ごきげんようチャンネル




そらになる心は春の霞にて よにあらじとも 思ひたつかな

西行



言語はいかにして現実から独立したか 言語と映画 おわり
映画が人間の思考そのものであるとするなら、その思考はどういう言語で語られるのか。

著者は、それは「感情言語」であり、しかもその作品でしか使用されない「外国語」であるという。63、50頁

撮影された映像の山は何かの外国語を語っている。それがどういう言語であり、何を語っているのか、編集者はまずそれを注意深く聞きとらねばならない。

そのため、撮影されたフィルムと対話を重ねる。何度もフィルムを見直しては語りかける。フィルムとダンスをするかのように。土を耕して活気を与えるかのように。63、67頁。

それができたら、映画編集者はその外国語が観客にわかるように加工する。

たとえば、主要なシーンを集めたスチル写真のパネルを作り、それを見ながらシークエンスを考える。このときスチル写真は映画という「言語の象形文字」なのだ。50頁。

登場人物は音声でセリフを語る。その裏で、映画の思考を表現する言葉が画像という「象形文字」で書かれている。

言語は映像よりもリニアな表現だから、たとえば英語なら、単語のセリフの合間=ゼロ記号=瞬きの演出=を利用して、ある<形>が書かれている(文型)。

いいかえると、英語を話す人は、個々のセリフ(単語)をつかって、ある形を描きながら思考を表現するのだ。あたかもキャンバスに書きつけた文(音→字の列)でモナリザを描くように。

このモナリザは、もはや現実のモナリザではなく、現実のモナリザを反映しながらもキャンバス上で独立した一個の表現である。

だが、このキャンバス上のモナリザは見えにくい。

茂木健一郎氏のいう「アハ!体験」が必要だ。

http://www.sony.jp/ahap/

英語の文型を表現するWing Icons(サウンド・ステップスの姉妹編)は、この見えにくいモナリザを「アハ!」と可視化する技術である。






(おわり)







| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 映画の英語 | 10:13 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
言語はいかにして現実から独立したか 言語と映画 その5
映画のカットが人間性に合致している理由は、まだある。

映像表現は、説明よりも暗示のほうが「絶対的に効果がある」。説明すればするほど、観客は参加者ではなく観察者になってしまうからである。30頁。

つまり、多少の隙間=不連続があるほうが想像力をかきたてる。

映画の最終目標は感情である。「観客にどのように感じて欲しいのか。最終的に観客の記憶に残るものは、編集技術でもなければ、キャメラワークでも、役者の演技でも、実はストーリーですらない。感情なのだ。」34頁。

想像は感情への橋渡しとなる。

ある監督がこう言ったという。

「完璧な映画というものは、目そのものが映写している。つまり自分の見たい物を見ているわけですね。映画は思考に似ていますよ。思考にもっとも近い芸術が映画なのです。」80頁。

ああ、映画は思考なのだ。だから、たとえば何十年もの話を二時間に収めることができる。

映画は思考体験である。だから、そこから深い感情を喚起することもできる。

言語だって同じ。

言語の本体は思考であり、思考は想像によって力を与えられ、その帰結は感情の喚起である。




(つづく)




| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 映画の英語 | 09:38 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
言語はいかにして現実から独立したか 言語と映画 その4
人が一分に四回から四十回瞬きをするのと同様、映画もまた多数のカットによって不連続性を創出する。

「観客が瞬きをするであろうポイントを、カットポイントにしなければいけないということだ。ある意味、カットすることで、つまり唐突に視界を変えてしまうことで、編集者が観客に代わって瞬きしてあげるという言い方もできる。

編集者の仕事は、観客の思考プロセスを予想しながらコントロールすることだ。[カットが観客の思考に]ほんの少しだけ先行していると、観客としてはその後に描かれる出来事をとても自然に、しかもエキサイティングなものとして受け取ることができる。」91‐92頁。

そういえば、アナウンサーの山本静夫さんが、司会やインタビューのコツは、視聴者が「もっと聞きたい」と思ったところで、サッと引いてしまう(やめてしまう)ことだと話していた。

これは、観客の意識よりも早く節目をつくることで、瞬きするタイミングを演出しているということだ。

不連続性によってはじめて、人は事態の推移が理解できる。





(つづく)




| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 映画の英語 | 09:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
言語はいかにして現実から独立したか 言語と映画 その3
なぜ人間は、不連続の映像を自然に受け入れるのか。

著者によれば、もともと人間は不連続に生きているからである。

その典型が夢である。

夢は断片的で突飛な映像に満ちている。映画は夢に近いとよく言われるが、それはたんなる比ゆではない。事実なのだ。78頁。

いや、不連続の映像とは、石器時代以来、暗い闇のなかで炎を見ながら他人の物語を聞いてきた体験にも近い。186、189頁。

ちらちらと姿を変える不連続な炎こそ、物語を聞く明かりにふさわしい。

げんに映画は、夢のように、炎のように、暗い空間で見るではないか。

そして人は、昼間でも不連続に生きている。

著者によると、誰もがする瞬(まばた)きは、人が現実に不連続性を与える手段である。瞬きによって現実に不連続性を与えてはじめて、われわれは世界を理解することができるのだ。84−85頁。

たとえば会話において、人は本題に入るとき、結論に入るとき、内容を理解したとき、あきらめて理解を放棄したとき、つまり話の節目で瞬きをする。84頁。

「人は日常生活の中で、新たな思考とそれまでの思考を分離するために瞬きをしているのである。同じように、映画ではひとつのショットがひとつの思考に相当し、それを分離させ区別させるためのカットが『瞬き』に相当する。」84頁。

人は呼吸や消化や循環によって対内リズムを作っている。同様に、人は瞬きによって外界を小さくカットし、リズムをつけて事態を理解しようとする。

これはまさしく言語にもあてはまる。

言語は脳の内外の「現実」を何種類かの概念に分類して小さくカットし、それを編集した表現である。まさに言語において人間は「瞬き」しながら世界を理解し、「瞬き」を利用して現実を編集し表現しているのだ。

英語のように単語を分かち書きし、かつ格関係をパターン化した文型が存在する言語では、「瞬き」の瞬間がとくにわかりやすい。

言語の「瞬き」は、言語過程説でいえば認識はあるが表現がない「ゼロ記号」に相当するだろう。

英語の文型は、撮影した一連の画像(認識)をカットして編集し、言語として表現するための「瞬きのパターン」である。






(つづく)



| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 映画の英語 | 09:24 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
言語はいかにして現実から独立したか 映画と言語 その2
演劇と比べたとき、映画の特徴は視覚的な不連続=カットが使われることである。

カットされた動画は、現実の視界ではありえない飛躍をつぎつぎに見せてくれる。これは不自然なことではないのか?

これは映画にかんする素朴な疑問のひとつであろう。

だが、著者によると、カットは「してもいい」ものではなく、「しなければならない」ものである。なんとなく連続していて飛躍感に乏しい映像は不快感さえ与えるという。21頁。

この点についての著者の知性的な文を紹介しておこう。

「編集された映像は機能するという事実が20世紀初頭にみいだされ、それにともなって撮影を連続的に行う必要がないこともはっきりした。

これは映画史において、飛行機の発明にも値する画期的な発見だろう。映画製作は時間と空間にしばられた地上から飛び立ち、世界の法則から解放されたのだ。

もしも演劇と同じように、あらゆる要素を同時に集めることでしか映画を作ることが不可能だとしたら、描ける主題の幅はずっと狭まってしまったことだろう。

映画の製作期間中に下される重要な決断のすべてが、非連続の難しさをどう乗り越えるべきか、そして非連続性のもつ強さをどう利用すべきかということに、あらゆる意味で直接的に関わっている。

非連続性こそが映画製作そのものだと言うことさえできる。」22頁。

この文章は言語にもあてはまる事情を述べている。

言語は現実を反映するが、現実そのものではない。すなわち言語は現実から相対的に独立している。

言語とは、飛行機のように「時間と空間にしばられた地上から飛び立ち、世界の法則から解放され」ることなのだ。

映像であれ言語であれ、あらゆる表現は現実から相対的に解放される独自の技法を確立したとき、ひとつのジャンルとして独立する。

それにしてもなぜ、人間は飛躍の多い一連の画像を苦もなく受け入れ、そのほうが面白いとさえ感じるのか。

著者によると、それは人間のあり方そのものに根ざしているという。



(つづき)



 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 映画の英語 | 08:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
言語はいかにして現実から独立したか 映画と言語 その1
ウオルター・マーチ(吉田俊太郎訳)『映画の瞬(またた)き 映像編集という仕事』(フィルムアート社、2008年)

フランシス・コッポラ監督の『ゴッドファーザー』『地獄の黙示録』など、有名作品をいくつも編集したベテランの講義録。

映像を撮る現場はなんとなく想像がつくが、そのあとのポスト・プロダクションの仕事は一般の観客には見えにくい。

いったい、どういうやり方で膨大なフィルムを切ったり貼ったりしているのだろう?

映像編集というと、フィルムに埋もれ、締切が近づくと徹夜の連続で目は真っ赤、新聞も本も読んでいる暇はない…というような「疲れた職人」のイメージもあったが、著者はまったくそんなことはないようだ。

広い教養をもち、自分の仕事を客観的に観察している。

知性というのは客観性のことだと思うが、この本はそれを感じさせる。




(つづく)



| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 映画の英語 | 08:48 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「ローマの休日」の魅力は日本国憲法に通じるのだ

「見た」という記憶のほかには何も覚えていない。

それほど大昔に見た「ローマの休日 Roman Holiday」(1953年)。

Thank you ひとつにも意外なニュアンスがあることがわかるシーンを探したかった。

あったあった。約二時間の映画に数十回はThank you が出てくる。

しかしじつをいうと、見ているうちにThank youのことよりも作品のおもしろさにひかれてしまった。

どうしてこの作品が今でも人気があるのか、わかったような気がした。

ヘップバーンの可愛さと成長のほほえましさはもちろん、24時間の「休日」という限定感、古都ローマの風景、イタリア人の陽気さとアメリカ人のビジネス第一主義(誇張された国民イメージは表現次第では面白い)、ちょっとしたお色気、哀愁、気の利いたエピソード、そしてわかりやすいストーリー。

さすがに半世紀も前の作品なので、映像はそう凝ったものはない。しかしそこが作品のわかりやすさにもなっており、平明な白黒フィルムの表現は「カサブランカ」にも似ている。

映画史に残る映画というのは、わりと単純な構成のものが多いような気がする。わかりやすさは大きな武器だ。

ところでこの映画、最後に憲法九条の精神につながる思想が描かれている。

平民?のアメリカ人記者と「ローマの休日」を過ごしたアン王女は、記者会見で質問を受ける。

"What is your outlook for the friendship among nations?"

みたいな質問で、王女はこう答える。

”I have every faith in it[=the friendship among nations], as I have faith in relations between people.”

王女の口からpeople という意外な言葉が出てきたので、お付きの者たちはあわてる。

王女の言葉を

「国どうしの友好関係は、人と人との友好関係あってのものです」

という意味にとれば、政府どうしの打算よりも「諸国民の信頼」が平和の基礎だと喝破した日本国憲法前文の精神を、ヘップバーンが述べていることになる。

ローマで庶民の生活を体験した王女だからこそ言える言葉である。

「ローマの休日」のメッセージは日本国憲法の精神なのだ。











| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 映画の英語 | 00:42 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「不都合な真実」の説得力と違和感 おわり
ゴア氏が歴史を「越える」というとき、自分はすでに「越えている」というニュアンスが潜んでいる。

問題が解決したわけではないが、問題がどこにあるかを自分は知っているという意味で自分は先を行っている。そういう意識がある。

そういう先取りした立場から「歴史を越えられるかどうか rise above history」という言葉が出てくる。

他方、オバマ氏が歴史を「選ぶ」というとき、いったん過去にさかのぼり、そこから力をすくいあげて前進するというニュアンスがある。

問題の解決法を自分が知っているとは限らないが、力の源泉はすでに昔からあるのだから、みんなで力をあわせれば、これまで通り困難を乗り切れるはずだという角度である。

オバマ氏が時代を先取りしているというよりも、「歴史の良き力を動員することが大事だ choose our better history」という方向である。

ゴア氏の表現がどこか孤立的で、悪くいえば独善的なエリート臭さがあるのに対し、オバマ氏は過去も民衆の力も味方につけるトータルな知恵が感じられる。

私は歴史を教えてきたが、恥ずかしながら、歴史家でもないオバマ氏に「歴史の良き力を動員する」という知恵を教えてもらった。

いつも過去からの力を借りながら前進する。

ゴア氏(と私)に欠けていたのは、そういう知恵だったと思う。





(おわり)







| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 映画の英語 | 13:11 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「不都合な真実」の説得力と違和感 その3
私が感じる微妙な違和感、いいかえるとゴア氏とオバマ氏の違いにあたるようなものは何か。

それはおそらく歴史観(感)の違いである。

ゴア氏は『不都合な真実』のなかでこう述べている。

「つまるところ問題は、われわれが自分自身を越え、歴史を越えることができるかということだ。Ultimately this question comes down to this. Are we capable of rising above ourselves and above history?」

ゴア氏にしてみれば、地球温暖化はかつてない性質のかつてない規模の問題であり、過去の歴史を「越える」ほどの知恵と努力が必要だということで、これはもっともな表現である。

しかしオバマ氏は違う表現をとる。歴史を「越える」のではなく良い面を「選びとる」のだと。

「今こそアメリカが今日までやってこれた精神を再確認すべきだ。歴史の良き側面を選びとるのだ。The time has come to reaffirm our enduring spirit; to choose our better history.」

歴史には良い側面と悪い側面がある。大事なことは、悪い側面を認識しつつ良い側面をいっそう生かすことだというスタンスである。

歴史を「越える」のか「選ぶ」のか。

それがどういう違いを意味するのか。





(つづく)







| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 映画の英語 | 12:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「不都合な真実」の説得力と違和感 その2
もうひとつの感想は、微妙な違和感である。

じつはゴア氏のスタンスや言葉づかいはオバマ現大統領にとてもよく似ている。

これほど巨大な問題に立ち向かう力がわれわれにあるのか? 心配ない。CO2を減らす能力をすでにわれわれは持っている。たんに意志をもつかどうかの問題なのだ。

"We have everything we need, save perhaps political will. And in America political will is a renewable resource. We have the ability to do this."

われわれ一人一人が地球温暖化の原因になっている。ならば変革への選択権もまた、われわれ一人一人がもっているのだ。

"Each of us is a cause of global warming, but each of us can make choices to change that. The solutions are in our hands."

まさにゴア氏は、Yes, we can. といい、Change と言っている。

しかし、オバマ氏とは微妙な違いがあり、そこに大事なものが隠されている気がするのだ。





(つづく)






| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 映画の英語 | 11:31 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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