ごきげんようチャンネル

Life is for those who have a hope.

Action is of those who embrace a yearning.

History is made by life and action, hope and yearning.


英語は大文字で個性を表す

英語には、「個性は大文字で表す」という原則がある。個性とは、「これは一回しか現れない」という社会共通の概念であり、個人による、その認識である。

 

例えば、人名は、この世に一回しか現れない個性を表している。だから、Michael Jackson のように、大文字を使う。

 

駅の名前 Tokyo Station や、通りの名前 Fifith Avenue, 曜日 Monday が大文字ではじまるのも、それぞれの個性を表しているからである。

 

英語の文を大文字で書きはじめるのも、「この文は、この文章のなかで、一回だけ現れる個性的なものだ」という認識の表現である。

 

看板の文字が大文字になりやすいのも、それらが表すものが「そこにしかない」個性的なものだからである。

 

また、歴史の中で、その日は一回しかないから、すべての日付は個性の表現である。しかし、数字には大文字がないので、 "April 16, 2017" のように月名だけが大文字で表記される。

 

the FBI のように、theのつくタイプのものもあるが、「一回だけ存在するもの=個性は、大文字で表記する」という英語の原則は、一貫している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  学校の標語。すべて大文字で表現することで、標語の個性を強調している

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
言語は貨幣でつくった首飾りである

社会の誰にでも価値(概念)が理解されるという意味で、言語は貨幣に似ている。

 

だが、言語が伝える意味は文ごとに異なるから、むしろ言語は、まちまちの使用価値をもつ商品にも似ている。

 

言語は、貨幣なのか商品なのか。

 

マルクスは、商品が社会的にもつ価値を、解読できない文字にたとえた文を書いている。

 

 

 

価値は、どの労働生産物をも一個の社会的象形文字 [外形はあるが、概念が不明な対象物] に変えてしまう。ずっと後になって人間たちは、この象形文字の意味を解読しようとして、人間自身の社会的生産物の秘密に探りを入れるようになる。というのは、使用対象を価値として規定することは、言語と同じく人間たちが社会的に作りだしたことだからである。」

 

(マルクス『資本論』筑摩書房マルクスコレクション版、114頁。太字は引用者)

 

 

 

たしかに、商品の価値の正体(抽象的人間労働)は、古代の象形文字が伝えようとする概念に似て、なかなか解明できない。

 

だが、現在使われている言語の文字が伝える概念は、その社会に住む人間には明らかであるように思える。言語はその時代、その社会で通用する商品的貨幣であり、貨幣的商品である。

 

とはいえ、言語を作り、その意味を享受するには、対価がいらない。つまり言語は基本的に無料で作れるし、無料でもらえる。だから言語は、商品・貨幣とまったく同じ性質のものではない。

 

どうやら、言語の仕組みと経済学上の概念は、ねじれた対応関係にあるらしい。

 

 

...

 

 

言語と経済学上の諸概念の対応関係は、次のように整理できる。

 

左が言語の諸要素、右が、それに対応する経済学上の諸概念である。

 

 

 

対象  原材料

 

認識   原材料調達・加工労働 具体的有用労働

表現   商品出荷・陳列労働  具体的有用労働

 

 

語彙としての概念     価値  ← 抽象的人間労働

言語規範としての概念   労働規範

 

 

表現体=言語  商品。  労働と価値を含んだ生産物(物象)

音声・文字   貨幣体系(価値表示のための表象的単位からなる体系)

 

意味         伝達される概念としては交換価値、伝達される認識としては使用価値

 

伝達      商品流通・生産物の分配

意味の受容   消費

 

 

 

音声・文字による表現体すなわち言語は、多種の貨幣(一般的等価物)を集めて作った首飾りである。使用した貨幣の種類とそのつなぎ方、すなわち首飾りの素材と形によって、異なる意味が伝達できる。

 

 

...

 

 

ところで、上記の対応表には、重要なものをひとつ追加しなければならない。それは、

 

 

自己  労働力

 

 

である。

 

マルクスは、労働(認識・表現)と労働力(自己)の関係について、次のように述べる。

 

 

 

「人間の労働は、ふつうの人間なら誰でも特別の発達を経ることなく自分の肉体的な有機労働のなかに平均的にもっている単純な労働力の支出である。」(『資本論』筑摩書房マルクスコレクション版、69頁。太字は引用者)

 

 

 

ならば、言語の「労働」たる認識・表現は、「自己」という労働力の支出にほかならない。また、人間の自己には、社会の誰もが「平均的にもっている単純な」レベルがあり、その「平均」は年齢に応じて増大することも、ここから読み取れるだろう。

 

われわれの身体は、自己という観念的労働力をもち、自己を発揮することによって、体内に抱いた対象を、規範としての概念によって認識・表現した表現体、すなわち言語を作る。それは、労働者が労働力を発揮することによって商品を作るプロセスと同じ構造である。

 

自己による言語労働(認識・表現)の結果、われわれは<現実世界の自分>と、<自己による観念世界>というふたつの世界をもつことになる。

 

認識は、自分がいる現実世界の私的な出来事だが、概念を用いた言語は、自己がつくる社会的な観念世界である。社会的な言語が作る観念世界を鏡にすることによって、われわれは自分がいる私的な現実世界を知る

 

既存の言語学は、自己という社会的労働力の存在と成長、そしてその労働力がつくる観念世界の現実超越性・現実照出性に十分気づいていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
概念は言語の非物質的側面である

言語の表現体には、認識と概念が含まれている。あるいは、認識された概念、概念化された認識が含まれている。

 

認識は、身体をもつ個々の人間が抱く、具体的な観念である。概念は、社会に共有されている非物質的で抽象的な観念である。認識は概念によって可能になり、概念は認識によって実在できる。

 

社会的で非物質的な概念は、個人的で物質的(身体的)な認識なしには実在しない。認識を持つ身体にしか、概念は生起しない。そのため、人間にとって、概念を認識から区別することはむずかしい。

 

 

「概念」を、「事物の本質的特徴」をとらえた観念であると説明した辞典がある(ブリタニカ)。

 

個々人が自分の認識を表現し、その意味を受容する作業を繰り返す中で、社会的にもっとも承認された認識とその表現体が、概念として定着していく。概念が「事物の本質的特徴」をとらえることができるのは、この社会的な洗練のプロセスがあるからである。概念は、この社会的プロセスの中で変化していく。「雷」の概念は、雷神の太鼓から空中の放電へと変化した。

 

言語は、こうした概念の組み合わせである。言語は、社会的概念の組み合わせというレベルでは、非物質的な、純粋の観念である。社会的に承認された概念の組み合わせである以上、誰が話し手であろうと、どんな認識で語ろうと、言語として成立する。現実世界に住んでいる話し手から見て、そこに対応する実物がなくても、言語世界は成立するのである。

 

 

言語が個々人に伝える具体的内容を、意味という。商品で言えば、意味は認識的には使用価値にあたり、概念的には交換価値にあたる。

 

 

 

「交換価値は、物に費やされた労働を表現するための、ひとつの限定された社会的作法であるのだから、為替相場と同じく、自然的素材をまったく含むことはできない。


(マルクス『資本論 第一巻』初版第一章。訳文は、筑摩書房版マルクスコレクションIII、2005年、321頁。資本論第二版では、新日本出版社版、第一巻、140頁。太字は引用者)

 

 

 

意味も認識も概念も、人間の非物質的な面=観念である。定義上も実際上も、観念は「自然的素材をまったく含むことはできない」。観念は物質ではない。物質ではないからこそ、物質的な限界を越えて、過去や未来や仮定の世界を作ることができるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
概念形態論 マルクス価値形態論を読み替える

マルクスの価値形態論が述べられているのは、『資本論』第一巻第一章の第三節「価値形態または交換価値」である。

 

以下にみるように、マルクスの価値形態論は、<概念形態論>として読み替えることができる。

 

ここでは、まず私が読み替えた文(概念形態論)を斜体字で示し、そのあとに、『資本論』の該当箇所の翻訳文(価値形態論)を掲げる。『資本論』の訳文は、筑摩書房刊・マルクスコレクション版による。

 

 

 

 

 

 

語彙は二重形態(実物形態かつ概念形態)である。

 

 

言語は、実体詞(名詞)、動態詞(動詞)、状態詞(形容詞)、様態詞(副詞)など、さまざまな語彙の形をとってこの世に登場する。すなわち、語彙は言語の実物形態である。

 

そして、それらの語彙は人間の使用対象であるだけでなく、同時に概念の担い手である。このような二重体であるからこそ、それらは語彙なのである。

 

いいかえると、語彙は二重形態すなわち実物形態であると同時に概念形態をもつときにのみ、言語として現れる。あるいは、語彙は二重形態をとるときのみ、言語の形態となる。

 

 

 

以上に対応する、マルクス『資本論』の翻訳文

 

「商品は、鉄、リネン、小麦、等々のような使用価値または商品身体の形をとってこの世に登場する。これは彼らの生まれながらの実物形態である。とはいえ、それらは使用対象にして同時に価値の担い手であるという二重体であるゆえにのみ商品なのである。したがってそれらは二重形態、すなわち実物形態であると同時に価値形態をもつかぎりでのみ、商品として現れる。あるいは商品の形態をもつ。」筑摩書房刊・マルクスコレクション版、73頁。

 

 

 

概念形態と実物形態の対象性の違い

 

言語は概念が形態をとったもの(概念形態)であるから、人間はこれを対象として認識できる(概念形態の対象性)。

 

他方、実物形態(音声や描線)としての言語は、感覚的でごつごつした対象として人間は認識できる(実物形態の対象性)。

 

ふたつの対象性はまったく違っている。

 

ここでとくに注意すべきことは、概念形態がもつ対象性には、自然素材はまったくふくまれていないということである。

 

 

以上に対応する、マルクス『資本論』の翻訳文

 

「商品身体のごつごつした対象性とはまったくちがって、その価値対象性の中にはみじんも自然素材は含まれていない。だからひとつの商品をどのようにひねくりまわしても、その価値物としての商品はいつまでたってもとらえどころがない。」筑摩書房刊・マルクスコレクション版、73頁。

 

 

 

概念形態は、言語が交わされる社会的関係のなかだけで現れる。

 

語彙は、人間的創造力という、どこをとっても等質の社会的単位の表現であるときだけ、概念として人間の認識対象になる。

 

つまり、概念形態の対象性は純粋に社会的な性質のものであり、この対象性は、実物形態の対象性と違って、言語が交わされる社会的関係のなかでのみ現れる。

 

 

以上に対応する、マルクス『資本論』の翻訳文

 

「商品は人間労働という同一の社会的単位の表現であるかぎりでのみ価値対象性をもち、したがって商品の価値対象性は純粋に社会的であることを想いおこすなら、価値対象性は商品と商品との社会的関係のなかでのみ現れることができる、ということもおのずから理解される。」筑摩書房刊・マルクスコレクション版、73-74頁。

 

 

 

言語表現はなぜ音声・文字という共通の形態をもつのか。それは発生過程から解明できる。

 

ところで、誰でも知っているように、語彙は、その多種にわたる実物形態とは対照的に、かの共通の形態、すなわち音声・文字という形態ももっている。

 

言語は、なぜ音声・文字という形態をもっているのか。

 

それを理解するには、音声・文字という形態の発生過程を証明すればよい。

 

概念を表現する仕方すなわち概念形態は、物まねや手ぶりのようなもっとも単純なものからはじまって、ついには音声・文字という輝かしい形態へと発展する。

 

この発生過程を解明すれば、音声・文字という形態は謎ではなくなる。

 

 

 

以上に対応する、マルクス『資本論』の翻訳文

 

「他のことについては何も知らなくても、次のことだけは誰もが知っているー すなわち、商品はその使用価値の雑多な実物形態とはいちじるしい対照をなす共通の価値形態、つまり貨幣形態をもつということである。とはいえここではブルジョア経済学がかつて試みようともしなかったことを実行しなければならない。すなわち、この貨幣形態の発生過程を証明すること、つまり商品の価値関係の中に含まれる価値表現が、そも最も単純で最も地味な姿から光り輝く貨幣形態に発展した過程を跡づけることである。これをなしとげたなら、貨幣の謎はただちに消えてなくなる。」筑摩書房刊・マルクスコレクション版、74頁。

 

 

概念と形態とのあいだの最も単純な関係(概念形態 I)

 

概念が形態に対してとる最も単純な関係(最も単純な概念関係。同じことを形態の側からみれば概念形態)は、あるひとつの概念に対して、あるひとつの実物形態が対応している関係である。

 

このとき、ある概念に対応させる実物形態は、他と区別できるものであれば、なんであってもかまわない。

 

 

以上に対応する、マルクス『資本論』の翻訳文

 

「最も単純な価値関係は、明らかに、他の種類のただ一つの商品に対する一つの商品の価値関係である。その際、他の種類の商品であれば何であってもかまわない。」筑摩書房刊・マルクスコレクション版、74頁。

 

 

…この部分については、少し私の注釈を加えておこう。人間たちが言語によって観念を交通しあうには、目に見えない内心の概念を目に見える物質的な形態すなわち実物形態で表す必要がある。

 

概念と対応させる実物形態は、他と区別できさえすれば「なんであってもかまわない」。

 

たとえば、語彙の実物形態は概念が対象にしたものと感性的に似ている必要はない。

 

「イヌ」という音声・文字(形態)が実物のイヌ(対象)に似ている必要がないのは、これが理由である。

 

ただ、<概念に対応させる実物形態はなんであってもかまわない>と言っても、人間にとって扱いやすい実物形態と、そうでもない実物形態の区別はある。

 

絵や、旗や棒など道具の動きや、太鼓の音や、口笛といったものも言語がとる実物形態になりうるし、げんにそうしたものを利用している場合もあるが、これらはなにかと不便なところがある。

 

けっきょく、人体の仕組みからいって、口から出す音声と手でこする文字が、言語のもっとも精妙かつ簡便な実物形態(≒貨幣形態)として普及した。

 

そしていったん文字の体系が確立すると、文字という「形態」にいたるために、書字のかわりに活字を組んで印刷したり、ボード上のキーを押してディスプレイに映すといった媒介を利用することも可能になった。

 

これは、いったん価値の実物形態として貨幣形態が確立すると、紙幣や手形が流通できるのと似ている。

 

なお、表情と手ぶりを組み合わせた言語の実物形態が高度な伝達力をもつことは、手話が証明している。

 

 

 

以下、マルクスの価値形態論にならえば、概念形態論 I、 II、 III 、そして音声・文字形態(貨幣形態)への発展を論じることになるのだが、長くなるので、ここまでとする。

 

 

 

 

 

 

ここまでで得られた主な成果は、次のことである。

 

 

 

音楽・絵画と言語の違いはなにか、身ぶりやものまねが言語といえるのはどういうときか、なぜ同一の対象について複数の言語による複数の語彙が成立するのか、象形文字・表意文字・表音文字、そしてそれらの組み合わせ(たとえば漢字の六書)が可能なのはなぜか、モールス信号や手旗信号や手話が成立するのはなぜか。

 

総じて、なにをもって言語と呼ぶべきか、なぜこのように多様な表現形態が可能なのか。また、多様な表現形態相互で<翻訳>が可能なのはなぜか。

 

 

 

こうした問題について、これまで明快な答えがなかったように思う。

 

 

 

概念形態論は、目に見えない心内の<概念>を、目に見える物質的で社会的な(=他者と共有する規範に合致した)<実物形態>に話者が対応させて表現するとき、それは言語と呼ばれるものとなると規定し、それを可能にする人間的創造力の内容を解明する。

 

概念形態論によれば、ある概念にある実物形態が対応するかぎり、多様な実物形態が許される。概念を共通にすれば、異なる実物形態のあいだの翻訳も可能である。

 

多様な言語の実物形態のなかでも、人体の特性上、もっとも普及した実物形態が音声と文字なのである。

 

概念形態論は、実体詞(名詞)、動態詞(動詞)などの<語彙>の種類がなぜ発生し、どのようにして語彙相互が組み合わされて立体化するかも論じることになる。

 

そこでは、語彙の種類とは、語彙の概念形態/実物形態を成立させるために必要な「社会的必要労働」の量(必要な<創造時間>の長さ)の違いにもとづくことも論じることができるはずである。

 

英語や日本語など多数の言語は、人間的創造力が作りあげた語彙=概念形態/実物形態の仕組みによって成立した、音声・文字の諸形態である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 07:44 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「英文和訳」では、日本語に閉じ込められる

概念は、言語ごとに特有の表現体と癒着して存在する。だからたとえば英語の概念を表現するには、英語の表現体(音声・文字)が最も適している。

 

サインや科学用語なら、言語の違いを超えることもありうる。たとえば、トイレの表示に世界標準を設けることは可能かもしれない。ある元素を日本語では「酸素」といい、英語では"oxygen"というが、元素記号O で表記すれば、世界の化学者は共通の概念をもてる。スポーツの世界では、身体運動のあり方が、言語の違いを超えて共通の概念を伝えている。

 

だが、たいていの概念は、言語を超えてぴったり対応するわけではない。たとえば、「私」は、英語の "I" に対応させるために近代になって作られた代名詞だから、日英でかなり似た概念であるが、使用頻度が違うし、文化的な違いもある。

 

前置詞や冠詞のような、いわゆる機能語になると、日英をきっかり対応させることはほとんど不可能である。ひとつひとつが英語の表現体と結びついた英語特有の概念であるし、それらは相互に関係をもっている。前置詞 to は from とペアだし、冠詞 a は -s との関係の中にある。

 

それでは、非母語を習得することが不可能かというと、そうではない。

 

言語は、表現体を媒介として社会的概念と個人的認識が融合している。だから、

 

 

 

その言語の語彙や語順が表す社会的概念をつかむ。これには、辞書、語源、用例、学者の説明が役にたつ。このとき、英語なら冠詞とか前置詞とか、概念の種類ごとに、母語をつかってよいから、特徴をうまくとらえると、わかりやすくなる。

 

 その言語の表現体(音声・文字)が作れる身体技法を身につける。

 

 ´△鰺僂い董個人的認識を実際に表現する。

 

 

 

この三つを繰り返すことで、他言語は身につく。「和訳」に頼らなくても、非母語の概念を直接運用する身体ができてくるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
外国語の自己が成長する入り口 代名詞・判断・時制

人間は、身体(肉体+精神)たる自分から自己が分離する。自己は自分から相対的に独立した存在となる。

 

この事情は、次のような、いわば「幽体離脱」的なイメージで描ける。

 

 

 

 →   

 

 

 

自分から離脱した自己は、自分を対象にして作動する。

 

 

 

 →  

 

 

 

こうして自分は、自己を生む身体としての自分 ◉ から、自己の対象となる観念的存在としての自分 ◉ へと転化する。

 

自分を対象とする自己すなわち観念的能力のうち、言語に関する能力を言語能力と呼ぶと、言語能力には、認識力と表現力がある。

 

認識力は、認識を概念と対応させて、対象を概念的に理解・選択・配置する精神的能力である。表現力は、概念を物質化して体外に表明する肉体的技術である。

 

外国語を習得するには、外国語の概念にもとづいて自己の認識力と表現力を運用することで、外国語の自己を成長させればよい。

 

 

 

 

自己の成長にとって最初のカギとなるのは、「話し手」を言語世界に生まれさせるコツの習得である。

 

自分にとって、話し手には現実世界の話し手(肉体をもった自分)と、言語世界の話し手の二種類がいる。だが言語にとっては、言語世界の話し手だけが話し手である。言語世界の話し手は、現実世界の話し手と同じとすることもできるが、そればかりでもない。自己は誰でも「話し手」に設定できる。話し手の話し相手を話し手とみなしたり、お日様を話し手とみなしたりもできる。

 

自己が選択した話し手と対象との一時的な関係を表す概念が、代名詞である。その時・その場における話し手は ”I” であり、話し手にとっての聞き手は "you"  であり、その時・その場で、話し手でも聞き手でもない人や物や事象は、すべて第三人称の代名詞で呼ぶ。

 

話し手から見て、ある命題を肯定するか否定するか疑問とするかといった判断も、自己は概念にもとづいて選択する。話し手がおこなう肯定・否定・疑問の微妙な「揺れ」についても、自己は副詞や助動詞の諸概念で表現する。

 

時制は、自己から見た話し手が、表現対象の言語世界にいるかいないかで言い分ける。話し手がそこにいれば現在あるいは未来であり、いなければ過去あるいは空想である。

 

 

 

代名詞・判断・時制は、自己が話し手とその対象の関係を概念的に把握する、認識力の働きである。

 

そして、これらの概念を実際の音声・文字にするのは自己の表現力である。ところが、表現のとき現実に作動するのは、肉体をもった自分であるから、その認識と表現を可能にした自己の働きは、隠蔽される。こうして、言語は自己ではなく自分が行う作業だという感覚が根を張ることになる。

 

もともと、大人の自分はすでに母語の身体をつくっている。だから、非母語も母語と同じ身体要領で処理しようとする。この傾向を蔓延させる社会的な仕組みが、英語で言えば教室における「英文和訳」であり、発音軽視の風潮である。

 

「英文和訳」の迷路を回避するには、代名詞・判断・時制の練習によって、自分=話し手を、外国語の言語世界に直接位置づける。そこから始めることで、この長年の社会的トラップを回避できる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
人間は自己分裂した自己によって観念世界をつくる

「自己分裂」とは、三浦つとむがとりあげた人間の観念の根本現象で、自分から自己が分裂して「私」が二重化することをいう。このように分裂した状態の「私」を、自我ともいう。

 

以下、英語の場合でいうと、自己は、「話し手」という概念でとらえた対象を  ”I” と呼ぶ。

 

自己が ”I”と呼ぶものは、実物の話し手(自分)であることが多いが、いつもそうとは限らない。小説の作者が ”I” と書いたとき、それが架空の人物であることもある。実物であれ架空であれ、「話し手」という概念を、英語では ”I” という音声・文字で表すのである。

 

自己は観念的能力そのものだから、物質にはできない運動が自由にできる。 自己は、言語世界(概念が作る世界)のどこにでも移動し、対象に移入し、自分に帰還できる。

 

このような自己つまり観念的能力がつくる世界に「話し手」がいるかいないか、どのようにいるか、どのようにいないかによって表現仕分ける三つの分野がある。

 

代名詞、判断(肯定・否定・疑問。助動詞による判断の揺れを含む)、時制の三つである。

 

英語を身につけるには、この三つの運用練習から始めるとよい。生身の学習者つまり「自分」は「話し手」の代表といえるから、これらの運用は、「自分」という話し手の居場所とあり方を自己が選択し、表現する練習になる。

 

代名詞、判断、時制が運用できると、英語の世界と現実の学習者(自分)がつながった感覚が育まれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
言語世界は現実世界から独立している 永遠の誤解から解放されるために

私もそうなのだが、言語について説明しようとすると、つい目の前にある物を指して説明したくなる。教室なら、ペンや黒板消しを手に持ち、それを示しながら説明したりする。

 

ところが、日常生活では、自分の目の前の物や出来事を対象にして語ることは、意外に少ない。予定とか予想とか、過去の出来事とか、仮定の話とか、怒りや喜びのような内心の感情のように、現在目に見えること以外のことを語る機会が多い。

 

しかも、「信号が赤だ」というような、目の前の現実を語っているように見えるときも、言語じたいは、その現実を直接語っているとは言えない面がある。

 

現実に信号があろうがなかろうが、「信号が赤だ」は、それ自体で言語として成立しているからである。「信号が赤だ」は、視覚によって得た自分の認識を直接語っている場合もあるが、「信号が赤い」という体外の現実は、言語にとっては間接的な事情に過ぎず、必ずしも実在する必要はない。

 

言語表現の直接の対象は、体外の実在物ではなく、体内の自分の認識である。言語は、体外の現実と五感を通して間接的につながっているだけである。

 

この事実を明瞭に理解することは、人間にとって難しい。

 

最新の言語学と思われている認知言語学でさえ、人間の知覚から出発しているために、体外の現実が言語の直接の基盤であるかのように考える傾向がある。だから認知言語学は、認知を超越した抽象的概念に目を向ける姿勢に乏しく、言語が現実を超越する驚異的な力の前に、無力である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
"you" は 話し手からみた、言語世界の聞き手である

”I”は、今話している生身の話し手である「自分」を指していると感じられることが多い。

 

確かにそういう意味で使うことが多いのだが、そうと限ったわけではない。

 

 

空想の中の自分も ”I” と言える。

 

役者は、役柄の「自分」も ”I” と呼ぶ。

 

物語の中の人物(動物でもどんぐりでも良い)も、「自分」を”I” と呼べる。

 

 

このように見ると、ここで「話し手」たる自分 ”I” とは、生身の人間とは限らず、言語の世界で話し手とみなされた主体であれば、なんでも良いことがわかる。

 

 

 

"you" も同様で、生身の「聞き手」が "you" とは限らない。声が聞こえる範囲にいる人でも、話し手にとって言語世界での聞き手でないなら、"you" ではない。

 

 

たとえば、エレベーターに男性二人と女性一人がいるとして、男性一人が話しかけても女性がおし黙っていれば、男性は、もう一人の男性に、

 

 

"She is silent."

 

 

と表現できる。現実世界でその女性がこのセリフを聞いていても、言語世界では、その女性は聞き手ではないから、"she" である。

 

 

"you" とは、「話し手にとっての聞き手」という言語世界での概念である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 16:37 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
仮定法は、話し手が遠慮しながらのぞき込んでいる世界 だから控えめに聞こえる

”I” とは、「話し手」という概念の、英語における表現体である。

 

英語の「時制」は、表現対象にした世界に話し手がいるかどうかで言い分ける。

 

 

現在形なら話し手がいる場面であり、過去形なら話し手がいない場面である。

 

 

 

He was now a national hero.   (ルミナス英和辞典より)

 

 

 

この文では、話し手がいる時点を表す now が使われている。

 

"He was"  の部分までは、he がいる世界に話し手はいない。だが次の瞬間、話し手はタイムスリップし、he が a national hero になっている様子を眼前に見ている。だから、now と言うのである。日本語で、「彼は今や国民的英雄であった」と言う場合によく似た言語過程である。

 

 

同様に、「進行形」は、be 動詞が現在形なら、話し手がいる世界での未完了であり、be 動詞が過去形なら、話し手がいない世界での未完了という概念の表現である。

 

 

「仮定法」が「過去形を借りて表す」という説明をする場合がある。仮定法とは、話し手が実現性のなさを自覚している空想の世界であるから、そういう世界には、話し手は直接行けず、のぞき込んでいるだけになる。「過去形を借りる」ことが可能なのは、このように、話し手がそこにいないという点で、空想の世界と過去の世界は共通しているからである。空想の世界は、話し手が遠慮しながらのぞき込んでいる世界だから、控えめとか丁寧の意味に聞こえることにもなる。

 

 

「未来」は、確定性が薄いオープンな時間である。だから will のような話し手の確信をいう概念や、must, may, can のような話し手による断定、動揺、客観的可能性を示唆する「助動詞」によって限定されてはじめて、話し手は未来の世界へと入りこむことができる。ほんらい助動詞は、話し手の確信、断定、動揺、客観的可能性という概念を表し、必ずしも未来を表すわけではないが、それを時間軸で受けとめれば、「未来」の意味としても理解できるわけである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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