ごきげんようチャンネル

鳥倦飛而知還 鳥 飛ぶに倦みて 還るを知る


陶淵明・歸去來兮辭


シェイクスピア、啄木、自己

生物とは、それぞれの個体がそれぞれの、広い意味での「観念」(感覚、感情をふくむ)をつくって行動する物質である。どの朝顔も、日差しを察知してそれぞれに咲き、それぞれにしぼむ。どのネコもそれぞれの観念をもつから、人を見ると逃げるネコもいれば、人なつこいネコもいる。人もまた、観念をもつ物質の一種である。

 

このように、観念をもつ物質を「身体」と呼べば、植物や動物も身体をもっている。

 

人の身体が他の生物の身体と異なるのは、みずからの観念を対象にした「自意識」すなわち「自分」を立ち上げることができる点である。どうして人は、「自分」という意識をもつことができるのか。その秘密は、「自己」の発生にある。

 

 

 

人の身体は、瞬間ごとに、特定の対象に観念を向けるのだが、ここからが面白い。

 

じつは、自分が観念を向ける対象は、自分が認識したり表象したり記憶しているものごと、すなわち自分である。自分は、つねに自分を観念の対象にしているのである。

 

だが、ここに難問が生まれる。人は、自分で自分の顔を見ることさえできない。ましてやどうして、人は自分の観念を対象にできるのか。

 

シェイクスピアが、うまいセリフを書いている。

 

 

 

「ブルータス、君は自分の顔が見えるか。」

「いや、それは無理だ。目は自分自身を見ることはないからね。反射によって、他のものに映すことで、自分の顔は見えるのだ。」

 

(ウィリアム・シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』)

 

 

 

人が自分を「反射」させる、鏡のような「他のもの」とはなにか。

 

それは、人の身体が自分を分裂させた自己である。この自己を活躍させて、自分の「鏡」にするのである。

 

自分という目に見えない存在をもつこと、つまり自分を存在するものとみなすためには、ブルータスが言うように、自分でない他のものを自分とみなす訓練が必要である。自己は、自分ではないものを自分だと思う社会的訓練を通じて、人の身体が身につけるものである(マルクス『資本論』の価値形態論は、このロジックが商品についても起こることを述べたものだ)。

 

自分が選んだ「自分でない他のもの」は、本来「自分でない」のだから、自分とは別の存在でもある。このように、主観的には自分とみなしているが、客観的には自分とは別の存在であるもの。これが「自己」である。

 

「自己」という存在を表現した例が、啄木にある。

 

 

 

 

東海の

小島の磯の白砂に

われ泣きぬれて蟹とたわむる

 

 

 

 

ここに登場する「蟹」は、啄木の自分がみた「自己」である。自己は自分のなかにあるが、啄木の身体が蟹の身体と同じではないのと同様、自分は自己そのものではない。

 

自己は、啄木が自分のなかにもつ、そのときの自分の能力(経済学でいえば、労働者がそのつど発揮する労働力)である。自分は身体という物質性を引きずっているが、自己は観念的な能力そのものであるから、なんの制約もなく、どこにでも行くことができる。

 

自己は自分から分離し、対象に移入する。自己は、現在・過去・未来、空想・錯誤・虚偽、どんな世界へも自由に往来する。啄木は、自分のなかの、この自己じたいを観念の対象にし、自己がちっぽけであることを感じて、比喩的に「蟹」と表現したのである。

 

 

 

自分とは、自意識である。自意識がもつ能力すなわち自己を媒介にして、人の身体は自分を表現する(ああ、ややこしい...)。

 

古くからの哲学の難問である「心身問題」(人の身体という物質が、どのようにして観念を抱くことができるか)は、人の身体が生む自己の運動という自己分裂のロジックによって解決される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ドライブする自分は、自己をトンネルに差し向け、トンネルから自分の位置を知る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「自己分裂」(三浦つとむ)とは、正確には何なのか

<人間は自己分裂して言語をつくっている>と三浦つとむが指摘したことは、人間というものの理解にとって画期的なことだった(三浦つとむ『日本語とはどういう言語か』講談社学術文庫)。

 

「自己分裂」は、欧米の言語学には登場しない。「自己分裂」という概念をもたないために、欧米系言語学は言語の形式に目を奪われ、あいかわらず低迷しているといえる。

 

私のトランス・グラマーは、三浦つとむの「自己分裂」の概念なしには作れなかったのだが、この概念はいまひとつ明確性に欠けるところもある。ここでは、トランス・グラマーの立場から「自己分裂」をあらためて規定しておく。

 

重要なポイントは、「自己分裂」は多重だということである。

 

言語のトランスの主体は、自己である。自己は人が体内に抱く意識(自分)を表現するために、人間が自分から分離させるものである。自己は、経済学でいう「労働力」にあたる。言語の主体たる自己(労働力)は、自分の意識を客体として認識(労働)し、この認識を概念にしたがって表現する。このように、自分から自己が分離することによって言語は可能になる。これが第一の自己分裂である。

 

さらに、自己は文中の概念のなかに主体を設ける。これは自己が生んだ自己であるから、これを<自己’>と呼ぶと、文の主語は<自己’>を内包し、文をみずから組織化していく。むろん、これは元の自己の監督下においてであり、<自己’>は語彙上明示されないことも多い。だが、文によって観念世界が現実から自立するには、自己から<自己’>が分離し、<自己’>の活動によって概念が組織されていく必要がある。<自己’>は、文の終了とともに自己に帰還する。この<自己’>の活動が、第二の自己分裂である。

 

第一の自己分裂は、人間が目覚めているあいだ、常時作動している(いわゆる「自覚」)。第二の自己分裂は、人間が言語で表現するときに起こるものである(いわゆる「自己表現」)。

 

言語以外でも、人間はどちらの自己分裂も活用している。自己は、目覚めた人間において常時自分から分離して作動している(第一の自己分裂)。あるとき自己は、自分が抱いた風景の感性的認識を認識対象とし、スマホをとりだして撮影=表現する。このとき、スマホの画面内の主たる対象は、自己から分裂した<自己’>とみなされる(第二の自己分裂)。自己’は、他の対象に自己’’を見出し、関係を結ぶ。写された画像は、<自己’>が<自己’’ >とのあいだで組織したもののようにみえる。じつは、撮影者たる自己の存在は写真の対象や構図じたいに保存されている。

 

三浦つとむによる「自己分裂」の説明がわかりにくいのは、このような自己分裂の多重性がきちんと叙述されていないからだと思われる。

 

私のトランス・グラマーでは、「自己分裂」という用語は使っていないが、人間は自分から分離した自己が自分を表現するのであり、自己が意識のなかに<自己’>を設定することで観念世界を自立させる。この根本原理は、三浦つとむの「自己分裂」の概念を発展させたものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
感覚から概念へ 概念から感覚へ

たとえば英語の前置詞 over を理解するために、人間の身体感覚に訴えようとし、それを図解した本や辞書がある。

 

これは表向きには、視覚からover へ、つまり<感覚から概念へ>と上昇しようという戦略である。

 

だが、この上昇には裏側がある。じつは読者は、 over という概念が身体感覚でいえば何に似ているかを知ろうとして図解を見ている。つまり<概念から感覚へ>と下降しているのである。

 

実際の言語では、<感覚から概念へ>の上昇は、社会的におこなわれるプロセスである。感覚的体験を多くの人が音声・文字で表現しあうなかで、いちばんふさわしい表現が選択され、概念とその表現が社会的に確立する。

 

他方で社会のなかの個人は、人々が使う概念を自分の体験を通して次第に理解していく。個人は、<概念から感覚へ>と下降するのである。

 

社会の上昇と個人の下降が一体となって、言語は発達し、変化していく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
概念でつかめば共時態(ソシュール)の世界に入れる

ある言語の世界にすっぽり入る経験のことを、ソシュールは「共時態」と呼び、こう説明している。

 

 


「言語事象を研究してまず驚くことは、話し手にとって言語の歴史性 [通時態] は無関係だということである。それゆえ、この状態を理解しようと思う言語学者は、通時態を無視しなければならない。共時態は一つの視点、すなわち話し手の視点しか知らない。」(ソシュール『一般言語学講義』。ただし森田伸子『文字の経験』243ー244頁より要約して引用)

 

 


さすがソシュール先生、表現が非凡である。言語を体験するには、「話す主体の意識の中に入る」ことが必要だと(同上書243頁)。

だがそれは、多くの人にとってなかなかむずかしい。どうしてソシュール先生にはそれができたのか。

 

私の答え。そのコツのひとつは、表現体のむこうの概念をつかむこと。そのことに集中することである。それを母語でいえばどうなるかといったことは、概念をつかむのに役立つが、あくまで副次的なことである。概念そのものには音も形もない。概念に没入することだ。

 

たしか荻生徂徠は、中国の漢文をそのまま眺めて、古人の心に直入する読みが理想だというようなことを述べた。漢字が喚起する音も形も超えて、純粋な概念として古代人の文意をつかみたいということだろう。徂徠先生は、日本のソシュールであったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
概念は感覚ではない 人間は概念という超感覚的な実在を生きている

意味論の専門家の話を聞いたら、人間の日常的な身体経験が英語の前置詞の元にあるということを力説していた。

 

これは近年流行の見方で、そういうことを図解した本もある。

 

この見方は間違いとはいえないと思うが、言語観に<濁り>があるような気がする。ほんらい混ぜてはいけないものを混ぜてしまっている。

 

混ぜてはいけないものとは、身体経験という感性的なものと、身体経験を超えて成立する概念である。

 

 

...

 

 

マルクス『資本論』第一巻の価値論を読むと、似た展開になっている記述が何箇所かある。どれも、マルクスがあることをなんとかして説明しようとした部分である。

 

「あること」とは、人間が現実の対象を観察するときの感性的な関係と、人間にとっての商品の価値という超感性的なものの区別である。人はこの区別がなかなかできない。このことをマルクスは知っていたから、彼は『資本論』のなかで、くりかえし同じことを指摘したのである。

 

そうした記述の例をあげよう。

 

 

「たとえば、物が視神経に与える光の印象は、視神経それじたいの主観的刺激としてでなく、目の外部にある物の対象的な形をとってたちあらわれる。」(マルクス『資本論』第一巻、ちくまコレクション版、111頁)

 

 

つまり、人間にとって光の印象は、身体の内部にあるもののこととは感じず、身体の外部にある「物と物との関係」として映る。視覚とはそういうものである。これに似て、価値は人間の頭脳の産物であるのに、あたかも商品と商品のあいだに存在するかのように映る。人間の内で生じたものが、外のものにあるように見えるということである。これをマルクスは「位置の取り替え quid pro quo 」と呼んだ(同上書、111頁)。

 

そして、ここからが肝心。

 

視覚の場合は、「光線が現実に投げかけられる物理的な関係」である。ところが価値は、「生産物の物理的性質とも、物理的性質から生まれる物的関連とも、まったく関係がない」(同上書、111頁)。

 

つまり、視覚は人間の外部との物理的・感性的な関係だが、価値は人間の内部で起こる超感性的なものである。同じく超感性的な「人間の頭脳の産物」の例として、宗教がある(同上書、111-112頁)。

 

 

...

 

 

心理学の認知研究の影響をうけた現代の意味論は、人間の感性的な身体体験へとさかのぼって、言語を感覚的に理解しようとする。これは魅力的な近道のようにみえるし、たとえば英語の前置詞を直感的に習得するには、じっさい、ある程度有用であろう。

 

ただ、言語をつくるときの直接の規範は、感性ではなく概念である。概念は感性的な体験からきているものも多いが、概念じたいは感性を止揚した超感性的な規範である。

 

たとえば、「子ども」とか「原因」とか「資本主義」という概念は、感性的体験に基礎づけられている部分もあるが、概念としては色や形や感触のない、超感性的存在である。

 

身体体験にさかのぼって英語が理解できるなら、そのほうがいいではないかと思う人がいるかもしれない。しかし、「議事」とか「進化」とか「アンペア」のように、身体体験に還元しにくい概念もある。感覚ではないからこそ、概念なのである。言語は、感性を超越した概念によって成立する。

 

現在流行の認知論的意味論については、このあたりを少し留保しておくといいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
主語とは、観念世界の自己である

概念が自己をもつ。

 

Jim thought, "I was wrong."

 

この文で、概念 Jim は、自己”I” をもっている。


 

人だけでなく、観念世界では物事も自己をもつ。

 

Oil flows on water.

 

ここではoil という物質概念が自己をもち、flows on water と展開している様が描かれている。

 

What he said was right.

 

what he said という「こと」が、この文の主体となって、was right と展開している。

 

さらに、

 

Jim thought, "She was wrong."

 

ここでは概念Jim が、she に自己があるとみなして、she が was wrong という展開をしていると thought している。

 

観念世界での自己が、話し手自身であることもある。その表現も”I” となる。

 

つまり主語とは、話し手の観念世界で自己をもつとみなされ、みずから展開していく主体である。主語になった概念はどれも自己をもち、自己を呼ぶときはみずからを”I” と呼んで、自分の意識内容を展開する。

 

The rabbit said, "I'm from Tokyo."

 

こうしてはじまる物語もある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
自己は”I” という衣装を着た女性のようだ

言語世界では、概念が自己をもてる。

 

She said, "I'm ready."

 

ここでは、概念(she)が自己(I)をもってトランスしている(自己超越して、みずからを""I'm ready." と表現している)。

 

だが、she の自己は、「私が自己です」とは名乗っておらず、 ”I”として登場する。

 

”I” といえば、この文の話し手の自己と同じ名前である。

 

つまり、自己が姿を表すときは、いつも”I” という衣装を着ている。

 

このシャイな女性のような自己が、たくさんの概念(たとえば登場人物)をつくり、それぞれの概念の自己がそれぞれに活動し、互いにからみあって、大長編小説を生み出すこともある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
言語はいかに野球に似ているか

野球のルールブックをのぞきこむと、<相手チームよりも多く得点して勝つこと>が野球の目的だと、最初に書いてある。

 

 

 

1.05
 各チームは、相手チームより多くの得点を記録して、勝つことを目的とする。
1.06
 正式試合が終わったとき、本規則によって記録した得点の多い方が、その試合の勝者となる。

 

 

 

言語は自己超越が目的で、相手と勝敗を競うわけではないが、伝達の相手はいる。

 

では、野球に必要なものは何か。

 

 

 

1.01 
 野球は、囲いのある競技場で、監督が指揮する9人のプレーヤーから成る二つのチームの間で、1人ないし数人の審判員の権限のもとに、本規則に従って行われる競技である。

 

 

 

これは言語に似ている。監督は自己で、選手は概念だからである。選手=概念も、それぞれの自己をもつ。審判員は概念へのフィードバッック(良し悪しのジャッジ)。「囲いのある競技場」は、概念が運動する心内の場。

 

 

 

はじめて野球を見た人は、いったい何をしているのか、どうしたらあんなことができるのか、理解に苦しむだろう。そういう人が、いきなりやってみろと言われたら戸惑うだろう。

 

TransGrammarは、あらかじめ読んでおいて、実地に練習するためのルールブックである。慣れてしまえばルールブックはいらないが、ルールが消えてなくなることはない。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
劇場の客席は、自己が社会的であることの証明

演劇では、こういうシーンがある。

 

 

... 舞台の机に座っている一人の女性。うたたねしていると照明が暗くなって、亡くなった父親が現れて会話をはじめる...

 

 

このとき観客は、女性の夢のなかへと入り込む。現実の時空がもつ物理的制約を超え、観客は観念の世界を旅する。

 

人間は、現実に縛られた自分から自己を分離させ、自己の視点から観念の世界を自由に旅する。

 

劇場とは、観客が丸ごとひとつの自己になるための装置である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
”I” は「話し手」という概念であって、肉体ではない

”I” 、自己、話し手、語り手。

 

これらは難物である。分けてみよう。

 

 

語り手とは、肉体としての話し手という概念だとしよう。

 

話し手とは、そのときの言語世界をつくっている主体である。概念としての話し手という概念は、話し手の意識のなかから自己が選択する。

 

自己とは、話し手から分かれでて、話し手の意識を対象に精神労働をする力である。自己は年齢とともに成熟し、年齢に応じた社会的平均的レベルも想定できる。自己は話し手の影にかくれており、それじたいは姿を現さない。労働者の労働力が、それじたいは独自の姿をもたないのと同じである。

 

”I”とは、概念としての話し手という概念を自己が呼ぶ英語の表現体である。

 

 

じっさいには、肉体としての話し手という概念(語り手)=概念としての話し手という概念(話し手)=”I” であることが多い。だからわれわれは、これらを区別しないで日常を送っている。多くの場合、語り手は概念としてだけでなく、肉体としても現実世界に存在するので、自分が現実世界のことを話していると思いやすい。

 

ところが、She said, "I'm sleepy."  という文は、語り手"she" も、話し手 ”I” も現実に存在しなくても、言語として成立している。言語世界においては、語り手も話し手も概念にすぎない。概念による言語世界は、”I”という表現体で現実世界とつながっているだけである。

 

概念で認識が伝達できるのは、肉体としての人間たちがあらかじめそれぞれの自己をもち、自己がもちいる規範たる概念群を共有しているからである。

 

日常的には、”I”は肉体としての語り手を呼ぶことが多い。だから、”I”とは概念にすぎないことがわかれば、かえって言語が話し手の意識、つまり観念の世界を対象にしていることがわかりやすくなるのではないかと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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