ごきげんようチャンネル

"Life is too short to wake up with regrets." author unknown
           

概念と認識のちがいがわかった人は、外国語がうまくなる おわり

概念と認識の違いを理解することは、外国語の習得のような場面で決定的に重要となる。

 

外国語を習得しようとする場合、概念と認識の違いをどう活用すればいいだろうか。

 

それは、10歳以降に母語以外の言語を習得しようとするときは、まずその言語の概念をつかむようにすることである。

 

母語が確立している場合、外国語の概念は、まずは母語を手がかりにしてつかむことができる。そのうえで、個々の場面の具体的な認識にもとづいて外国語の表現体(音声と文字)で表現していくうちに、外国語の概念がより深く理解でき、正確に運用できるようになる。

 

なぜ、10歳以降の外国語学習では概念の習得を重視すべきなのか。

 

それは、人が認識を言語で表現するとき、概念が規範としてはたらくからである。

 

外国語が運用できるということは、その外国語の規範にのっとって表現できるということであるが、外国語の規範が運用できるということは、その外国語の概念によって表現できるということである。

 

ところが、外国語の学習のとき、人は母語による認識、そして母語風の表現体(発音)に頼りがちである。これをするから、大変な遠回りを強いられることになるのである。

 

最近、具体的場面を写真や漫画でたくさん見せることで、英語の前置詞の意味を理解させようとする本が何冊も出ている。これは外国語の習得において、<認識から概念へ>というルートを選んだ例といえる。

 

この方法は、直感的にわかる画像イメージを利用して、母語による認識を回避しているところが優れており、一定の効果があるが、遠回りなところがある。もうひとつのルートによって補完されれば、いっそう効果的だと思われる。

 

もうひとつのルートとは、<概念から認識へ>という逆方向からのアプローチである。

 

概念をつかむ。これは、個々の認識よりも抽象的で、難しそうにみえる。ところが、私の経験では、そうでもないことがわかってきた。この点については、別の機会に説明したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 09:53 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
概念と認識のちがいがわかった人は、外国語がうまくなる その1

概念と認識。この二つが、長いこと私には区別しにくかった。区別の必要が理解できなかった、というべきかもしれない。

 

いま思うに、この二つの区別こそ、人のあり方の理解のキモになる。概念と認識の区別は、むずかしいからこそキモなのだ。

 

認識は、個々の人が創造する個人的な観念である。概念は、人々が表現を交換するうちに凝固した、社会的な、既定の観念である。概念は、言語化されて辞書に載っている。

 

ここでは、言語化された概念の例をあげてみよう。次の図は、小学校などで教える、日本語の「こそあど」の体系である。

 

 

 

 

 

こそあど表.jpg

 

 

 

 

 

この「こそあど」図は、国語学者の佐久間鼎が整理したといわれるが、これは概念どうしの関係、すなわち個々の話し手とは無関係に、概念どうしが自立的につくっている秩序である。

 

他方で、個々の具体的な認識においては、日本語を話す人がこうした概念の体系をいちいち意識する必要はない。認識においては、目前の認識対象をどう表現するかがわかれば十分だからである。

 

認識は個人的で、概念は社会的だというのは、このようなことを指している。概念は、個々の認識とは次元がちがう。

 

他にも、ソシュールの「連合」のようなものも、概念どうしの抽象的な関係の例である。文法も、表現体のあり方とペアになった概念の一種である。

 

個人の認識は、社会的な概念にのっとって行われる。社会的な概念は、個人の認識とその表現の集積によってつくられ、発展する。談話、定義、詩、小説といった具体的な言語表現は、個々の認識が概念の体系にのっとって表現体に転換されたものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 09:52 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
名前が暗号になり、スーツが意志表現になるとき おわり

これに似た話で、忘れられない例がある。

 

イラク戦争のとき、フセイン大統領は大量破壊兵器を望んでいたが、保持にはいたっていなかったことが、今日では明らかになっている。

 

当時、イラクの大量破壊兵器について正確な情報をアメリカにもたらしたのは、イラク政府の高官二人であった。そのうちの一人は、なんとフセイン政府の外務大臣で、CIA は仲介者に20万ドルの手付金を支払って彼に接近した。

 

この外務大臣がCIA との取引に応じる意志を示した方法が、印象的である。

 

彼は、仲介者が提供した特注のスーツを着て、国連に現れたのである。

 

着ているスーツで重大な意志を表すとは、奇想天外とも思える手段だが、これも当事者どうしで規範を約束すれば、表現手段はなんであれ、意志は伝わるという例である。

 

この外務大臣は、フセインはかつて化学兵器をもっていたが、彼に忠実な部族たちに分配してしまい、現在は大量破壊兵器と呼べるものは保有していない、という情報をアメリカにもたらした。にもかかわらず、アメリカはイラクに戦争をしかけたのである。(以上、http://www.bbc.co.uk/news/uk-21786506

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 07:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
名前が指令になり、スーツが意志表現になるとき その1

戦後、北朝鮮への「帰還事業」とか「帰国事業」とか呼ばれる運動があった。略して「北還(ほっかん)運動」と呼ぶこともあるようだ。

 

日本からの送金や労働力をあてにした北朝鮮政府だけでなく、日本政府、韓国政府、日本の一部左翼やマスコミが黙認・奨励したこともあって、赤十字の活動という形式で1960年ごろから四半世紀にわたって継続し、約9万人が日本から北朝鮮に移住した。

 

「帰還」した人のすべてが希望に燃えていたわけではなく、見知らぬ土地での生活に不安を抱いた人も多かった。

 

手紙が北朝鮮当局に検閲されていることも知られていたから、帰還者は日本に残る近親者たちと特殊な約束をして北朝鮮へと渡った。

 

そのひとつに、次のようなものがあったという。

 

「自分が帰国(北朝鮮に帰還)したら、様子をみて手紙を出す。兄の名が出ていたらみんなで北朝鮮に来なさい。弟の名が出ていたら、どうにかして日本で暮らしなさい。」

 

果たして、北朝鮮から届いた手紙には弟の名が書いてあった。それで、近親者たちは日本で暮らすことにした。(以上は在日韓国人の証言から。『歴史地理教育』2013年3月号、53-54頁)

 

この話が示すように、音声や文字が伝える意味の規範(概念と語彙)は、当事者どうしの約束があれば、それだけで成立する。いったん規範が成立すれば、すべての当事者がそれによって拘束されるし、拘束されることによってのみ自由に意味が伝達できる。

 

実物のイヌと、「イヌ」という音声や文字は似ても似つかないのに、なぜ意味がわかるのかというのは、言語学原論であつかう謎のひとつである。言語とは、当事者どうしが約束した「暗号」であり、現実から独立した世界だと考えれば、この謎は解ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 06:56 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
人は観念で報復する 米連続殺人犯に「七生」の刑

久しぶりにドラマっぽいものが見たくなって、米CBSの番組"48 Hours" から、 "Serial Confessions" という犯罪の実録を見た(2017年6月放送)。

 

 

 

http://www.cbsnews.com/news/todd-kolhkepp-case-confessions-of-the-s-c-serial-killer-kala-brown-rescue/

 

 

 

ノースカロライナで成功した不動産業者の男(白人)が、じつは七人を殺害した serial killer だったという実話。何度も人を殺しながらつかまらず、自分が管理し、他人が入れない広い土地に小屋をつくり、そこに女性を二ヶ月監禁していたのが発覚して逮捕された。

 

つかまったあとはあっけらかんとして罪を認め、「外で、俺の後頭部を撃って殺してくれ  Take me out back, shoot me in the back of the head.」とうそぶく始末。

 

しかし、犯行をすべて認めるのとひきかえに死刑は免除され、この男にくだった刑は、「七生プラス60年」であった。"He was given seven consecutive life sentences plus 60 years."

 

「七生(しちしょう)」というと、仏教ではこの世に七回生まれかわるほどの長い時間をいい、「七生報国」などと使う。

 

この男の場合、七人殺したから「七生」なのだろうが、この判決には、人間の観念性がよく表れていると思う。

 

七回生まれなおしても、すべて刑務所、プラス60年。たんなる表現、観念の問題のようにもみえるが、それにも意味がある。

 

事件の処理は、民事なら賠償金など、刑事では刑罰ということになるが、いずれも観念の世界での報復が目的である。

 

人間は、社会は、観念の世界をもっている。ある意味でそこが、人間の究極の住処である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 06:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
概念は「幽霊」(マルクス)である

商品生産社会では、労働は具体的有用労働として使用価値を生み出すと同時に、抽象的人間労働として価値を生み出すという話が資本論に出てくる。

 

具体的有用労働のほうはイメージがわきやすいが、抽象的人間労働は、どの労働でも同質であり、量(時間)によって測るしかないような抽象的なものだというのだから、少々わかりにくい。

 

この点について、資本論はかなり懇切に説明している。

 

たとえば、裁縫と織布は異なる二種の具体的有用労働だが、一人の労働者がかわるがわる、両方行っている状態を考えることもできる。ある季節には農民で、ある季節には建設労働者になる人もいるかもしれない。

 

裁縫と織布、農作業と建設労働は、具体的有用労働としては質が異なるが、一人の人間が両方こなしうることを考えると、両者に「同じ実体」すなわち単一の抽象的な人間労働が含まれていることがイメージしやすい。

 

どれも同一の人間が行う労働である以上、共通した「実体」が含まれているはずである。

 

ここまでくれば、それが労働者Aであるか労働者B であるか、労働Cであるか労働Dであるかとは無関係に、人類がおこなう商品生産活動すなわち「労働」という抽象的な質そのものの存在が見えてくる。

 

こうして、

 

 

「労働の有用的性格を度外視すれば、労働に残るのは、それが人間的労働力の支出であるということである。それら[裁縫労働と織布労働]は、人間的労働力を支出する二つの異なった形態にすぎない。」

(マルクス『資本論』第一巻第一編第一章「商品」、資本論翻訳委員会版、新日本出版社、75頁)

 

 

このように、マルクスがいう「抽象的人間労働」とは、動物ではなく「人間」であれば通常可能な労働行為のことで、「人間の脳髄、筋肉、神経、手などの生産的支出」すなわち「平均的に、普通の人間ならだれでも、特殊な発達なしに、その肉体のうちにもっている単純な労働力の支出」のことである。(前掲書、75頁)

 

動物でも植物でもない、類としての人間がおこなう商品生産活動ならば、それは抽象的人間労働である。

 

労働について言えることは、同じく人間ならではの活動である言語についても、あてはまる。

 

「人間にしかない、労働といえるもの」が抽象的人間労働であるならば、「人間にしかない、言語といえるもの」が「言語」である。このレベルでは、どこの言語であるか、方言か標準語か、どんな発音体系・文字体系か、といった「具体的有用言語」のレベルの要因はすべて消失して、いわば透明で均質な「言語」があるばかりである。ここに、「抽象的人間言語」とでもいうべきものが浮かび上がってくる。

 

マルクスは、抽象的人間労働においてはあらゆる具体性が消失し、「幽霊じみた対象性 gespenstige Gegenstaendlichkeit しか残っていない」と描写した。(マルクス『資本論』第一巻、筑摩書房版、60頁)。

 

同じように、抽象的人間言語においては、あらゆる形態や具体性は消失し、「幽霊」のような実体だけが見出せる。この実体が、概念である。

 

言語の理論は、この抽象的人間言語=概念を最奥の実体性として構築されねばならない。

 

 

 

追伸:言語という概念の世界では、人間は幽霊の世界にいる。言語では、人間は幽霊になるのだから、完全に幽霊としてふるまえばよい。この原理がわかっている人が、いっちゃってる人である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 05:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
自分の知られざる能力を信じて微調整せよ 「声の力」はその例だ おわり

ところで、発音のような人間のベーシックな活動を考えるとき、大事なのは、はじめに述べたように、身体の活動の大部分は無意識のうちに、自律的にコントロールされているものだということを利用する姿勢ではないだろうか。

 

自分の声を録音して...という先の方法にしても、聴こえてくる声のうち、自分が左右できる部分はごく一部なのだ。骨格、声帯の長さなどは自分では変更できない。吐いたら、自然に吸うものだという呼吸の原理も変更できない。声帯の震えを身体の共鳴を利用して拡大するという声の原理も変更できない。

 

われわれが意識的に行えるのは、身体の機構の微調整にすぎない。だから人間は、微調整の仕方を工夫すればよいし、それで十分なのだ。

 

あとは身体が自律的にやってくれる。身体の力にまかせればいいのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 06:42 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
自分の知られざる能力を信じて微調整せよ 「声の力」はその例だ その4

外国語を習得するときの難関のひとつが、発音である。日本では「発音は適当でもいい」といった意識がかなりあるようだが、これは大人が外国語の発音を習得できる方法が、まだ発見されていないことの反映である。方法がわからないから、「発音は適当でもいい」と思うしかなかったのだ。

 

そこで、まず上記の△量未任△襦自分の声を録音し、研究するという山さんの方法を、外国語に応用してみたらどうなるだろうか。すでに録音した自分の声を聴き、客観的に観察し、ベストの部分を自分で発見する。スポーツでいえば、ルールや定石が頭で「わかる」段階である。

 

山さんによれば、次に、録音して発見した自分のベストの部分を意識しながら、何度も自分の声を録音しては聴くという作業をする。外国語の場合なら、「我ながらいい発音だ」と思える部分を拡大し、くりかえすのである。スポーツなら、これは素振りや筋トレやセットプレーをやって「きたえる」段階である。

 

以上の「わかる」「きたえる」は、じっさいに「つかう」ための準備である。

 

そこで、いよいよ「つかう」のだが、これは上記の △弔泙蝓崑召里海箸傍い鬚箸蕕譴董⊆分の声のチェックは無意識化している」ようにするのがコツである。

 

「つかう」ときには、自分の声に気をとられるのではなく、話の内容に集中しているのが良い。たとえば、会話や演技や歌やゲームのような活動をして、表現する内容のほうに注意がいくように工夫するのである。

 

言語の意味の世界は、声そのものではなく、抽象的で非物理的な概念の組み合わせで成り立っている。言語の本丸は、音声ではなく自分が表現している意味のほうにある。とくに外国語では、意味の表現じたいに夢中になる体験をつくることが大事である。無意識につくる自分の音声を通して意味に没頭することが、「外国語体験」の真髄だからである。

 

これはスポーツの試合で、自分のフォームや動きをチェックしようとするのではなく、ボールに集中するほうがのびのびとプレーできるのと似ている。もちろんこれは、上記の△弔泙蝓屬錣る」「きたえる」の準備作業とペアになっての話である。

 

声は、自分でモニターしようとすればそれも可能であることを利用して、「わかる」「きたえる」をおこなう。そして、モニターしないで無意識化することも可能であることを利用して、「つかう」をおこなう。

 

このように声のメカニズムを利用し、自分の外国語を上達させるという方法が考えられる。

 

たとえば、小学校の英語の時間に、「わかる」「きたえる」を抜きにして、「つかう」ことばかりをやらせているケースがあるようだが、これは片手落ちである。

 

小学校でも自分の声を録音して、みずから「わかる」「きたえる」のプロセスを強化し、そのうえで、「つかう」活動に入ってみたらどうだろうか。こうして、じっさいに「つかう」うちに、もっと「わかる」「きたえる」をやってみたいという意欲も湧いてこないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 05:04 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
自分の知られざる能力を信じて微調整せよ 「声の力」はその例だ その3

話したいことを決めたとき、脳に浮かぶ「うっすらとしたテンプレート」とは、言語論でいえば自我が対象からつくった認識にあたる。認識は心のなかでつくられ、多少の形象性があったりもするが、多くは形のない、透明の雛形のようなものである。

 

この認識を、表現規範(こういう概念はこの音声で言うというルール)にもとづいて、言語の表現つまり声に変換する。これが「話す」ということである。

 

ここまでは常識である。重要なのは、こうして自分が発した声が、聴覚を介して自分に帰ってくるということである。自分の声を自分が聴くのだから、これは必然的に、じっさいの声と、はじめのテンプレート=認識とがうまく対応しているかチェックする機会となる。

 

ここで、二つの可能性がでてくる。

 

ひとつは、他のことに気をとられている場合である。このときは、自分の発した声は認識のテンプレートどおりになっていると、人は自動的にみなしてしまう。つまり声とテンプレートの相互チェックは無意識に行われるので、自分の発話が邪魔されることはない。

 

もうひとつは、自分の声に聴き入り、はじめのテンプレートにふさわしい声になっているか、意識的にチェックする場合である。このときは自分の声が気になって、とたんに話しにくくなる。

 

山さんの本は、△虜邏箸蓮⊆分の声をレコーダーに録音し、それを聴いてチェックすることで代用すべきだという。言いながら聴くのではなく、言ったあとで聴くという手段をとり、自分の声をもっぱら聴いて、そのなかのベストの部分を発見するのだという。

 

さてそこで、このような声の仕組みは、外国語の習得にも役立つと思うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 22:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
自分の知られざる能力を信じて微調整せよ 「声の力」はその例だ その2

人間の精神の大半が自律的だというのはどういうことか。それは声とどういう関係にあるか。

 

この本に、次のような説明がある。

 

 

 

「自分が話したいことを決めた時点で、人の脳にはうっすらとしたテンプレートが浮かび上がります。意識してもしなくても、です。それをそのまま伝えるべく声にするわけですが、自分の耳と聴覚を通して聴くと、脳に浮かび上がっていたテンプレートと重なって、大きなズレがあれば修正します。それが聴覚フィードバックでもあるのですが、聴覚フィードバックの働きは、他のことに身体や脳が使われていると、脳内のテンプレートが聴覚を補完し、あたかもテンプレートのとおりに話したと思わせるのです。」103頁

 

 

 

この説明はちょっと複雑で、わかりにくいかもしれないが、言語という精神活動の秘密に、生理的な角度から迫った優れた例と思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 07:16 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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