ごきげんようチャンネル


"Obama got in, and he is the pawn of globalized interest." Naomi Wolf



"die on Mexican soil " 「地」になぜ the はいらないか
英語のニュースにときどき出てくるのが soil (地)というやや文語調の単語。

物質名詞の「土」という意味では無冠詞、水域に対する「大地」という意味では the が先行するが、

die on foreign soil(異国の土となる)

on Japanese soil(日本の地で)

のように、「地」の意味では無冠詞が多い。

特定の場所なのだから the が必要のようにも思えるのにどうしてか。

これは soil が「人の生活する土地」を意味するからである。

英語では行政単位としての地域には the をつかっても(the United States of America)人が日常生活を送る場所の名前には威圧感のある the を避ける傾向がある(America)。

住民の生活環境の一部である公園(Central Park)や通り(Fifith Avenue)やローカルな地名(Pearl Harbor)が無冠詞になるのも同じ原理である。

soil は「椅子」「席」を意味するsoliumというラテン語からきた語で、まさしく「人が生きていくところ」を指す(ジーニアス英和大辞典)。

このあいだも麻薬関係のニュースで"die on Mexican soil"という表現を耳にした。

生活的・個人的なものほど冠詞theとは無縁になる。

個人・社会・国家をそれぞれ区別する基本感覚がこうしたところにあらわれている。










(おわり)








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言語過程説を活かす おわり

組織不足とメディア不足


言語過程説を継ぐ研究者は少数ながら存在するが、名の知れた学会をつくったりきちんとした雑誌を発刊したりという形にはなっていない。


もともと言語学や英語学の大学教員はそう多くないうえに言語過程説はアカデミズムで言語学説として認められていないので、大学で学んだ学生が国語や英語の教員になって後進を教えるという<アカデミックサイクル>が成立する可能性はない。


学術的書籍やウェブなどであらためて学説を紹介することは可能であろうが、それだけでこのように複雑な学説の魅力が理解されることは期待できない。



言語過程説はこうした問題をかかえている。


しかし、世界的価値のあるこの学説をこのまま死滅させるわけにはいかない。


言語の仕組みを解明し人々を言語のくびきから解放する責任のある者たちがいつまでも駄弁にふけり、若い世代の徒労を放置している現状をなんとかしたいと私は思う。


<アカデミックサイクル>がダメなら<社会サイクル>がある。書籍だけでは普及できないなら各種のメディアを利用する方法もある。難解で困るなら難解が魅力のアートに変換するという手もある。


これからの戦略は、①言語過程説の内容を<タテの文法+ヨコの文法>へと脱皮させ、より高度な体系へと移行させる。②社会に普及するための組織やメディア体系を工夫してつくりあげる、の二点となる。







(おわり)








 

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言語過程説を活かす その7

学説の断片性

 

言語過程説の論考は言語の一般論だったりいくつかの文法事項を解明したもので、ひとつの言語の文法の全体系を説明した例はない。


学校で教える伝統的な国文法や英文法が表面的ながらひとつの言語の文法を説明しきっていることと対照的である。


これは言語過程説がもっぱらタテの文法を強調してヨコの文法を視野に入れなかったことと関係がある。


全体の構造を体系的に描くには形式論理(ヨコの文法)による思考と事項の整序も必要だからである。







(つづく)







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言語過程説を活かす その6

文法は人間の認識力が対象を動的に把握するさいのタテの文法(弁証法論理)と、語どうしの表面的な関係を規律するヨコの文法(形式論理)という両面の統一として把握する必要がある。


言語過程説が他説を批判するとき、「論理的強制によって」という表現を使うことがある。出発点を人間の対象認識のありようにおかないで議論をすすめると、どこかで「論理的強制によって」混乱した認識におちいることを(正当にも)指摘しているのだが、この「強制」される「論理」は言表の確定性にもとづく形式論理のことである。言語過程説も言語における形式論理の力を認めているのである。

 

もともと唯物論はこの世界に複数の「論理空間」(上山春平『弁証法の系譜』1963年、20頁)すなわち論理構造の違う複数の次元を認め、それぞれの空間に過程性と構造性を認める。

 

この過程と構造はすべて自然=物質の高度な発展の様相である。

 

 

 

 

 

(つづく)

 


 

 


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言語過程説を活かす その5

外界に存在する事物の成立過程と言語のような思考物の成立過程が異なることはマルクスが述べている。


「抽象的なものから具体的なものへ上向する方法は、ただ具体的なものを自分のものにするための、それを精神のうえで具体的のものとして再生産するための、思考にとっての仕方にすぎないのであって、それは決して具体的なものそのものの成立過程ではない。」(マルクス『経済学批判』岩波文庫版、313頁)

 

たとえば目前のリンゴがリンゴとして成立した過程(「具体的なものそのものの成立過程」)と、人間がリンゴを見て「リンゴ」と認識し表現する過程(「思考にとっての仕方」)とは区別しなければならない。後者の側面を明らかにするのがタテの文法である。

 

そして「思考にとっての仕方」のひとつたる言語はいったん表現されれば「具体的なものそのもの」すなわち物質性をもつ”自然”へと止揚される。”自然”には独自の内部秩序がある。その秩序規範を認識し表現するのがヨコの文法である。


人間は具体的な対象世界を弁証法的に認識している。この側面を重視するのがタテの文法であるが、同時に言語には語順のように言語の内部(語どうし)で守られる形式論理的な規範もある。これがヨコの文法である。





(つづく)







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言語過程説を活かす その4
形式論理と弁証法論理の問題は

<言語表現の直接の基盤は対象に関する認識であって対象そのものではない。>

ということと関係がある。

認識は弁証法的論理をもつことを三浦つとむは次のように説明している。

「言語表現を直接に規定しているのは対象ではなくて話し手・聞き手の認識である。…たとえ対象の属性それじたいは静的固定的であっても、思惟のしかたが運動的発展的であるならばそれを表現する語は<動詞>になる。」(三浦つとむ『日本語の文法』勁草書房、1975年、207頁)

たとえば、

「柿の実が赤い。」

というとき、柿の実という対象の属性を静的・固定的に認識しているが、同じ対象を運動的発展的に把握すれば

「柿の実が赤らむ。」

と表現する。

認識はこのように動的であるから、その表現も固定的ではない。

しかしその認識がいったん表現されれば固定的な客観的事実に転化する。そうなると言語は聞き手だけでなく話し手も束縛する。


これは「認識が表現すなわち対象化されて、その[表現の]背後に存在した客観的な事実となる」(三浦つとむ『日本語の文法』前掲、206頁)ということである。


こうなると「赤らむ」と言っておきながら同時に同一物について「赤らまない」と表現することは認識の混乱を招くから形式論理によって禁じられる。


言語には弁証法論理だけでなく形式論理も働いている。







(つづく)












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言語過程説を活かす その3

ヨコの文法とタテの文法の違いは形式論理学と弁証法論理学の違いと関係がある。


1970年代から80年代に哲学界に起った「矛盾論争」を総括した牧野広義『弁証法的矛盾の論理構造』(文理閣、1992年)は、形式論理は「規定の確定性」に立脚しており、弁証法論理は「事物の運動や静止」の追及であって、それぞれ基盤とするものがちがうと述べている。209頁。


同書によると矛盾律とは

「客観的事物の運動や静止のいかんを問わず、その対象の規定が確定した内容をもっていることを反映したもの」

である。209頁。

たとえば物体の運動は言葉で規定すれば「それはここにある」と同時に「それはここにない」の両方を含む矛盾した現実である。しかしその場合「それはここにある」といったん規定(言表)したら、その表現じたいは動かぬもの(矛盾した言表が許されないもの)として扱わないと混乱を招く。


現実は矛盾を含んでおり、対立物の相互前提と相互排斥という動的な内容をもつ。しかし現実が矛盾をもつからといって言表における矛盾を禁じた矛盾律がただちに不当だということにはならない。






(つづく)










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言語過程説を活かす その2
■従来説を全面否定する傾向

発表当時の論争的な雰囲気を反映してか、言語過程説は他説を全面否定する傾向がある。

この態度は読者を遠ざけさせるだけでなく、学説の内容に包容力がないという結果を招いている。

言語過程説は客観的な表現対象と主体的な話し手の認識のあいだの関係を重視する。たしかにこれこそ欧米の言語学説やその輸入物である日本の言語学に欠けている観点である。

しかし欧米流の言語観も有用だし、ある意味で正しくもある。たとえば従来の文法学は語彙の豊富な「語法」「用法」や語順などの規範を収集してきたが、これは有用で正しい情報である。

欧米言語学の問題点は、ヨコに書かれた文の内部(語どうしの関係)だけで論理づけを完結させようとする「ヨコの文法」しか視野にないことである。

これに対して言語過程説は話し手と表現対象とのあいだの立体的な「タテの文法」こそ言語の本質としてふまえるべきだと強調する。

だが言語の真実はタテの文法だけでもなくヨコの文法だけでもない<タテの文法+ヨコの文法>の統一にある。

ここは問題の核心になるのでやや詳しく説明しよう。








(つづく)


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言語過程説を活かす その1
江戸後期の国学者・鈴木朖(すずき・あきら 1764-1837)にはじまり時枝誠記(1900-1967)が現代に復活させ、三浦つとむ、宮下慎二、鈴木覺らが発展させた日本独自の言語学説が「言語過程説」である。

この学説は言語学の流派のなかでもっとも迫真的なものだが、こんにち国際的にはもちろん日本国内でもほとんど知られていない。

なぜそうなったのか。

その原因を考え、新生の方法を展望してみる。

■叙述のあり方の問題

言語過程説の論考の多くは他説を長々と引用したあと自説を対置するスタイルをとっている。

ほとんどが1980年代までに書かれたものなので、自己の説を主張するには他説を十分にふまえるべきだという学問上のマナーや当時の論争的な雰囲気を反映しているのだろうが、批判している他説じたいが古くなっていることもあって今日では議論の全体が色あせた感じもある。

また、肝心なところの説明が欠けておおざっぱだったり(時枝)議論の筋がわかりにくかったり(三浦)文体が独特だったりする(宮下)。

一般の読者や言語学者にはなじみの薄いヘーゲル哲学の概念を使ったり高度に繊細な思考に入るところもある。

こういう叙述のスタイルは発表当時から難解と感じた人が多かったのではないか。

議論のレベルは他説を圧倒しているのだから、今日の人にも理解できかつ魅力的にみえるプレゼンテーションを工夫すれば復活の可能性が出てくるだろう。

それにはまず文章のかたちでまとめなおす必要があるが、これは専門家向けのものとなる。一般向けには画像やオブジェや音楽や声を駆使したアートのかたちで提示するのがよいと私は思っている。







(つづく)








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名詞の単複は認識の運動の表現形式である

英語の名詞は単数と複数をつかいわけるが、複数形のものを単数扱いしたり単数形のものを複数扱いする場合もある。

これは実体にかんする判断(認識内容を築く基底)に<一般・特殊・普遍>の区別があり、これをつかいわけているからである。

―弦臺数…複数の個物を複数扱いする。もっとも普通のケース。

These computers often freeze.

computers は個体の一般的存在をのべる<一般>の判断(文全体は<特殊>の判断)。


⊇弦臙運堯鎚数の個物なのでかたちは複数だが、全体をひとまとめにして単数扱いするケース。

Twenty years is a long time.

Twenty years は,汎瑛諭祕貳漫笋糧獣如isはTwenty years を一括した<特殊>の判断の表現(文全体は<普遍>の判断)。


G枴複数…△箸狼佞法△たちは単数だが内実は個物の集まりなので複数扱いするケース。いわゆる集合名詞のひとつのタイプ(組織名詞)。

The Douglas family are all gamblers.

The Douglas family は<特殊>の判断。areはfamilyのひとりひとり=<個別>についての判断(文全体は<特殊>の判断)。


で枴単数…同種の複数のものをとりあげ、そのなかのひとつを中心に描くケース。

Elephants have a long nose.

Elephants は<一般>の判断。 a long noseはelephantsのひとつひとつ=<個別>についての判断(文全体は<普遍>の判断)。




このように人間の認識(この場合は実体についての<一般・特殊・普遍>の判断)は文の背後でめまぐるしく運動している。英語における名詞の単数・複数とその組合せは、こうした認識の運動を表現する形式である。

これまで言語の教育(かなりの程度、研究も)は表現の形式の提示や分類に終始してきた。

上記のようなめまぐるしい認識の運動をどう学習者に提示し習熟させるか。

それが今後の問題だと思う。














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