ごきげんようチャンネル

Life is for those who have a hope.

Action is of those who embrace a yearning.

History is made by life and action, hope and yearning.


観念論か唯物論かではない。実在するのは観念と現実の連鎖である

人は、あたかも目の前の現実を直接見て行動しているようにみえる。

 

しかし実際には、自分の観念を鏡にして現実を理解し、その理解をもとに行動している。

 

人間にとって現実は、観念を媒介にして現実となる。

 

人間は、現実についての観念にもとづいて、現実をコントロールしようとする。

 

 

 

...

 

 

 

人間は、観念によって現実を理解し、その理解にもとづいて行動することによって新たな現実を生む。

 

 

 

 

現実⇨観念現実⇨<観念現実観念⇨現実..

 

 

 

 

ここで現実とは、身体の内外の物理的な世界や、人間の行為とその結果である。観念とは、人間が体内で抱く非物質的な意識、認識、概念である。

 

観念⇨現実の部分をとると、観念が出発点になっているので、観念論のようにみえる。現実⇨観念の部分をとると、唯物論が正しいようにみえる。

 

だが、<観念⇨現実>は、身体(たとえば脳)という物理的な前提があってはじめて可能である。<現実⇨観念>も、人間の認知や概念化という観念的能力を基盤にしている。物理的な現実があれば、それに対応する観念が自動的に生まれるというものではない。

 

つまり、上記の連鎖は、観念論か唯物論かではなく、物質の世界とは異なる、人間の観念の運動である。

 

 

 

...

 

 

 

現実と観念の連鎖は、全体が非物質的な、人間にとって実在する運動であるが、なかなか見えにくいことが、ひとつある。

 

この連鎖は、個人だけでなく、社会的・集団的にも進行しているということである。

 

これまでの哲学は、観念の集団性・社会性をあまり考慮しなかった。それは、哲学を営む認識が、個人の体内で発生するからである。

 

現実と観念の連鎖にもとづいて個々人が行う行動すなわち意識諸形態を、物質面で規定する全社会的な仕組みが土台であり、精神面で規定する全社会的な仕組みが上部構造である。そして土台も上部構造も、個々人の意識諸形態の産物である。

 

意識諸形態も土台も上部構造も、現実と観念を連鎖させる人間の営みによって成立している。

 

全社会で進行する現実と観念の連鎖の仕組みを、マルクスは「社会構成体」と呼んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
心身問題 連関の論理による簡潔な解決

人間の身体には、肉体と精神がある。身体のうち、肉体でない側面を精神と呼ぶ。身体のうち、精神でない側面が肉体である。

 

肉体は精神でないし、精神は肉体ではない。両者はいかにして合体できるのか。これが心身問題である。

 

一般に実体は、みずからの属性を現そうとして、自分や他者を対象に投射する。その結果、みずからの属性と、自分や他者の実体が合体した転体が生まれる(マルクスによる連関 sich verhalten のロジック)。

 

肉体が実体で、その属性が精神である。逆に、精神が実体で、その属性が肉体でもある。肉体は精神によって身体となり、精神は肉体によって身体となる。

 

身体の肉体/精神が、みずからの精神/肉体に投射することによって、あらたな身体へと転体しつづける。肉体と精神は、転体する身体において合体している。

 

 

 

以上によって、心身問題は解決された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
連関の論理によって、事物は分裂と再統一をくりかえす

なんらかの属性が観察されるとき、そこには、その属性を支える実体があるはずだと、人間は考える。

 

逆に言うと、あるものを実体とみたとき、それは属性を発現していることになる。この発現を投射と呼ぶと、投射の主体たる実体は、投射の対象たる実体(これは自分自身でもよい)を自分と同属とみなし、自分の属性と対象の属性をすり合わせて転体をつくる。主体たる実体は、転体をつくる過程・結果からの反射を受ける。このメカニズムが、連関である。

 

宇宙は、こうした連関の無数の組み合わせによって運行される。あらゆるものは個別の実体でありながら、対象たる実体との連関を構成するが、そのさい観察可能なのは、実体そのものではなく、実体が発揮する属性の方である。

 

人間もまた、この連関の論理のプロセスにあるもので、人間は人間特有の連関の論理を持つ。この連関を継続している状態を、「人間」という。

 

ところで、投射の具体的対象は、なんらか物質性を帯びた事物でなければならない。

 

人間の特性は、みずからの体内に、投射の対象としての物質的表象を蓄えていることである。言語の場合、人間は、身体が抱いた認識を、概念に照らして、うっすらと物質性をおびた表象(音声・文字のイメージ。マルクス『資本論』の「等価物」)化することで、みずからの観念の意義をとらえ、これを現実の表現体へと転換して、認識+意義を表現する。この表現体→認識+意義についての人間の認識が、意味である。

 

人間は、それぞれ個別の存在でありながら、互いに共同する。物質でありながら観念でもあるという人間の矛盾した事態は、個別の存在でありながら共同して社会を運営しなければならないという人間の現実に、起源がある。

 

個々別々の肉体をもつ人間が共同して社会を営み、生活していくためには、個々別々に作った生産物や体内産物たる認識を、人間・商品・言語のような社会的に通用する物象・意識諸形態へと変換し、この物象・意識諸形態を交換・分配・消費する以外に方法がない。

 

物質的資産や物質的生産活動(土台)によって政治活動や社会運動や文化活動といった意識諸形態が規定され、こうした物質的・観念的活動の止揚として、慣習や法律や組織(上部構造)が生まれる。そしていったん生まれた物質的生産体制と意識諸形態と上部構造は、互いに規定しあうことになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
世界は、実体/属性の連関運動である

<この世界はすべて物質だ>というのは、間違っていない。それは一面で正しい。

 

だが、物質という実体は、物性という属性をもっている。生物の生体は、物質/物性を基礎として、本能・習性という属性をもっている。人の身体は、物質/物性および生体/本能・習性を基礎として、精神という属性をもっている。

 

この世界の実体は、物質>生体>身体であるが、実体は、物性>習性>精神という属性ももっている。

 

実体なき属性はないが、属性なき実体もない。

 

その意味では、<この世界はすべて物質だ>とだけいうのは、誤解を招きやすい。

 

科学は実体を研究しているが、それは実践的には、実体の属性の研究である。科学は、属性の認識を新たにする作業を通して、実体の概念を深化させようとする。人間が直接認識できるのは、実体そのものではなく、実体の属性(動態・状態と、その程度・様態)だからである。

 

物質・生体・身体という実体は、人間にとって、物性・習性・精神という属性として現れる。属性は実体なくして存在しえないが、実体は属性として現れざるをえない。実体/属性という二層態が、互いに連関しあうこと。これがこの世界の根本的なあり方である。自然しかり、社会しかり、人間しかり、商品しかり、貨幣しかり、行動しかり、文字しかり、音声しかり。

 

この見方(連関の論理)によって、自然、社会、思考の運動を、同じ原理、一つの原理で見ることができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 21:26 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「魚、水を行くに、行けども水の際なし」(道元・正法眼蔵)

魚、水を行くに、行けども水の際なし
 

 

道元の正法眼蔵に出てくる、私の好きな言葉。

 

池のコイは、限られた境界のなかで一生を送る。外から見ていると、ずいぶん不自由のように見える。だが、コイから見れば、行けども行けども水がある。コイは自由なのだ。

 

厳格な修行は、不自由なのではない。戒律があるからこそ、そこに自由がある。それが道元の言いたかったことかもしれない。

 

だが、別の解釈もできる。

 

コイから見れば、行けども行けども水がある。ゆえに、自分が小さな池の中にいることをコイは知らない、と。

 

ひとつの世界にいつづけると、もっぱらそこからものを見るようになってしまう。人間は、とかく狭い了見におちいりがちだと、戒めた言葉ともとれるのだ。

 

この言葉の面白さは、池の外から見ている目線と泳ぐコイから見た目線という、二つの異なる観点が、簡潔な表現のなかに織り込まれているところだ。

 

どこにでも自由はあること、しかし自由とばかり思っていると、自分の狭さに気づかない危険もあること。

 

それが人間というものだというのが、道元の真意なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
デカルト「われ思うゆえに…」の謎を解く パスカルの「葦」がヒントだ

デカルト(1596-1650)の「我思う。ゆえに我あり」。

 

これをどういう意味に理解するかが、繰り返し論じられてきた。

「我思う」という断定じたいに「我あり」という前提が含まれているのだから、これは一種の詭弁(論点先取りの誤謬)だという批判もある。

 

「ときどき私は考える、ゆえにときどき私は存在する」(ヴァレリー)と茶化した人もいる。

 

 


考えてみれば、ほぼ同時代人のパスカル(1623-1662)の有名な言葉は、デカルトの続編としても読める。

 

 


「人間は一本の葦にすぎない。しかし、それは考える葦である。宇宙が彼を押し潰しても、人間は彼を殺すものよりも高貴であろう。なぜなら、彼は自己が死ぬことを知っているが、宇宙はそれについて何も知らないからだ。だとすれば、われわれのあらゆる尊厳は思考の中にある。空間によって宇宙は私を包含するが、思考によって私は宇宙を包含する。」(パスカル『パンセ』より要約)

 

 


私は、宇宙を外から眺めている自分を想像し、その自分とは誰なのか?と考えて、寝床でぞっとしたことが何度かある。

 

 


さて、デカルトやパスカルが背後にもっていた問いは、「人間は何のために生きているか?」であろう。この問いについて、私の好きな答えは、

 



「宇宙の一部である人間が宇宙の存在を意識することで、宇宙は自分の存在を意識できる。だから人間は存在価値がある。」
 

 

 

というものである。

デカルトやパスカルの言っていることは、宇宙的スケールでいえば、
 

 

我思う、ゆえに宇宙あり、ゆえに我あり。」
 

 

 

ということだと、私は解く。

「神の意思」(→宇宙)に思いをはせるキリスト教が人間に充実感を与えるのも、「我思う、ゆえに宇宙あり、ゆえに我あり」の思考回路がもつパワーのゆえだ。南無阿弥陀仏もこれに類似する。

 



思考によって全体をとらえ、その中に自分を置きなおす。置きなおしつづける。視点を絶えず更新する思考習慣。その習慣がもつパワー。それが哲学であり宗教なのだ。


 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 08:55 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
萩原朔太郎「月に吠える」 私の読み方 おわり

冒頭の「ぬすっと犬」は詩人本人であり、「犬」は、単独の<個別>として登場する。

 

次に、「ぬすっと犬」は「くさった波止場」「月」「黄色い娘たち」「陰気くさい声」「くらい石垣」によって<特殊>化される。そういう場にいる特殊な「犬」へと変わるわけである。

 

一匹の犬しかいなかった絵画に背景部分が描かれていく。

 

そして詩は、「犬よ、青白いふしあわせの犬よ」と自分を突き放し、客観視して終わる。

 

いまや「ぬすっと犬」は朔太郎個人であると同時に特殊な背景をもつ普遍的な存在として世に放たれたのだ。

 

 

 

この詩を読む者は、いつもこの<個別→特殊→普遍>のプロセスを経ることになる

 

朔太郎の言葉でいえば、<個々、特異、共通>が、詩という形式によって<焦点>化されているのである。

 

 

 

「特異にして共通なる個々の感情の焦点に、詩歌のほんとの『よろこび』と『秘密性』が存在する」(『月に吠える』序文)

 

 

 

と彼が言ったのは、このことである。概念よりも感覚、理性よりも感情に、個別・特殊・普遍が混在した人間という存在の根拠があるのだという主張を、朔太郎は実践してみせた。

 

およそ歴史に残る作品は、作者の個人的資質が源泉になっているだけでなく、なにかの世界観を背景にもっていることが多い。

 

ある世界観を設定し、そこからみた、ひとつのポイントを意図的にねらって作品にする。そこに意志が生まれ、その意志が伝わる。

 

人間がつくるものの究極は、財貨がもつ価値でもなく、概念がつたえる意味でもない。むしろ人に伝わる意志なのだろうと、このごろ私は思うようになった。

 

朔太郎の作品も、個々の言葉の意味は主たる問題ではないのかもしれない。むしろ、人間の感情がもつ個別・特殊・普遍の豊かさを伝えようとした彼の意志が、歴史に残ったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 08:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
萩原朔太郎「月に吠える」 私の読み方 その3

では、この詩集から、短い詩をひとつ紹介しよう。

 

朔太郎が特殊・普遍・個別を使い分けていることがわかる例である。

 

 

 

 

 

 

 

 

悲しい月夜

 

ぬすつと犬めが、

くさつた波止場の月に吠えてゐる。

たましひが耳をすますと、

陰気くさい声をして、

黄いろい娘たちが合唱してゐる、

合唱してゐる。

波止場のくらい石垣で。

 

いつも、

なぜおれはこれなんだ、

犬よ、

青白いふしあはせの犬よ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 08:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
萩原朔太郎「月に吠える」 私の読み方 その2

特殊とは、限定された個別。普遍とは、すべての個別を含んだ全体。そして個別とは、特殊と普遍の源泉である。

 

この三者の関係は、二重丸◎でイメージすると少しわかりやすくなるかもしれない。

 

それぞれが指す部分は、

 

 

 

小さいほうの丸を黒くして◉にすると、そこが特殊(大きい◯に限定された個別)。

 

二重丸の全体を●のように塗りつぶすと普遍。

 

小さいほうの丸しかないとみなして●と黒くすれば、それが個別。個別が大きい◯に囲まれれば特殊◉になり、個別(複数可)が全体を占めたとき普遍●になる。

 

 

 

以上のように、ひとつの◎を三通りに認識して、特殊・普遍・個別と呼びわけることができる。人間はこのように、同一のものを幾通りにも認識し分けることで対象を理解していく。

 

言語の三大概念に対応させると、特殊が動詞、普遍が形容詞、個別が名詞に、それぞれ親近性がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 08:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
萩原朔太郎「月に吠える」 私の読み方 その1

萩原朔太郎(1886−1942)の『月に吠える』(1917年)は、第一次世界戦争のさなかに発刊された朔太郎の第一詩集。

 

 

暗い夕暮のような「感情」のフィルターを通して世界を見た詩集だ。それは自然主義への反逆だったと、のちに朔太郎は説明している。

 

 

今日読むと、言語の三つのレベルを朔太郎は駆使しようとしたことがわかる。

 

 

 

 

 「人間の感情といふものは、…極めて普遍性のものであって、同時に極めて個性的な特異なものである。…この特異にして共通なる個々の感情の焦点に、詩歌のほんとの『よろこび』と『秘密性』が存在するのだ。」(『月に吠える』序文)

 

 

 

 

 

この「特異」を特殊と読み、「共通」を普遍と読み、「個々」を個別と読み替えると、朔太郎の言いたいことがわかりやすくなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 08:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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