ごきげんようチャンネル

"Life is too short to wake up with regrets." author unknown
           

萩原朔太郎「月に吠える」 私の読み方 おわり

冒頭の「ぬすっと犬」は詩人本人であり、「犬」は、単独の<個別>として登場する。

 

次に、「ぬすっと犬」は「くさった波止場」「月」「黄色い娘たち」「陰気くさい声」「くらい石垣」によって<特殊>化される。そういう場にいる特殊な「犬」へと変わるわけである。

 

一匹の犬しかいなかった絵画に背景部分が描かれていく。

 

そして詩は、「犬よ、青白いふしあわせの犬よ」と自分を突き放し、客観視して終わる。

 

いまや「ぬすっと犬」は朔太郎個人であると同時に特殊な背景をもつ普遍的な存在として世に放たれたのだ。

 

 

 

この詩を読む者は、いつもこの<個別→特殊→普遍>のプロセスを経ることになる

 

朔太郎の言葉でいえば、<個々、特異、共通>が、詩という形式によって<焦点>化されているのである。

 

 

 

「特異にして共通なる個々の感情の焦点に、詩歌のほんとの『よろこび』と『秘密性』が存在する」(『月に吠える』序文)

 

 

 

と彼が言ったのは、このことである。概念よりも感覚、理性よりも感情に、個別・特殊・普遍が混在した人間という存在の根拠があるのだという主張を、朔太郎は実践してみせた。

 

およそ歴史に残る作品は、作者の個人的資質が源泉になっているだけでなく、なにかの世界観を背景にもっていることが多い。

 

ある世界観を設定し、そこからみた、ひとつのポイントを意図的にねらって作品にする。そこに意志が生まれ、その意志が伝わる。

 

人間がつくるものの究極は、財貨がもつ価値でもなく、概念がつたえる意味でもない。むしろ人に伝わる意志なのだろうと、このごろ私は思うようになった。

 

朔太郎の作品も、個々の言葉の意味は主たる問題ではないのかもしれない。むしろ、人間の感情がもつ個別・特殊・普遍の豊かさを伝えようとした彼の意志が、歴史に残ったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 08:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
萩原朔太郎「月に吠える」 私の読み方 その3

では、この詩集から、短い詩をひとつ紹介しよう。

 

朔太郎が特殊・普遍・個別を使い分けていることがわかる例である。

 

 

 

 

 

 

 

 

悲しい月夜

 

ぬすつと犬めが、

くさつた波止場の月に吠えてゐる。

たましひが耳をすますと、

陰気くさい声をして、

黄いろい娘たちが合唱してゐる、

合唱してゐる。

波止場のくらい石垣で。

 

いつも、

なぜおれはこれなんだ、

犬よ、

青白いふしあはせの犬よ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 08:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
萩原朔太郎「月に吠える」 私の読み方 その2

特殊とは、限定された個別。普遍とは、すべての個別を含んだ全体。そして個別とは、特殊と普遍の源泉である。

 

この三者の関係は、二重丸◎でイメージすると少しわかりやすくなるかもしれない。

 

それぞれが指す部分は、

 

 

 

小さいほうの丸を黒くして◉にすると、そこが特殊(大きい◯に限定された個別)。

 

二重丸の全体を●のように塗りつぶすと普遍。

 

小さいほうの丸しかないとみなして●と黒くすれば、それが個別。個別が大きい◯に囲まれれば特殊◉になり、個別(複数可)が全体を占めたとき普遍●になる。

 

 

 

以上のように、ひとつの◎を三通りに認識して、特殊・普遍・個別と呼びわけることができる。人間はこのように、同一のものを幾通りにも認識し分けることで対象を理解していく。

 

言語の三大概念に対応させると、特殊が動詞、普遍が形容詞、個別が名詞に、それぞれ親近性がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 08:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
萩原朔太郎「月に吠える」 私の読み方 その1

萩原朔太郎(1886−1942)の『月に吠える』(1917年)は、第一次世界戦争のさなかに発刊された朔太郎の第一詩集。

 

 

暗い夕暮のような「感情」のフィルターを通して世界を見た詩集だ。それは自然主義への反逆だったと、のちに朔太郎は説明している。

 

 

今日読むと、言語の三つのレベルを朔太郎は駆使しようとしたことがわかる。

 

 

 

 

 「人間の感情といふものは、…極めて普遍性のものであって、同時に極めて個性的な特異なものである。…この特異にして共通なる個々の感情の焦点に、詩歌のほんとの『よろこび』と『秘密性』が存在するのだ。」(『月に吠える』序文)

 

 

 

 

 

この「特異」を特殊と読み、「共通」を普遍と読み、「個々」を個別と読み替えると、朔太郎の言いたいことがわかりやすくなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 08:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
”いっちゃった” 世界のほうが本物の世界だ おわり

そもそも観念は、人間の生理的機能のうえに、新しい機能を加えることによって生まれたものである。

 

たとえば、人間特有の観念的活動のひとつに言語があるが、言語の声に使っている人体の器官には、声専用のものはひとつもない。

 

声帯は、もともと気管に飲食物が入らないようにするための門であり、声帯の原音を共鳴させる声道、咽頭、鼻腔は、がんらい呼吸器官であり、声を調整する歯、舌、唇は、もともと消化器官である。人間は、生物として生存を確保するための人体器官を応用し、言語のために再利用しているのである。

 

宗教もまた、これに似た面がある。宗教は本質的には観念であるが、それは寺院、聖像、僧衣、経典、朗唱、儀式などの物理的な装置によって荘厳され、人間の組織によって布教され維持される。宗教は、社会組織としての生存を確保するための物理的・人的装置を動員し、うまく利用しているのである。

 

しかし、だからといって言語や宗教は、物質に依存する二次的な虚構の世界だとばかり考えるのは、早計である。それもそうだが、ここではむしろ、言語や宗教が、あれこれの思想よりもはるかに長い生命力をもつことに注目したい。

 

いったん成立した言語や宗教は、独自の観念の世界を形成し、自律的に発展していく。生理的・物理的な基盤から跳躍し、独自の非生理的・非物質的な世界を創造する。それは「いっちゃった」世界である。

 

私がいいたいのは、いっちゃった世界では、いっちゃったことを考えればいい、ということである。

 

普通の世界から、なぜいっちゃったかと質問されたら、思いついたことを答えておけばいい。いっちゃった世界は言葉では説明できない。説明できなからこそ、いっちゃってるのだから。

 

考えようによっては、いっちゃった世界のほうが、本物の世界である。それは人を鼓舞し、人に希望を与えるからである。

 

じっさい希望とは、いっちゃった世界そのものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 13:06 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
”いっちゃった” 世界のほうが本物の世界だ その2

じっさい、人間にとって観念が実在しないとすれば、「三時から会議する」という通常の社会行為でさえ成り立たない。「三時」も「会議」も観念にほかならず、この共通の観念に従って各自が行動するから、この会議は行える。「三時から会議する」という観念の実在は、人間の行動によって日々証明されているのである。

 

問題はここからだ。

 

「三時に会議する」なら、普通である。観念の世界の真髄は、そんなところではとどまらない。

 

観念は、「いっちゃう」レベルまでいって本物になる。

 

「いっちゃった」例として、宗教がある。

 

世界史をみると、イスラム教、キリスト教、仏教、ヒンドゥー教といった信者が十億人を越える大宗教は、いずれも古代の大文明から生まれ、あるいは大文明を生んだ観念で、今日まで千年以上の生命を保っている。

 

哲学と称するような思想は、時代とともに死んだものが大半なのに、こうした宗教は時を超えて生きている。

 

それは、宗教が「いっちゃってる」からである。

 

時代が変わろうが、王が死のうが、国家が交代しようが、常識が変わろうが、宗教が与える観念は地上のあらゆるものを超えている。

 

じつは、こうした超越的な観念の体系こそ、<観念のなかの観念>であり、観念の底力を示すものだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 12:32 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
”いっちゃった” 世界のほうが本物の世界だ その1

ここ数年、私が模索してきたのは、観念の世界の根拠づけである。

 

 

 

「観念的なものは、物質的なものが人間の頭のなかで転換され翻訳されたものにほかならない。」(マルクス『資本論』第二版後記(1873年1月)、岡崎次郎訳『資本論』第一分冊、大月書店、40-41頁)

 

 

 

かつてこうした言葉は、「観念といわれるものも、結局は物質のあり方にほかならない」という意味に理解されることがあった。

 

人間の心のなかで、観念はどのような論理にしたがって生成されるか。人間存在のこの基幹部分が解明できなかったことも手伝って、観念はただの仮象(人間の思い込み)で、本当に存在するのは物質だけであるといった、単純化された「唯物論」が隠然たる力をもつことがあったのである。

 

マルクスは、そういう意味での唯物論者ではなかった。例えば、マルクスのこの文にある、「人間の頭のなかで転換され翻訳される」というプロセスは、観念の生成そのものである。上記の引用文でマルクスは、むしろ人にとって、目に見えない観念が実在することを認めていると読むべきであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 12:14 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
”いっちゃった”人には勝てません 

最近、新聞に川久保玲さんのインタビュー記事が載っていた(朝日新聞、2017年6月22日)。

 

 

 

「うちみたいな裏街道」

「新しいことをいつも探していることが使命です。探し続けるだけです」

「ファッションデザイナーはアーティストではありません。ファッションはビジネス」

「私の仕事は新しいものを作ってビジネスにのせることです」

 

 

 

これを読みながら思い出したのは、以前にテレビで、ドン小西さんが言ったセリフ。

 

有名人のファッションを批評するコーナーで、司会者が「ところで、ドンさん、ご自分のファッションを批評するとどうなりますか?」と水を向けた。するとドン小西氏が、

 

 

 

「オレはもういっちゃってるからさ」

 

 

 

思わず笑ったが、これは名言ではないか。

 

世の中には、いっちゃってる人がときどきいる。川久保玲しかり、ドン小西しかり。どの街にも、いっちゃってるおじさん、おばさんが何人かいるのではないだろうか。

 

先日、起業アドバイザーをしている人が、「スティーブ・ジョブズは、人が理解に苦しむくらい、IT製品づくりが好きだった。だから人がついてきたのだ」と言っていた。ジョブズも、いっちゃった人だった。

 

人生、いっちゃうのが正解である。大正解である。

 

いっちゃった人に、いまさら「もどってきて」とは誰も言わない。なぜいっちゃったのかもわからないから、ついていくしかない。

 

ついていくしかないとき、その人がボスである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 11:14 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
三層の思想で生きる おわり

同じことは、諸個人が関係を結ぶ「社会」についてもいえる。

 

社会にも、富・志・語の三層がある(マルクスの「土台・上部構造・意識諸形態」)。なかでも社会を先導するのは「志」である。会社という社会の志は、社訓などで表現される。近代国家という社会の志は、憲法で表現される。

 

いま話題になっている憲法改正は、日本という国家の「志」を正式に変更しようとするもので、その変更は、日本の富と語のあり方にまで影響を与える。

 

 

...

 

 

 

思想のエッセンスは、志(こころざし)である。認識論でもなければ存在論でもない。どんな神をあがめるかでもない。ましてや、過去の人がそれで生き、今はそれで生きる人がいない死んだ思想は、参考にはなっても自分の思想にはならない。

 

以上は、思想とはどういうものか、という形式的な規定であって、特定の思想内容を述べていないようにみえるかもしれない。だが、思想とはなにかを形式的に規定することは、思想を考えるさいの前提であり、それじたいが思想である。

 

これまでの「思想」に欠けていたものは、このような「思想という形式についての思想」なのだ。

 

思想とは、志に先導された自覚的な生き方という形式を指す概念であり、その内容は、個人や社会が個別に決めるものである。学業であれ、仕事であれ、家族の幸福であれ、その実現が自分の念じる志であるならば、その念は自分の思想である。若いころは志がいくつもあり、どれも可能のような気がするものだが、それも自分の志のあり方である以上、しっかりと念じるなら、どれもが自分の思想である。

 

また、人が生きているなかで漠然と信じている内容は、ある種の思想といえるかもしれない。「私はいつか死ぬだろう」とか「少しでも世の中の役に立ちたい」といった感覚的な内容も、人がそれをもとに生きているなら、思想といえるかもしれない。

 

ただ、思想というときは、もっと自覚的で明確なものでありたい。それで生きている live by it といえるような、力強さがほしい。

 

自分は、この社会は、なにをめざしており、そのためにどんな富、どんな語りがふさわしいかを、自分で決めて、着実に実行すること。それが「思想をもっている」といえる生き方である。

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 06:57 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
三層の思想で生きる その3

ならば、いまのわれわれがもつべき思想とは、どういうものか。

 

私の見方のエッセンスを述べてみる。

 

思想は、大きく分けると、個人による自分自身についての思想と、社会(二人以上の個人の集まり)がもつ思想のふた通りがあるが、まず、個人(一人の人間。たとえば「私」)がもつべき思想を述べよう。

 

一人の人間は、身体の存在・身体による行い・身体がもつ考え、の三層に分けることができる。<存在・行動・認識>の三層である。これらの三層が発揮するもの(私は連関力と呼んでいる)は、それぞれ、価値・意志・意味である。和語でいうと、価値・意志・意味とは、<富(とみ)・志(こころざし)・語り>であるといえる。

 

個人の存在が発揮する「富(とみ)」とは、身体の健康状態や、外見や、食べるもの・住んでいる場所、所有物、親族、友人、コネ、経験をもとにした能力といった、物質的な条件・環境が社会的に蓄積・発揮する価値を指す。個人の「志(こころざし)」とは、その人がどの集団に属するか、どこに顔を出すか、誰とつきあうかといった行動を通して社会に示す自分の意志である。個人の「語り」とは、言葉や作品などを通して自分が社会的に表現する意味である。

 

「志」と「語り」は、しばしば統一されている。スマホで撮った写真を友人に送るのは、写真によって対象についての自分の認識を「語り」、かつ友人に自分のなんらかの「志」を伝える行為である。

 

個人は、ひとつの身体として存在し、行動し、考える。そういう個人の三層のあり方が発揮する社会的な力は、価値・意志・意味、つまり<富・志・語>である。

 

これらの三層は、どれが欠けても他が成り立たない関係にあるのだが、そのなかでも、あるべき思想として私が強調したいのは、志(こころざし)の重要性である。

 

志は、富や語(かたり)のあり方を先導する。「自分がどうなりたいか」が明確な人は、それに必要な行動をし、富をつくり、語る。

 

志のあいまいな人は、思想のない人である。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 06:31 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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