ごきげんようチャンネル

科学とは、正確に驚くことである。 Y.M.
           

「捨てる」と「自由」にフォーカスできる 

仏教では、「捨てる」ことが重視される。

 

ここで「捨てる」というのは、全部なくすという意味ではなくて、

「自分に必要なものを選ぶ」という意味にとりたい。

 

生活していると、いろんなものが外からやってくるし、

そこから必要なものだけ選ぶには、それなりの注意力と手間がかかる。

 

だから「捨てる」ことは意図的でないと続かない。

 

いっそのこと、「捨てる」とは、「生きる」と同義なのだと

思えばいいのだろう。意図的に捨てることで、自由に生きられる

スペースが見えてくる。

 

本来、生きているということは、捨てているということだ。

 

…それでは私の机の上、さっそく片付けないと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 08:11 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ブッダ 二重の発見者 おわり
それで、ここで私が発見したというのは、ブッダがなにをしたかということについてである。


これまで私は、苦の根源が我執にあるといったことをブッダは発見した、と思っていた。


しかし、この本を読むうちに、ブッダはもうひとつのことを発見しており、これが苦の根源の論理的発見におとらぬ重要性をもっていることに気がついた。



それは、苦の根源が我執にあることを誰も知らないし、たとえそれを真実として教えても、人が理解することは著しく困難である、という発見である。



これは、苦の根源の論理的な追求とはレベルのちがう発見であって、苦の根源が何であろうと、真実を発見した人につきまとう困難である。


親鸞が<すべての人間は悪である>というのは、苦の根源がなんであれ、それを知らない、理解できないことは人間にとって不可避であるというブッダの第二の発見を、<人間の必然的な悪>として把握したものなのだ。




真実はなにかという問題と、その真実を知ることはできるかという問題は、別である。

このふたつの問題は、それぞれ別の絶望の源泉となる。

他方で、人はみな無知な「悪人」であるという断定は、社会的な地位などをすべて無効にして、あらゆる人間を平等な存在として見るという、宗教にとって本質的な視点を提供する。

こうして、人間の悪の解決は、宗教的な飛躍を必然にする。










(おわり)









 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 19:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ブッダ 二重の発見者 その1
今村仁司氏の遺作『親鸞と学的精神』(岩波書店、2009年)を読んでいて、ひとつ気がついたことがある。


この本は、教行信証に記された親鸞の哲学的アプローチがブッダの主知的な態度と性質を同じくしており、親鸞の「他力」は、いわばインド仏教の原点を再興したものだという視点から書かれている。11、71、130、170頁。


我執が苦の根源であるというブッダの発見に親鸞が別の角度から光をあてたことを、今村氏は次のように説明する。




「日本浄土門は、インドの伝統をふまえて苦の原因を無知に求めることから出発しながら、さらに一歩を前進して、無知としての悪を人間論の基礎に据える。

アクセントが悪の観念から悪を具現する人間自身(「機」としての人間)に移る。」(今村同上書、164-165頁)




つまり今村氏は、



「世俗を生きる人間は、例外なく、自分の存在が苦的であることに無知であり、その意味でまったく悪人である」(同上書、165頁)



という人間=悪人観が、親鸞にとって決定的であったという。









(つづく)








 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 18:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
"機"を見よ マルクスと法然の共通視線について おわり
さきに、法然など、仏教でいう「機」とは、個々人の個性(特殊性)と、人間というものに共通する能力(普遍性)を統合した語であって、それはたとえば織機のように、ひとつの構造(普遍)から多種の織物(特殊)が生まれるイメージに通じると指摘した。

これは<普遍→特殊>という思考ルートであって、宗教的な思考に通じる。


逆に、マルクスのような社会科学では、交換価値という普遍は、使用価値という特殊からしか生まれないことを強調する。

これは<特殊→普遍>という思考ルートであって、普遍的と感じる観念も、社会関係が変わればその意味は変化することを看破している。



法然とマルクスは、思考のルートは互いに逆である。しかし、特殊と普遍の両方を視野に入れる視線は、両者に共通している。



偉大な思考とは、<特殊と普遍>、<私的と社会的>、<役割とはたらき>、<具体と抽象>といった、互いに矛盾する側面を巧みに統合するロジックのことである。











(おわり)









 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 09:11 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
"機"を見よ マルクスと法然の共通視線について その6
個人は、具体的な<役割>をもち、その役割を通して、抽象的な<はたらき>をおこなう。


<役割>には、親、子、兄弟といった永続的な血縁関係や、配偶者、職業、住民、役員のような一定期間の社会関係、そして乗客、観客、歩行者のような、一時的な<役割>もある。

個々の人間は、どの瞬間にも(胎内でも、そして死後でさえも)、なにかの具体的な<役割>を果たしている特殊な存在である。



そして、個人が<役割>を果たすと、そこから<はたらき>が現象する。役割は、具体的な個人が演じているが、<はたらき>は、個人性を超えた抽象的なカテゴリーであって、社会的関係=役割から人間が抽出する普遍的な観念である。




法然が「南無阿弥陀仏」一本に集中せよと唱えたのは、個人の特殊性(役割)を越えて、阿弥陀の普遍的な<はたらき>に精神を集中することを主張したのだ。

ここで<はたらき>とは、<阿弥陀に救われる存在としての人間>という普遍的観念である。それは人間どうしの関係ではなく、宇宙の生命である阿弥陀と人類の関係認識から生まれる、社会性を超越した超絶的な<はたらき>である。



それに対してマルクスは、そうした<はたらき>の観念(たとえば、阿弥陀に絶対的に救われる人間という観念)が生まれる由来を問うた。

現実社会にいる人間を実際に解放するためには、あらゆる観念(普遍)が人間の具体的な社会的役割(特殊)から必然的に発生することを論証する必要があると考えたのである。

じっさいにマルクスが分析したのは、労働が生む商品という実物形態から、いかにして交換価値という社会的観念が生まれるかということであった。

マルクスは、交換価値のような観念(はたらき)が存在しないと考えたのではない。観念を、孤立した存在とみるのではなく、社会的な関係(役割)から必然的に生成するものとしてとらえたのである。










(つづく)










 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 08:57 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
"機"を見よ マルクスと法然の共通視線について その5
ここで、マルクスに話が飛ぶ。

マルクス(1818−1883)は、法然(1133−1222)から750年後の西欧人だが、視線が共通しているのだ。

二人は、ひとつの対象を特殊と普遍の両面でとらえる、立体的な視線をもっていた。

たとえばマルクスは、ある手紙のなかで、自分の『資本論』の「秘密」について、次のように解説している。





「商品が使用価値と交換価値との二重物だとすれば、商品に表される労働も二重の性格をもっていなければならない、という簡単なことを経済学者たちは例外なく見落としていた… これこそは、じつに、批判的な見解の秘密の全部なのだ。」


(『マルクス・エンゲルス書簡選集(中)』新日本出版社、2012年、38頁)





ここでいう「使用価値」とは、個々の消費者が商品を使用するとき、人それぞれに感じる私的な価値(特殊)である。

それに対して「交換価値」とは、商品が市場で交換されるときに現れる価値で、値段というかたちで現象し、社会的に共通する価値(普遍)である。

ひとつの商品が、これら二つの価値をあわせもっていることは誰でも知っている。

であってみれば、商品を生み出す労働にも、使用価値を生む具体的労働の側面と、交換価値のもととなる抽象的労働という二つの面があるとみることができる。

マルクスはそう言うのである。



問題は、それが法然の「機をはかる」と、どういう関係があるか、である。









(つづく)








 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 09:13 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
"機"を見よ マルクスと法然の共通視線について その4
こう考えてくると、「機」とは、なかなか味のある語である。

そもそも「機」という字にふくまれる「幾」の部分は、「こまかい」の意を表す。

したがって、「木」と「幾」をあわせた「機」という字は、「こまかな、からくりのしてある器具」つまり「精密な構造を持ち、複雑な原理で動くもの」をいう(新漢語林)。

「機織(はたお)り」のイメージでわかるように、「機」は、それじたいひとつの決まった構造をもちながら、作り出す織物は千差万別である。

してみれば、「対機説法」とか「悪人正機」とか「機をはかろうなり」(法然)いうときの「機」とは、



<個々の人間は千差万別に現象するが、それはすべて、人間に共通の「機根」(構造)から生まれる。

教えや救いは、具体的には個々に異なりながらも、すべて同一の「機根」に向かっておこなわれるべきものだ>



という考え方を表している。







(つづく)







 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 06:32 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
"機"を見よ マルクスと法然の共通視線について その3

法然が残した言葉にも、「機」という語がでてくる。

たとえば法然が、「仏の説教は、機にしたがい、時にしたがいて不同なり」(石上前掲書、20頁)というときは、相手の個性を「機」と呼んでおり、仏はそれに応じて説教の仕方を柔軟に変えるという意味で使われている。

しかし、


「教をえらぶにはあらず。機をはかろうなり。」


という法然の言葉、すなわち「教えを選ぶのではありません。人間の資質能力を見きわめるのです」(石上訳。前掲書86頁)と言うときの「機」には、少しちがうニュアンスがふくまれている。

ここでいう「機」すなわち「人間の資質能力」とは、個々人の特性であると同時に、人間一般に共通する資質のことを指している。

仏教には、いくつもの宗派・教題があるが、さて、どれがいいだろう?  

などと、まるでショッピングのように「教をえらぶ」のは間違っている。

あなたという人間の資質、そして人間というものに共通する資質。これを見きわめれば、おのずから正しい見方がわかる。




「教をえらぶにはあらず。機をはかろうなり。」




「敵を恨むな」という父の遺言とともに僧侶になった法然にとって、父の菩提をとむらい、自分を救うことは、すなわち人間一般を救うことと同義であった。

法然にとって真の問題は、人間の能力とその限界を見定める(「機をはかる」)ことだったのある。










(つづく)









 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 06:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
"機"を見よ マルクスと法然の共通視線について その2
さて、仏教で「機」といえば、「対機説法」とか「悪人正機」といった語がよく知られている。


「対機説法」のほうは、「相手の資質・能力に従って法を説くこと」(デジタル大辞泉)などと説明される。これだと、相手に応じて説明をうまく変化させる臨機応変さのことのようである。

ところが、「対機」を引くと、「説法の際、相手の機根(きこん)に対応すること」(デジタル大辞泉)とあり、「機根」とは「すべての人に備わる、教えを受けて発動する能力」(同前)とある。

「対機説法」の対象とは、個々の「相手の資質・能力」であると同時に、「すべての人に備わる」共通能力なのである。



もうひとつの「悪人正機」のほうは、親鸞の特徴的思想とされ、解釈にはバリエーションがあるが、ふつうは、善人よりも悪人を救うことこそ、阿弥陀仏の本願であるという信念をいう。

そこで、「正機」を引くと、「仏の教えや救いを受ける資質をもつ人々」(デジタル大辞泉)とある。

ここでも「機」とは「資質」、すなわち個々人の個性と、人間というものに共通する能力の両方を指している。



「機」とは、個々の違い(特殊)と同時に、違いを越えて共通するもの(普遍)を指す、巧みな語である。







(つづく)







 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 05:43 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
"機"を見よ マルクスと法然の共通視線について その1
人間にも物事にも、二つの面がある。

ひとつは、それに特有の面(特殊)で、もうひとつは他と共通する面(普遍)である。

法然という人は、この両面が自然に一体となった人だったのではないか、と思うことがある。

法然が大秀才で、比叡山の典籍を何度も読み尽くし、考えぬいたという話はよく知られている。

この猛勉強のあいだ、法然には、自分自身の救いと人間一般の救いが同義であるという基本感覚があり、これが法然の決定的な個性であったのではないか。

法然9才のとき、岡山に派遣された武官であった父が政敵に夜討ちされる。

死の床の父は、法然に次のような、有名な遺言を残す。




「敵を恨んではならない。こうなったのは以前からの宿業である。もしも遺恨をもてば、いつまでも、代々それが続いていくことになる。

早くに世俗をのがれ、私の菩提をとむらい、みずから解脱を求めるべきである。」


(『法然上人行状絵図』。現代語訳は、石上善應『法然の「問答集」をよむ(上)』NHK出版、2013年4月、9頁より)





この遺言は、法然を理解するうえで重要である。

のちに法然は、世の人はふつう、父母兄弟・妻子朋友との別離が道心のきっかけになるものだが、自分は「させる因縁もなくして…道心をおこ」したと述べている。(石上前掲書、11頁)

法然にとって、自分(特殊)が解脱を求めることは父の遺言の執行という自然な行為であった。その父は、「敵を恨むな」とも言った。

こうして、法然にとって仏道とは、敵味方の区別を越えて人間一般(普遍)の救いを求めることと同義となった。


人生のはじめに、こういう自他を貫く、<特殊すなわち普遍>の大テーマを設定された人は、めったにいない。








(つづく)








 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 06:36 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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