する 

<人間は自己分裂することで言語をつくっている>と三浦つとむが指摘したことは、人間というものの理解にとって画期的なことだった(三浦つとむ『日本語とはどういう言語か』講談社学術文庫、1976年。初版は1956年)。

 

ここで、「自己分裂」をあらためて規定しておきたい。

 

言語の主体は自己であり、自己の実体は認識力である。自己は、経済学でいう労働者であり、その実体は「労働力」である。自己は人が体内に抱く意識(自分)を表現するために、自分が分離させるものである。自己の発生を自己分裂の第一の局面と呼ぶと、自己分裂の第一の局面は人間が目覚めているあいだ、常時作動している(いわゆる「自覚」)。

 

次に、自己は自分の心のなかのいろいろな対象にくっつき、はいりこんで認識し、その認識を表現態へと変換する。自己は、表現態の完成とともに自己に帰還する。このような自己の活動(自己が自己から分離して認識・表現する)が、自己分裂の第二の局面である。自己分裂の第二の局面は、人間が言語のような表現態をつくろうとするときに起こるものであり、その実体は認識力を基盤とする表現力である(いわゆる「自己表現」)。

 

さらに、自己は聞き手・読み手の認識力としても作動する。聞き手・読み手の自己は、他者がつくった表現態(言語)にその認識力を向け、表現態にみあった自分の認識を等置することで、表現態の意味を享受する。これが自己分裂の第三の局面であり、その実体は認識力である(いわゆる「表現の解釈」)。

 

自己分裂の第三の局面(表現の解釈)は、自己分裂の第二の局面(自己表現)に反映される。

 

自己分裂は、欧米言語学には登場しない。欧米言語学は、すでにその言語が運用できる人が、出来上がった表現を解釈したものである。欧米言語学は、表現態(音声・文字)が認識者にとってどういう意味として現象するかを追求する。つまり欧米言語学は、もっぱら自己分裂の第三の局面を扱っているのだが、その言語が運用できる人にとって自己分裂は無意識化しているので、彼らは自己分裂になかなか気づかない。

 

自己分裂は、既存の言語学の盲点である。

 

そしてもうひとつ、人がなかなか気づかないこと。それは、自分から分離した自己だけでなく、自己の母体たる自分も観念だということである。自分も観念であることは、たとえば、

 

He said, "I'm tired."   

 

という文に現れている。この文で、 "he" は 自己 ”I” にとっての自分である。 そして、"he"=”I” と呼ばれた人が現実の世界に存在しようがしまいが、文としてはこれで自立している。

 

観念たる自分から観念たる自己が分離し、観念たる自己が観念たる自分を表現し、観念たる自己が他者の表現を認識する。自己分裂の三つの局面を理解すると、人間の観念の世界が現実の世界から自立して展開することが理解できる。

 

自分から自己が分離する自己分裂の第一の局面、自己が時空を超えて対象に移入し表現し帰還する自己分裂の第二の局面まで視野に入れたとき、言語学は人間を理解するのにもっと役立つ学問になるだろうし、これから言語を学ぼうとする人にもっと役立つことだろう。

 

 

 

 

✳鈴木朖(すずき・あきら)、三浦つとむに源流をもつ日本発「自己分裂」概念を活かした英語論:トランス・グラマー

 

  https://note.mu/ymiura/m/m692d6f6108f1

 

 

なお、トランス・グラマーでは、「自己」「自分」のことを「認識力」「意識」と呼んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
認知言語学は、英語ができる人がする英語評論

著名な英語学者が、まず英語が読めないと英語学はできないと言ったのを聞いたことがある。

 

なるほど、英語学の一分野である認知言語学は、その言語たとえば英語がすでにできる人による解説である。だから認知言語学者は、「ネイティブの直感では...」というセリフをよく口にする。

 

だが、これから英語を習得しようとする人には、これは順序が逆にみえるはず。

 

英語ができる人がどういう意味がわかっているかの解説は参考になるけれど、それを聞いて自分ができるようになるわけではない。

 

多くの人が知りたいのは、どうしたら英語ができるようになるかである。

 

これは、現役の選手と解説者のちがいに似ている。

 

「解説者、現役のときなぜやらん」

 

という川柳がある。解説者と現役では、立場がちがう。

 

ベテランの境地を解説してもらうと貴重なヒントになる。認知言語学はそういう意味で役に立つが、冠詞、前置詞、発音は、基本の概念でさえなかなかわからないから、認知言語学の話を聞いても、多くの人にとって英語はけっきょく難関のままになる。

 

言語の形態に、その言語の認識力をもつ人が連関すれば、形態が概念的に認識でき、その意味がわかる。

 

認知言語学は、言語の形態が示唆する意味という現象の整理分析である。

 

言語の意味を言語であつかえば、概念的な分析だから学問的にはなるが、それで言語ができるようになるわけではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
認識言語学は認知言語学をつつみこむ

認知と認識のちがい。

 

これは、認知言語学と私の認識言語学のちがいの中核部分にかかわる。

 

私は、つぎのように理解している。

 

認知は、現実が対象である。自分の体のことであっても、対象が意識以外のものつまり現実であれば、それは認知である。外界の感覚的な外観や、言語の文字の形態も認知の対象であるから、それらを基盤に言語を説明しようとする言語学は、「認知言語学」と呼ばれる。認知をになう実体(主体として客体に働く力)を、認知(能)力という。

 

他方、認識は意識が対象である。意識には、上記のようなその場の外界=現実についての認知のほか、感覚・感情や既存の認識や概念、過去の記憶、未来についての予測や、得体の知れない恐怖といったものも含まれる。意識は体外の現実ではないが、人間にとって実在✳する。対象が意識であれば、それは認識である。認識をになう実体を、認識力という。

 

✳「実在」とは、認識力にとって客観的・社会的に存在すること。たとえば、「来週水曜3時に警察に出頭しなければならない」という意識は、まだ現実ではないことについての意識であるが、認識力にとって客観的に「実在」するし、この意識は、それが実行されなければ制裁もありうる社会的な「実在」である。

 

言語とは、認知に限らず、自分の意識を対象にした認識の概念的表現である。

 

その意味で、私の言語学は、認知をふくむ認識の言語学だといえる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
「努めてまいりたい」という言葉づかいは昭和天皇よりもあと? 雅子さんの決意について

今日(2018年12月9日)の毎日新聞ニュースメールによると、

 

 

「皇太子妃雅子さまは9日、55歳の誕生日を迎えられ、宮内庁を通じて文書で感想を公表した。来年5月1日に皇后となるのを控え、「国民の幸せのために力を尽くしていけるよう、研鑽(けんさん)を積みながら努めてまいりたい」と決意を示した。」

 

 

とのこと。

 

皇室とその関係者の言葉づかいで気づくのは、「〜してまいります」「〜してまいりたい」という表現がわりと多いこと。

 

政治家や団体の代表者も、こういう言い方をすることがあるが、そういうとき、人は多少とも身を固め、声を硬くする。

 

ところで、今思うと、昭和天皇は「まいります」「まいりたい」という言葉づかいをしなかったような気がする。

 

自分を低めたニュアンスもある「まいります」「まいりたい」という言葉づかいは、皇室では昭和天皇よりも若い世代が使いはじめたのかもしれない。

 

天皇・皇后の言葉づかいは、その社会的立場に応じて微妙に変化するようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 07:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
認識の対象が意識、物質ではないものが観念、人間ならではの高度な観念が精神

意識、認識、物質、観念、精神、思想。

 

これらの区別は、なかなかむずかしい。個人によっても理解の仕方がちがうだろう。

 

私流の定義をしておこう。

 

 

認識の対象が意識である。意識は感覚・感情・認識・概念をふくむ人間の「心」であり、「心」を認識力によってとらえた内容が認識である(認識を認識することもできる)。

 

物質ではないものが観念である。観念ではないものが物質である。世界は、物質と観念の相互浸透でできている。そのように世界を認識するのは、地球上で人間だけである。

 

✳ 相互浸透とは、「両者のおのおのが、自分を完成することによって他方をつくりだすのであり、自分を他方のものとしてつくりだす」(マルクス『経済学批判』岩波文庫版、302頁)という、自立と統合が両立していく理想的な発展関係をいう。

 

人間ならではの高度な観念を精神とよぶ。精神の内容を概念化したとき、それを思想と呼ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
言語論は観念の世界を反映した観念の世界

言語は観念の世界を反映した物質のあり方(表現態)、すなわち観念/物質の世界。

 

言語論は、言語という観念/物質の世界を反映した観念/物質の世界である。

 

言語という観念/物質の本質は、概念/表象である。概念/表象という本質がわかると、表現態がつくれるようになるし、表現態が放つ現象(言語の意味や種々の言語論)の由来がわかる。

 

言語の本質たる概念はなんでも対象にできるから、生成文法のように言語をつかって、人間という物質(脳)について超観念的な議論もできるし、認知言語学のように言語をつかって、言語の形態がもたらす意味について感覚的な議論もできる。

 

生成文法や認知言語学は、現象論である。いわば、言語の現象が産んだ現象である。

 

言語の現象すなわち意味/形態は、本質認識に至る唯一の入り口だから、言語では現象論も重要だし有用だし、おもしろい。

 

ただ、現象論は、言語の意味/形態という現象を論じているのであって、概念/表象という言語の本質を対象にしていない。

 

そのことは、自覚したほうがいいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
言葉にふわりとゆだねる姿勢が文体になる

ラジオで聞いた話だが、ある人が、ユニークな経歴とおもしろキャラを見込まれて、週刊誌にエッセイを連載しはじめた。

 

しばらくたって、編集者にこう言われた。

 

「あなた、自分が作家だと思って書いてないでしょ。読者は、ふつうの文章が読みたいのではありません。ふつうの人には書けない、作家の文章が読みたいのですよ」

 

これはすごい言葉だ。

 

作家は、初期には饒舌すぎたり、舌足らずだったりする。言葉をもてあましている。

 

それが次第に、言葉じたいの力にゆだねるようになると、自身の文体が姿を現してくる。

 

言葉には、書き手を超えて言葉じしんがもつ世界がある。

 

手慣れた作家は、言葉を遊ばせるコツを知っている。

 

言葉にふわりとゆだねる。その姿勢が文体になる(ああ、耳が痛い...)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
文章には、文とは異なるレベルの規範が適用される

マルクスはエンゲルスへの手紙のなかで、自分の『資本論』の「根本的に新しい要素」について述べている。

 

そのひとつは、「価値規定がブルジョア社会では『直接には』行われない」ことを発見したことだという(『マルクス・エンゲルス書簡選集(中)』新日本出版社、2012年6月、38頁)。

 

これは資本論第三部で扱う生産価格のことを言っており、利潤率の平均化作用によって価値が生産価格に転化し、価値規定は社会の総生産物に対しては成立するが、個々の部門では成立しないことを指している。(同書39頁の注釈による)

 

これは言語についてもヒントになる。

 

言語分析のもっともマクロな対象は、文の集積たる「文章」である。文章には、表現は短いが認識内容が文章に相当する俳句のようなものもあれば、表現が非常に長い小説のようなものもある。

 

いずれにせよ、文章の本質は、まず「題名として表現されるような集約された思想」があって、「これが骨組みとなって全体の表現が展開する」ところにある(三浦つとむ『日本語はどういう言語か』講談社学術文庫版、250頁)。つまり文章は<一貫性のある思想の展開>である。

 

こうした文章のレベルになると、単発の語彙や単純な例文とは異なるレベルの規範が適用される。

 

上記のマルクスの言葉を利用していえば、

 

「実際の社会では利潤率の平均化作用によって価値が生産価格に転化し、価値規定は直接には行われない。それと同じように、実際の文章では語彙や基本文のレベルでの規範(文法)が直接適用されるとは限らない。」

 

ということになろう。

 

英語の看板や見出しなどで、なぜ冠詞や be動詞がしばしば省略されるのか。俳句のような定型が成立する理由と意義、そして文体という文章の個性はどのようにして成立するかといった問題は、文法というより文章規範の問題として考えるべきだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
概念の体系とは? 日本語の「こそあど」が一例

概念は、人々が表現を交換するうちに凝固した、社会的な、既定の観念である。

 

たいていの概念は言語化されており、辞書に載っている。

 

概念の体系の例をあげてみよう。次は、小学校で教える、日本語の「こそあど」図である。

 

 

 

 

こそあど表.jpg

 

 

 

これは概念どうしが自立的につくっている秩序すなわち体系の一例である。ソシュールの「連合」も、概念どうしの抽象的な関係の例である。

 

他方、認識は、個々人が創造する観念である。個々の具体的な認識においては、人はこうした概念の体系をいちいち意識していない。いま抱えている対象をどう表現するかがわかれば十分だからである。

 

概念は、個々の認識とは次元がちがう。われわれの個人的認識は、「こそあど」のような社会的な概念の体系に、無意識のうちに依拠して行われる。言語表現は、個々の認識が概念の体系にのっとりながら表現態に転換されたものである。

 

外国語が運用できるということは、その外国語の概念の体系をふまえて表現できるということである。10歳以降に母語以外の言語を習得しようとするときは、まずその言語の概念の体系をつかむようにすることである。

 

外国語の概念の体系は、まずは母語による説明でつかめばよい。そのうえで、個々の場面の具体的な認識にもとづいて外国語の表現態(音声と文字)で表現していくうちに、外国語の概念がより深く理解でき、正確に運用できるようになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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