ごきげんようチャンネル

科学とは、正確に驚くことである。 Y.M.
           

”いっちゃった” 世界のほうが本物の世界だ おわり

そもそも観念は、人間の生理的機能のうえに、新しい機能を加えることによって生まれたものである。

 

たとえば、人間特有の観念的活動のひとつに言語があるが、言語の声に使っている人体の器官には、声専用のものはひとつもない。

 

声帯は、もともと気管に飲食物が入らないようにするための門であり、声帯の原音を共鳴させる声道、咽頭、鼻腔は、がんらい呼吸器官であり、声を調整する歯、舌、唇は、もともと消化器官である。人間は、生物として生存を確保するための人体器官を応用し、言語のために再利用しているのである。

 

宗教もまた、これに似た面がある。宗教は本質的には観念であるが、それは寺院、聖像、僧衣、経典、朗唱、儀式などの物理的な装置によって荘厳され、人間の組織によって布教され維持される。宗教は、社会組織としての生存を確保するための物理的・人的装置を動員し、うまく利用しているのである。

 

しかし、だからといって言語や宗教は、物質に依存する二次的な虚構の世界だとばかり考えるのは、早計である。それもそうだが、ここではむしろ、言語や宗教が、あれこれの思想よりもはるかに長い生命力をもつことに注目したい。

 

いったん成立した言語や宗教は、独自の観念の世界を形成し、自律的に発展していく。生理的・物理的な基盤から跳躍し、独自の非生理的・非物質的な世界を創造する。それは「いっちゃった」世界である。

 

私がいいたいのは、いっちゃった世界では、いっちゃったことを考えればいい、ということである。

 

普通の世界から、なぜいっちゃったかと質問されたら、思いついたことを答えておけばいい。いっちゃった世界は言葉では説明できない。説明できなからこそ、いっちゃってるのだから。

 

考えようによっては、いっちゃった世界のほうが、本物の世界である。それは人を鼓舞し、人に希望を与えるからである。

 

じっさい希望とは、いっちゃった世界そのものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 13:06 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
”いっちゃった” 世界のほうが本物の世界だ その2

じっさい、人間にとって観念が実在しないとすれば、「三時から会議する」という通常の社会行為でさえ成り立たない。「三時」も「会議」も観念にほかならず、この共通の観念に従って各自が行動するから、この会議は行える。「三時から会議する」という観念の実在は、人間の行動によって日々証明されているのである。

 

問題はここからだ。

 

「三時に会議する」なら、普通である。観念の世界の真髄は、そんなところではとどまらない。

 

観念は、「いっちゃう」レベルまでいって本物になる。

 

「いっちゃった」例として、宗教がある。

 

世界史をみると、イスラム教、キリスト教、仏教、ヒンドゥー教といった信者が十億人を越える大宗教は、いずれも古代の大文明から生まれ、あるいは大文明を生んだ観念で、今日まで千年以上の生命を保っている。

 

哲学と称するような思想は、時代とともに死んだものが大半なのに、こうした宗教は時を超えて生きている。

 

それは、宗教が「いっちゃってる」からである。

 

時代が変わろうが、王が死のうが、国家が交代しようが、常識が変わろうが、宗教が与える観念は地上のあらゆるものを超えている。

 

じつは、こうした超越的な観念の体系こそ、<観念のなかの観念>であり、観念の底力を示すものだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 12:32 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
”いっちゃった” 世界のほうが本物の世界だ その1

ここ数年、私が模索してきたのは、観念の世界の根拠づけである。

 

 

 

「観念的なものは、物質的なものが人間の頭のなかで転換され翻訳されたものにほかならない。」(マルクス『資本論』第二版後記(1873年1月)、岡崎次郎訳『資本論』第一分冊、大月書店、40-41頁)

 

 

 

かつてこうした言葉は、「観念といわれるものも、結局は物質のあり方にほかならない」という意味に理解されることがあった。

 

人間の心のなかで、観念はどのような論理にしたがって生成されるか。人間存在のこの基幹部分が解明できなかったことも手伝って、観念はただの仮象(人間の思い込み)で、本当に存在するのは物質だけであるといった、単純化された「唯物論」が隠然たる力をもつことがあったのである。

 

マルクスは、そういう意味での唯物論者ではなかった。例えば、マルクスのこの文にある、「人間の頭のなかで転換され翻訳される」というプロセスは、観念の生成そのものである。上記の引用文でマルクスは、むしろ人にとって、目に見えない観念が実在することを認めていると読むべきであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 12:14 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
”いっちゃった”人には勝てません 

最近、新聞に川久保玲さんのインタビュー記事が載っていた(朝日新聞、2017年6月22日)。

 

 

 

「うちみたいな裏街道」

「新しいことをいつも探していることが使命です。探し続けるだけです」

「ファッションデザイナーはアーティストではありません。ファッションはビジネス」

「私の仕事は新しいものを作ってビジネスにのせることです」

 

 

 

これを読みながら思い出したのは、以前にテレビで、ドン小西さんが言ったセリフ。

 

有名人のファッションを批評するコーナーで、司会者が「ところで、ドンさん、ご自分のファッションを批評するとどうなりますか?」と水を向けた。するとドン小西氏が、

 

 

 

「オレはもういっちゃってるからさ」

 

 

 

思わず笑ったが、これは名言ではないか。

 

世の中には、いっちゃってる人がときどきいる。川久保玲しかり、ドン小西しかり。どの街にも、いっちゃってるおじさん、おばさんが何人かいるのではないだろうか。

 

先日、起業アドバイザーをしている人が、「スティーブ・ジョブズは、人が理解に苦しむくらい、IT製品づくりが好きだった。だから人がついてきたのだ」と言っていた。ジョブズも、いっちゃった人だった。

 

人生、いっちゃうのが正解である。大正解である。

 

いっちゃった人に、いまさら「もどってきて」とは誰も言わない。なぜいっちゃったのかもわからないから、ついていくしかない。

 

ついていくしかないとき、その人がボスである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 11:14 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
三層の思想で生きる おわり

同じことは、諸個人が関係を結ぶ「社会」についてもいえる。

 

社会にも、富・志・語の三層がある(マルクスの「土台・上部構造・意識諸形態」)。なかでも社会を先導するのは「志」である。会社という社会の志は、社訓などで表現される。近代国家という社会の志は、憲法で表現される。

 

いま話題になっている憲法改正は、日本という国家の「志」を正式に変更しようとするもので、その変更は、日本の富と語のあり方にまで影響を与える。

 

 

...

 

 

 

思想のエッセンスは、志(こころざし)である。認識論でもなければ存在論でもない。どんな神をあがめるかでもない。ましてや、過去の人がそれで生き、今はそれで生きる人がいない死んだ思想は、参考にはなっても自分の思想にはならない。

 

以上は、思想とはどういうものか、という形式的な規定であって、特定の思想内容を述べていないようにみえるかもしれない。だが、思想とはなにかを形式的に規定することは、思想を考えるさいの前提であり、それじたいが思想である。

 

これまでの「思想」に欠けていたものは、このような「思想という形式についての思想」なのだ。

 

思想とは、志に先導された自覚的な生き方という形式を指す概念であり、その内容は、個人や社会が個別に決めるものである。学業であれ、仕事であれ、家族の幸福であれ、その実現が自分の念じる志であるならば、その念は自分の思想である。若いころは志がいくつもあり、どれも可能のような気がするものだが、それも自分の志のあり方である以上、しっかりと念じるなら、どれもが自分の思想である。

 

また、人が生きているなかで漠然と信じている内容は、ある種の思想といえるかもしれない。「私はいつか死ぬだろう」とか「少しでも世の中の役に立ちたい」といった感覚的な内容も、人がそれをもとに生きているなら、思想といえるかもしれない。

 

ただ、思想というときは、もっと自覚的で明確なものでありたい。それで生きている live by it といえるような、力強さがほしい。

 

自分は、この社会は、なにをめざしており、そのためにどんな富、どんな語りがふさわしいかを、自分で決めて、着実に実行すること。それが「思想をもっている」といえる生き方である。

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 06:57 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
三層の思想で生きる その3

ならば、いまのわれわれがもつべき思想とは、どういうものか。

 

私の見方のエッセンスを述べてみる。

 

思想は、大きく分けると、個人による自分自身についての思想と、社会(二人以上の個人の集まり)がもつ思想のふた通りがあるが、まず、個人(一人の人間。たとえば「私」)がもつべき思想を述べよう。

 

一人の人間は、身体の存在・身体による行い・身体がもつ考え、の三層に分けることができる。<存在・行動・認識>の三層である。これらの三層が発揮するもの(私は連関力と呼んでいる)は、それぞれ、価値・意志・意味である。和語でいうと、価値・意志・意味とは、<富(とみ)・志(こころざし)・語り>であるといえる。

 

個人の存在が発揮する「富(とみ)」とは、身体の健康状態や、外見や、食べるもの・住んでいる場所、所有物、親族、友人、コネ、経験をもとにした能力といった、物質的な条件・環境が社会的に蓄積・発揮する価値を指す。個人の「志(こころざし)」とは、その人がどの集団に属するか、どこに顔を出すか、誰とつきあうかといった行動を通して社会に示す自分の意志である。個人の「語り」とは、言葉や作品などを通して自分が社会的に表現する意味である。

 

「志」と「語り」は、しばしば統一されている。スマホで撮った写真を友人に送るのは、写真によって対象についての自分の認識を「語り」、かつ友人に自分のなんらかの「志」を伝える行為である。

 

個人は、ひとつの身体として存在し、行動し、考える。そういう個人の三層のあり方が発揮する社会的な力は、価値・意志・意味、つまり<富・志・語>である。

 

これらの三層は、どれが欠けても他が成り立たない関係にあるのだが、そのなかでも、あるべき思想として私が強調したいのは、志(こころざし)の重要性である。

 

志は、富や語(かたり)のあり方を先導する。「自分がどうなりたいか」が明確な人は、それに必要な行動をし、富をつくり、語る。

 

志のあいまいな人は、思想のない人である。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 06:31 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
三層の思想で生きる その2

アニミズムのような原始的な思想も、拝火教のような儀式的なものも、完全に消滅するのではなく、形を変えて現代に生きている。朱子学の良さを現代に生かそうとして生活している人も、少数ではあれ、今もいることだろう。

 

さて、文学部あたりで思想や哲学を勉強すると、過去の論者が述べた内容、つまり過去の人がそれで生きた思想がいろいろと出てくる。西洋思想なら、プラトン、アリストテレス、デカルト、カント... などとくる。

 

そういうものは、過去の思想である。社会は変化し、実際にそれで生きている人は、もうほとんどいない。そういう意味で、死んだ思想である。

 

だが、それらは今も研究され、本が読まれ、引用される。細々とながら、死んだ思想が今も現代人の身体のなかで生きようとしている。

 

それは、過去を生かそうとする貴重な努力ではある。だがそこには、勘違いが生まれやすいように思う。

 

私がいいたいのは、いや、私が自分自身に言い聞かせたいのは、こうした死んだ思想を、いつまでも生かしておくのは良くないということである。

 

すでに死んだ思想である以上、いったん完全に死んでもらったほうが良い。

 

いまや、そういう過去の西洋思想を生きている人はいない。そこには、いまも使える思想の断片が見つかるかもしれないが、それは断片であって、それもやはり、いったんは死んだものとみなすべきだろう。

 

思想とは、ほんらい、いま生きている人がそれで生きるほどの、力強いものであるはずだ。

 

死んだ思想を、そのまま現代人が生きることは、もうありえないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 10:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
三層の思想で生きる その1

その思想で生きている人がいるとき、その思想は生きている。

 

御茶ノ水駅を出て聖橋を渡ったところに、湯島聖堂がある。かつて江戸時代には朱子学を中心にした教学の場として有名だった。

 

久しぶりに訪れて感じたのは、「朱子学の教えのとおりに生きている人は、もうほとんどいないだろう」という感慨だった。朱子学は基本的には死んだ思想である。

 

思想は、いつか死ぬ。それは、思想を支える社会そのものが変化するからである。社会生活に適合しなくなった思想は、担い手を失って死んでいく。それは必然であり、当然であるともいえる。

 

だが、思想の面白いところは、完全に死んでしまうことも滅多にないということである。

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 09:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
論理と情緒 デカルトも道元も、もうやめよう

論理と情緒。

 

戦えばどちらが勝つか、というのは妙な問い方かもしれない。

 

だが、<東洋の情緒は西洋の論理に対抗できなかった。それが近代ではないか>と日本人が書いた例は、いくつか読んだことがある。

 

以下、四つの例をあげておく。

 

 

 


 菊村紀彦編『永遠の親鸞 金子大栄のことば』1976年

 

親鸞研究の金子大栄氏の文。

 

東洋の知恵は随筆的である。大論文がない。カントとかへーゲルとかいう人の書いたような組織系統のあるところの大きな著作というものはないのです。大部の本はありますが、それは多く編集である。

 

系統的なものをたっとんで随筆的なものをたっとばないということになると、結局は西洋の理性にはかなわない、ということになります。

 

それに答えることができるものがあるとすれば、それはただ一つ、道念でしょう。道念というものがありますれば、西洋の理性よりも簡単な随筆がよいということになるのです。これに反して大きな書物を書いてみても、道念が喚起されねば真に人間のためになるものではありません。仏教の長所は、その説く道理ではなく、その説によって起こる道念のほかならないのであります。

 

たとえ西洋哲学のように系統づけても、それで人間道というものがわかるか、真実の体験ができるかはきまっておらない。道念というものを起こすためには、かえって断片的な随筆の方がよい。」

 

(菊村紀彦編『永遠の親鸞 金子大栄のことば』雄山閣、1976年、174-176頁)

 

 

 

 

 野田又夫「デカルトの生涯と思想」1978年


日本では「デカルト主義の考え方が一度も思想の主流にならなかった。」

 

(野田又夫「デカルトの生涯と思想」『デカルト』世界の名著第27巻、中央公論社、1978年、68頁)

 

 

 

 

 藤沢令夫『ギリシャ哲学と現代』1980年

 

ギリシャ哲学の研究者・藤沢氏は、「デカルト主義」とは「知性的客観性」と「意志的主体性」の二元論であり、「この二元のあいだの緊張の全体を引き受けるという態度のこと」であるという。

 

藤沢氏によれば、近代以降の日本で主流となったのは「デカルト主義」ではなく、「ロマン主義」であった。ロマン主義とは「汎神論を思想の核心として…自然と共感し共鳴する態度を尊重するような思想」のことで、デカルト主義に対する「最も有力な反対思想」である。

 

(藤沢令夫『ギリシャ哲学と現代』岩波新書、1980年、43頁)

 

 

 

 

 玉城康四郎『仏教の根底にあるもの』1986年

 

これは、東大の仏教学者が、仏教文献の非論理的性格を率直に批判した珍しい例。

「西洋哲学が仏教にひいでている点は、いうまでもなく『哲学する』という推論の過程である。これはわれわれが思想を理性的にうなずくための唯一の方法である。

しかるに仏教の各学派を眺めてみると、それぞれ一応の体系はそなえていても、推論の過程において見るべきものはほとんどないといってよい。…

仏教のなかで比較的に哲学の精神が現れていると思われるものは、インドの唯識思想とわが国の道元の思想であろう。しかし唯識も道元も推論の過程には深い洞察が秘められているが、そのままの表現では、なかなかわれわれの理性に訴えにくい。」

(玉城康四郎『仏教の根底にあるもの』講談社学術文庫、1986年、284頁)

 

 

 

...

 

 

 

私としては、「デカルト主義」にはあまり感心しない。平板さを感じるからだ。道元的な超論理性には、個人的には共感しがちになるが、望ましいことではないとみずから戒めている。

 

いまも、西洋は「デカルト主義」的な論理中心であり、東洋は道元的な情緒中心なのかもしれない。

 

西洋と東洋。論理と情緒。どちらがいいかという発想は、私はとらない

 

感性的なものと超感性的なものの統一=矛盾の展開を正面から扱ったヘーゲルやマルクスの態度に、デカルト的な形式論理や道元的な跳躍論理を止揚する道がみえると思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 07:06 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
<第三項>=<無意識>が分泌するという人間の運命 その力を自覚することについて
人間の意識のあり方の、運命ともいえるような構造がある。

それは、人間=自分が主体として、あるものを客体=対象にすると、そこからもれ落ちた第三の項が無意識化しやすいという構造である。

たとえば、あることに集中していると、人は周囲の音があまり耳に入らなくなる。

いわば<第三項の忘却>であり、これは、もともと人間性の一部であるといってよいだろう。




ルカーチ(1885-1971)は、「認識の対象は、われわれ自身によって産出されたものであるがゆえに、またそのようなものであるかぎり、われわれによって認識されることができる」というのが、近代哲学の決定的なモチーフだと述べた。(佐々木隆治『マルクスの物象化論』社会評論社、2011年、202-203頁)

だとすれば、近代哲学とは、上記の<第三項の忘却>を正面から正当化する態度のことだともいえる。

ポストモダンとは、<第三項の忘却>を意識的にふりかざすことで、そのような近代哲学の態度を自家中毒的に破壊しようとしたダダイズムであったともいえる。




<第三項の忘却>は人間の運命としても、また<第三項の忘却>を叫んでふれまわることはたんなる破壊に終わるとしても、<第三項の忘却>の存在じたいを忘れる(忘却の忘却!)とすれば、それは問題を引き起こす。




国家は、<第三項>の累積が産んだ、(今のところ)最強の社会的実体である。それはあたかも、すべての存在以前に存在した価値であるかのように感じられる。


革命家をふくめ、誰もが前提とする国家という存在は、無限の価値の源泉となる。政治家とは、<国家に奉仕する自分>に陶酔を感じる存在である。


<国家に奉仕する自分>への陶酔は、国家のほうが個々の人間よりも高い価値をもつという感覚を内包している。




いまの総理大臣が私にとって恥ずかしい存在であるのは、彼が価値を感じている<国家>の内容が私とちがっているからだが、それだけではない。

<第三項の忘却>の積み重ねによって、無意識のうちに国家に価値を付与してきた者の一人として、その運用責任者の言動に対して、私も責任を負っているからだ。
















| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 09:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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