ごきげんようチャンネル


あきらけき かがみにあへば すぎにしも いまゆくすゑの こともみえけり

         大鏡


みんなで英語「ぺらぺら」になろう! <大日本ぺらぺら党>へようこそ おわり
この対談に出てくるフレーズに、次のような部分がある。




「だから、これは『ペラペラ』英語を話せる人を作って、本当の意味でのグローバル人材を潰す政策ですよ。」(大津氏、133頁)





ある雑誌の記事に、「英語ができて、仕事ができない若手社員たち」というのがあったそうだが134頁、大津氏がいう「ペラペラ」というのは、そういう紙のように薄い「ぺらぺら」人材のことであろう。


政府・財界・保守政党は、中身のない(文法も語彙も発音も教養も怪しい)、frivolous な、自分たちにそっくりだが、英語らしきものは口にする「ぺらぺら」人間がつくりたいわけだ。




官僚・財界・保守政党は、<大日本ぺらぺら党>の党員である。彼らは<ぺらぺら>と、こう叫ぶ。




<わが亡きあとに洪水は来れ!>











(おわり)










| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 小学校の英語教育 | 10:33 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
みんなで英語「ぺらぺら」になろう! <大日本ぺらぺら党>へようこそ その4
③ こうした事態が進行する原因は、教育をめぐる体制の欠陥にある。


そもそも日本には、英語教育政策を研究している人は「ほとんどいません」。149頁。

学習指導要領はいちおう英語科目の「専門家」がかかわっているが、文科省官僚あるいは英語教育に素人の政治家の言いなり。146頁。

<コミュニケーション志向>なるものの推進の中心は、楽天の三木谷氏などの財界。134頁。

企業は人材養成の余裕がないので、かわりに学校で<英語が使える社員>をつくらせようというわけである。

その財界の代弁者は、自分は英語ができない保守政党の政治家たち。148頁。

そこへ、<英語が話せない>親たちが、子どもには<英語で苦労させず、うまく就職させられるかも>という幻想をあおられて、小学校の英語だの、大学のTOEC対策だのに賛成する。



ついでにつけくわえれば、日本の大学にも役所にも、中高で教える内容を改善できる人材と仕組みがすっぽりと抜け落ちている。

たとえば、わかりにくい学校英文法を根本的に改善しようとする人材も、そういう人材がでてくる仕組みも存在しない。




つまり、きちんと検証したり考察したり提言したりする人材と仕組みが欠落しており、そこに生まれた自由な空間?を活用して、財界の要求を背にした人気取り政治家が<コミュニケーション志向>なる浅薄な政策を具体化し、それに世論・マスコミの支持をとりつけて、本当に実行してしまう。


TPPなどと同じ構図である。



こうして、愚劣が正当化され、堂々とまかり通る。

まず、庶民が愚劣の犠牲になり、そのツケは、やがて官僚・財界・政党・マスコミ自身に及ぶ。








(つづく)











| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 小学校の英語教育 | 10:04 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
みんなで英語「ぺらぺら」になろう! <大日本ぺらぺら党>へようこそ その3
② 政府・保守政党・財界が躍起になっているのは、すでに失敗した英語教育政策をいっそう加速させることである。これにより、日本の英語教育は完全に破綻する。


現在、中高の英語は、すでに読解・文法中心ではなく<コミュニケーション志向>になっている。それは1980年代の臨教審にはじまったもので、約20年にわたって実施されてきた。(鳥飼氏、120-121頁)

その間、たとえば1995年以来14年間の高校入学時の英語力を調査した結果によると、子どもたちの成績は一貫して下落しつづけている(偏差値換算で7.4)。(江利川氏、127頁)

すなわち、失敗したのは<コミュニケーション志向>の英語教育のほうであって、一般にイメージされているように、かつての<読解・文法中心の英語>ではない。

<読解・文法中心の英語>は、すでに中高の授業の中心から外れているのである。

このことから、<コミュニケーション志向>がまだまだ不足しているから成績が落ちているのだ、とイメージする人もいるだろう。

だが、この本の著者たちは、逆に、20年つづいた<コミュニケーション志向>の英語政策こそが、英語力低下の原因だと考えている。



だとすれば、これから起こることは何か。

いったん小学校の英語が教科化されると、もう簡単には元にもどせない。

すると、




「中学校入学の時点でモチベーションがぐっと下がったまま入ってきて、中学校の荒廃がもっと進むでしょうね。」(江利川氏、157頁)




こうして、小学校にはじまって「中高までもがだめ」(大津氏、157頁)になり、英語教育全体が「まさに、破綻」(斎藤氏、157頁)する。










(つづく)









| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 小学校の英語教育 | 06:53 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
みんなで英語「ぺらぺら」になろう! <大日本ぺらぺら党>へようこそ その2
① そもそも、中学高校の授業だけで、ひとつの外国語が<話せる>ようになるーそういう可能性はない。

このことは、座談会のなかで何度か指摘されている。(128頁以下)

なぜ不可能かを数字でみると、たとえば中学なら全教科の総時間数が週30時間ほど。ふつう、英語はそのうち4時間ほどで、多くても6時間が限度。151頁。

すると、中高あわせて、英語の時間は1000時間程度。

このくらいの学習でひとつの言語が<話せる>というのは、このぐらいの練習で甲子園に出場できると信じるのと同じくらい、空想的である。129頁。




「日本語が世界9位の巨大言語で、日常生活で英語を必要としない、あるいは大学教育まで日本語でやれるような国が、[TOEFLの成績が]低いのは当たり前なわけです。」(江利川氏、141頁)




外国語を話すというのは、簡単にはできないことなので、中高の授業だけでみんなが出来るようになるのは到底無理。

強い関心と意志のある人が努力を重ねて、やっと出来るようになる。それが外国語である。

中高での「英語」の目標は、その手前までの基礎を身につけることにある。






とはいえ、同じ授業時間数でも、やり方を改善する余地はあるだろうと思う人もいるだろう。

それはそうなのだが、英語の授業が実際にはどう「改善」されてきたか、一般の人はその中身を知らないで、自分が受けた授業のイメージのままでいるが実情である。










(つづく)

















| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 小学校の英語教育 | 13:06 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
みんなで英語「ぺらぺら」になろう! <大日本ぺらぺら党>へようこそ その1
小学校で英語が教科化するほか、大学の入試や卒業用件にTOEFL のような外部試験の導入を提言するなど、自民党政権になっていっそう加速した英語教育「改革」への動きに、4人の有識者が真っ向から批判を加えた本が出た。



大津由起雄・江利川春雄・斎藤兆史・鳥飼玖美子『英語教育、迫り来る破綻』(ひつじ書房、2013年6月)




このなかに著者四人の座談会が収録してあり、これがなかなか良い内容で、私自身、誤解や勉強不足を反省させられるところがあった。


主なポイントを拾ってみる。










(つづく)











| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 小学校の英語教育 | 11:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ニッポンの「すごい」英語教育  改革は長い戦いに
こういう文章を見つけた。



「私は中学・高校の間、英語が苦手でした。先生に当てられるのがとても嫌でした。その結果、6年間の勉強はまるで身につきませんでした。

日本人の英語については明治以来、数かぎりない書物が出ていますが、100年以上、まったく解決していません。

これはすごいことです。」




筆者は、河田聡・大阪大学大学院工学研究科教授。若いころ、カリフォルニア大学で研究助手をつとめたことがあり、ナノテクノロジー分野の第一人者でもある。

河田氏の文のつづきを見てみよう。




「こんなに真面目に努力する国民が、6年間英語を一生懸命勉強しても、誰も満足に話せない・聞けない・書けない・読めないなんて、日本の英語教育学者の責任はきわめて重いと思います。

『小学生から英語を教えたい』と言った文部科学大臣がおられました。…しかし、これこそが日本人に英語を話せなくしてしまう間違った教育方法そのものです。

中高6年間の英語の苦しさを、小学校にまで広げて、英語苦手の人口を増やすだけです。そんなことをしても、小学校の先生や児童がかわいそうなだけです。」




こういう批判もあるので、小学校の英語では中高とちがって、楽しい授業、コミュニケーション中心の時間ということになっている。

しかし、理念も方法もない英語教育の現状では、河田氏の言うように、小学校の英語教育が苦難と無駄の上塗りになる危惧は消えない。

いきおい、河田氏の結論は、次のようになる。



「それよりも、中高6年間もの間、英語を勉強してなぜ日本人が英語を話せないかを科学的に解明し、教育方法を根本的に変えるべきです。」




(以上の引用は、河田聡『論文・プレゼンの科学』アドスリー、2010年、104頁から)







けっきょく、必要なことは次の2つであろう。




・現在の英語教育に十分絶望すること。勉強時間や「会話」の分量が少ないから、といった量的な問題ではないことを多くの人(とくに親)が認識すること。



・替わりになる方法を早急に開発すること。ただし、開発しても、それが本当によりよい方法であるかはわかりにくいから、行政はそれを容易には採択しない。また、かりによい方法が採択されても、短期間に多くの教員がそれを実行することは不可能である。したがって、英語教育の改革は、長期にわたる戦いになる。このことを多くの人が認識すること。




国民の認識の深化と、民間での多様な試みが改革の原動力になる。















| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 小学校の英語教育 | 15:48 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
大学入試から英語をなくせ
今日の朝日新聞に、高校の英語の授業を2013年度から英語でするという学習指導要領の改定について、三人の識者の意見が紹介してあった。

立教大の松本茂氏は、今回の改定をきっかけに、もっと「生徒が主体」の授業に変えよう、生徒にもっと大量の英文を読ませ英語でプレゼンテーションさせようという。

本来なら正論なのだが、こういう意見を聞いたとき私が気になるのは、ほんとうに生徒は英語で「読み」英語で「プレゼンテーション」する体験ができるかということだ。

うるさいことを言うようだが、発音も冠詞も語順もいい加減なままで英語らしきことを口にしても、生徒はそれがほんとうは英語ではないことを感じるのではないだろうか。

そんなことを言っているからいつまでたっても話せないんだと叱られそうだが、教えるほうの責任として、もっとたくさん英語を使わせる一方で、発音や冠詞や語順といった英語の根幹部分を生徒が理解できるようにする必要があるのではないだろうか。

現状では、そこのところを教える方法がないのではないか。それなしにただ大量に英語らしきものを話させるのは、水に入らず(発音できず)泳ぎ方も教えず(冠詞も語順も理解できず)にプールの横で身体を動かせば泳げるようになると信じるのに似ていないだろうか。

あとの二人の論者は、期せずして主張が呼応しあっている。

定時制高校で英語を教えた中西千春さんは、「英語による授業は高校生のニーズとも乖離している」というのだ。受験生の場合、限られた時間のなかで読解とか英作文とか、たくさんのことをこなす必要がある。つまり

「高校の授業方針を変えても、それに応じて大学の入試の内容がすぐに変わるわけではないのだ」

タレントのダニエル・カールさんが同じことを語っている。

「いちばん頭の固いのが大学です。会話ができても大学には入れねえって、それじゃ大学なんてモンスターペアレントみてえなもんですよ。オバマさんじゃねえけど、日本の大学に言いたい。『チェンジ』が必要だって」

これは正論だ。間違いなく、大学入試が変われば日本のヘンな教育はずいぶんまともになる。

英語を入試科目からはずす。そういう正しい大学がもっとたくさん出てくるのを期待したい。




| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 小学校の英語教育 | 21:50 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
子どもの人権はどこへ行った? 「コミュニケーション能力」というゴマカシ おわり
外国語の習得を人権の一部と考える「言語権」の思想は、絶滅の危機にある少数派言語の保存問題をきっかけに成熟しつつある。

言語は使えば使うほど豊かになる過去からの贈り物であって、これを保存し活用するのは人類の義務でもあり楽しみでもある。

外国語とは時空を越え言語の壁を越えた「第三の場所」を体験することである。

「第三の場所」」を自分の身体で体験した人は、自分の新しい可能性を感じると同時に、「人間平等」の感覚をみずから育むだろう。その体感が人権感覚の基礎となり、平和の貴重な基礎となるだろう。

言語権は楽しい人権である。

「コミュニケーション能力」という言葉には魅力がない。楽しくない。「コミュニケーション」ならば中立的だ、「能力」ならば客観的だ、「態度」なら評点できるなどという発想の底の浅さに気づかないと。

ましてや楽しいはずの人権が「英語ができるできない」で子どもの差別につながるなど論外である。

日本における言語権(外国語を学ぶ権利)の保障の基礎として、学校の英語教育を位置づけるべきである。




(おわり)





| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 小学校の英語教育 | 10:54 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
子どもの人権はどこへ行った? 「コミュニケーション能力」というゴマカシ その4
「能力」「態度」は内容を問題にしない形式的価値である。「能力」「態度」というのは、そのなかに入る行為の内容を問わない。だから便利であり、だから無内容である。

たとえば行為の内容が首尾よく犯罪を犯すことであっても、それもひとつの「能力」であり「積極的な態度」である。

犯罪までいかなくても、「能力」「態度」だけが教育で問題にされるなら、<官製の立派さ>を演じる能力や態度を競いあうことが奨励される危険もある。

教育が養う「能力」「態度」がめざす内容はなにか。

それはなによりも「人権」でなければならない。

外国語は現代に生きる子どもの人権を充実させるためにある。それが外国語学習の目的である。

「コミュニケーション能力」は、人権の充実という目的のための手段にすぎない。形式的な「能力」が外国語教育の「目標」などであってはならない。




(つづく)




| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 小学校の英語教育 | 00:23 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
子どもの人権はどこへ行った? 「コミュニケーション能力」というゴマカシ その3
「能力」というのは、ある人を外から見て計測するための言葉である。政府や学者が「能力」を便利な言葉と考える理由は、「能力」なら子どもを「客観的」に評価できるというイメージがあるからだろう。

「能力」に似た言葉で「態度」というも政府が好きな言葉である。

先に引用した小学校の学習指導要領に「外国語活動」の「目標」とは「積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成」だという一節がある。

「態度」というのは、じつは先年成立した新教育基本法に頻出する言葉である。

「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う。」

なぜ思想や心そのものではなく「態度を養う」と言うのか。

おそらく国家中心の「思想をつくる」とか「心を作る」とか書くと、憲法の思想信条の自由に抵触すると指摘される危険があるので、それを避けるために「態度を養う」という外見的・客観的な言い方に頼ったのだろう。

「能力」といい、「態度」という。

こうした言葉がたいへん便利なひとつの理由は、教育における人権の問題を回避しつつ、いっけん客観的で普遍的な価値を装うことができることにある。




(つづく)






| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 小学校の英語教育 | 00:22 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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