ごきげんようチャンネル


たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう.

               嘆異抄

<第三項>=<無意識>が分泌するという人間の運命 その力を自覚することについて
人間の意識のあり方の、運命ともいえるような構造がある。

それは、人間=自分が主体として、あるものを客体=対象にすると、そこからもれ落ちた第三の項が無意識化しやすいという構造である。

たとえば、あることに集中していると、人は周囲の音があまり耳に入らなくなる。

いわば<第三項の忘却>であり、これは、もともと人間性の一部であるといってよいだろう。




ルカーチ(1885-1971)は、「認識の対象は、われわれ自身によって産出されたものであるがゆえに、またそのようなものであるかぎり、われわれによって認識されることができる」というのが、近代哲学の決定的なモチーフだと述べた。(佐々木隆治『マルクスの物象化論』社会評論社、2011年、202-203頁)

だとすれば、近代哲学とは、上記の<第三項の忘却>を正面から正当化する態度のことだともいえる。

ポストモダンとは、<第三項の忘却>を意識的にふりかざすことで、そのような近代哲学の態度を自家中毒的に破壊しようとしたダダイズムであったともいえる。




<第三項の忘却>は人間の運命としても、また<第三項の忘却>を叫んでふれまわることはたんなる破壊に終わるとしても、<第三項の忘却>の存在じたいを忘れる(忘却の忘却!)とすれば、それは問題を引き起こす。




国家は、<第三項>の累積が産んだ、(今のところ)最強の社会的実体である。それはあたかも、すべての存在以前に存在した価値であるかのように感じられる。


革命家をふくめ、誰もが前提とする国家という存在は、無限の価値の源泉となる。政治家とは、<国家に奉仕する自分>に陶酔を感じる存在である。


<国家に奉仕する自分>への陶酔は、国家のほうが個々の人間よりも高い価値をもつという感覚を内包している。




いまの総理大臣が私にとって恥ずかしい存在であるのは、彼が価値を感じている<国家>の内容が私とちがっているからだが、それだけではない。

<第三項の忘却>の積み重ねによって、無意識のうちに国家に価値を付与してきた者の一人として、その運用責任者の言動に対して、私も責任を負っているからだ。
















| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 09:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ものはこころの果実・こころはものの花
こころが育つことと、ものが育つことは、同じことの両面。



<こころはものの花>




だとすれば、




<ものはこころの果実>




である。


この世がそう見えたとき、価値はいつでも逆転できる。


そうとしか見えないとき、虚の世界は終わる。
















| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 21:24 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「思想動機」が誰にもある
深みのある思想とか芸術には、深い思想動機がある。

誰にも思想動機はあるのだが、それがどれくらい広く、深いか。

自分の思想動機はなんだろう? と考えてみると、


<不合理な制度や考えを方向換えすることによって、人々の自由をいっそう保証できるようにしたい。>


ということのような気がする。

マイナスをプラスに、という一石二鳥的な発想が好きなのも、負債を資産と読み替えて変革することが、全体を活かすことになるから。

逆に、資産がじつは負債であることもある。



資産=負債

負債=資産



この必然性を洞察しやすい制度や考えを、常に洗練させる。

そのプロセスで、われわれは自由になれる。












| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 07:25 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
<哲学という名の思い出>にふける悪弊について おわり
心身問題や不可知論は、西洋では伝統的に「哲学」と言われる分野で扱われてきた問題である。

そうした「哲学」の伝統は、われわれがあずかった遺産である。

しかし、不可知論だけが西洋哲学の伝統ではないし、現代のわれわれが過去の一部の「哲学」をいつまでも(無意識的にせよ)前提にしたりすることは、あまり物事を前進させるやり方とはいえない。

過去はあくまでも過去である。

われわれは誰もが人間の歴史を、よりよい未来へと向かわせる責任を負っているはずである。

マルクスは、当時のドイツの「哲学」や「社会主義」の議論について、次のように痛烈に皮肉った。


「こうして彼ははじめに出発したところに幸いにも立ち戻ることになる。

そしてこのようにかかとを軸にしたぐるぐる回りのことを最近のドイツでは『発展』と称している。」


(マルクス『ドイツ・イデオロギー』筑摩書房マルクス・コレクション版、156頁)


しかし、このごろの「哲学者」たちは、そもそも「発展」を自称することさえも放棄しているのではないか。










(おわり)








| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 10:08 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
<哲学という名の思い出>にふける悪弊について その7

中島平三編『言語学の領域 I』(朝倉書店、2009年3月) の編者・中島氏は、言語学にはふたつの「流れ」があると書いている。


ひとつの「流れ」は、「ことば研究する」伝統的言語学である。

たとえばブルームフィールド(1887‐1949)などの構造言語学がそれで、田中克彦氏の表現によれば、「音声資料を残して音素を立てて形態素を作って文法を作る」というアプローチが代表的である(田中克彦『言語学の戦後』三元社、2008年、7、13、15、16、17、22、29、31、72、114頁)

もうひとつの「流れ」は、「ことば人間の認知作用全般のメカニズムを探ることを目的」とする「新言語学」である。10頁。

これには人類言語学、社会言語学、言語脳科学、心理言語学などがあり、その代表的なものが生成文法理論と認知言語学である。3頁。

ところが、既述のように認知言語学は一面で不可知論的であるから、それは人間の認知作用のメカニズムを探るのだと高言しながら、他方でその認知作用は、人間の身体のような客観的対象を直接認識できるわけではないとも言うのである。

これはまるでカント流の不可知論である。

それは賢明な自己限定ともみえるが、他面ではこの世界の客観的解明をめざす科学としての役割をみずから放棄するものである。

そういう開き直りともいえる態度が、みずからと他者を冷笑するかのような筆致で書かれたとき、読む側としては愉快な気持ちにはなれない。










(つづく)










| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 10:07 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
<哲学という名の思い出>にふける悪弊について その6

このように、二十世紀後半に台頭した認知科学(ここでは認知言語学)は、行動主義が忌避した<心内プロセスの解明>を唱えながら、他方では不可知論的な傾向をもっている。


これを心身問題にひきつけていうと、


<人間の心(認知能力)は概念(あるいは表象)を手がかりにして解明できるが、だからといってその心が身(対象)を直接認識できるという保証はない>


ということになる。


つまり、認知科学(認知言語学)によっても、心と身体の関係を問う心身問題は、原理的に解決不可能ということになる。





(つづく)






| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 10:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
<哲学という名の思い出>にふける悪弊について その5

認知言語学によるここまでの議論は、なんとなくわかったような気がしないでもない。


ところが、この後からタイラーほか前掲書の主張は、にわかに雲行きが怪しくなる。



「意味は根本的にメンタルな性質を持つものであり、精神とは独立した客観的に検証可能な世界に固有な事物を直接的に表すのではなく、概念構造を表しているということである。


言語は概念構造を表しているのであり、概念構造は間接的にこの世界を映し出しているのである。」(タイラーほか前掲書、25-26頁)



つまり、われわれは「世界」を「直接的」には扱えず、「概念」(あるいは表象)を介して「間接的」にしか扱えないというのだから、一種の不可知論に近づいていることがわかる。


そして、タイラーほか前掲書にある次の表現は、認知言語学が決定的に不可知論に傾く可能性を明示している。



「私たちが意識的にアクセスできるのは投射された世界 ―精神によって無意識に組織化された世界― だけなのである。」(ジャッケンドフの表現)23頁。







(つづく)







| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 08:37 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
<哲学という名の思い出>にふける悪弊について その4

ここでタイラーほか前掲書は「概念化」という言葉をつかっているが、岡田前掲書によれば、認知科学では「表象」という言葉もよく使われる。


表象とは、「記号、シンボル、イメージといったものの総称」であり、「認知のプロセスにおいて操作されるもの」のことである。(岡田前掲書、237頁)


人間の認知能力が手がかりとする内心のイメージのようなものが「表象 representation」ということであろう。


そしてタイラー前掲書は、こうした人間の認知能力による「概念化」あるいは「表象」操作によって、音韻が意味と結びつくという。

つまり言語とは、



「単語(より一般的には構文も)は音韻極と意味極で構成される記号の集合」23頁。


とみなせる。


この「記号の集合」に意味を付与するのが、人間の認知能力なのである。





(つづく)








| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 08:35 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
<哲学という名の思い出>にふける悪弊について その3
問題は、「表象」のほうである。

認知言語学(認知意味論、認知文法論)では、音韻と意味を人間の認知能力が結びつけるのだと考える。

たとえば、アンドレア・タイラー/ビビアン・エバンズ(国広哲弥監訳・木村哲也訳)『英語前置詞の意味論』(研究社、2005年7月)は、従来の意味論は「合成的意味論」18頁、すなわち積み木のように文の意味が語彙の組み合わせで決まるとする「単純合成的なアプローチ」17頁 にすぎないという。

じっさいには、意味はたんなる積み木ではなく、人間が背景知識や推論など(=認知能力)によって補ってはじめて成立する。

たとえば、壺にも顔にもみえる「ルビンの壺」の絵は、「感覚知覚情報は外的世界に存在するものの、実際に知覚されるものは私たちがこの情報を無意識的にどう構成し意味付けするかによって決定される」ということを証明する例である。(タイラーほか前掲書、23頁)


もうひとつの例は、次の文である。


Jane stood in the flower-bed.

Jane stood on the flower-bed.


ジェーンが立っているのは、花壇の「なか」か「うえ」か。


もちろん、どちらで表現してもよい。


この例は、


「同一の情景に対する異なった概念化(あるいはラネカーがいう把握construal)を表している」(タイラーほか前掲書、25頁)


のである。





(つづく)








| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 08:19 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
<哲学という名の思い出>にふける悪弊について その2
岡田前掲書をのぞきこみながら私が気になったのは、最終章の「20世紀後半の心身問題」である。

半世紀余り前の1956年、カリフォルニア工科大学で、のちに伝説になるシンポジウムが開かれた。

後援した財団の名をとって、今日「ヒクソン・シンポジウム」と呼ばれる。(当時28歳のチョムスキーが「変形生成文法」の主張によって注目されたのも、このシンポジウムであった)

このシンポジウムをひとつの契機にして、哲学、心理学、言語学、人口知能研究、神経科学、人類学といった多くの分野を横断する新潮流が姿を表した。

それまでの行動主義の「暗いトンネルを抜け、人間の心に直接アプローチ」する、いわゆる「認知(諸)科学」の台頭である。(同書、236-237頁)

岡田前掲書は、この「認知科学」に顕著なキーワードは、「表象」と「コンピュータ」であろうと述べている。237頁

「コンピュータ」のほうは、人間の思考や言語のモデルとしてコンピュータのイメージが(無意識的にせよ)援用されるようになったことを指している。

当時、思考する人間に似たはじめての機械としてコンピュータが登場し、威力を発揮しはじめていた。

コンピュータが実際に作動するのだから、人間の内面的な認知メカニズムも、コンピュータに似たアナロジーで説明できるかもしれないー

こうした類推が、認知科学を鼓舞したという。239頁

これは、現実が思想を先導した例のひとつである。

心臓の役割がポンプの存在から類推されたり、フロイトの心理学が蒸気機関車のイメージをもとにしていたという話もある。

コンピュータの登場が人間の心の解明に示唆を与えたというのは、うなずける現象である。








(つづく)








| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 22:28 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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