ごきげんようチャンネル


みにつもる ことばのつみも あらはれて こころすみぬる 三重(みかさね)のたき

   『山家集』1118

「魚、水を行くに、行けども水の際なし」(道元・正法眼蔵)

魚、水を行くに、行けども水の際なし
 

 

道元の正法眼蔵に出てくる、私の好きな言葉。

 

池のコイは、限られた境界のなかで一生を送る。外から見ていると、ずいぶん不自由のように見える。だが、コイから見れば、行けども行けども水がある。コイは自由なのだ。

 

厳格な修行は、不自由なのではない。戒律があるからこそ、そこに自由がある。それが道元の言いたかったことかもしれない。

 

だが、別の解釈もできる。

 

コイから見れば、行けども行けども水がある。ゆえに、自分が小さな池の中にいることをコイは知らない、と。

 

ひとつの世界にいつづけると、もっぱらそこからものを見るようになってしまう。人間は、とかく狭い了見におちいりがちだと、戒めた言葉ともとれるのだ。

 

この言葉の面白さは、池の外から見ている目線と泳ぐコイから見た目線という、二つの異なる観点が、簡潔な表現のなかに織り込まれているところだ。

 

どこにでも自由はあること、しかし自由とばかり思っていると、自分の狭さに気づかない危険もあること。

 

それが人間というものだというのが、道元の真意なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
萩原朔太郎「月に吠える」 私の読み方 おわり

冒頭の「ぬすっと犬」は詩人本人であり、「犬」は、単独の<個別>として登場する。

 

次に、「ぬすっと犬」は「くさった波止場」「月」「黄色い娘たち」「陰気くさい声」「くらい石垣」によって<特殊>化される。そういう場にいる特殊な「犬」へと変わるわけである。

 

一匹の犬しかいなかった絵画に背景部分が描かれていく。

 

そして詩は、「犬よ、青白いふしあわせの犬よ」と自分を突き放し、客観視して終わる。

 

いまや「ぬすっと犬」は朔太郎個人であると同時に特殊な背景をもつ普遍的な存在として世に放たれたのだ。

 

 

 

この詩を読む者は、いつもこの<個別→特殊→普遍>のプロセスを経ることになる

 

朔太郎の言葉でいえば、<個々、特異、共通>が、詩という形式によって<焦点>化されているのである。

 

 

 

「特異にして共通なる個々の感情の焦点に、詩歌のほんとの『よろこび』と『秘密性』が存在する」(『月に吠える』序文)

 

 

 

と彼が言ったのは、このことである。概念よりも感覚、理性よりも感情に、個別・特殊・普遍が混在した人間という存在の根拠があるのだという主張を、朔太郎は実践してみせた。

 

およそ歴史に残る作品は、作者の個人的資質が源泉になっているだけでなく、なにかの世界観を背景にもっていることが多い。

 

ある世界観を設定し、そこからみた、ひとつのポイントを意図的にねらって作品にする。そこに意志が生まれ、その意志が伝わる。

 

人間がつくるものの究極は、財貨がもつ価値でもなく、概念がつたえる意味でもない。むしろ人に伝わる意志なのだろうと、このごろ私は思うようになった。

 

朔太郎の作品も、個々の言葉の意味は主たる問題ではないのかもしれない。むしろ、人間の感情がもつ個別・特殊・普遍の豊かさを伝えようとした彼の意志が、歴史に残ったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 08:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
萩原朔太郎「月に吠える」 私の読み方 その3

では、この詩集から、短い詩をひとつ紹介しよう。

 

朔太郎が特殊・普遍・個別を使い分けていることがわかる例である。

 

 

 

 

 

 

 

 

悲しい月夜

 

ぬすつと犬めが、

くさつた波止場の月に吠えてゐる。

たましひが耳をすますと、

陰気くさい声をして、

黄いろい娘たちが合唱してゐる、

合唱してゐる。

波止場のくらい石垣で。

 

いつも、

なぜおれはこれなんだ、

犬よ、

青白いふしあはせの犬よ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 08:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
萩原朔太郎「月に吠える」 私の読み方 その2

特殊とは、限定された個別。普遍とは、すべての個別を含んだ全体。そして個別とは、特殊と普遍の源泉である。

 

この三者の関係は、二重丸◎でイメージすると少しわかりやすくなるかもしれない。

 

それぞれが指す部分は、

 

 

 

小さいほうの丸を黒くして◉にすると、そこが特殊(大きい◯に限定された個別)。

 

二重丸の全体を●のように塗りつぶすと普遍。

 

小さいほうの丸しかないとみなして●と黒くすれば、それが個別。個別が大きい◯に囲まれれば特殊◉になり、個別(複数可)が全体を占めたとき普遍●になる。

 

 

 

以上のように、ひとつの◎を三通りに認識して、特殊・普遍・個別と呼びわけることができる。人間はこのように、同一のものを幾通りにも認識し分けることで対象を理解していく。

 

言語の三大概念に対応させると、特殊が動詞、普遍が形容詞、個別が名詞に、それぞれ親近性がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 08:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
萩原朔太郎「月に吠える」 私の読み方 その1

萩原朔太郎(1886−1942)の『月に吠える』(1917年)は、第一次世界戦争のさなかに発刊された朔太郎の第一詩集。

 

 

暗い夕暮のような「感情」のフィルターを通して世界を見た詩集だ。それは自然主義への反逆だったと、のちに朔太郎は説明している。

 

 

今日読むと、言語の三つのレベルを朔太郎は駆使しようとしたことがわかる。

 

 

 

 

 「人間の感情といふものは、…極めて普遍性のものであって、同時に極めて個性的な特異なものである。…この特異にして共通なる個々の感情の焦点に、詩歌のほんとの『よろこび』と『秘密性』が存在するのだ。」(『月に吠える』序文)

 

 

 

 

 

この「特異」を特殊と読み、「共通」を普遍と読み、「個々」を個別と読み替えると、朔太郎の言いたいことがわかりやすくなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 08:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
三層の思想で生きる おわり

同じことは、諸個人が関係を結ぶ「社会」についてもいえる。

 

社会にも、富・志・語の三層がある(マルクスの「土台・上部構造・意識諸形態」)。なかでも社会を先導するのは「志」である。会社という社会の志は、社訓などで表現される。近代国家という社会の志は、憲法で表現される。

 

いま話題になっている憲法改正は、日本という国家の「志」を正式に変更しようとするもので、その変更は、日本の富と語のあり方にまで影響を与える。

 

 

...

 

 

 

思想のエッセンスは、志(こころざし)である。認識論でもなければ存在論でもない。どんな神をあがめるかでもない。ましてや、過去の人がそれで生き、今はそれで生きる人がいない死んだ思想は、参考にはなっても自分の思想にはならない。

 

以上は、思想とはどういうものか、という形式的な規定であって、特定の思想内容を述べていないようにみえるかもしれない。だが、思想とはなにかを形式的に規定することは、思想を考えるさいの前提であり、それじたいが思想である。

 

これまでの「思想」に欠けていたものは、このような「思想という形式についての思想」なのだ。

 

思想とは、志に先導された自覚的な生き方という形式を指す概念であり、その内容は、個人や社会が個別に決めるものである。学業であれ、仕事であれ、家族の幸福であれ、その実現が自分の念じる志であるならば、その念は自分の思想である。若いころは志がいくつもあり、どれも可能のような気がするものだが、それも自分の志のあり方である以上、しっかりと念じるなら、どれもが自分の思想である。

 

また、人が生きているなかで漠然と信じている内容は、ある種の思想といえるかもしれない。「私はいつか死ぬだろう」とか「少しでも世の中の役に立ちたい」といった感覚的な内容も、人がそれをもとに生きているなら、思想といえるかもしれない。

 

ただ、思想というときは、もっと自覚的で明確なものでありたい。それで生きている live by it といえるような、力強さがほしい。

 

自分は、この社会は、なにをめざしており、そのためにどんな富、どんな語りがふさわしいかを、自分で決めて、着実に実行すること。それが「思想をもっている」といえる生き方である。

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 06:57 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
三層の思想で生きる その3

ならば、いまのわれわれがもつべき思想とは、どういうものか。

 

私の見方のエッセンスを述べてみる。

 

思想は、大きく分けると、個人による自分自身についての思想と、社会(二人以上の個人の集まり)がもつ思想のふた通りがあるが、まず、個人(一人の人間。たとえば「私」)がもつべき思想を述べよう。

 

一人の人間は、身体の存在・身体による行い・身体がもつ考え、の三層に分けることができる。<存在・行動・認識>の三層である。これらの三層が発揮するもの(私は連関力と呼んでいる)は、それぞれ、価値・意志・意味である。和語でいうと、価値・意志・意味とは、<富(とみ)・志(こころざし)・語り>であるといえる。

 

個人の存在が発揮する「富(とみ)」とは、身体の健康状態や、外見や、食べるもの・住んでいる場所、所有物、親族、友人、コネ、経験をもとにした能力といった、物質的な条件・環境が社会的に蓄積・発揮する価値を指す。個人の「志(こころざし)」とは、その人がどの集団に属するか、どこに顔を出すか、誰とつきあうかといった行動を通して社会に示す自分の意志である。個人の「語り」とは、言葉や作品などを通して自分が社会的に表現する意味である。

 

「志」と「語り」は、しばしば統一されている。スマホで撮った写真を友人に送るのは、写真によって対象についての自分の認識を「語り」、かつ友人に自分のなんらかの「志」を伝える行為である。

 

個人は、ひとつの身体として存在し、行動し、考える。そういう個人の三層のあり方が発揮する社会的な力は、価値・意志・意味、つまり<富・志・語>である。

 

これらの三層は、どれが欠けても他が成り立たない関係にあるのだが、そのなかでも、あるべき思想として私が強調したいのは、志(こころざし)の重要性である。

 

志は、富や語(かたり)のあり方を先導する。「自分がどうなりたいか」が明確な人は、それに必要な行動をし、富をつくり、語る。

 

志のあいまいな人は、思想のない人である。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 06:31 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
三層の思想で生きる その2

アニミズムのような原始的な思想も、拝火教のような儀式的なものも、完全に消滅するのではなく、形を変えて現代に生きている。朱子学の良さを現代に生かそうとして生活している人も、少数ではあれ、今もいることだろう。

 

さて、文学部あたりで思想や哲学を勉強すると、過去の論者が述べた内容、つまり過去の人がそれで生きた思想がいろいろと出てくる。西洋思想なら、プラトン、アリストテレス、デカルト、カント... などとくる。

 

そういうものは、過去の思想である。社会は変化し、実際にそれで生きている人は、もうほとんどいない。そういう意味で、死んだ思想である。

 

だが、それらは今も研究され、本が読まれ、引用される。細々とながら、死んだ思想が今も現代人の身体のなかで生きようとしている。

 

それは、過去を生かそうとする貴重な努力ではある。だがそこには、勘違いが生まれやすいように思う。

 

私がいいたいのは、いや、私が自分自身に言い聞かせたいのは、こうした死んだ思想を、いつまでも生かしておくのは良くないということである。

 

すでに死んだ思想である以上、いったん完全に死んでもらったほうが良い。

 

いまや、そういう過去の西洋思想を生きている人はいない。そこには、いまも使える思想の断片が見つかるかもしれないが、それは断片であって、それもやはり、いったんは死んだものとみなすべきだろう。

 

思想とは、ほんらい、いま生きている人がそれで生きるほどの、力強いものであるはずだ。

 

死んだ思想を、そのまま現代人が生きることは、もうありえないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 10:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
三層の思想で生きる その1

その思想で生きている人がいるとき、その思想は生きている。

 

御茶ノ水駅を出て聖橋を渡ったところに、湯島聖堂がある。かつて江戸時代には朱子学を中心にした教学の場として有名だった。

 

久しぶりに訪れて感じたのは、「朱子学の教えのとおりに生きている人は、もうほとんどいないだろう」という感慨だった。朱子学は基本的には死んだ思想である。

 

思想は、いつか死ぬ。それは、思想を支える社会そのものが変化するからである。社会生活に適合しなくなった思想は、担い手を失って死んでいく。それは必然であり、当然であるともいえる。

 

だが、思想の面白いところは、完全に死んでしまうことも滅多にないということである。

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 09:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
論理と情緒 デカルトも道元も、もうやめよう

論理と情緒。

 

戦えばどちらが勝つか、というのは妙な問い方かもしれない。

 

だが、<東洋の情緒は西洋の論理に対抗できなかった。それが近代ではないか>と日本人が書いた例は、いくつか読んだことがある。

 

以下、四つの例をあげておく。

 

 

 


 菊村紀彦編『永遠の親鸞 金子大栄のことば』1976年

 

親鸞研究の金子大栄氏の文。

 

東洋の知恵は随筆的である。大論文がない。カントとかへーゲルとかいう人の書いたような組織系統のあるところの大きな著作というものはないのです。大部の本はありますが、それは多く編集である。

 

系統的なものをたっとんで随筆的なものをたっとばないということになると、結局は西洋の理性にはかなわない、ということになります。

 

それに答えることができるものがあるとすれば、それはただ一つ、道念でしょう。道念というものがありますれば、西洋の理性よりも簡単な随筆がよいということになるのです。これに反して大きな書物を書いてみても、道念が喚起されねば真に人間のためになるものではありません。仏教の長所は、その説く道理ではなく、その説によって起こる道念のほかならないのであります。

 

たとえ西洋哲学のように系統づけても、それで人間道というものがわかるか、真実の体験ができるかはきまっておらない。道念というものを起こすためには、かえって断片的な随筆の方がよい。」

 

(菊村紀彦編『永遠の親鸞 金子大栄のことば』雄山閣、1976年、174-176頁)

 

 

 

 

 野田又夫「デカルトの生涯と思想」1978年


日本では「デカルト主義の考え方が一度も思想の主流にならなかった。」

 

(野田又夫「デカルトの生涯と思想」『デカルト』世界の名著第27巻、中央公論社、1978年、68頁)

 

 

 

 

 藤沢令夫『ギリシャ哲学と現代』1980年

 

ギリシャ哲学の研究者・藤沢氏は、「デカルト主義」とは「知性的客観性」と「意志的主体性」の二元論であり、「この二元のあいだの緊張の全体を引き受けるという態度のこと」であるという。

 

藤沢氏によれば、近代以降の日本で主流となったのは「デカルト主義」ではなく、「ロマン主義」であった。ロマン主義とは「汎神論を思想の核心として…自然と共感し共鳴する態度を尊重するような思想」のことで、デカルト主義に対する「最も有力な反対思想」である。

 

(藤沢令夫『ギリシャ哲学と現代』岩波新書、1980年、43頁)

 

 

 

 

 玉城康四郎『仏教の根底にあるもの』1986年

 

これは、東大の仏教学者が、仏教文献の非論理的性格を率直に批判した珍しい例。

「西洋哲学が仏教にひいでている点は、いうまでもなく『哲学する』という推論の過程である。これはわれわれが思想を理性的にうなずくための唯一の方法である。

しかるに仏教の各学派を眺めてみると、それぞれ一応の体系はそなえていても、推論の過程において見るべきものはほとんどないといってよい。…

仏教のなかで比較的に哲学の精神が現れていると思われるものは、インドの唯識思想とわが国の道元の思想であろう。しかし唯識も道元も推論の過程には深い洞察が秘められているが、そのままの表現では、なかなかわれわれの理性に訴えにくい。」

(玉城康四郎『仏教の根底にあるもの』講談社学術文庫、1986年、284頁)

 

 

 

...

 

 

 

私としては、「デカルト主義」にはあまり感心しない。平板さを感じるからだ。道元的な超論理性には、個人的には共感しがちになるが、望ましいことではないとみずから戒めている。

 

いまも、西洋は「デカルト主義」的な論理中心であり、東洋は道元的な情緒中心なのかもしれない。

 

西洋と東洋。論理と情緒。どちらがいいかという発想は、私はとらない

 

感性的なものと超感性的なものの統一=矛盾の展開を正面から扱ったヘーゲルやマルクスの態度に、デカルト的な形式論理や道元的な跳躍論理を止揚する道がみえると思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 07:06 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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