ごきげんようチャンネル




そらになる心は春の霞にて よにあらじとも 思ひたつかな

西行



言語は物を人格化し、人格を物化する

人間は、言語によってあらゆる物を人格化する(個性ある人間のようにみなす)。

 

たとえば美しい景色がわれわれの五感によって認識され、この認識が言語化されるプロセスで、景色(物)は人格化する。素粒子やタンパク質が認識の対象となり言語化されると、素粒子もタンパク質も個性的存在として了解される。

 

言語とは、世界の人格化である。人格化するから、世界は人間にとって意味あるものとなる。

 

言語によって世界が人格化するということは、言語によって人格が物化するということでもある。言語の音声・文字には、話し手の人格が物化して凝結している。

 

 

マルクスは、商品生産における<物の人格化/人格の物化>を考察した。上記のように、言語表現においても、<物の人格化/人格の物化>がおこなわれる。

 

三浦つとむの「自己分裂」は、話し手の認識力によって<物の人格化/人格の物化>がおこなわれることの言い換えである。

 

 

 

 

✴<物の人格化/人格の物化>については、マルクス(森田茂也訳)『資本論第一部 草稿』光文社古典新訳文庫、2016年、413頁以下の訳者解説を参照。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
言語の一般構造 マルクスの「価値」からわかること

「言葉とはなにか」に答えることが言語学の第一歩だとすれば、言語学は、あらゆる言語に共通する一般構造を指摘しなければならない。

 

『資本論』の第一章を読み直して、私は思った。これはやはり言語学の書でもある、と。

 

『資本論』は、こういう例からはじまる。ある量の小麦は、ある量の絹とか鉄のように、さまざまなものと交換可能である。

 

 

 

ある量の絹=ある量の小麦

 

ある量の鉄=ある量の小麦

 

ある量の牛皮=ある量の小麦 

 

 

 

この等式のリストは、そこに「同じ大きさの、ある共通のものが現実に存在している」ことを示している。(以下、『資本論』からの引用は、ちくま版マルクスコレクションIV、『資本論』第一巻上、58頁および60頁から)

 

これを言語に引きつけていうと、たとえば、ありがとうというひとつの認識を、さまざまな言語で表現できる。

 

 

 

言語Aによる表現 =「ありがとう」という認識

 

言語Bによる表現=「ありがとう」という認識

 

言語Cによる表現=「ありがとう」という認識

 

 

 

等式の左辺と右辺をつなぐ「ある共通のもの」。それが商品では使用価値のちがいを超えて存在する「価値」であり、言語では上記のリストでわかるように、表現のちがいを超えて共通する個々人の、その場での認識である。

 

だが、個々人のその場での認識にはふぞろいなところがある。それに共通性を与えるものが、認識の社会的平均的規範たる「概念」である。

 

言語を言語たらしめているものは、個人によって異なる個々の認識力ではなく、社会を構成する人間に共通の、平均的な認識力であり、その規範としての社会的平均的概念である。

 

認識力の認識対象は、自分の「心」である。認識力は、自分の心から分裂し、自分の心を客体として作動する主体である。

 

 

以上の関係は、次のようなトランス図で描ける。

 

 

 

 

     表現体          認識対象(心) 

  ▽

      

           認識力

 

 

 

 

人間は、認識力によって自分の心を認識し、それを表現体にする。この表現体が、それぞれの言語である。

 

概念の体系つまり言語規範が、この ▽ のまんなかにくる。認識力は、対象を認識するときは概念形成規範、認識を表現するときは表現規範、表現体を認識するときは意味規範に依拠する。

 

概念じたいは無色透明であり、言語によって異なる音声・文字という表象をともなって、社会の成員に共有されている。

 

この▽ が、言語の一般構造である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
言語世界では主体が自己を否定して自己展開する

ヘーゲルの思想は、言語の仕組みを言い換えたものだ。

 

 

 

「ヘーゲルのいう主体は、... 自己を否定してみずから他者となるとともに、その他者のなかで自己を回復する運動として、自己同一性を保持するもの、すなわち、自己否定的に自己を展開する主体にほかならない」(『ヘーゲル用語事典』平凡社、1991年、122頁。執筆・岩佐茂)

 

 

 

これは、文のことである。

 

言語の名詞(私のいう体ーたいー)は、話し手が対象を実体としてとらえ、文の主体にすえることができる概念である。文の主体にすえられた概念は話し手から独立し、「自己否定的に自己を展開する主体」になる。その展開の軌跡が文である。

 

たとえば  "I love you." は、”I” が " love" へと自己展開し、"you"  という「他者となる」ことで、「自己否定的に自己を展開」したものである。

 

ヘーゲルは、ドイツ語思考した。だから、世界は「自己否定的に自己を展開する」のだと考えた。

 

それゆえ、彼の思想は観念論になった。

 

 

 

 

後記:長谷川宏『ヘーゲルを読む』(河出書房新社、1995年)に、ヘーゲルとことばについて語った文がある。



「日本のヘーゲル学者は『揚棄』とか『思弁的』とか『即自』とか、ヘーゲルの言葉に日常語とはかけ離れた特別の訳語をあてるが、ヘーゲルの言語意識にこれほどそぐわぬやりかたはない。ハイデガーなどと違って、日常語とは別次元の語を創成する気はヘーゲルにはまったくなかった。

ヘーゲルのことばとの悪戦苦闘ぶりはすさまじいものがあるが、ヘーゲルはその悪戦苦闘をことばとの悪戦苦闘ではなく、自然や人間や社会や歴史との悪戦苦闘だと考えていた。」(228−230頁より要約)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
英文法なんか誰も興味はない!

英文法の体系といっても、興味のある人はほとんどゼロだろう。

 

私が整序した英語の運動規範=トランス・グラマーは、むしろ人間思考の原理である。

 

思考は現実から独立しつつ、現実を反映しているから、トランス・グラマーは現実世界に浸透できるはずだ。

 

たとえば、次のように、トランス・グラマーの<体・態・解>の展開を社会に適用してみる。

 

 

体...  物質体・組織体・表現体

態...  土台・上部構造・意識諸形態

解...  資本・国家・国語

 

規範... 物質・人間・観念

 

 

体・態・解の三者は、ひとつのトランスをなしている。そして三者それぞれが、内部にトランスをもつ。

 

これらの基盤に、気(感覚・感情・気分)がある。「組織体」は、変態しながら全体を束ねる変成動態の役割をしている。

 

すべてにおいて、集団的規範が本質である。

 

こういう風に、トランス・グラマーをトランス・ヒストリーへと浸透させていく。

 

やがてトランス・ヒストリーをトランス・グラマーに浸透させるときが来るだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
三浦つとむに欠けていたもの 道半ばだった『資本論』の言語への適用

言語学の三浦つとむ(1911-1989)の功績のひとつは、「自己分裂」という人の心の根本機構を、ずばり指摘したことにあった(三浦つとむ『日本語とはどういう言語か』講談社学術文庫)。

 

三浦つとむの影響を受けて「言語過程説」を名乗った人たちもいた。しかし「自己分裂」の論理を受け継いだ人は、ほとんどいないようである。言語過程説の鋭い論客であった英語学の宮下慎二(1947-1982)でさえ、自己分裂の論理を活用しなかった。

 

その原因はなにか。

 

「自己分裂」は、日常的な心的事実として誰もが思い当たるものの、この一見奇矯なロジックを、三浦つとむが言語学の基礎として、きちんと根拠づけなかったからであろう。

 

三浦つとむが気づいていたかどうかはわからないが、じつは自己分裂の論理は、「社会的平均的労働力」の発揮が抽象的人間労働であるというマルクスの論理を、言語に応用したものである。

 

労働力の発揮たる労働が人間社会の基礎であるのと同様に、観念的労働力の発揮たる自己分裂は、人間の思考の基礎である。労働と自己分裂=認識が同じロジックを共有していることを指摘すれば、自己分裂はきちんと根拠づけることができたのである。

 

自己分裂とは、

 

<自己(観念的労働力)が、物理的現実を超えて自由に作動(労働)して心内の対象を認識し、その認識を物質的に表現する(生産物を作る)から、人間は社会をつくれる>

 

ということである。

 

 

もうひとつ、三浦つとむの言語学に欠けていたことがある。

 

それは、なぜ認識から言語という表現体が生まれるか、表現体がなぜ意味となるかについて、まとまった説明をしなかったことである。<認識→表現→意味>についての三浦つとむの説明は、当時の論壇への対応に忙しかったせいか、舌足らずで終わったように思われる。

 

これも、労働の生産物が他の商品や貨幣と交換されるプロセスによって価値に変換されるというマルクス『資本論』の価値形態論を応用すれば、表現体が聞き手の労働力と交換されるプロセスによって意味に変換されるというロジックが見えてくる。

 

 

 

三浦つとむは、『資本論』をはじめとするマルクスの論理を言語学に応用できた、唯一の言語学者であったと思われる。

 

言語過程説は衰退したが、それは三浦つとむがマルクスの論理をとりいれようとしたからではない。逆に、マルクスの論理を正面から活用せず、言語のロジックをきちんと根拠づけなかったことが、言語過程説の衰退を招いたのである。

 

言語のような心的現象をあつかうには、堅固な論理を基礎にしなければならない。三浦つとむが始めた試みは、終わったのではなく、これから本格化すべきものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
概念は感覚ではない 人間は芯のところでは概念を生きている

意味論の専門家の話を聞いたら、人間の日常的な身体経験が英語の前置詞の元にあるということを力説していた。

 

これは近年流行の見方で、そういうことを図解した本もある。

 

この見方は言語の大事な面を言っていると思うが、言語観が浅いような気がする。

 

身体経験という感性的なものに関心がとどまりがちで、感性を超えて成立する概念に十分気づいていない。

 

 

...

 

 

マルクス『資本論』第一巻の価値論を読むと、似た展開になっている記述が何箇所かある。どれも、マルクスがあることをなんとかして説明しようとした部分である。

 

「あること」とは、人間が現実の対象を観察するときの感性と、人間にとっての商品の価値という、感性を超えて成立する概念の区別である。人はこの区別がなかなかできない。このことをマルクスは知っていたから、彼は『資本論』のなかで、くりかえし同じことを指摘したのである。

 

そうした記述の例をあげよう。

 

 

「たとえば、物が視神経に与える光の印象は、視神経それじたいの主観的刺激としてでなく、[人間にとっては] 目の外部にある物の対象的な形をとってたちあらわれる。」(マルクス『資本論』第一巻、ちくまコレクション版、111頁)

 

 

つまり、人間が受けとる光の印象は、身体の内部にあるというより、身体の外部にある「物と物との関係」として映る。これに似て、価値は人間の頭脳の産物、つまり概念であるのに、あたかも商品と商品のあいだに存在するかのように映る。人間の内で生じたものが、身体の外にあるように見えるということである。これをマルクスは「位置の取り替え quid pro quo 」と呼んだ(同上書、111頁)。

 

そして、ここからが肝心。

 

視覚の場合は、「光線が現実に [人間に] 投げかけられる物理的な関係」つまり感覚である。ところが価値という概念は、「生産物の物理的性質とも、物理的性質から生まれる物的関連とも、まったく関係がない」(同上書、111頁。太字は引用者)。

 

視覚は人間と、人間の外部との物理的・感性的な関係だが、価値は人間が内にもっている、感性から自立した規範、すなわち概念である。

 

同じく超感性的な「人間の頭脳の産物」の例として、「神」のような宗教的概念がある(同上書、111-112頁)。いったん「神」という概念を内にもった人間は、日々の感性的な出来事から自立した規範として、「神」を生きていく。

 

 

...

 

 

心理学の認知研究の影響をうけた現代の意味論は、人間の感性的な体験にうったえて言語を説明しようとする。これは魅力的な近道のようにみえるし、じっさい、たとえば英語の前置詞を直感的に習得するには、ある程度有用であろう。

 

ただ、言語の直接の規範は、感性ではなく概念である。「上」とか「空っぽ」とか「熱さ」のように、感性的な体験がベースになっている概念もある。「火曜日」とか「進化」とか「ビット」のように、感性的体験から離れた概念もある。

 

いずれにせよ、概念となれば、それはもはや感覚ではない。概念は五感とつながってはいるが、「人間の頭脳の産物」(マルクス)であり、超感性的な規範である。感覚ではないからこそ、概念なのである。言語は、感性を超越した概念によって成立する。

 

言語表現がもつさまざまな意味の背後には、概念がある。概念は、そのときどきの感性的現実から自立している。だからこそ、小さな部屋にこもって、壮大な小説が書ける。

 

現在流行の認知論的意味論については、このあたりを留保しておくといいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
英語のDNA:トランス・グラマーの体系図

「名詞」とか「動詞」のように、文法の説明でつかう概念(文法用語)は、普通の言語表現でつかう語彙を分類した概念、いわば<概念の概念>である。

 

トランス・グラマーは、この<概念の概念>の相互関係を探求して、ひとつの立体に組み上げた概念体系で、いわば<概念の概念の概念>である。

 

ただ、この立体的な概念体系を組み上げるには、従来の学校文法の概念では不可能であった。そこで、私は新たに<概念の概念>つまり文法概念(新しい文法用語)をつくり、相互に関係づけた。

 

トランス・グラマー(英語の概念体系)を図にしたものを下に掲げる。この図で内容がわかるわけではないが、<立体的な概念体系>とはどういうことか、イメージしやすくなると思う。


 

 

 

 

 

 

 

トランス・グラマー 全体編

 

https://note.mu/ymiura/m/m692d6f6108f1

 

 

 

こうした立体図で表せるトランス・グラマーは、英語という言語の最奥で作動する概念体系である。英語を話す人なら誰もが心内にもちながら、誰も意識しなかった仕組みである。英語のDNAのようなものといえばいいかもしれない。

 

言語学の専門家でもない私が、なぜトランス・グラマーを追求したかというと、歴史とは観念なので、観念の基盤たる言語の仕組みを探求すれば、学としての歴史学の基礎が固まるのではないかと思ったからである。史的唯物論を超える歴史理論をつくるには、人間の観念のあり方を、言語を素材にして探求するという遠回りが必要であった。幸い、言語論の基礎は、マルクス『資本論』に見出せた。

 

もともと私は英語に関心があったので、言語の一例として英語をとりあげることにした。いま思えば、英語を対象にしたのは正解であった。英語は、西洋哲学の<実体と属性>といった基礎カテゴリーを比較的忠実に表現する言語である。英語のDNAの解明は、西洋人だけでなく、人間が対象を認識する際の基本マナーを知る、良い素材となる。

 

さて、トランス・グラマーができたなら、次は歴史認識のDNA、トランス・ヒストリーを追求する順序である。

 

トランス・ヒストリーがどこまでできるか。それはまだわからない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 15:19 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
英語は名詞にはじまる

<実体と属性>は、アリストテレス以来の哲学用語である。

ギリシャ哲学の藤沢令夫(ふじさわ・のりお 元京都大学教授)氏によると、<実体・属性>の区別はアリストテレス(前384‐前322。日本の縄文時代末期の人)の『カテーゴリアイ(範疇論)』という書物にはじまる。

たとえば「この花は赤い」という表現において、「花」はさまざまの知覚的な属性(この場合「赤い」という性質)をもつ。その属性を支えまたは担う何ものか(基体)が「花」と呼ばれており、これが実体である。

「性質をもつその当のものと、そのものに所属する性質自身とが区別され、この区別が基準に据えられると、前者は独立して存在しうる<実体>であり、後者は実体に所属し実体に依存してはじめて存在しうる<属性>であるという考えが、そこから生まれてきます。」(藤沢令夫『ギリシア哲学と現代』岩波新書、1980年、36頁)

アリストテレスの「実体と属性のカテゴリー分け」(アリストテレスは10個のカテゴリーをあげている)は、じつはギリシャ語の品詞に対応しており、「実体」は名詞に、性質などの「属性」は形容詞や副詞・動詞に対応しているといわれる(村上恭一『論理学講義』成文堂、1998年、75頁)。

 

もしそうなら、<実体と属性>という哲学の認識は、言語の仕組みが起源である。このことは、人間が言語で思考する限り、対象は名詞(実体)としてとらえられ、それが動詞、形容詞(属性)をもつという理解をせざるをえないことを意味する。この結合がそのまま表現される言語もあれば、そうでもない言語もあるが、どの場合も対象は、人間にとって<実体と属性>の結合として理解されるのである。

 

だが、実体とその属性という概念が今日の文法で積極的に活用されているとはいえない。

たとえば比較的新しい一般向け英文法書によると、「名詞」とは「人、もの、事柄などを表す語」で、「形容詞」とは「人・もの・物事の状態や性質を述べる語」と説明されており、名詞とは「実体」を指すもので形容詞は実体の「属性」を指すことは、よほど注意して読まないとわかりにくい。(宮川幸久ほか編著『アルファ英文法』研究社、2010年、68、223頁)。他の文法書でもこうした説明が多い。

一般向けに「実体」「属性」などと説明するのは堅苦しいということもあるだろうが、近代の言語学が学としての独立をめざす過程で伝統的な哲学の概念を回避したことも原因のひとつであろう。これによって近代の文法は平明さを獲得したと同時に、理論的な基盤を喪失した面がある。

 

 

英語は、<実体と、その属性>という人間の普遍的な対象理解のマナーがストレートに表現される言語である。ゆえに、名詞すなわち実体を英語がどう認識し分類しているかは、英文法の最初の課題となるはずである。

 

トランス・グラマーが英語の名詞(実体)を重視し、詳しく分類しているのは、言語の普遍的な仕組みと、英語の特性からきている。

 

 

 

トランス・グラマー全体編

 

https://note.mu/ymiura/m/m692d6f6108f1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 08:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
シェイクスピアの顔と啄木の蟹

人の身体が他の生物の身体と異なるのは、みずからの観念を対象にした「自意識」すなわち「自分」を立ち上げることができる点である。どうして人は、「自分」という意識をもつことができるのか。その秘密は、「自己」の発生にある。

 

 

シェイクスピアが、うまいセリフを書いている。

 

 

 

「ブルータス、君は自分の顔が見えるか。」

「いや、それは無理だ。目は自分自身を見ることはないからね。反射によって、他のものに映すことで、自分の顔は見えるのだ。」

 

(ウィリアム・シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』)

 

 

 

人が自分を「反射」させる、鏡のような「他のもの」とはなにか。

 

それは、人の身体が自分を分裂させた自己である。この自己が自分の「鏡」になる。

 

 

自己と自分の関係を表現した例が、啄木にある。

 

 

 

東海の

小島の磯の白砂に

われ泣きぬれて蟹とたわむる

 

 

 

ここに登場する「蟹」は、啄木の「われ」(自己)からみた自分である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ドライブする自分は、自己をトンネルに差し向け、トンネルから自分の位置を知る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「自己分裂」(三浦つとむ)とは、正確には何なのか

<人間は自己分裂して言語をつくっている>と三浦つとむが指摘したことは、人間というものの理解にとって画期的なことだった(三浦つとむ『日本語とはどういう言語か』講談社学術文庫)。

 

「自己分裂」は、欧米の言語学には登場しない。「自己分裂」という概念をもたないために、欧米系言語学は言語の形式に目を奪われ、あいかわらず低迷しているといえる。

 

私のトランス・グラマーは、三浦つとむの「自己分裂」の概念なしには作れなかったのだが、この概念はいまひとつ明確性に欠けるところもある。ここでは、トランス・グラマーの立場から「自己分裂」をあらためて規定しておく。

 

重要なポイントは、「自己分裂」は多重だということである。

 

言語のトランスの主体は、自己である。自己は人が体内に抱く意識(自分)を表現するために、人間が自分から分離させるものである。自己は、経済学でいう「労働力」にあたる。言語の主体たる自己(労働力)は、自分の意識を客体として認識(労働)し、この認識を概念にしたがって表現する。このように、自分から自己が分離することによって言語は可能になる。これが第一の自己分裂である。

 

さらに、自己は文中の概念のなかに主体を設ける。これは自己が生んだ自己であるから、これを<自己’>と呼ぶと、文の主語は<自己’>を内包し、文をみずから組織化していく。むろん、これは元の自己の監督下においてであり、<自己’>は語彙上明示されないことも多い。だが、文によって観念世界が現実から自立するには、自己から<自己’>が分離し、<自己’>の活動によって概念が組織されていく必要がある。<自己’>は、文の終了とともに自己に帰還する。この<自己’>の活動が、第二の自己分裂である。

 

第一の自己分裂は、人間が目覚めているあいだ、常時作動している(いわゆる「自覚」)。第二の自己分裂は、人間が言語で表現するときに起こるものである(いわゆる「自己表現」)。

 

言語以外でも、人間はどちらの自己分裂も活用している。自己は、目覚めた人間において常時自分から分離して作動している(第一の自己分裂)。あるとき自己は、自分が抱いた風景の感性的認識を認識対象とし、スマホをとりだして撮影=表現する。このとき、スマホの画面内の主たる対象は、自己から分裂した<自己’>とみなされる(第二の自己分裂)。自己’は、他の対象に自己’’を見出し、関係を結ぶ。写された画像は、<自己’>が<自己’’ >とのあいだで組織したもののようにみえる。じつは、撮影者たる自己の存在は写真の対象や構図じたいに保存されている。

 

三浦つとむによる「自己分裂」の説明がわかりにくいのは、このような自己分裂の多重性がきちんと叙述されていないからだと思われる。

 

私のトランス・グラマーでは、「自己分裂」という用語は使っていないが、人間は自分から分離した自己が自分を表現するのであり、自己が意識のなかに<自己’>を設定することで観念世界を自立させる。この根本原理は、三浦つとむの「自己分裂」の概念を発展させたものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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