ごきげんようチャンネル


"Obama got in, and he is the pawn of globalized interest." Naomi Wolf



概念とは、それに無限に接近する認識の過程である

むかし、

 

 

1=0.999....

 

 

という話を数学の解説書で読んで、腑に落ちない感じが残った。

 

たしかに 0.999... は1にどんどん近づくだろうが、1とイコールだと断定されると、「ほんとか?」と感じたのだ。

 

 

 

そこで、知り合いの物理学者に聞いてみた。すると、両辺を0.999... で割って、

 

 

1÷0.999...=1

 

 

 

と考えたらどうかとアドバイスされた。

 

 

これなら左辺はたしかに1に限りなく近づくから、けっきょく1と同じに扱って良い、と言われれば、少し納得しやすくなる。

 

 

これらの等式は、考えてみればすごいことを言っているのかもしれない。すべての数字は、それに無限に接近する過程を含んでいる。つまり、無限の接近は、それそのものに等しい。あるものに無限に接近することが、そのものを成就するということである。数とは、それに無限に接近する過程そのものだという思想が、ここから読み取れるのではないか。

 

数学の世界では、数字とは、それへの無限の接近のことであると確認されているのだとすれば、概念とは、無限に接近する認識のプロセスだとみなせることになるのではないか。

 

人間は、私的な認識と公的な概念のあいだを、絶えず行き来している。絶えず行き来しながら、個々人は認識を深め、社会が共有する概念を発達させている。してみれば、概念とは、客観的にそこに「ある 1」ように見えるが、主体的には、そこに「無限に近づく 0.999... 」認識のプロセスのことなのだと考えてみたらどうだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
マッカーサーは、なぜ ”I will return.” と言わなかったか

will とshall の違いは、けっこうわかりにくい。日本英語学の大御所・小西友七氏の気のきいた説明があるので、紹介しよう。


太平洋戦争のはじめに、日本軍の急襲を受けたフィリピン駐留の米軍司令官・マッカーサーは、やむなく脱出を決意する。このときのことについて、小西氏は、こう述べている。

 

 

 


「最高司令官のマッカーサーは魚雷艇で脱出をはかるが、そのとき有名な “I shall return.” (私は必ず帰る)ということばを残していく。

このことばが不思議な魔力を与え、フィリピン人を元気づけたらしい。2年後、 “I have returned.” と、この約束を実現したことは戦史をひもとくまでもない。…

will がその時その場の意志をあらわすのに、shall は熟慮の上での判断または決意を表明していると言える。してみると、マッカーサーのことばには、彼のいろいろな複雑な心情がこもっているとみることができる。」

 

(小西友七『現代英語の文法と背景』研究社、1964年、20頁。太字は引用者)

 

 

 

 

小西氏の説明を少し補足すると、willとshall の違いは、次のようなことになる。

 


■will   サンスクリットまでさかのぼると、choose(選ぶ)に通じる語(研究社『英語語源辞典』)。つまり「自分で望んでそうする」という主観的状態をいう。

現代英語では、willは 話者の確信 を意味する。日本語の「だろう」や「つもり」よりも確定的な意味なので、注意が必要である。以前私は、アメリカ人に招待されて、「行くつもりがあります」くらいの気持ちで"I’ll come. "と言ったところ、「来ると決めている」と理解されてしまい、あとで困ったことがある。

will は「未来」を表すと思っている人も多いが、それより、話者が主観的に「確信している」という現在の意味に理解したほうが正確である。たとえば、"He will come. " は「彼は来ると、話者が確信している」という意味である。「彼が来る」のは未来のことだが、話者がそう確信しているのは、現在である。

 


■shall  印欧語根までさかのぼる古い語で、原義はowe(義務を負っている。be obliged to)に通じている。つまり、「外からの力に縛られてそうなるしかない」という客観的状態をいう。shall は、いろいろな状況を考慮したうえでの判断、変更しようのない運命といった重い意味をになうのに適した来歴を持っている。
 

 


これでわかったであろう。



日本軍に雪辱を期するマッカーサー将軍の言葉は、たんに話者の確信にすぎない "I will return." では迫力不足であり、熟慮や運命を重々しく宣言する " I shall return." でなければならなかったのである。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
名文は筆者の自由な視点移動から生まれる 宮沢賢治、志村ふくみ、森鴎外

名文というのは、どういうときに書けるのだろう。

 

この疑問に対する、私の答え。

 

 

 

名文は、対象を見る筆者の目が対象から自立して客観的になり、自由な視点移動が表れているものである。

 

 

 

いくつか短い例をあげたい。

 

 

 

 

 

ひとつは、夜の線路を舞台にした宮沢賢治の「月夜のでんしんばしら」の最後のあたりである。

 

 

 

 

汽車がごうとやってきました。機関車の石炭はまっ赤に燃えて、そのまえで火夫は足をふんばって、まっ黒に立っていました。

 

 

 

 

まず、「汽車がごうとやってきました」のところでは、作者=読者は線路の外に立っている。次の瞬間、「石炭がまっ赤に燃えて」いるのが見える位置へと作者の立ち位置は飛び移る。さらに作者は、「足をふんばって、まっ黒に立って」いる火夫をあおぎ見るような視点へと飛んでいる。

 

このハッとさせるようなスピード感。視点移動の角ばったところが、男性の文を感じさせる。

 

 

 

 

 

もうひとつの例として、志村ふくみの名エッセイ『一色一生』。木を切ったのだが、珍しい色だから見に来ませんか、という電話を受けたときの思い出を、染織家の筆者はこう書いている。

 

 

 

 

私は伺っている中(うち)に、もう血が騒いですぐ車を用意してでかけました。山道は落葉で埋って、歩きにくいのは数知れない団栗(どんぐり)のせいでした。

 

 

 

 

「歩きにくいのは」のところで、文は筆者の主観的目線へとなめらかに飛躍している。電話口から山道の団栗まで、一文で移動してしまうしスピード感もいい。

 

同じ本に、次のような部分もある。

 

 

 

 

どんな時も藍染(あいぞめ)の着物を身につけていた母にとって、日一日紺屋(こうや)のなくなってゆく寂しさは切実で、当時十軒以上あった近郊近在の紺屋に次々糸や布を染(そめ)に出して、滅びないようにと励ましていたが時代の趨勢はどうしようもなかった。

 

 

 

 

「紺屋のなくなっていく寂しさは切実で…」のところで、筆者の目線は母の目線と重なっている。

 

志村さんの文は、「歩きにくい」とか「寂しさ」のような感覚的な目線へとなめらかに移行していくところが、女性らしさを感じさせる。

 

 

 

 

最後の例。三島由紀夫が、寒いので炭火が欲しいと誰かが言った場面で、

 

 

 

炭が来た。

 

 

 

と一言で展開した森鴎外の文につくづく驚嘆したと、どこかに書いていた。三島が驚嘆したのは、「炭が来た」という文が、登場人物の視点も、作者の視点も超越してしまっているからであろう。究極の視点移動である。

 

 

 

 

俳句の「切れ」にも通じるこの種の視点移動は、対象をつき放して客観的に見る筆者の強い視線が、作者自身をも離れて素早く移動するところから生まれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  白い雲の壁が、もしも山脈だったら...

   人間を超える自然の威厳

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
洗練された言語は「姿勢」を伝染させる

逸身喜一郎『ラテン語のはなし 通読できるラテン語文法』(大修館書店、2000年)を読んでいたら、「この本はたんなる文法書ではないな」と思うところがあった。

 

ラテン語が西欧言語の母体のような位置にあることはよく知られているが、著者はその意味を、次のような高いところでとらえている。

 

 

 

「私が常々思っていることであるが、ラテン語が残した最大の遺産は、政治や教会や学問その他、どの分野の基礎をつくったことにもまして、込み入った複雑な内容を、論理構成のしっかりした、曖昧さの少ない文章で書き表すという姿勢そのものであり、かつそれを表現しうる言語体系である。」v- vi頁

 

 

 

具体的な「言語体系」そのものよりも、人間として言葉をつかう「姿勢」。この「姿勢」は、具体的にはラテン語の「言語体系」にもとづくものだし、「それをうんと簡略にすると、つまるところ文法となってしまう」ので、順序としてまず文法から学ぶだけだと。vi頁。

 

言語とは、人間の「姿勢」である。この見方は言語の研究に反省を迫る部分があるように思う。

 

 

 

 

著者は、ヨーロッパの言語たとえば「英語の文体そのものが常にラテン語を手本にして鍛えられてきた」という。9頁。

 

ならば、英語はラテン語から、語彙のほかにどういう影響を受けたのか。本書から例をあげてみると、次はイギリスの貴族で政治家ロバート・セシル(1864-1958)の文章である。

 

 

 

 

 

Our national pride has been fed by histories of the glorious deeds of our fathers, when single-handed they defied the conqueror to whom every other European nation had been compelled to humble itself.

 

 

 

 

著者によると、「この文章は内容のみならず文体までもまさしくキケロ(前106-43)そのもの」だという。276頁。

 

今も英語にCiceronian(キケロ風)という語があるが、この種の息の長い文体がかもしだす「姿勢」はいかにも貴族的で、特殊のようにもみえる。しかし、じつはこうした「姿勢」と、そこに埋め込まれた技法は、現代の英語の背骨をつくっている。

 

 

 

 

現代英語にひきつがれたラテン文の修辞法のうち、目立つのは倒置、強調、省略、挿入、同格の五つであろう。

 

高度な英文は、代名詞と五つの修辞法を自在に駆使して格調と明快を演出し、心地よいメロディーのような重層性とリズム感を実現している。倒置、強調、省略、挿入、同格は、現代の英文法書でも「特殊構文」といった名称で解説されている。これらは平凡を破るという意味で「特殊」であるが、じつは現代の英文を理解するための必須知識でもある。

 

たとえば、報道関係の英文では、ラテン語起源のこうした修辞法は、なくてはならない技法である。例として、ちょっと古いが、TIMEの金正日死亡の記事をみると、挿入や同格によって長文化させながら、他方では省略によって簡潔化する技法を駆使している。

 

 

 

But the ridicule could not conceal that North Korean leader Kim Jong Il, who died at age 69 on Dec. 17, was able to maneuver his small, totalitarian nation into a force that compelled deep concern and even fear from among the world's powers. He did so at a great cost to his people, millions of whom died in famines in the 1990s and hundreds of thousands who are enslaved in prison camps. 

 

 http://www.time.com/time/world/article/0,8599,2102768,00.html#ixzz1gzRXzlkO

 

 

 

 

われわれがきちんとした英文が書けない読めないとしたら、その原因のひとつはこのような伝統に裏打ちされた修辞法に習熟していないことにある。

 

 

 

「文体のないところに文化はなく、ヨーロッパの文化のエッセンスはラテン語の文体に凝縮されている」(逸身前掲書、v頁)

 

 

 

そうだとすれば、われらが日本語の文体はどうなのだろう。おそらく和文と漢文と英語に代表される西洋語がミックスしたものなのだろう。そして、ラテン語がヨーロッパの精神の「姿勢」を整えたように、日本語の文体もわれわれの精神の「姿勢」をつくっていることになろう。

 

外国語を学ぶことの究極の意味は、文法でも語彙でもなく、価値ある文体すなわち<もうひとつの精神の姿勢>を身につけるチャンスを与えられることにあるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 20:06 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
概念とは、ものごとの「種類」の側面の超感性的認識

音韻(phoneme。この語は、現在は「音素」と呼ぶことも多い)とは何か。

その本質をズバリ言っている文がある。

 

 


「音韻とは音声の、言語規範によって規定された種類としての側面である。」(鈴木覺「関係詞論」佐良木昌編『時枝学説の継承と三浦理論の展開 (言語過程説の探求)』明石書店、2004年、179頁)

 

 


ここで音声の「種類としての側面」とは、音波の感性的なあり方が一定の種類に属しているという側面をさす。

 

他方、概念とは、対象の感性的な側面ではなく、超感性的な「種類としての側面」でとらえたものである。たとえば、リンゴという「種類」の概念は、対象に共通する感性的な側面を土台としながら、個々の感性から独立した超感性性(普遍性)を内容とする。このような概念による対象把握は、他の生物にはない人間特有の能力である。

概念は人間の心のあり方で、それじたいは音も形もない。この無色透明な概念を日本語の音声や文字に変換すると、「リンゴ」という語になる。いったん「リンゴ」という語を覚えた人は、丸くて赤いといった感性的な特殊性の認識を止揚して概念をつくり、心内に保存していた表現規範(語彙)にあてはめて、「リンゴ」という音声や文字で語る。このとき、リンゴという語の音声や文字は、もはやもとのリンゴとはかけ離れている。


これでわかるように、言語は対象の諸性質をいったん超感性的な概念に止揚したあと、感性的な存在である音声や文字に変換することで成り立っている。もとのものとは似ても似つかない音声や文字に変換されたからこそ、私たちは対象が目の前になくても語を操作できる。こうしてわれわれは概念によって自由に思考し、それを表現できる。

 

 

...

 



概念とは、算術的な最少公約数、共通する特徴のことだ、という言い方がある。形式論理学では、普通、そういう説明をする。イエスペルセンは「平均」といっている。概念をこう理解するのも間違いではないが、概念は個々の事物から独立した心内の観念であること、それを表現するには、感性的なもの(音声・文字)に結びつく必要があること、概念が媒介になって、はじめて個々の認識が普遍的な表現を得ること。そういう仕組みを知ることが大事である。


三浦つとむは、「家」という概念を例にして、次のように述べている。「家」といっても、木か煉瓦かなど、具体的感覚的はさまざまであるが、

 

 


「言語で扱うときにはそれらの具体的な感覚的なありかたをまったく無視して、この種の建造物のもつひとつの共通性だけを認識し、そのような種類に属するものとしてとらえた上で、この認識を示す方法をとらえなければならない。…

言語で扱うときには、対象の具体的な感覚的なあり方をまったく無視して認識しているのに、それを他の人間に伝えるには音声や文字の具体的な感覚的なありかたによらなければならない(これはひとつの矛盾である)から、その認識と音声や文字との結びつきを規定する規範がどうしても必要になるのである。

この矛盾の存在とその解決のしかたを理解することこそが言語の謎を解く鍵である。」三浦つとむ『日本語の文法』10頁。

 

 

 

 

 

...


 

 

 

たとえば、英語の諸概念を支える深層の概念、つまり<概念の概念>を探ると、<個・回・種>、あるいは<構造・反復・分類>という三種が浮かび上がってくる。

 

たとえば、冠詞の a(n)は、ある実体概念が、その場面のなかで具体的にはどのように存在するかをいう概念で、個・回・種の三つの認識レベルがある。個は、その実体が構造体の一例として認識の場に登場しているという認識である。回は、その実体が反復体の一例として、種はその実体が分類体の一例として、認識の場に登場しているという認識を述べる。いずれも表現は、a(n) となる。

 

個・回・種のうち、もっとも基本的なのは、種すなわち分類体の一例としての実体認識である。個や回は、その実体がある種類に属しているという「種」の認識が前提となって、はじめて成立する認識だからである。


冠詞 a(n) が示唆していることは、実体を分類して認識したうえで(つまり概念として成立させたあと)、さらに反復とか構造といった属性を付加して、実体概念を立体化していく。これが英語の実体認識の、論理的な成立事情ではないかということである。

 

こうして成立した実体概念は、文の主語として最初に提示され、次に、この実体がその時もつ属性(動態、状態、それらの様態)が述べられていく。これが英語の文の基本となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 07:40 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
" you" はなぜ単数も複数も同じ形か?

 

西洋語では、敬称の二人称複数と二人称単数が同じ語であることが多い(英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語など)。

 

なぜそうなったのか。

 

まず、ローマ帝国以降、支配者が自分自身を"we" と呼ぶ習慣がヨーロッパに広がった(royal "we" )。

 

それに対応して、各地で臣下が支配者(単数)を複数形で呼ぶようになった。たとえば英語の場合、複数の聞き手を表す youが、臣下がうやうやしく支配者を呼ぶ言葉となった(you の起源は、古英語の ye の目的格複数形)。

 

つまり、支配者は一人しかいないのに、自分のことを we と呼ぶので、それに向かって呼びかけるには、複数の意味の you がふさわしいということになった。

 

そこから始まって、やがて支配者だけでなく、一般の人たちも、敬称的に単数の聞き手をyouで指すようになった。

 

(以上、江川泰一郎『代名詞』研究社、1955年、6、8頁)。

 

 

もちろん、もともとyouは複数形だから、複数の聞き手も指す。

 

 

こうしてけっきょく、聞き手が単数であっても複数であっても、英語では you で呼ぶことになったらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 20:52 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
私が冠詞を重視するわけ

英語の冠詞とは、正確にはどういうものなのか。どう理解すれば、誰でもちゃんと使えるようになるのか。

 

 

冠詞を本気で解明したいと私が思ったのは、ある文法書に対する怒りがきっかけだった。

その文法書とは、江川泰一郎『英文法解説』(金子書房)である。1991年に初版が出た黄色いカバーの分厚い参考書で、英語教師ならたいてい知っている、有名な本である。説明が詳しいので定評がある。

十年以上前のこと、これを読んでいたら、信じられないようなことが書いてあるのに目がとまった。そのまま引用してみる。
 

 

 


「『加算と不加算の区別は、その名詞の示す事物の実体とは必然的な関係はない』とQuirk [英語学者の名前] が言っているが、そのとおりであろう。上のwork以下の名詞がなぜ不加算なのかと問われても、決め手になる論理的な説明をすることはできない。たまたま英語では不加算名詞として扱われるということである。」10頁
 

 

 


ある名詞が不加算名詞なら、いわゆる「数えられない名詞」なので、冠詞 a をつけない。つまり、不加算かどうかはまさに冠詞の問題になる。そして英語ネイティブの偉い文法学者も、日本の真面目な英語学者も、いくつかの名詞が不加算である理由は「説明できない」、「たまたま」そうなっているだけだ、というのだ。

私は、思わず声を出しそうになった。ちょっと待ってくれ。この人たちは「文法学者」ではなかったのか? ならば「理由はわかりません」「たまたまそうなっています」とは、責任放棄ではないのか?


 

この本の冠詞の章には、こんなことまで書いてある。toothache(歯痛)やstomachache(胃痛)は、アメリカでは加算名詞だが、イギリスでは不加算名詞になることもあることを紹介したあと、
 

 

 


「こういう問題は細かいことを言い出すと際限がなくなり、われわれ非英語国民には手の出しようがなくなる。冠詞の一つや二つはどうでもよい、と開き直ったほうが賢明であろう。」126頁
 

 

 


「冠詞の1つや2つはどうでもよい」!? これは、文法学者の敗北宣言ではないのか。「気にしなくてもいいよ」と寛容にアドバイスしているように見えて、じつは自分の無能をさらけだしているのではないか。

といっても、私は著者・江川泰一郎氏個人を批判するつもりはない。考えてみれば、学校で教わる「文法」はすべて、「なぜそうなるか」については説明せず、「こういうケースと、こういうケースがあるから、マネしなさい」と分類しているだけである。江川氏が冠詞を「説明できない」「どうでもよい」と言っているのは、「私にも分類に困るケースがある」と告白しているのであって、むしろ正直な態度というべきかもしれない。

それにしても、専門の文法学者がこの調子である。

私は、この状態が許せなかった。「冠詞くらい、まあいいじゃないか」という人は多いが、しょっちゅう使う冠詞が、いまだにちゃんと説明できないのはなぜか。「とるにたりない」なら、いらないようなものなのか。ではどうして、冠詞のない英語は考えられないと英語話者は言うのか。

大学院生のころ、わからないもの(冠詞ひいては英語)を、わかるかのような顔をして予備校で教えた私。冠詞すらわからないのに、わかったような顔をして英語を教えつづけている学校。そして、わからないことが自分の責任であるかのように思い、勝手にあきらめていた自分と、英語に多大の時間をかけながら、冠詞ひとつ運用出来ない人々のみじめさ。こういうものすべてに、私は怒りを感じた。
 

 

 

冠詞の理解と運用が難しいことは、よく知られている。冠詞の有無が入試問題などでめったに出題されないのは、ネイティブを含む出題者でさえ、冠詞がきちんと説明できないという事実が背景にある。アメリカの大学院に8年いた日本人が、英語を書くといまだに冠詞を直されると嘆いていた。

 

今思い返せば、江川氏の真意は、実用的には冠詞の細かいことまで気にしなくて良いということであり、それはそれで間違っていない。冠詞は、たとえ誤っても大意を伝えることはできるからである。だが、英語学、文法学が、いまだに冠詞をうまく説明できないという事実は残る。

 

これは、今の言語学の方法では、まともに文法が説明できないことの証明だと、私は受け止めた。小さな冠詞さえまともに説明できないとということは、人間が言語にバカにされているということではないかとも感じた。

 

 

 

冠詞は、英語を数行書き、数分話せば、必ず何度か使うほどの基本語である。ところが、冠詞のまともな説明が、いまだに存在しない。

 

多くの日本人がなかなか英語を使えない、何年もやったのに自信が持てない、という批評はよくある。その原因は複合的なのだが、重要な原因の一つは、これほど重要な冠詞の説明が、英語研究者の無能と怠慢によってなおざりにされ、その結果、全国の教室でほとんど練習されないからである。

 

幸か不幸か、日本語には冠詞にあたるものがない。だから英文和訳のためには、英語の冠詞をきちんと理解する必要があまりない。日本の英語学習が「英文和訳」を中心にしてきた理由の一つは、和訳なら冠詞をまともに扱わなくてすむからである。こうして冠詞はたいてい無視され、きちんとした訓練も行われない。その結果、生徒は自分の話す英語に自信が持てないという悪循環が続いた。

 

「冠詞など気にしないで、どんどん話して」という英語教師やネイティブは多い。たしかに、冠詞を気にして英語が話せないとすれば、本末転倒である。だが、理解していないのに「どんどん話し」て、冠詞が正確に使えるようになる大人は少ない。

 

 

冠詞ひとつ運用できなくて、まともな英語学習と言えるか。そここそ、日本の英語の欠陥の代表的なものではないかと反省する必要もあるのではないか。冠詞の訓練をしよう! そういう議論が起こらないところに、日本の英語論の根本的な、歴史的な、欠陥がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    濃尾平野の夕刻  雲はもう秋

     白い穴のような月が 宇宙に浮かぶ

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 04:58 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「影の国」を明るみに出す 媒介の仕組みを知るのが科学

物理学の益川敏英氏の一般向けの本を読んでいたら、万有引力について、わが意を得たという感じの一節があった。

 

 

「いま考えるとおかしなことです。たがいに離れたところに物質が二つあって、そのあいだに距離の二乗分の一の力がはたらくといいますが、どうしてこんなに離れているのに力がおよぶのか。」(益川敏英『素粒子はおもしろい』岩波ジュニア新書、2011年、55頁より要約)

 

 

 

そこで、いまの物理学では万有引力は「重力波」というもので説明されていて、

 

 

 

「質量をもっているものが重力波を出し、それをもう一方のものが受けとる。その結果として力がおよんだように見えるわけです。…重力があると、私たちの空間はゆがむ。そのゆがみが波となって伝わった結果として、質量と質量のあいだに力がはたらいたように見えるということです。」(同上書、55-56頁)

 

 

 

ということらしい。

 

 

重力波 gravitational radiation とは、重力の場が波動の形で伝わるもので、その伝わる速度は光速度と同じだという。(同上書、56頁)

 

もともと万有引力は、物体が引き合う現象についての媒介の発見であった。重力波の発見は、さらにその万有引力を生む媒介を明らかにした。科学とは、媒介の解明であると言える。

 

 

 

 

ところで、ヘーゲルは、自分の論理学が日陰の存在=「影の国 das Reich der Schatten」であることを自覚していた。しかしヘーゲルは、浅薄な「教養」(派手に見える「光の国」)ばかりが流行するドイツの現状にとって、論理学は必要なものだという信念ももっていた。そして論理学を通して、「思想が自立性と独立性を獲得する」ことが「とくに大事なこと」だと述べた。(ヘーゲル(武市健人訳)『大論理学』上巻の1、46頁)

 

論理という媒介の世界=影の国を正面から解明して、論理を「意識された力」(ヘーゲル同上書、45頁)とすることが、人間の自立と独立を可能にするということであろう。

 

 

 

 

科学とは、媒介の探求によって、影の国を光のもとに照らし出すことである。科学は、現象の背後にある媒介の解明によって、人間にとって自然を「意識された力」にしてきた。科学によって、人間は自然から自立し独立できるようになった。

 

言語についても同じことがいえる。言語は、現象としてすでに私たちのもとにある。数百年前に万有引力という物体間の力の媒介が発見され、今では万有引力よりもさらに根本的な媒介として、重力波が明らかにされた。これと同じように、言語という現象を媒介する「影の国」の論理が明らかにされるにつれて、人間は言語から独立し、いっそう自由になれる。

 

 

 

 

 

...

 

 

 

資料:ヘーゲル「影の国」論

 

「論理学の体系は、影の国(das Reich der Schatten) であり、あらゆる感性的な具体的形態から離された、単純な本質性の世界である。この学の学習、この影の国での滞在と研究は、意識の絶対的な教養であり、純真な訓練である。ここでは意識はいろいろの感性的直観や目的から、感情から、或いは単なる日常の観念の世界から遠離した仕事にたずさわる。消極的な面から見れば、この仕事は互いに対立する理由を勝手に並べ立て、主張する、屁理屈をこねる思惟や恣意の偶然を斥けることである。」(ヘーゲル(武市健人訳)『大論理学』上巻の1、46頁)
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 07:50 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「時制」とは、個別的認識の社会的概念による表現である

溝越彰『時間と言語を考える』(開拓社、2016年6月)は、話題豊富で、著者長年の時制研究の成果と、学界の現状もうかがえる好著。

 

 

ここでは、同書の一部を紹介しつつ、私の時制論をメモしておきたい。

 

 

...

 

 

 

この本には、次のような記述がある。

 

 

 

「[能動態と受動態など、他の「文法的な仕組み」と同様に] 時制も、発言内容を相手にどのように受け止めてほしいかということを示す重要な標識であり、聞き手は、真偽判定にあたって、それに基づいてどのように対処すべきかを決める。

 

たとえば、「現在時制」というのは、真偽が現在の状況に関わっていることを示す標識であるし、一方、過去の出来事は、基本的に、発話者が自分の記憶という心の世界に基づいて述べるわけであり、「過去時制」とは、そのことを明示する標識である。」26頁

 

  

 

文意は、現在時制は「現在の状況」、過去時制は話者の記憶という「心の世界」を述べるものであり、こうした現在とか過去といった時制は、聞き手が「真偽判定」するために必要な仕組みだ、ということのようである。

 


 

 

 

 

先に引用した文に、過去時制は「心の世界に基づいて述べる」とあった。

 

ただ、考えてみれば、「心の世界に基づいて述べる」のは、過去だけではなく、現在時制でも同じである。なんであれ、話し手の「心の世界」にないものは、言語で表現されることはないからである。

 

言語による表現の直接の対象は、自分の抱いた観念であって、現実の世界そのものではない。「明日は土曜日だ」というとき、「土曜日」は自分の抱いた観念にすぎず、現在の現実ではないが、立派に言語による表現になっている。

 

また、「明日」が現実に「土曜日」であるかどうかも、言語表現であるかどうかには関係がない。現実に明日が土曜日であろうがなかろうが、「明日は土曜日だ」は、完全な言語表現である。

 

「心の世界」とは、つねに「現在の状況」のことであるともいえる。過去時制とは、「それは過去のことだ」といえるような「現在の状況」のことだともいえるからである。

 

こう考えてみると、言語には、話者が置かれた現実の世界や、その場での認識とは違うレベルがあり、「時制」もそうしたものではないかと思われてくる。

 

概念の体系の一部である「時制」は、話し手が具体的な場面で「現在」とか「過去」とか思っているのとは違う、もっと社会的で抽象的な、独立した概念の世界をつくっているのではないか。言語は、人が抱いた観念(感覚・感情・認識を含む)を、概念のレベルで述べる表現であって、必ずしも現実に拘束されない。

   

そうすると、多くの言語に「時制」の体系が存在する第一の理由は、概念どうしが互いに関係を整序するため、ということになる。時制とは、概念どうしの関係を規律する規範であって、個々の人間が認識する「現在」や「過去」よりも高次の体系を構成している。

 

これを話し手から見れば、個人的につくった、自分と対象、及び対象と対象の間の時間的関係の認識を、社会的に承認された「時制」の概念によって表現している、ということである。

 

時制論は、この社会的に承認された、概念どうしの関係の整序の規範を明らかにするところから始めるのが良い。同じ現実や対象でも、言語ごとに異なる時制で表現することになる。時制とは、各言語が発達させた、現実や対象から独立した、抽象的な観念の体系だからである。

 

 

 

...

 

 

 

上記の引用文中にある、聞き手が言語内容の「真偽判定」をするために時制表現が必要だという側面は、概念どうしの相互関係という第一の次元とは別の、社会的な実用レベルの話である。

 

もちろん、絶え間なく「真偽判定」を必要とする現実世界のあり方が、概念の整序規範たる時制を出現させる母体でもあるのだが、「真偽判定」じたいは、概念の問題というより、生身の人間どうしの関係のレベルで問題になることである。

 

 

 

...

 

 

 

最後に、溝越氏の本は、言語には、その使用目的を反映して、「三つの機能的側面」があるというハリディ Halliday の文法論を紹介している。185-186頁。

 

 

ヽ鞠暗機能 .. 話し手が把握した事態を表す。

対人関係的機能 ... ,報告なのか疑問なのか命令なのかといった発話態度を表す。

テキスト形成的機能 ... 文のなかのどれがテーマで、どれが重要な情報かなどを表す。

 

 

時制も、こうした三つの機能を担う「一人三役」であろうと溝越氏は述べているから、本書は、おおむねハリディに賛同しているらしい。187頁。

 

こうした目的・機能論は、近代から現代にかけての「理論」にしばしば現れ、大学の講義でもよく使われる。たしかに、こういう「理論」は、多様な現象を有限の項目に整理してくれるという良さがある。現在、日本の学校で教えている「修飾語」といった文法用語も、「修飾する・される」という機能による分類の発想である。

 

ただ、ハリディの「三つの機能的側面」をみても、言語の本質がなんであるかは不透明である。時制の「機能」は説明しているかもしれないが、けっきょく時制とはなんであるかは、よくわからない。まして、外国語の時制をどう習得すればいいかも、よくわからない。

 

 うまく整理してあるように見えて、本質は不明。これが機能論的説明の問題点である。

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 21:06 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
言語神授説と言語芸術説 形式しか扱わない純粋さと薄っぺらさ 

「ヨーロッパの文法論や言語学に、科学と名のる資格があったかどうか、実はそれすら疑問だったのである。」

そう喝破した本がある。(三浦つとむ『日本語の文法』勁草書房、1975年、2頁)

西欧言語学には、そもそも科学を名のる資格がない。それはどういう意味なのか。

 





言語学の田中克彦氏は、西洋言語学を研究するうちに、「西洋の言語の思想の根底には、ことばは神が作って人間に与えたものだという『言語神授説』のかげがいつもつきまとっている」ことを発見したという。
 

 


「神の作りたもうたものは完全である。そして完全な製作物は一つしかない。人間はただひたすらそれをおしいただいて使わせていただいているだけだ。そのような完全な製品−言語は人間から独立して存在していなければならず、変化してはならず、たとえ変異が現れたとしてもその多様は見かけにすぎず、本質を表すものではない。」(田中克彦『言語の思想』岩波現代文庫版、原著1975年、vi頁。太字は引用者)

 



西洋言語学には、こういう言語神授説の発想が隠れている。構造言語学しかり、チョムスキーの「言語についての生理神学」しかり。(同前書、v頁)

西洋言語の文法がラテン語を範としてつくられたことも、言語神授説のひとつの背景になったかもしれない。ラテン語はカトリックの正統言語であり、神と語る言葉であったからである。
 

 

 

 

木田元氏は、西洋哲学における「理性神授説」の伝統を指摘している。

木田氏は、ニーチェ以前の西洋哲学は「なんらかの超自然的原理を設定し、それを参照しながら存在するものの全体を見るような、かなり特殊な思考様式」であるという。(木田元『反哲学入門』新潮文庫、2007年、43頁)

日本人は、自然を超越した「超自然的原理」という発想はあまりしない。その意味で西洋哲学はわれわれとは「思考の大前提がまるで違う」。(同前書、45頁)

たとえば、デカルトのいう「理性」とは、われわれがなんとなくイメージするように「人間の認知能力の高級な部分」などというものではない。人間の理性とは、「われわれ人間のうちにあるけれど、人間のものではなく神によって与えられたもの、つまり神の理性の出張所のようなもの」のことである。(同前書、45頁)

神は世界創造の仕上げとしてみずからに似せて人間を創造した(創世記)。したがって理性の本部?は神そのものであり、神の出張所たる人間は、神から分け与えられた理性をうまく使うことで、同じく神の創造物であるこの世界を成り立たせている原理を正しく認識できるはずだ−。これがデカルトの根本発想であった。(同前書、155頁)

神学校の生徒だったころのヘーゲルの記録を調査したディルタイ『ヘーゲルの青年時代』(久野・水野訳、以文社、1976年、原著1906年)を見ると、愛とか神とか理想といった抽象概念の探求に青年ヘーゲルが没頭したことがうかがえる。異様なほどの「超自然的原理」による思考である。ヘーゲル哲学の背景には、「理性神授説」があった。
 

19世紀までの西洋哲学は、神授的理性の追求であった。言語学も、その理性を表現する神授的表現形式の探求という傾向があった。

 

 


人間の能力である言語と理性、そしてこの世界そのものが、神からの授かりものであるー。 この感覚は、西洋の学問を長いあいだ規定した。

 

言語が神からの授かりものであるなら、神秘的なほど美しい秩序が内在するはずである。たとえ言語神授説を意識せずとも、言語学が他の学問の侍女たる地位を脱するためには、言語の神的な秩序を証明する必要があった。

 

そして、近代になって言語神授説が力を失ってくると、今度は言語芸術説が言語学のアイデンティティを(秘かに)支えた。言語学は、「体系としての純粋性を汚すいっさいの環境から解放」されようとし、政治も社会も文化も「閉め出す」方向にすすんだ。(田中克彦『言語の思想』前掲、iv頁) その結果、田中克彦氏が「純粋で繊細」と呼ぶような成果が得られた。
 

 


「近代言語学の体系がいかに美しく、純粋に、繊細に作られているか、およそことばにかかわる仕事に従事する人、とりわけおそれを知らぬ言語評論家たちには、ぜひ一度のぞいておいてほしいものだ。それはまるで芸術作品だと言ってもいいくらいである。」(田中同前書、iii頁)
 

 


田中氏が「芸術作品」というのは、おそらく音素の構成とか、音声の響きとか、文字の体系とか、代名詞の変化とか、動詞の活用表とか、連辞関係とか、文法の体系全般のことであろう。いずれにせよそれは、言語の形式的・感性的側面を指している。
 

 

 

形式的・感性的な側面への着目は、言語体系の純粋さと繊細さを際立たせると同時に、薄っぺらな言語観を生む原因にもなった。

言語学の薄っぺらさを象徴するのが、「概念 concept」についての態度である。

 

 


「言語の意味とは、ソシュールによれば所記(シニフィエ)であり、それは概念からなる。

ところが、意味を概念であるとする考え方は、サピアなどの文化人類学的言語学者の間では受けいれられたが、20世紀の多くの言語学者は概念というものがあいまいでよく理解できないため、この考え方に抵抗を感じてきた。たとえばアメリカでは、20世紀半ばまで行動心理学が支配的だったこともあり、概念を科学的な言語研究にもちこむことに躊躇があった。

しかし認知意味論は意味が概念的なものであることを抵抗なく受け入れる。その背景には、認知心理学が発展したため、概念という考え方に抵抗がなくなったことがある。」(松本曜『認知意味論 シリーズ認知言語学入門 第三巻』大修館書店、2003年、4−5頁より要約。太字は引用者)
 



そもそも言語は、概念(対象を普遍性の側面において把握した認識)による表現であり、言語学者が意識しようとしまいと、言語学は日々概念を扱っている。<概念>という概念に「多くの言語学者」が「抵抗を感じてきた」とすれば、それは驚くべきことのように思われるが、これまで見てきた西洋言語学の来歴を考えると、不思議ではなくなる。

言語神授説や言語芸術説を暗黙の前提にした言語学は、概念ぬきの形式的な学問になりやすい。神は概念ではなく全体であり、美は概念ではなく感性だからである。

言語学が美しい形式を探求する学問になったことから出てくるひとつの問題は、西洋の言語学が、「それ[言語]を話す人間をも閉め出」してしまったことであった。(田中克彦前掲書、vi頁)

言語は、具体的な人間が具体的な対象について語ることが原点である。ところが、言語表現から人間(表現主体)を排除することも可能である。

 



太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

 

 



三好達治の詩だが、「それで、太郎を眠らせたのは誰?」という質問がネットにあって、笑ってしまったことがある。この詩は「誰が、いつ、どこで、なぜ」といった内容上の具体性を極限まで薄めることで、静かな表現効果を生んでいる。言語はこのように、話し手を脱落させて抽象的にも表現できるし、それを理解することもできる。

 

人間を閉め出した言語表現を、人間を閉め出したまま分析することもできる。言語が表現する対象とは別に、言語による表現じたいが、独立した具体的な認識の対象になるからである。

上の詩の例でいえば、「太郎」と「雪」が文法的にどうつながっているかを論じることは可能であり、そのさいの「太郎」や「雪」は、分析の対象として十分に具体的であって、そこでは「誰が書いたか」といった表現主体の問題は無視できる。

たとえば、西洋流の言語の説明は、「これは文中のこの語を修飾している語である」といった独特の表現をする。
 

 


「現在の文法論は…語と語との結びつきは修飾であるとい、修飾語と被修飾語という機能関係で片づけてしまう。これはヨーロッパの文法論から借りてきた扱い方である… こんな解釈で文の構造を法則的に説明したかのように思っているとしたら、大きな錯覚である。文法学と称しても科学ではなく、大学を受験する青年を苦しめるくらいの有用性しかない。」(三浦つとむ『日本語の文法』勁草書房、1975年、36-37頁)
 

 


文中で互いに修飾し修飾される語どうしの構築物。この意味での言語は、ガラスの馬車の置き物のように、純粋で、薄っぺらで、手軽で、動かない。

現代の言語学者にとって、言語はもはや神の秩序の証明でもなく、芸術的作品でもないかもしれない。しかし、今日の言語学の研究書は、言語神授説や言語芸術説に淵源する、動かないガラスの馬車を制作している。

 

西洋の言語学が対象にしているのは、「人間をも閉め出してしまった」(田中克彦)言語表現である。それは言語の普遍性に着目するから、抽象的であり、文中の語どうしの関係だけを問題にするから、具体的である。


個々の語の意味を探求したり、語どうしの関係を記述して満足すること。すなわち形式や機能にしたがってガラスの部品をつくり、ミニチュアの馬車を組み立てて楽しむのは、自由かもしれない。しかし、動かない置き物に乗って、それを動かせるようになる人は少ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 07:46 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
#誰が書いてるの?
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
<< September 2017 >>
-->
#新しい記事
#過去の記事
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人
敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人 (JUGEMレビュー »)
ジョン ダワー, John W. Dower, 三浦 陽一, 高杉 忠明
#著書/共著
敗北を抱きしめて 下 増補版―第二次大戦後の日本人
敗北を抱きしめて 下 増補版―第二次大戦後の日本人 (JUGEMレビュー »)
ジョン ダワー, John W. Dower, 三浦 陽一, 田代 泰子, 高杉 忠明
#コメント
#トラックバック