ごきげんようチャンネル

"Life is too short to wake up with regrets." author unknown
           

世界は、実体/属性の連関運動である

<この世界はすべて物質だ>というのは、間違っていない。それは一面で正しい。

 

だが、物質という実体は、物性という属性をもっている。生物の生体は、物質/物性を基礎として、習性という属性をもっている。人という身体は、物質/物性および生体/習性を基礎として、精神という属性をもっている。

 

この世界の実体は、物質>生体>身体であるが、実体は、物性>習性>精神という属性ももっている。

 

実体なき属性はないが、属性なき実体もない。

 

その意味では、<この世界はすべて物質だ>とだけいうのは、誤解を招きやすい。

 

科学は実体を研究しているが、それは実際には、実体の属性の研究である。科学は、属性の認識を新たにする作業を通して、実体の概念を深化させようとする。人間が直接認識できるのは、実体そのものではなく、実体の属性(動態・状態と、その程度・様態)だからである。

 

物質・生体・身体という実体は、人間にとって、物性・習性・精神という属性として現れる。属性は実体なくして存在しえないが、実体は属性として現れざるをえない。実体/属性の二層態が、互いに連関しあうこと。これがこの世界の根本的なあり方である。自然しかり、社会しかり、人間しかり、商品しかり、貨幣しかり、行動しかり、文字しかり、音声しかり。

 

この見方(連関の論理)によって、自然、社会、思考の運動を、同じ原理、一つの原理で見ることができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 21:26 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「魚、水を行くに、行けども水の際なし」(道元・正法眼蔵)

魚、水を行くに、行けども水の際なし
 

 

道元の正法眼蔵に出てくる、私の好きな言葉。

 

池のコイは、限られた境界のなかで一生を送る。外から見ていると、ずいぶん不自由のように見える。だが、コイから見れば、行けども行けども水がある。コイは自由なのだ。

 

厳格な修行は、不自由なのではない。戒律があるからこそ、そこに自由がある。それが道元の言いたかったことかもしれない。

 

だが、別の解釈もできる。

 

コイから見れば、行けども行けども水がある。ゆえに、自分が小さな池の中にいることをコイは知らない、と。

 

ひとつの世界にいつづけると、もっぱらそこからものを見るようになってしまう。人間は、とかく狭い了見におちいりがちだと、戒めた言葉ともとれるのだ。

 

この言葉の面白さは、池の外から見ている目線と泳ぐコイから見た目線という、二つの異なる観点が、簡潔な表現のなかに織り込まれているところだ。

 

どこにでも自由はあること、しかし自由とばかり思っていると、自分の狭さに気づかない危険もあること。

 

それが人間というものだというのが、道元の真意なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
デカルト「われ思うゆえに…」の謎を解く パスカルの「葦」がヒントだ

デカルト(1596-1650)の「我思う。ゆえに我あり」。

 

これをどういう意味に理解するかが、繰り返し論じられてきた。

「我思う」という断定じたいに「我あり」という前提が含まれているのだから、これは一種の詭弁(論点先取りの誤謬)だという批判もある。

 

「ときどき私は考える、ゆえにときどき私は存在する」(ヴァレリー)と茶化した人もいる。

 

 


考えてみれば、ほぼ同時代人のパスカル(1623-1662)の有名な言葉は、デカルトの続編としても読める。

 

 


「人間は一本の葦にすぎない。しかし、それは考える葦である。宇宙が彼を押し潰しても、人間は彼を殺すものよりも高貴であろう。なぜなら、彼は自己が死ぬことを知っているが、宇宙はそれについて何も知らないからだ。だとすれば、われわれのあらゆる尊厳は思考の中にある。空間によって宇宙は私を包含するが、思考によって私は宇宙を包含する。」(パスカル『パンセ』より要約)

 

 


私は、宇宙を外から眺めている自分を想像し、その自分とは誰なのか?と考えて、寝床でぞっとしたことが何度かある。

 

 


さて、デカルトやパスカルが背後にもっていた問いは、「人間は何のために生きているか?」であろう。この問いについて、私の好きな答えは、

 



「宇宙の一部である人間が宇宙の存在を意識することで、宇宙は自分の存在を意識できる。だから人間は存在価値がある。」
 

 

 

というものである。

デカルトやパスカルの言っていることは、宇宙的スケールでいえば、
 

 

我思う、ゆえに宇宙あり、ゆえに我あり。」
 

 

 

ということだと、私は解く。

「神の意思」(→宇宙)に思いをはせるキリスト教が人間に充実感を与えるのも、「我思う、ゆえに宇宙あり、ゆえに我あり」の思考回路がもつパワーのゆえだ。南無阿弥陀仏もこれに類似する。

 



思考によって全体をとらえ、その中に自分を置きなおす。置きなおしつづける。視点を絶えず更新する思考習慣。その習慣がもつパワー。それが哲学であり宗教なのだ。


 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 08:55 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
萩原朔太郎「月に吠える」 私の読み方 おわり

冒頭の「ぬすっと犬」は詩人本人であり、「犬」は、単独の<個別>として登場する。

 

次に、「ぬすっと犬」は「くさった波止場」「月」「黄色い娘たち」「陰気くさい声」「くらい石垣」によって<特殊>化される。そういう場にいる特殊な「犬」へと変わるわけである。

 

一匹の犬しかいなかった絵画に背景部分が描かれていく。

 

そして詩は、「犬よ、青白いふしあわせの犬よ」と自分を突き放し、客観視して終わる。

 

いまや「ぬすっと犬」は朔太郎個人であると同時に特殊な背景をもつ普遍的な存在として世に放たれたのだ。

 

 

 

この詩を読む者は、いつもこの<個別→特殊→普遍>のプロセスを経ることになる

 

朔太郎の言葉でいえば、<個々、特異、共通>が、詩という形式によって<焦点>化されているのである。

 

 

 

「特異にして共通なる個々の感情の焦点に、詩歌のほんとの『よろこび』と『秘密性』が存在する」(『月に吠える』序文)

 

 

 

と彼が言ったのは、このことである。概念よりも感覚、理性よりも感情に、個別・特殊・普遍が混在した人間という存在の根拠があるのだという主張を、朔太郎は実践してみせた。

 

およそ歴史に残る作品は、作者の個人的資質が源泉になっているだけでなく、なにかの世界観を背景にもっていることが多い。

 

ある世界観を設定し、そこからみた、ひとつのポイントを意図的にねらって作品にする。そこに意志が生まれ、その意志が伝わる。

 

人間がつくるものの究極は、財貨がもつ価値でもなく、概念がつたえる意味でもない。むしろ人に伝わる意志なのだろうと、このごろ私は思うようになった。

 

朔太郎の作品も、個々の言葉の意味は主たる問題ではないのかもしれない。むしろ、人間の感情がもつ個別・特殊・普遍の豊かさを伝えようとした彼の意志が、歴史に残ったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 08:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
萩原朔太郎「月に吠える」 私の読み方 その3

では、この詩集から、短い詩をひとつ紹介しよう。

 

朔太郎が特殊・普遍・個別を使い分けていることがわかる例である。

 

 

 

 

 

 

 

 

悲しい月夜

 

ぬすつと犬めが、

くさつた波止場の月に吠えてゐる。

たましひが耳をすますと、

陰気くさい声をして、

黄いろい娘たちが合唱してゐる、

合唱してゐる。

波止場のくらい石垣で。

 

いつも、

なぜおれはこれなんだ、

犬よ、

青白いふしあはせの犬よ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 08:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
萩原朔太郎「月に吠える」 私の読み方 その2

特殊とは、限定された個別。普遍とは、すべての個別を含んだ全体。そして個別とは、特殊と普遍の源泉である。

 

この三者の関係は、二重丸◎でイメージすると少しわかりやすくなるかもしれない。

 

それぞれが指す部分は、

 

 

 

小さいほうの丸を黒くして◉にすると、そこが特殊(大きい◯に限定された個別)。

 

二重丸の全体を●のように塗りつぶすと普遍。

 

小さいほうの丸しかないとみなして●と黒くすれば、それが個別。個別が大きい◯に囲まれれば特殊◉になり、個別(複数可)が全体を占めたとき普遍●になる。

 

 

 

以上のように、ひとつの◎を三通りに認識して、特殊・普遍・個別と呼びわけることができる。人間はこのように、同一のものを幾通りにも認識し分けることで対象を理解していく。

 

言語の三大概念に対応させると、特殊が動詞、普遍が形容詞、個別が名詞に、それぞれ親近性がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 08:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
萩原朔太郎「月に吠える」 私の読み方 その1

萩原朔太郎(1886−1942)の『月に吠える』(1917年)は、第一次世界戦争のさなかに発刊された朔太郎の第一詩集。

 

 

暗い夕暮のような「感情」のフィルターを通して世界を見た詩集だ。それは自然主義への反逆だったと、のちに朔太郎は説明している。

 

 

今日読むと、言語の三つのレベルを朔太郎は駆使しようとしたことがわかる。

 

 

 

 

 「人間の感情といふものは、…極めて普遍性のものであって、同時に極めて個性的な特異なものである。…この特異にして共通なる個々の感情の焦点に、詩歌のほんとの『よろこび』と『秘密性』が存在するのだ。」(『月に吠える』序文)

 

 

 

 

 

この「特異」を特殊と読み、「共通」を普遍と読み、「個々」を個別と読み替えると、朔太郎の言いたいことがわかりやすくなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 08:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
”いっちゃった” 世界のほうが本物の世界だ おわり

そもそも観念は、人間の生理的機能のうえに、新しい機能を加えることによって生まれたものである。

 

たとえば、人間特有の観念的活動のひとつに言語があるが、言語の声に使っている人体の器官には、声専用のものはひとつもない。

 

声帯は、もともと気管に飲食物が入らないようにするための門であり、声帯の原音を共鳴させる声道、咽頭、鼻腔は、がんらい呼吸器官であり、声を調整する歯、舌、唇は、もともと消化器官である。人間は、生物として生存を確保するための人体器官を応用し、言語のために再利用しているのである。

 

宗教もまた、これに似た面がある。宗教は本質的には観念であるが、それは寺院、聖像、僧衣、経典、朗唱、儀式などの物理的な装置によって荘厳され、人間の組織によって布教され維持される。宗教は、社会組織としての生存を確保するための物理的・人的装置を動員し、うまく利用しているのである。

 

しかし、だからといって言語や宗教は、物質に依存する二次的な虚構の世界だとばかり考えるのは、早計である。それもそうだが、ここではむしろ、言語や宗教が、あれこれの思想よりもはるかに長い生命力をもつことに注目したい。

 

いったん成立した言語や宗教は、独自の観念の世界を形成し、自律的に発展していく。生理的・物理的な基盤から跳躍し、独自の非生理的・非物質的な世界を創造する。それは「いっちゃった」世界である。

 

私がいいたいのは、いっちゃった世界では、いっちゃったことを考えればいい、ということである。

 

普通の世界から、なぜいっちゃったかと質問されたら、思いついたことを答えておけばいい。いっちゃった世界は言葉では説明できない。説明できなからこそ、いっちゃってるのだから。

 

考えようによっては、いっちゃった世界のほうが、本物の世界である。それは人を鼓舞し、人に希望を与えるからである。

 

じっさい希望とは、いっちゃった世界そのものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 13:06 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
”いっちゃった” 世界のほうが本物の世界だ その2

じっさい、人間にとって観念が実在しないとすれば、「三時から会議する」という通常の社会行為でさえ成り立たない。「三時」も「会議」も観念にほかならず、この共通の観念に従って各自が行動するから、この会議は行える。「三時から会議する」という観念の実在は、人間の行動によって日々証明されているのである。

 

問題はここからだ。

 

「三時に会議する」なら、普通である。観念の世界の真髄は、そんなところではとどまらない。

 

観念は、「いっちゃう」レベルまでいって本物になる。

 

「いっちゃった」例として、宗教がある。

 

世界史をみると、イスラム教、キリスト教、仏教、ヒンドゥー教といった信者が十億人を越える大宗教は、いずれも古代の大文明から生まれ、あるいは大文明を生んだ観念で、今日まで千年以上の生命を保っている。

 

哲学と称するような思想は、時代とともに死んだものが大半なのに、こうした宗教は時を超えて生きている。

 

それは、宗教が「いっちゃってる」からである。

 

時代が変わろうが、王が死のうが、国家が交代しようが、常識が変わろうが、宗教が与える観念は地上のあらゆるものを超えている。

 

じつは、こうした超越的な観念の体系こそ、<観念のなかの観念>であり、観念の底力を示すものだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 12:32 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
”いっちゃった” 世界のほうが本物の世界だ その1

ここ数年、私が模索してきたのは、観念の世界の根拠づけである。

 

 

 

「観念的なものは、物質的なものが人間の頭のなかで転換され翻訳されたものにほかならない。」(マルクス『資本論』第二版後記(1873年1月)、岡崎次郎訳『資本論』第一分冊、大月書店、40-41頁)

 

 

 

かつてこうした言葉は、「観念といわれるものも、結局は物質のあり方にほかならない」という意味に理解されることがあった。

 

人間の心のなかで、観念はどのような論理にしたがって生成されるか。人間存在のこの基幹部分が解明できなかったことも手伝って、観念はただの仮象(人間の思い込み)で、本当に存在するのは物質だけであるといった、単純化された「唯物論」が隠然たる力をもつことがあったのである。

 

マルクスは、そういう意味での唯物論者ではなかった。例えば、マルクスのこの文にある、「人間の頭のなかで転換され翻訳される」というプロセスは、観念の生成そのものである。上記の引用文でマルクスは、むしろ人にとって、目に見えない観念が実在することを認めていると読むべきであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 12:14 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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