ごきげんようチャンネル


たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう.

               嘆異抄

「見ればわかる I know it when I see it.」の世界

ちょっとおもしろい言葉をメモしておく。

"... but I know it when I see it." (見ればわかる)

1960年代、アメリカでのポルノ訴訟で連邦最高裁判所の裁判官ポッター・スチュアートが述べた言葉。

ポルノとは何か。それを定義するのは不可能かもしれない。しかしポルノかどうかは「見ればわかる」と。

一種の明快さ(?)が話題になり、アメリカ裁判史上もっとも有名な言葉とさえいわれる。

今も、言葉では言えないが感じれば「わかる」ことが世の中にはある、という意味の決まり文句として使われることがあるようだ。

これは視覚のもつ力のことで、意外なところでは、数学で未知の曲面を発見するのにグラフィック化した画像を使うのも「見ればわかる」の例といえる。

以前、湯川秀樹の本に、中間子理論の由来を簡単なグラフの場所を指し示すことで「見ればわかる」ようにした部分があって、なるほど物理学者も数式ばかりでなく「見ればわかる」方式を利用することがあるのだと感心したことがある。

考えてみれば、文章だって数式だって、根本は「見ればわかる」視覚の力だ。

「目に見える実物こそもっとも雄弁」という意味で、記憶しておいて悪くない言葉かも。

以下、スチュアートの言葉を原文で引いておく。

I shall not today attempt further to define the kinds of material I understand to be embraced within that shorthand description ["hard-core pornography"]; and perhaps I could never succeed in intelligibly doing so. But I know it when I see it, and the motion picture involved in this case is not that. [Emphasis added.]

— Justice Potter Stewart, concurring opinion in Jacobellis v. Ohio 378 U.S. 184 (1964), regarding possible obscenity in The Lovers.

 

 

(http://en.wikipedia.org/wiki/I_know_it_when_I_see_it)

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 創造性とは? | 22:17 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
オーガニックからハーベストへ

TBS夕方の「夢の扉」という番組がおもしろかった。

http://tv.yahoo.co.jp/program/?area=miya&minnaid=142422&week=0&date=
20090906&stime=1830



慶応大の武藤佳恭教授が二か所の温度差を利用して発電する小さな装置を開発。

熱海温泉の熱水と冷水を利用して、電気代のいらない照明設置に成功した様子が紹介されていた。

おもしろかったのは、武藤教授の発想。

「パワーハーベスト」

というらしい。

自然な状態にできるだけ手をつけないで、自然の恵みをそのまま収穫(ハーベスト)するように電気(パワー)を手にするという発想が「パワーハーベスト」。

熱海の温泉に装置を設置するとき、「大仕掛けな工事なしでやりたい」と言っていたことに、その姿勢が現れていた。いずれは日本の家庭に普及させたいという。

いわば「オーガニック」の発想を発展させたのが「ハーベスト」なのだろう。

いま話題の自然破壊・生活破壊型のダム工事とは対極的な、自然保存型・生活溶け込み型の発電方法だ。

これは人間についても必要な発想ではないだろうか。

人間破壊型の教育や労働ではなくて、これからは人間の成長を「自然の恵み」ととらえて、それを感謝とともに収穫する「ハートハーベスト」型の教育や労働の時代にすべきではないだろうか。




| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 創造性とは? | 23:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
アインシュタイン:「思考上の経験」の革命者 おわり

<認識>の部分を解明するのはむずかしい。しかしその<表現>は簡明にできる。

アインシュタインが相体性理論を説明した有名な論文(1905年)は、「実に平明」で、「中学生でもわかる初等代数や幾何学を用いて」いるだけであるが、「芸術作品」といえるほどの出来栄えである。(アインシュタイン(内山龍雄訳・解説)『相対性理論』岩波文庫の訳者まえがき6頁より)

相対性理論という<認識>の大革命は、平明かつ美しく<表現>された。

それはなぜかというと、アインシュタインは自分の「思考過程」(同上書・訳者まえがき4頁)をよく整理して表現したからである。

アインシュタイン自身、自分は「思考上の物理学的経験」を読者に伝えたいと述べている(同上書19頁)。 

「思考上の経験」(アインシュタイン)とは、読者にたどってもらいたい「思考過程」(訳者)のことである。

つまり、意識するのがむずかしい<認識>を伝えるには、たどるべき思考のプロセスを平明かつ美しく記述することである。

それには物理学なら数式や座標が手助けになるし、アートなら作品じたいが人々の認識(思考のプロセス)をリードする。

突然だけれど、じつはサウンド・ステップスをはじめとする英語改革の試みは、英語の言語過程のうち、いままで隠されてきた<認識>の部分を巧みに<表現>して人々に伝達し、それによって人々じしんがその<認識>を用いて自分を<表現>できるようにする事業である。

そのためにはむずかしい言葉をつらねるのではなく、アートがもつパワーを使う。

100年前、アインシュタインはやさしい言葉と簡単な数式で平明かつ美しく物理学者の<認識>を変革した。

100年後の今、われわれはもっとも伝達力のあるアートを用いて人々の<認識>を変える。







(おわり)







| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 創造性とは? | 00:51 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
アインシュタイン:「思考上の経験」の革命者 その2

なぜ認識の部分がキモなのか。

言語が対象を表現していく<対象・認識・表現>のプロセスのなかで、もっとも意識化しにくいのが<認識>の部分だからである。

多くの言語学は言語過程のうち最後の<表現>の整理・分類に終始するが、それは<認識>を意識化し分析することが非常にむずかしいからである。

そして学問の大変革は<認識>の部分(無意識化している部分)を正面から問題視し、<表現>の深層にある<認識>の誤りを明らかにしたときに実現する。

たとえばカントは人間の認識の構造と限界を吟味しなおすという困難な作業をおこなうことで、当時の無内容な形而上学や極端な経験論を論破した。カントは<人間のもののわかり方>すなわち<認識>そのものを問いなおしたがゆえに突破口を開くことができたのだ。

では、<認識>を問い直すにはどうしたらいいのか。

それは旧来の<認識>のプロセスを正面から吟味の<対象>にすえ、新しい<認識>のプロセスをできるだけ平明に<表現>することである。

人間の活動はすべて<対象を認識し表現する>ことのくり返しである。だから絶えず隠されていく(=無意識化する=dream fieldで行われる)<認識>の部分を変革する活動も、<対象を認識し表現する>という形式をとる。





(つづく)







| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 創造性とは? | 00:49 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
アインシュタイン:「思考上の経験」の革命者 その1

夭折した英語学の天才・宮下眞二が、

「認識論がキモだ」

と口にしていたらしい。

言語とは「対象を認識して表現する」という人間の活動のひとつであり、その「過程的構造」を解明するのが言語学であるというのが言語過程説と呼ばれる理論である。

言語過程説をよりどころにしていた宮下は、<対象・認識・表現>の三段階のうち、まんなかの<認識>こそがキモだと看破していた。







(つづく)






| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 創造性とは? | 00:47 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「すべてを疑え」 正統と独学のあいだ 
エレキギターの教則本の名著を発見した。

宮脇俊郎『グングンうまくなる究極のプレイフォーム』(リットーミュージックムック、1998年、1200円)

いきなり練習曲がズラリ…というよくある教則本とちがって、両手の合理的な使い方を論じた徹頭徹尾理屈の書。クラシックギターの教則本でも、これほどきちんと手の使い方を書いた本は見たことがない。

いちばん感心したのは、弦を押さえるとき左手の人差し指がいかに重要かを熱く論じた部分。クラシックギターのように人差し指をフレットに平行にキープするのではなく、自分の顔に向けるように斜めにして、がっちり固めるのだという。

やってみると、それだけでクラシックギターとはずいぶん違うプレイ感覚になる。押弦の確実感がぐっと増すので、「このほうがいいじゃないか!」と思ってしまった。

ならば、

<左手の指をフレットに平行にキープする>

というクラシックギターの「常識」は、いったい誰がいいだし、なぜ流布したのだろう?

数十年、クラシックギターの「常識」を疑わなかった私は、いったいなんだったのだ?(邪推だが、セゴビアあたりが近代楽器の代表たるピアノの指使いを真似ることで、野卑なイメージだったギターの地位を高めようとしたのかもしれない)

私がこの本を名著だと思ったのはそこが理由だ。常識をたんに常識として受け入れるのではなく、自分の頭ですべてを考え直す姿勢が感動を呼ぶ。

著者の宮脇氏は、「独学で身についた偏ったフォームを矯正することに何年も費やした自らの体験」からこの本を書いたという。(著者プロフィールより)

あぁ、こういうことが本当に多い。

近代に生まれた技芸はあたかも「正統」があるように見えて、じつはたいした原理も科学もない。「正統」が何かわからない場合もある。

だから初心者は怪しげな「正統」にふりまわされたり独学におちいって、しなくてもよい苦労をする。苦労するから全体のレベルも上がらない。「正統」なるものは「流布した誰かの我流」に過ぎないし、独学は「たんなる我流」に終わることが多い。

しかしそういう理不尽な方法でもときに偉大なパフォーマーが生まれる。それだけに従来の「正統」は疑われにくく、独学の弊害もなくならない。

しかしここに、「どこかおかしい」と疑問をもった変わり者が現れ、常識を打ち破る理論を唱え実践する。

そのとき、静かに何かが変わり始める。

「すべてを疑え」

とはマルクスの好きな言葉だが、無駄の多い方法がまかり通っているとき、われわれはつぶやかなければならない。

「すべてを疑ってやりなおせ」

と。





| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 創造性とは? | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「ネイティブのコピー」でいいのか? おわり
楽譜からみれば、「ネイティブ」も「外国語として話す人」も、巧拙のちがいはあれ、同じものの演奏者である。ある意味で平等なのだ。

問題は、その楽譜を作り、読む技術が十分明かにされていないために、外国人がその技術を身につけるのが難しいということである。

英語を成り立たせている原理を日本人が理解し、その話法を用いて作曲し、その楽譜を読んでみずから演奏したらどうなるだろうか。

やがて「ネイティブ」とは違う美しさが生まれるのではないだろうか。

ちょうど、同じジャンルのダンスを踊ってもロシア人とインド人と日本人では美しさが微妙に違うように。

まして、われわれ日本人の美意識は、「なんとか通じればいい」とか「人真似でいい」というレベルで満足することはないはずだ。

ノンネイティブの美を生むこと。

それが時間と労力を費やして外国語をやる者の責任であろう。







(おわり)





| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 創造性とは? | 16:38 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「ネイティブのコピー」でいいのか? その4
言語学の究極の仕事は、ある言語の客観的な楽譜を明らかにすることである。それは言語の構造と語彙を明らかにすることであり、外国人にも読める「楽譜」が見えるようになったとき、外国人でも正確に演奏できる可能性がぐっと高くなる。

もっといえば、異文化人の大人が外国の音楽を正確に演奏するには、本当の楽譜が明確になることが必須条件である。

「ネイティブ」もまた、その楽譜を読んでいる。文字の裏で鳴っている音楽。その原理を無意識のうちに習得している。

ネイティブだって再現芸術家なのだ。





(つづく)






| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 創造性とは? | 16:38 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「ネイティブのコピー」でいいのか? その3
再現芸術家と外国語を話す人は、とてもよく似た行為をしている。

再現芸術は作曲家と演奏家が別の人だが、言語はそれぞれの人が作曲家兼演奏家になる。

そこを除いて考えると、再現芸術家も言葉を話す人も、ある「楽譜」を読んでいる点で共通している。

大きな違いは、再現芸術家にとって楽譜は目の前にあるものだが、ある言語のネイティブにとっては、自分が本当はどんな楽譜を読んでいるのか、いま読んでいる楽譜の原理は何かを知らない(意識していない)ことである。

そこで、個々の楽譜をよく研究して、それを成り立たせている原理をはっきりさせるのが、言語学の仕事だと私は思う。

ところが、その言語学がまだ幼稚で、個々の楽譜をあれこれ分類したり単純な譜例を分析しているだけである。

現状では、外国語を再現芸術のように「演奏」しようとしても、大人が頼りにできる「楽譜」が見えないのだ。

文字は一見楽譜にみえるし、ネイティブにとっては十分に楽譜なのだが、外国人には情報不足・情報過多で読みにくい。(英語の場合なら、辞書に載っている発音記号が多少とも本当の「楽譜」に近い情報の一部を提供している)

しかも、その楽譜を成り立たせている原理も解明不足なので外国人が楽譜を作ろうとしても原理がよくわからない。

結局、こういうことになる。

言語は自分で作曲して自分で演奏する、自作自演の芸術である。しかし外国人が演奏しようとしても楽譜が見えず、楽譜を成り立たせている原理もよくわからない。

これを裏返せば、もしもある言語の本当の楽譜と、その楽譜を成り立たせている原理(音階、調性、リズム、和声など)がはっきりすれば、あとは楽器の演奏法(身体の使い方)を鍛練すれば、外国人にも演奏できる道が見えてくるということである。





(つづく)





| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 創造性とは? | 16:37 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「ネイティブのコピー」でいいのか? その2
ここ数年、よく聞くようになった「ネイティブみたいに話したい」という言い方には、他人の創ったオリジナルをコピーする「再現芸術家」的なコンプレックスが感じられないわけではない。

しかし、これは事態のまぎらわしさに惑わされた誤解である。

「再現芸術家」と外国語を話す人は同じではないし、ふたつの行為は「オリジナル」に劣ったことでもない。

どこで、どう誤解したのか。






(つづく)







| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 創造性とは? | 16:37 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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