ごきげんようチャンネル


たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう.

               嘆異抄

『資本論』はあちこちに欠陥がある だから面白い

マルクスの『資本論』は、やはり魅力のある本だ。しかし、あまり

神聖視?しないほうがいいと思うこともある。

 

読み込んでいくと、重複があったり、構成がわかりにくかったりする。

欠陥もかなり目につくのだ。

 

たしかマルクスは、自分は『資本論』を後半のほうから書き始めたのだ、と

誰かへの手紙で述べている。ということは、誰もが読み始める第一巻は、

マルクスが後で書き足したものだということになる。

 

第一巻の内容は、彼がすでに経済学批判などで詳しく考察したことの要約だったり、

マルクスにとっては解決済みの初歩の概念の説明だったりする。

 

第一巻、とくに前半部分の執筆は、マルクスにとってはあまり気が進まない

作業だった。構成上必要だから書いておくけれど、あまり楽しい仕事ではない…

 

そういう淀んだ気分が、第一巻前半のスピード感のない叙述の雰囲気に

出ていると思う。

 

考えてみれば、ワープロもない当時の環境のなかで、あれだけ膨大な原稿を

秩序だてるのは大変な作業であり、叙述の重複や構成の欠陥は避けられ

なかったと思われる。

 

しかし、そういう欠陥があるからこそ、『資本論』は人間的な魅力を

放っているともいえる。読み手としては、そういう欠陥を心得ることで、

この名著からより深い知恵を汲み出すことができる。

 

そういう本でもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 19:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「影をなくした男」考 影は超越のシンボル
シャミッソー(池内紀訳)『影をなくした男』(岩波文庫、原作1814年)


自己論の参考になるかも…と思って読んでみた。

もしも人間に影がなかったら、この世のものではない。

この作品は、主人公が影を売ってしまったことがいろいろな不幸を呼ぶのだが、その事情について説明不足の感じがあって、私は楽しめなかった。


作者のシャミッソーは、フランスの貴族の家に生まれたが、フランス革命で一家は特権を剥奪され、15歳からドイツに住んで、「フランス系ドイツ人」ともいうべき、祖国のはっきりしない人物になったという。そこで、この作品の「影」とは、彼が亡くした祖国のことだろうと推測した人が多かったらしい。(訳者解説、146頁)

なるほど祖国は、なくしてはじめて意味の大きさがわかる。そこが影に似ている。



さて、巻末にある訳者の回想によると、子どものころ影踏みごっこをしていたら、ふと、影のほうが主人公で、自分はその従属物のような気がしたという。



「自分が黒い小鬼の指図のままに身ぶり手ぶりをしているような気がして、おもわず足をすくませた」137頁




私には、訳者のこの言葉がいちばん面白かった。



自分の従属物であるはずの「影」が自立し、自分を支配しはじめる。

精神の不安定は、なべてこうして起こる。

この作品は、そういうテーマの展開だと思えばいいのだろう。




自分の影は、自分につきものである。自分が影(もう一人の自分)をつくり、これによってわれわれは時空を超える。



最後に、この作品に附属している詩の一節を引いておく。


「影とはなにか?

どうして世間は意地悪く

これほど影を尊ぶのか

ぼくがこの世に生をうけて以来

53年の歳月が流れたが

その間ずっと影が命だったでもいうのだろうか

命が影として消え失せるのに」134頁













 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 17:54 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
プルーストの「私」について なぜ「私」が<普遍的非人称>になれるか
マルセル・プルースト(1871-1922)の「失われた時を求めて」の「私」について、興味深い指摘をした本があることを教えてくれた人がいた。



鈴木道彦『マルセル・プルーストの誕生』(藤原書店、2013年)



プルーストの「私 je」は、プルースト自身というより、むしろ、



「人間の原型、普遍的で非人称的な、同時にプルーストでもあれば全人類でもある原型」



であるというのである。68頁。



これは当時の現象学や匿名性の文学と関係があるというが 26頁、ここでは、なぜ「私」が一人称の限界を超えて、普遍的な非人称として自立できるか、ということについてメモしておきたい。


英語の "I" も同じだが、一人称とは、話し手が自己を話し手として認識したことを表す呼体詞(いわゆる代名詞)である。

呼体詞に限らず、言語があらわす概念には、具体性とともに普遍性がある。たとえば、すべての具体的な個人は、誰もが自分を "I" と呼ぶ。この "I" は、他にはない具体的な「私」であると同時に、<自分にとっての自分>という普遍的な関係(誰もがもつ関係)を表現してもいる。

だから、プルーストが「私」と書いているのをみて、われわれは、それが作者プルーストであると同時に、われわれ自身のことでもあると了解することができる。

プルーストは、<具体的であると同時に普遍的>という言語の性質を利用して、いったん読者の「私」に入り込む。この回り道をたどって、プルーストは、他者と自分をふくむ普遍的な「私」に到達しようとしたのである。(66頁同旨)



プルーストがこの作品のなかでほとんどすべて「私 je」とだけ述べて、それが誰であるか、固有名詞で示さなかったのは、「私」が誰でもあることを示唆するためであった。

ならば 「私」でなくて、「彼」でもよかったのかもしれないが、「彼」だと女性ではないという限定がつくこともあって、プルーストは「私」を選んだのかもしれない(じっさい、プルーストは同性愛者でもあった)。


プルーストの「私」は、具体的でありながら普遍的という概念の本質が、芸術の志向力によって異様な力を獲得した例なのだ。



最後に、本書からプルーストの言葉を引いておく。



「文体というものは、ある人びとが考えているのととちがって、いささかも文の飾りではありません。技術の問題ですらありません。

それはー画家における色彩のようにーヴィジョンの質であり、われわれ各人が見ていて他人には見えない特殊な宇宙の啓示です。」472頁。










 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 18:25 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
はたらく・働く・はたラク 
久保田淳ほか『人生をひもとく 日本の古典第二巻 はたらく』(岩波書店、2013年)の「まえがき」に、「はたらく」という言葉について解説がある。

そこに、二つ意外なことがあった。



ひとつは、「働く」という漢字が、中世につくられた日本製の国字だということ。vi頁。

国字というと、峠や辻がよく例にあがるが、「働」の字が日本製だとは、私は気づかなかった。



もうひとつは、「はたらく」という言葉じたい、ごく古い時代には存在しなかったらしいということ。vi頁。

労働にかかわる言葉として、「追う」「釣る」「織る」「作る」などはあるが、「はたらく」は、時代がすすむまで「見当たらない」のだと。

筆者の久保田氏は、


「多岐にわたる労働を一括して『はたらく』と捉える考え方は、上代もかなり下るまで生じにくかったのであろうか。」vi頁


と書いている。

ちなみに、『岩波古語辞典』には、「はたらく」の項はあるが、語源については解説がない。比較的新しい言葉であるために、語源が論じにくいのかもしれない。



たぶん、「はたらく」が比較的新しい言葉であることと、「働く」の字が国字であることは、なにか関係があるのだろう。









個々の労働を総括する「はたらく」という言葉は、ごく古いころの記録にはない。

これは、私にとって興味深い。

平安時代にはいってから、労働関連の概念を総括する多義語(一般的等価形態)である「はたらく」ができたのである。

それは、種々の具体的有用労働の違いを超えて、単一の人間的抽象労働の概念に上流階級が到達した瞬間であったのだろう。




言語についても、同じようなことを考えてみる価値があるかもしれない。

そう思って、ふたたび『岩波古語辞典』をみると、「語る」「告ぐ」「宣(の)る」「言ふ」「話す」といった語はのっているが、それぞれ違う語義であり、これらを一括する言葉(一般的等価形態)は見当たらないようだ。

しいていうなら、労働が「ものづくり」なら、言語は「ものがたり」「ものがたる」なのだとすれば、少しは辻褄があうのかもしれない。





日本人は、労働については一般的等価形態となる概念(「はたらく」)に到達しているが、言語についてはいまだに一般的等価形態となる概念を見出していないということなのかもしれない。











 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 15:39 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「影」としての言語 おわり
言語は、私たちの心の影である。


しかし、神の影が人間の心から独立したものとしてあがめられたように、言語という心の影を、われわれの心から独立した<もの>としてあつかうことが慣習化している(言語の物神化。英文を板書して解説している教師を思え)。

現代の言語学も、言語を物神化する。そしてみずから言語をあがめることによって、自分たちが管理する学の聖域にすることもできたのであった(近代言語学の成立)。



目に見えない心が、どのようにして影として顕現するか。

言語を物神化していると、そういう発想は出てこない。いや、言語が神であるならば、その出現の現世的なからくりをあらわにするような不敬な考えは、そもそももってはいけないことにもなる。




心が影として顕現する現実のからくり。そのヒントは、マルクス『資本論』の価値形態論にあるのだが、それに気づいている人は少ないようだ。









(おわり)







 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 05:07 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「影」としての言語 その3
古代において、目に見えない神は、一瞬、影としてこの世に姿を現した。

昔も今も、目に見えない私たちの心は、一瞬、声としてこの世に姿を表す。


そして消えゆく八幡神を昔の人が図像にとどめたように(仁和寺・八幡神影向(えいごう)図)、私たちは消えゆく自分の心を文字という描線にとどめる。


言語の発生は、神の顕現と同じ構造なのである。




神や心は、もともとかたちがない。だからその影の形態はどのようにでもありうる。

音声・文字の異なる数千の言語が存在し、日々あたらしい言葉がつくられるのは、言語が心の影だからである。

言語は心の影であるから、変幻自在である。だから同じ認識がちがう表現になったり、ちがう認識が同じ表現になったりもする。








(つづく)








 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 05:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「影」としての言語 その2
日本語で「かげ」というとき、陰った部分のかたちというだけでなく、ものの気配や一瞬の姿だったり(人影)、心に浮かんだ像のことだったりもする(面影)。

つまり、日本語の「かげ」は、「陰り shadow」だけでなく、「像 image」の意味をふくんでいる。



「かげ」(像)は、見えるもののかたちが変形したり、見えないものが仮のかたちをとったものであるから、もとのものとは違うかたちになることもあるし、そもそも、どんなかたちでもかまわない場合さえあるわけである。


「かげ」は、もとのものの代理でありながら、自由に形態を変化させることができる。





言語は、この「かげ」の原理の産物である。









(つづく)








 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 22:11 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「影」としての言語 その1
加藤健司ほか『神道の美術』(平凡社、2012年)の巻頭解説によると、古い時代の神観念は「影」と関係があったという。


たとえば万葉集に、鏡に映った影が人の真心を映すとか、カミは影となって顕現するという古代人の感覚がうかがえる歌がある。8頁。

仁和寺には、八幡神の顕現を壁に映った人型の影で表した絵が伝わっている(八幡神影向(えいごう)図。同書、12, 40頁)


おもしろいのは竹取物語の例で、美女のかぐや姫を、帝が強引に連れ去ろうとすると、「きと影になりぬ」(ふっと突然、影になってしまった)という。同書8頁。

かぐや姫がこの世の人間ではなく、ほんとうは異世界の存在=影であることが示された瞬間である。

帝は、「げにただ人にはあらざりけり」と驚き、何もしないから元にもどってくれと頼む。すると、「かぐや姫もとのかたちになりぬ」。



ここでは、影こそが真の姿であって、かぐや姫の身体は「かたち」すなわち仮の姿にすぎないという、観念的な転倒が行われている。




神こそが実体で、この世は神の意向にもとづく現象にすぎないというのは、宗教的観念の典型である。



<自然を動かしているものは目に見えない。それが神である。ゆらめく物影は、しばらく目に見えては消えていく。そうだ。影は、見えない神が一瞬、姿を現したのだ。>



神の観念は、そのように感じる体験からきたのかもしれない。







(つづく)









 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 21:41 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ソシュールの「恣意性」徹底批判 補遺  池上嘉彦氏の指摘から おわり
現代の言語学は、ソシュールの恣意性から脱却しようともがき、妥当な<落し所>を模索している、といったところなのであろう。


こうした模索の背後には、一種の恐怖感があるように思われる。


人間の認識(言語)は、恣意性にせよ認知構造にせよ、その中間にせよ、どうにも不定形でとらえがたいものであるか、逆にあらかじめ運命づけられているか、つまりは理解しがたいものであるか不自由であるか、そのいずれかではないかという恐怖感である。







突然のようだが、ここで私が思い出すのは、道元の正法眼蔵に出てくる「魚と水」のたとえ話である。



「魚、水を行くに、行けども水の際なし。」



池のコイは、限られた境界のなかで一生を送る。外から見ていると、ずいぶん不自由のようにも見える。

ならばコイは、池のなかで不自由であるか?

否。

コイから見れば、行けども行けども水がある。








現代の言語学は、池の外からコイを見ているにすぎない。

そこに欠けているのは、ほんとうに言語を話している実践的人間(池のコイ)からみた視線である。

いわば魚眼の必要性であるが、人間がコイとちがうのは、人間は自己を分裂させて、現実の時空と時空の現実を超えて観念的に活動し、疑似現実すなわち表現の世界を作る能力(思考の自由)をもっていることである。




いまの言語学者は、池の回りをぐるぐる歩いて、もっぱらコイを観察する人である。

そして、この永遠の散策者は、池のコイがつくった幻想なのである!








(おわり)









 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 08:11 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
ソシュールの「恣意性」徹底批判 補遺  池上嘉彦氏の指摘から その4
ここ数十年で台頭した認知言語学によると、言語の表現は、


「動機づけられてはいるが、完全に予測できるようなものではない motivated, but not predictable 」(Lakoff, 1987)」


とされる。池上同上書、90頁。

言語は、完全に恣意的ではないが、完全に予測可能なものでもない。

なぜ、このような「恣意性と動機づけのせめぎあい」90頁つまり、でたらめではないが、ひとつに限るわけでもないという、すっきり説明しきれない「困難な状況」90頁が生まれたかというと、次のような事情が立ちはだかるからである。



・「話す主体」86頁のとらえがたさ: 人間が言語用いる諸概念には、誰もがもっている典型的なものから、それほどでもないものまで、「段階性」がある。88頁 これは、どのような説明をしようと、つねに「反例」による反証の可能性があることにつながる。91頁 


・「場面」86頁を言語理論にとりいれることのむずかしさ: 言語の表現、そして動機づけは、話し手の「パフォーマンスのレベル」によって異なる。どのような場面で、どのような意図をもって語るかによって言語の表現はちがってくる。「しかし、パフォーマンスのレベルの状況に通じるということは、母語以外の場合は、構造や規則に通じるということよりもずっと困難である」92頁




恣意性を前提とする、たんなる現象の「記述」から、人間の認知能力を背景とする、よりリアルな「説明」へ。




「言うまでもなく、<記述>よりも<説明>の方が学問的要請を高度に満たした、より魅力的なものである。」89頁。




そうであるがゆえに、池上氏は認知言語学に魅力を感じる。

しかし、記述から説明に転じようとすればするほど、「場面とか、話す主体といった<非言語的>な要因」86頁を考慮に入れざるをえなくなり、理論化の困難は増す。


いまの言語学は、おおむねこのような状況にあるというのが、池上氏の認識のようである。








(つづく)








 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 07:17 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
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